第137話 木津川口へ
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「・・・なんじゃと?」
秀吉が思わず重秀に尋ねた。重秀がもう一度言う。
「ですから、淡路に集結した毛利水軍、六百隻を超えました」
重秀がそう言うと、秀吉だけではなく周囲の諸将も驚きの表情を浮かべていた。
「・・・詳しい話を聞こう。皆もすぐに広間に集まれ!」
秀吉がそう声を上げると、周囲にいた将達が「はっ!」と声を上げた。
加古川城本丸御殿の広間に集まった諸将が注目する中、重秀は上座に座っている秀吉に、今まで起きた事柄を話し始めた。
毛利水軍の動きを秀吉に知らせた大谷吉隆が阿閇城に戻ってきた直後から、重秀は麾下の羽柴水軍と梶原水軍に淡路への物見を命じた。
しかし、淡路そのものは菅水軍を中心とした淡路水軍だけではなく、毛利の影響を受けている讃岐水軍も警固に入っていたため、淡路南部への侵入ができなくなっていた。そこで、重秀は讃岐沿岸に物見の小早を派遣し、淡路へ向かう船団の監視に切り替えた。
讃岐沿岸にも讃岐水軍が警戒ラインを引いていたものの、主力が長宗我部との戦いで阿波に駆り出されているため、軽快な羽柴の小早は楽々と警戒ラインを突破して讃岐沿岸を物見できていた。
しかし、讃岐側で見たものは、次々と西から淡路へと向かう百隻を越える大船団が通るものであった。残念ながら近づくことができず、大雑把な報せとなったが、それでも数の少ない羽柴水軍には脅威であった。
物見に出した小早が、大船団を見た回数は5回。つまり五百隻以上の毛利方の船が淡路に集結していることになる。これに、現地の菅水軍、盟友の雑賀水軍を合わせれば、六百隻は軽く超えるであろう、というのが竹中重治達の予想であった。
さて、予想を聞いた重秀は六百隻という数の多さに驚いた。そして、これらが播磨の沿岸に殺到することを恐れた。しかし、重治がこれを否定する。
「若君、落ち着いて下さい。六百隻の船を用意したということは、それだけの船を使わなければ兵や物を送れない場所へ向かわせるためにござる。播磨沿岸の場合は大軍を陸から差し向けたほうが毛利としては楽なはずです」
その言葉に冷静さを取り戻した重秀。すぐに思考を切り替えた。
「ああ、そうなると、やっぱり毛利水軍の目的地は石山御坊ですか」
「はい。天正四年(1576年)の木津川口の戦いでは、毛利は八百隻近い船を動員し、その全てを石山御坊へ注ぎ込みました。此度も同じだと思われます」
「そうなると、播磨沿岸への牽制も無いと考えても良さそうですか?」
「それは何とも。警戒は必要かと思いますが」
重治も少しは不安を感じているようで、沿岸警備を怠らないよう、重秀にアドバイスした。重秀もそれは分かっているようで、
「それは梶原水軍に任せましょう。それより、この事を父上にお報せせねば」
そう言うと、重秀は立ち上がって部屋から出ていこうとした。思わず重治が声をかける。
「若君、どちらへ?」
「どちらへって・・・。加古川城ですけど?」
「なんで若君が行かれるのですか。使者を立てればよろしいでしょうに」
重秀の答えを聞いて思わずそう言った重治に、重秀は「うーん」と言いながら後頭部を左手で掻いた。そして口を開く。
「・・・実は、父上に頼みたいことがあって。だが、父上は許してもらえなさそうなんです。そこで、直に父上に会ってお報せと頼み事をしたいのです」
「・・・なんですか?頼み事って」
重治は嫌な予感を感じつつも重秀に聞いた。重秀は「うーん」と再び唸ると、重治に説明をし始めるのであった。
加古川城本丸御殿の広間。今までの経緯を説明した重秀に対し、秀吉は最も気になることを聞き始めた。
「・・・で?藤十郎の頼みとは何じゃ?」
「はい。まずはこの事、上様を始め殿様(織田信忠のこと)、九鬼様(九鬼嘉隆のこと)、池田様(池田恒興のこと)、柴田様(柴田勝家のこと)にお報せ下さい」
「それはまあ、当然じゃな。相分かった。すぐにでも使いを出そう。他には?」
「木津川口に敵が現れるのを監視するため、小早を淡路の東岸に遣わしたいのですが・・・」
恐る恐る聞く重秀に、秀吉は「何じゃそんなことか」と鼻で笑った。
「水軍の運用は全てお主に任せておる。好きにいたせ。他にはないのか?」
「それを聞いて安心致しました。ところで、最後のお願いも水軍の事に関することなのですが」
ホッとした表情で言う重秀に、秀吉は「だから水軍は好きにして良いと言うたであろう」と笑いながら言った。すると、重秀はニコニコ顔で話を進める。
「そうですか。では、私が関船隊を率いて木津川口に行ってもよろしいのですね」
「・・・はっ?」
秀吉が唖然とした顔で思わず聞き返した。重秀が構わずに話を続ける。
「関船六隻では大した戦力にはならぬと存じますが、それでも敵水軍の背後から襲えばいくらかの助太刀になると存じます。そして、関船隊は私がずっと指揮を執っておりました故、やはりここは私自ら関船隊を指揮して・・・」
「ならぬ」
重秀の話を止めるかのように、否定の言葉を言い放つ秀吉。重秀はすぐに黙ってしまった。秀吉は怒気を孕んだような声で重秀に言う。
「お主は一体何を考えているのか。我等は播磨平定を行っている最中ぞ。それを、途中で抜け出して他の戦場に出張るなど、許されるわけがなかろう」
「先程『水軍は好きにして良い』って仰ってませんでしたっけ?」
重秀が即座にそう言うと、周りから笑いを我慢する様な声が聞こえた。秀吉が黙り込んだのを見計らって、重秀が更に話す。
「毛利水軍には常に播磨沿岸を脅かされてきました。ここで毛利水軍を削ぐ必要がありと存じます。しかも、此度の戦は石山本願寺の存亡をかけた大戦となりましょう」
重秀の言葉を秀吉はじっと聞いていた。他の諸将も笑うのを止めて真剣に耳を傾けていた。重秀の話は続く。
「上様は石山本願寺に頭を悩まされておりました。柴田様のご活躍で何とか追い詰めましたが、ここで毛利水軍による補給が成功すれば、石山本願寺は再び打ち込まれた楔として上様を煩わせるでしょう。そして、石山本願寺を見捨てなかった毛利に、播磨の国衆は望みを持ちましょう。特に三木の別所はより戦意を高めましょう。
・・・しかし、ここで毛利が石山への補給に失敗すれば、毛利の面目は打ち砕かれ、その信頼は地の底にまで落ちます。播磨の国衆だけではなく、但馬、備前、美作などの毛利派の国衆もこちらに寝返りやすくなるものと存じます」
「・・・なるほどのう。言いたいことは分かった・・・」
重秀の話を聞いた秀吉は、視線を重秀から堀秀政へと移した。
「久太(堀秀政のこと)。上様の奉行として、また目付としてお主はどう思う?」
「上様にとって石山の地を手に入れるは積年の願いでした。その願いが叶うやも知れぬという戦いに、羽柴が参加することは、まあ、良いんじゃないですかね。
・・・そんなことより、毛利水軍が淡路に集結したこと、さっさと報せないと上様よりご不興を買いますよ?」
秀政の砕けた口調に、秀吉は脱力しそうになったが、その内容に思わず冷や汗をかいた。
「そ、そうじゃ!久太の言うとおりじゃ!藤十郎、何故お主から報せぬ!」
「毛利水軍については事前の取り決めにより、すでに池田様へは狼煙を上げ、早馬を飛ばしております。また、堺にて木津川の封鎖を行っている『龍驤丸』の甚内(脇坂安治のこと)へは小早を一隻遣わしております」
事前の取り決めとは、毛利水軍が出現した場合、羽柴の兵庫城から早馬、もしくは緊急時の狼煙で池田恒興のいる尼崎城へ報せることを羽柴と池田との間で約束したことである。
毛利水軍が淡路に六百隻集めたことが分かった時には、すでに重秀は阿閇城から早馬と狼煙で報せていたのであった。狼煙は阿閇城から魚住城、林ノ城、須磨の摺鉢山砦を経由して兵庫城へ伝わり、更に兵庫城から狼煙のリレーで尼崎城へと伝わった。恐らく池田恒興から各方面へ警報は伝わっているだろう。後は詳しい情報を早馬が伝えるだけであった。
「・・・そこまでやっているのであれば、儂から報せることはないのではないか?」
秀吉がそう言うと、重秀ではなく秀政が答える。
「まあ、藤吉殿がそう言うのであれば良いんですがね。しかし、昔はちょくちょく上様へご報告やら相談していた藤吉殿も、十八万石の大名になったら上様への報告や連絡を怠るようになりましたか。偉くなりましたなぁ・・・。上様へご報告せねば」
「いやいやいや!久太!儂が悪かった!すぐに報せるっ!」
秀政の煽りを受けて、慌ててそう答えた秀吉。しかし即座に秀政に反撃する。
「というわけで、上様へのお報せは目付たる久太に任せる。久太は上様のお気に入りじゃ。儂が報せるよりは上様もお信じになられるじゃろう」
「やれやれ、一本取られましたな。ではこれより書状を書いてきます故、連署を頼みましたよ」
そう言うと秀政は広間から出ていった。秀吉が重秀に顔を向ける。
「・・・お主も木津川へ参りたいか」
「はい、父上。毛利水軍を少しでも減らし、播磨沿岸への脅威を少しでも減らすべきです。それに、今後も毛利水軍、特に瀬戸内では敵なしの村上水軍と戦うこともありましょう。敵の戦術を知るのに絶好の機会です」
そう言う重秀を見つつ、秀吉は考え込んだ。この時の秀吉の心の中を探ってみよう。
―――確かに、今や石山本願寺は風前の灯。ここで毛利水軍を追い返せれば、石山本願寺は降伏せざるを得ないじゃろう。そうなれば、此度の戦はまさに史に残る大戦となろう。その大戦に羽柴の名が無いのは、ちと不都合じゃ。
・・・何と言っても石山攻めの総大将は修理亮(柴田勝家のこと)じゃ。あ奴の武功が大きくなるのは致し方ないとしても、我等も少しはお溢れが欲しいところじゃが―――
すでに播磨の城を落としまくっている秀吉には信長から感状が届けられている。しかも、秀吉はまだ知らないのだが、加古川城と阿閇城で敵の大軍を退けた功により、秀吉と重秀には信長より馬が与えられることがすでに安土城内で決まっていた。
しかし、石山本願寺の降伏は長年の信長の希望であり、それが叶うとなると、その武功は播磨平定以上に大きいものとなるだろう。そのきっかけになる木津川口での毛利水軍迎撃に、羽柴水軍を参加させたいと思うのは、より武功を欲する秀吉には当然の想いであった。
―――ただ、問題はその大戦に藤十郎を参加させて良いのだろうか?船軍は魚住泊を攻めた時の一回のみ。そんな水軍を率いさせて、あの歴戦の毛利・・・いや村上水軍にぶつけて大事無いのであろうか?羽柴唯一の嫡男を失いかねないのではないだろうか?
・・・いや、藤十郎も阿閇城の戦いで生き残ったではないか。それに、阿閇城での勝ち戦を藤十郎はあまり驕ってはおらぬ。まあ、和泉守(宇喜多直家のこと)に勝ちを譲られたという意識が、藤十郎を抑え込んでいるのやも知れぬ。ならば、藤十郎は慢心することもなく、無茶もしないか―――
重治や山内一豊からの報告では、重秀の指揮はどうも慎重に事を進めるらしい。ならば、村上水軍と羽柴水軍の力量を慮り、無茶な戦はしないであろう、と秀吉は結論づけた。
「相分かった。藤十郎、関船隊を率いて行ってこい!」
秀吉の声が上がると、周りにいた者達が「おおっ!」と声を上げた。一方、重秀は一瞬だけ驚いたような表情を顔に浮かべた。しかし、秀吉はその表情を見逃さなかった。
「なんじゃ。驚いたような顔をしおって」
「いや・・・、こんなにあっさりと賛成していただけるとは思っていなかったもので」
「まあ、最後まで反対しても良かったんだが、色々考えて派遣することになった。・・・藤十郎よ」
そう言うと、秀吉は今まで以上に真面目な顔つきとなった。重秀が姿勢を正す。
「お主はこの播磨で色々学んだ。まだまだ学び足りぬとは思うが、少なくとも阿閇城を守りきったのは事実じゃ。そしてそこから学んだこともあるじゃろう。
・・・儂はお主を信じる。今まで生きて帰ってきたお主をのう。だから、木津川でも生きて帰ってこい。それが、羽柴にとっての最大の勝ち戦と心得よ」
秀吉の言葉に、重秀は「承知仕りました」と言って深々と平伏した。
「して、なにか策は立てておるのか?」
秀吉の質問に、重秀はハキハキと答え始める。
「とりあえず梶原水軍は置いていきます。播磨沿岸の監視警戒は続けなければなりませぬ。羽柴の小早も置いていきます」
「・・・先程淡路東岸の見張りのために小早を遣わすと言ってなかったか?」
「それについては兵庫で造られた小早八隻を遣わします。まだ鍛錬は足りませんが、航行だけはできるようになってます故、沿岸の見張りぐらいはできるかと」
重秀の回答に、秀吉は「なるほど」と頷いた。更に重秀の説明は続く。
「関船は全て連れていきます。まあ、毛利が淡路から出撃してから我等も出撃いたしますので、毛利の背後から襲うことになるのかと思います」
「それではちと遅いのではないか?」
秀吉の疑問に対し、重秀が即答する。
「なので、これより私は関船を率いて兵庫津まで退こうと存じます」
「ふむ・・・。そう言えば、兵庫には建造中の関船がもう二隻あったな?そろそろ完成しているのではないか?」
「ああ、『梅雨丸』と『驟雨丸』ですか。あれは水夫はいるのですが、戦う兵がいなくて」
「では、あの二隻は連れて行かぬのか」
秀吉が確認するかのような口調で聞くと、重秀は「はい」と答えた。
「鍛錬も人数も不十分な船を連れて行っても、かえって足手まといですから。次の戦で功を上げてもらいます」
重秀の言葉に、秀吉はかつて兵庫津で言った自分の言葉を思い出した。そして、重秀がちゃんと学んでいることに感心していた。
「・・・分かっていればそれで良い。して、策はまだあるのであろうのう?」
秀吉の催促に、重秀は更に説明を続けるのであった。
秀吉との会見が終わり、阿閇城へ戻ろうとした重秀に、蒲生賦秀と中川光重が声をかけてきた。
「藤十」
「あ、義兄上。それに清六(中川光重のこと)も。如何いたしましたか?」
「いや、木津川へ向かう前に声をかけただけよ」
賦秀が笑いながらそう言うと、重秀も「そうでしたか」と言って笑った。直後、賦秀が笑うのを止めて重秀に言う。
「・・・敵の毛利水軍は前に我等と戦い、我が水軍を打ち破った。あの時毛利は八百隻、今回は六百隻で数は少なくなっているが、それでも我等よりは多いはずだ。いくら九鬼水軍が大安宅船を六隻・・・いや、八隻か。それを持っているとは言え、中々油断できぬ相手ぞ。・・・藤十、勝てるのか?」
心配そうな顔でそう尋ねる賦秀に、重秀は「ご懸念無用」と力強く答えた。
「毛利も大安宅船に全力を注ぐでしょう。背後や側面には気が向かぬと存じます。その隙をつけば、まあ数が少ない我等でも少しはお役に立てるのではないかと思います」
そういう重秀に、賦秀は力強く頷いた。そして再び口を開く。
「まあ、討ち死には誉れとは言え、あまり死に急ぐなよ?あの妹の再婚相手を探すのは骨が折れそうなんだからな」
賦秀がそう言うと、重秀と共に笑いあった。そんな重秀に、今度は光重が声をかけてくる。
「藤十郎・・・」
そう言ったものの、光重は黙ってしまった。彼の心の中では、重秀に対する嫉妬の感情が渦巻いていた。阿閇城の戦いで重秀は名を轟かせた。更に木津川でも武功の上積みをしようとしているのだ。数年前まで岐阜城では同等だった同期が、今では己とは比べ物にならないほど名を挙げていることに嫉妬しない者はいないだろう。
しかし、それを口にするのは武士として、男として恥ずべき行為であった。なので、光重はつい当たり障りのない言葉をかけてしまう。
「・・・武運を祈る」
一方、重秀も光重になんと声をかけて良いのか分からなかった。光重の置かれている立場は理解できるし、はっきり言って自分よりも下になってしまった同期に同情の念を抱いていた。
しかし、それを言えば光重の面目を思いっきり失わせることも知っていた。武士の面目は命をかけて守るもの。重秀が下手に声をかけて光重の面目を潰せば、恐らく光重の脇差しが重秀の腹か光重の腹かのどちらかに突き刺さることになろう。
さらに、重秀は光重に秘密を持っていた。光重の叔父で、中川家没落の原因を作った津田盛月が水軍にいるのだ。この事を言えば光重はどう思うだろう。恐らくあまり良い思いはしないだろう。
だから、重秀は余計なことは言わず、ただ「その言葉、痛み入る」としか言えなかったのだった。