第130話 阿閇城へ
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天正六年(1578年)九月。魚住城は羽柴軍の手に落ちた。夜中に先行していた蜂須賀勢の一部が魚住城周辺の村に火を放ち、魚住城と城下に混乱を与えた。
その間に前野長康勢と山内一豊勢が魚住泊に突入。驚いた毛利方の舟手衆と護衛の兵達は船に乗って逃げようとしたものの、湊の沖から赤根川河口にいた重秀の水軍の攻撃を受けて海への脱出が失敗した。陸と海から挟撃され、しかも周辺が燃えているのを『城そのものが燃えている』と勘違いした舟手衆は降伏を決意し、反対する護衛の兵達を海に叩き込むと、魚住泊に戻って一豊や長康の軍勢に降伏した。
その後、羽柴軍は接収した魚住泊の船のうち、小さな船を使って赤根川に浮き橋を複数作ると渡河を決行。そのまま魚住城に突入した。城主の魚住頼治は徹底抗戦の道を選んだものの、実は魚住城は天正六年(1578年)に現代の魚住町中尾から大久保条西嶋へ移転したばかり。まだ十分に城の機能を発揮できない状態であった。
一説ではこの新しい城は出城で、古い方の城が本城ではないかと言われているが、どちらにしろ秀吉は三日間の猛攻によって魚住城を陥落させ、城主の頼治と周辺の村々のリーダーであった卜部安友を敗死させている。
こうして、秀吉率いる羽柴軍の主力は三木城の補給ルートである船上城―明石川ルートと魚住城―赤根川ルートを潰すことに成功したのだった。
魚住城を陥落させた秀吉は、本陣を魚住城ではなく近所の光触寺に移すと、そこで軍議を開いた。その最中に重秀がやってきた。
「おう、藤十郎か。遅かったではないか」
「海に投げ出された敵兵の処分に時間がかかりました」
『敵兵であっても沈没した船から脱出した者は救助する』というシーマンシップなんてものがない時代である。海に浮かぶ敵兵を助けずに殺すことは、当時は特に問題のない行為であった。
但し、重秀等水軍が処分したのは敵の将兵であって、水夫達は助けていた。大体漁師が徴用されて水夫となっていることが多いため、武士でないものを殺すのは重秀も躊躇ったようである。もっとも、水夫の中にはボロい鎧を着た者もいれば、助けたのに船上で暴れた者もいたため、そういった者は躊躇なく海に叩き込まれた。
重秀が軍議の席についた時、秀吉が重秀に尋ねた。
「おい。甲冑はどうした?」
この時の重秀の格好は、小具足姿の上に紬糸で編んだ袖なしの胴着を羽織っており、頭に鉢金のついた額当を巻いて、顔には半頬(面頬の一種。顎と頬を守る防具)を付けていた。袖なしの胴着はこの頃には陣羽織(具足羽織、陣胴服)と呼ばれるようになり、寒さしのぎに羽織るようになっていた。
「甲冑ですか?着て来てないですね。と言うか、兵庫城に置いてきました」
しれっと言う重秀に、軍議に参加していた諸将は唖然とした表情となった。そして秀吉が大声で叫ぶ。
「このど阿呆!武士が甲冑を身に着けずに戦場に出るやつがあるかぁ!」
「父上、そうはおっしゃいますが、船の上では甲冑はほぼ役に立ちませんよ?むしろ船が沈んだ時に泳ぐのに邪魔になります」
「待った。若さんよ、確か甲冑を身に着けながら泳げただろう?」
重秀の回答に対して、蜂須賀正勝が口を出してきた。実際、岐阜城で小姓をやっていた時に具足をつけての水練を受けて以降、重秀は琵琶湖でも水練を欠かさず行っていた。当然甲冑をつけての水練も行っており、泳ぎは重秀の得意分野となっていた。
「確かに甲冑を付けても泳げますが、あれ長距離泳ぐには辛いんですよ。船が沈められ、味方の船に救われ無かった場合に備え、自力で岸まで泳ぐこと考えると、具足は邪魔です」
「だからと言って、甲冑を省いて良いというわけには行かぬ」
秀吉はそう言うと、側に控えていた石田三成に命じる。
「兵庫城へ使者を送り、藤十郎の甲冑を持ってこさせよ」
命令を聞いた三成が本陣から出た後、ようやく軍議が始まった。竹中重治が軍議の司会をし始める
「諸将の奮闘につき、魚住城を落とすことができました。ここで一日の休息を取った後、次の目標である野口城を攻め落とします。官兵衛殿、野口城についての説明をお願い致す」
重治がそう言うと、今度は黒田孝隆が絵図を広げて説明をし始める。
「この絵図は野口城とその周囲を描いた絵図にございます。野口城そのものは平城で小さな城でございますが、周囲が沼地に囲まれており、攻めにくい城でございます」
確かに絵図には多くの沼が描かれており、如何にも攻めづらそうな城である事が分かった。
孝隆が更に説明を続ける。
「城主の長井四郎左衛門は古くより別所に仕える家柄。調略してもこちらに靡きませんでした」
「だとすると、包囲してもこちらへの降伏は無さそうだね・・・。敵の兵力は?」
堀秀政がそう尋ねると、孝隆が即答する。
「約二百。ただし、城の側にある教信寺の僧兵が敵側についております。約百人の僧兵が教信寺に立て籠もっております」
「教信寺は野口城の支城か」
蒲生賦秀が渋い顔をしながらそう呟いた。孝隆の説明を引き継いだ重治が説明を続ける。
「さて、野口城攻めの策にございますが、官兵衛殿の話にあったとおり、野口城は攻め辛い城にございます。そこで、まずは加古川城に兵を進めます」
加古川城は野口城の西側にある、加古川沿いにある城である。
「その城は攻めやすいのでござるか?」
山中幸盛が重治に尋ねると、重治は首を横に振った。
「いいえ、五十間(約90メートル)四方の規模の城で、天守は無いですが高い物見櫓が中央にあり、石垣は高く、城壁にはすべからく狭間があり、堀周りには逆茂木が隙間なくあるようです」
重治がしれっと言うと、諸将から「そんな城を攻めるのか!?」と驚きの声が上がった。しかし、重治が楽しそうな顔をしながら説明を続ける。
「実は加古川城城主の糟屋助左衛門(糟屋武則のこと)はすでに我等と気脈を通じております。我が軍勢が加古川城に近づけば、すぐに城を引き渡すことになっております」
重治がそう言った瞬間、再び諸将からは驚きの声が上がった。中からは「さすが『今孔明』よ」という声も聞こえた。重治が苦笑いしながら答える。
「実は加古川城を寝返らせたのは拙者ではなく官兵衛殿の功績でござる。助左衛門殿は官兵衛殿の奥方の従弟でしてな。その縁でこちらについたとか」
「それだけではございませぬ」
重治に続いて孝隆が話し始める。
「助左衛門殿の兄が兵を率いて三木城におりまする。助左衛門の申すことによれば、兄と相談の上、糟屋家を毛利と織田に分けたとのことにございまする」
孝隆の言葉に諸将は息を呑んだ。糟屋家は兄弟が敵味方に分かれることで、どちらかが負けても家が残る方法を考えたのだ。
「・・・糟屋家はお家を第一と考えたか。乱世で兄弟が争うはよくある話だが、糟屋の兄弟の心中は如何ばかりか・・・」
幸盛がそう呟くと、周りの者達も頷いた。重治が再び説明をし始める。
「加古川城には仙石勢と蜂須賀勢の一千、そして連絡役の官兵衛殿を送り込みます。野口城を無視して加古川城が我が方に落ちたと知られれば、野口城や高砂城、そして更に西の志方城、神吉城の諸城は慌てることでしょう。そこで、動揺した野口城を攻め落とすのです」
ここで重秀が初めて口を開く。
「・・・野口城の将兵が素通りしていく仙石勢と蜂須賀勢を側面や後方から攻撃しないでしょうか?三方ヶ原の徳川軍のように」
重秀の発言に対し、重治は「ないでしょう」と即答した。
「我が軍が八千以上いることはすでに敵にも知れ渡っています。一千の兵の背後を突こうとしても、残りの七千の兵が近くにいることは明白。そんな敵地に三百程度の兵で飛び込むほど長井四郎左衛門は馬鹿ではないでしょう」
「やれやれ。ということは、やはり城攻めですか。敵が利口者だと苦労いたしますな」
秀政の言葉に、その場にいた者達が笑い出した。そんな中、幸盛が「恐れながら」と声をかけてきた。
「仙石勢、蜂須賀勢は筑前様が頼りになさっている軍勢。それを加古川城で無為に過ごさせるのはもったいなく存じます。加古川城は我等尼子勢が参りますゆえ、仙石勢と蜂須賀勢は筑前様の手元に置くべきものと愚考致します」
そう言われた重治は秀吉の方を見た。秀吉が幸盛に話しかける。
「ご提案かたじけのうござるが、糟屋の寝返りは謀略の虞がある。加古川城に引き入れた我が方の兵を騙し討ちするやもしれぬ。そのような危険を上様より預かりし尼子勢に押し付けるは忍び難い」
秀吉の言葉に対し、幸盛が反論する。
「恐れながら申し上げます。そのような危険があるならば、一層仙石勢や蜂須賀勢を加古川城に入れるべきではありませぬ。それに、黒田殿のお話を聞けば、糟屋助左衛門なる人物、そのような奸計を巡らす人物とは思えませぬ」
幸盛に続いて孝隆も発言する。
「筑前様、助左衛門は我が親族にして、当初より織田側に留まっていた国衆でございます。また、糟屋家を存続させるために敢えて兄と袂を分かちあったのです。何卒、その覚悟を信じてくださいませ」
孝隆の話を聞いた秀吉は、視線を重治に移した。重治はただ黙って頷いた。それを見た秀吉が幸盛・・・ではなく、隣りにいた尼子勝久に話しかける。
「式部少輔殿(尼子勝久のこと。父の尼子誠久と同じ名乗りである)、加古川城へ行ってもらえまするか?」
勝久がすぐに頷く。
「承知した。加古川城は我等尼子勢が守ってしんぜよう」
「お任せくだされ筑前様。ご期待を裏切るようなことは致しませぬ」
「それがしも同伴致しまする。我が智謀をもって加古川城と尼子勢をお守りいたそう」
勝久に続いて幸盛と孝隆がそう言うと、秀吉は「お頼み申す」と言って頭を下げた。
次に重治は野口城攻めの策を発表した。
「まず皆さんで野口城まで船を運んで下さい」
重治がしれっと言うと、諸将から「はあぁ!?」と驚きの声が上がった。即座に秀吉が口を挟む。
「半兵衛、その言い方では語弊があるぞ・・・。皆の衆、案ずるな。数人数の者で担げるほどの船じゃ。数多く持っていき、浮き橋にするんじゃよ」
秀吉がそうフォローすると、蜂須賀正勝が安堵したような顔で声を上げる。
「なんだ、驚かすなよ。俺はてっきり若さんの関船を沼に浮かべるのかと思ったぜ」
冗談なのか本気なのか分からない正勝の発言に、諸将は大笑いした。笑いが静まったところで重治が説明を再開する。
「城周辺の沼地や堀については浮き橋で突破致します。魚住泊で奪った船が予想以上に多くて、浮き橋にするにはもってこいなのです」
ちなみに、魚住泊で押収した船の数は二百隻。そのほとんどが赤根川を遡って三木城へ兵糧物資を運ぶ小舟であったが、中には小早や弁財船も多く含まれていた。
重治の話はまだ続く。
「沼や堀を浮き橋で渡れるようにした後は力技でござる。まあ、あの城は沼さえ超えてしまえば後はどうとでもなります」
その後、重治からは各諸将達に命令が伝達されていった。そんな中、重秀が手を挙げて重治に尋ねる。
「あの、水軍は・・・」
それに答えたのは重治ではなく秀吉であった。
「藤十郎には重要な仕事がある。半兵衛」
秀吉がそう言うと、重治が別の絵図を開きながら重秀に説明を始めた。
「絵図をご覧下さい。この加古川の東側に別府川という川があります。この川沿いには阿閇城、尾上城、安田城があります。若君にはこの城を落として欲しいのです」
重治からそう言われた重秀は、絵図を見ながら「えーっと」と唸った。
「水軍だけでこの三つの城を落とすのですか?海岸沿いにある阿閇城はともかく、尾上城と安田城は内陸にありますが」
重秀の質問に、重治が「まさか」と言って笑った。
「将右衛門殿(前野長康のこと)と伊右衛門殿(山内一豊のこと)の軍勢を主力に、兵一千を若君に預けますゆえ、それで三つの城を落として下さい」
「ちょっと待って下さい」
重治の発言を重秀は止めた。眉間あたりを右の人差し指で押さえながら重治に聞く。
「まさか、一千の兵で三つの城を落とせと?」
「はい。何、その三つの城には兵はいません。それぞれの城主は兵を率いて三木城に行っていますから。また、尾上城と安田城は城と言ってますが実際は館のようなもの。防備なんて無いです」
「ああ、だったら簡単ですね。しかし、そんな子供でも出来そうな役目でしたら、私でなくても良いのでは?」
重治の話を聞いて、あまりにも簡単な任務に重秀は馬鹿にされているのか?と機嫌が悪くなった。しかし、そんな表情を見た秀吉が怒気を孕んだ声で重秀に言う。
「なんじゃお主。先程は一千で落とせぬと嫌がっておきながら、敵がいないと分かれば簡単だからやりたくないと申すか。このど阿呆!そう言う戯言を申す奴ほど簡単な役目すら果たせずに討ち死にしていくんじゃ!大体まだお主も子供ではないか!役目を選り好みできる立場だと思うてか!やりたくなければ帰れっ!」
そう言って大盾でできた机を思いっきり叩く秀吉。その気迫に重秀だけでなく、諸将も息を呑んだ。そんな剣呑な雰囲気の中、重治がのほほんとした口調で話しかける。
「まあまあ殿。諸将の手前、息子に甘い顔をできないことは分かりますが、そこまで怒らなくても良いでしょう。それよりも、若君には城を取った後に新たな役目が発生します。それは何かお分かりですかな?」
重治の質問に、重秀が「・・・え?あ、はい」と動揺しながら絵図を見つめた。少し経って重秀が口を開く。
「・・・毛利水軍から西国街道を守ることと、高砂城への牽制、でしょうか?」
「ご明察です。若君には一千の兵と水軍を使って両方をしていただきます。できますね?」
重治の問いかけ・・・と言うより確認の言葉に、重秀は「は、はい」と頷いた。重治が秀吉の方を向いて頷くと、その意図を受け取った秀吉が重秀に命じる。
「藤十郎。別府川周辺の防備と高砂城への牽制を命じる」
秀吉の命を受けた重秀は、「う、承りました」と言って頭を下げるのであった。
光触寺の軍議から5日後、野口城が陥落した。重治の言う通り、長井四郎左衛門は馬鹿ではなかった。加古川城へ向かう尼子勢を側面から襲うことはなかった。
しかし、彼は秀吉軍の恐ろしさを理解することはできなかった。沼地を頼りに籠城戦に入ったものの、沼地に浮き橋がかかり、堀には藁やら土やらが投げ込まれ、あっという間に防衛戦を突破されてしまった。彼と配下の将兵、そして教信寺の僧兵は玉砕した。
一方、重秀は光触寺の軍議から2日後には阿閇城を落とし、次の日には尾上城と安田城を落とした。守兵がおらず、尾上城と安田城は城と言うのもおこがましい建物(実際この二つは『城』ではなく『構居』と呼ばれている)であったが、重秀は油断することは無かった。
すなわち、城に入る前には事前に物見をし、安全を確かめてから兵を入れていた。また、近隣の村々には禁制を発し、兵達による乱妨取りを全面的に禁止することで、村の百姓達が別所勢に寝返らないように配慮した。さすがの重秀も秀吉の言った『簡単な役目すら果たせずに討ち死にしていく』ような者にはなりたくなかったのだった。
そして光触寺の軍議から4日後、重秀は尾上構居にて軍議を開いた。
「さて、これで別府川周辺は羽柴の勢力下になった。策を次の段階に進めよう」
そう言うと、重秀は考えていたことを諸将に話し始めた。
「尾上と安田の防衛力の低さは想像以上であった。そこで、安田の館と石垣を解体し、その建材をもって尾上の防御を高める。堀を二重とし、別府川より水を引いて水堀とする。また、掘った土で土塁を築き、出入り口には馬出を作ろう。当然、出入り口は虎口とする。
・・・そして安田の建材で尾上の敷地内に櫓と柵を作り、より強固な城としよう」
重秀はそこまで言うと、視線を長康と一豊に向けた。
「この尾上をちゃんとした城にするのは長康と一豊に任せる。そして一千の兵と共に高砂城の監視に当たってくれ」
重秀の言葉に対して、長康と一豊は「承知!」と言って頭を下げた。尾藤知宣が重秀に尋ねる。
「若君。若君は尾上に残らないので?」
「私は水軍の指揮のために阿閇城に入る」
重秀の発言にその場にいた者達は顔を見合わせた。知宣が重秀に言う。
「恐れながら、阿閇城は小さき城にて、多くの兵は入れませぬ。守るにはいささか不安が残るかと」
「だが、海と別府川を見張るにはちょうど良い場所なのだ。それに、我が水軍との連絡のしやすさからも、阿閇城から私が水軍の指揮を執ればちょうど良いだろう」
重秀がそう言うと、知宣は黙ってしまった。知宣自身は軍略に詳しいが、水上戦については素人も良いところであったので、どう反論して良いのか分からなかったのだった。そんな知宣を見た重秀は、安心させるかのように言う。
「何、あの城が襲われることはないだろう。襲うなら工事中で防御力が低い尾上城だろうと思う。むしろ阿閇城の方が安全だろう」
そう言って笑う重秀に、諸将は「それもそうですな」と言って同意するのであった。