第129話 魚住城の戦い
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天正六年(1578年)九月のある日。羽柴秀吉が指揮する織田勢が播磨に侵攻。と同時に羽柴小一郎長秀が率いる別働隊が三田城から出陣。淡河城を攻め落とすべく南下をしていた。
秀吉の軍勢が全て兵庫城から出発した直後、兵庫津から羽柴藤十郎重秀率いる水軍と若干の弁財船(瀬戸内海で漁船や商船として使われた和船のこと)が一斉に出港した。第一目標である林ノ城への移動と、水軍用の兵糧物資を運ぶためである。
羽柴水軍の船団は艪を漕いで秀吉の陸軍の歩調と合わせるかのようにゆっくりと進んでいた。これは、陸軍と水軍が共同で戦えるようにするためであった。
さて、羽柴水軍の旗艦である『村雨丸』の後部櫓では、小具足姿の重秀が床几に座りながら悩んでいた。
「若、どうしたんっす・・・どうされましたか?何か問題でも起きたんっす・・・ですか?」
側にいた加藤茂勝がそう訪ねてきた。重秀は「口調は改めなくて良い」と許しを与えてから話し始める。
「陸の父上との連絡が取りづらくてな。わざわざ伝馬船(関船に乗せられている小型の船)で陸に人を遣るのは手間だと思うんだがな」
「しかし若、旗振りや太鼓では陸へは伝わりづらいっすし、矢文では海に落ちて文が読めなくなることもあるっす。伝馬船が確実っす」
「それはそうなんだが・・・」
重秀がそう言って一旦黙った。そして再び口を開く。
「実は、漢籍によればどうも唐の国では鳥を使って文をやり取りをしていたようなのだ。鳥なら船から飛ばして陸に文を伝えやすいとは思うのだが・・・」
「おお、それはいいっすね。それを考えた人は頭が良いっすね」
無邪気に感心する茂勝に対し、重秀の顔はますます悩みの色を濃くした。
「ただ、どんな鳥を使ったのかが分からないんだ。もっと漢籍を調べてみないことには・・・」
「鷹狩の鷹じゃ駄目なんっすか?」
茂勝が当時の武将なら誰でも思いつきそうな事を言った。確かに、鷹狩の鷹は人に飼い馴らされており、狩猟用に訓練はされていた。しかし、重秀が否定する。
「狩りの訓練しかしていない鷹で文を運ばせるのは難しいだろうし、もしできるとなるならば、とっくに誰かがやっているだろう。しかし、そんな話は聞いたことがない」
日本での鷹狩の歴史はとても古く、『日本書紀』の記録では仁徳天皇の時代(4世紀)には鷹狩が行われていた。しかし、鷹を使って通信を行ったという記録が残っていないということは、誰も思いつかなかったのか、それともやろうと思って挫折したのかのどちらかであろう。
「とすると、唐の国の文献を調べるしか無いっすね」
茂勝がそう言うと、重秀は悩んだ表情のまま頷いた。その時だった。一人の足軽が重秀達のいる櫓に飛び込んできた。
「若!林ノ城が見えてきましたぜ!」
重秀が櫓の外に出てみると、船の進行先、やや右側に城が見えてきた。明石川河口沿いに築かれた林ノ城には、数多くの幟が立っていた。それは、黄色に染められ、上部に羽柴家の家紋である五三の桐―――足利義昭が織田信長に与え、その信長から秀吉に下賜された家紋が描かれていた。もはや、林ノ城が羽柴の手に落ちたことは一目瞭然であった。
林ノ城に入った重秀は、本丸御殿(と言うのもおこがましいほど狭い館)に入ると、広間の上座に陣取っていた秀吉の前に現れた。そして、片膝を付いて跪くと報告を始めた。
「父上、藤十郎到着いたしました」
「うむ、藤十郎大義!」
床几に座って鷹揚に頷く秀吉。その後、広間で軍議が開かれた。
「明石与四郎殿(明石則実のこと)と稲田太郎左衛門殿(稲田種元のこと)のお陰で大屋肥後守を首尾よく謀殺できました。出だしとしては上々です。この勢いで次の目標である魚住城を落としましょうぞ」
竹中重治の言葉に皆が「応っ!」と声を上げた。重治が作戦の説明をする。
「魚住城下に忍ばせた間者からの報せでは、毛利の援軍が来ているとのこと。ただし、これは三木城へ兵糧を運んできた舟手衆がほとんどで、兵は百を下回るとのこと。我等の兵力ならば、十分勝てるものと思われまする」
重治の言葉に秀吉は頷くと、重治に質問をする。
「半兵衛、毛利の船を奪ったほうが良いか?」
「はい。魚住城の前には赤根川という川があります。まあ、大した大きさではないですが、船を繋いで浮き橋とすれば、魚住城下まで一気に行けますな」
重治の答えを聞いた秀吉が、今度は重秀に尋ねる。
「藤十郎。水軍で魚住城の毛利方の船を拿捕することは可能か?」
秀吉の質問に、重秀は首を傾げながら答える。
「逃げる前に拿捕するのですか?・・・可能だと思いますが、日の出と同時の攻撃と相成ります」
「日の出と同時に攻撃ぃ!?何故そうなる」
秀吉の疑問に重秀が即答する。
「父上、この時期の瀬戸内の潮の流れと風の向きを鑑みますに、卯の刻(午前5時頃から午前7時頃)から巳の刻(午前9時頃から午前11時頃)の間に潮が西へ流れております。風に関しては北東の風と相成りますが、我が方の船ならば、十分帆走できる風向きにございます。つまり、潮と風の流れ、それに櫂を使えば船の速度が上がります。そうなれば、相手の船が動く前に包囲できます」
重秀の回答に秀吉の片眉が跳ね上がった。重秀の説明では、日の出と同時に魚住城にいる船を襲うことになる。ということは、今から夜の海を進むということになる。
この時代の日本では、陸の地形を見ながら航海をする。なので基本は陸地の見える昼間に航行するものである。そして、夜の航海は基本しないものである。陸の地形は見えにくいし、星明かりや月明かりを頼りに陸の地形を見ようとすると、どうしても浅瀬に近づくことになり、座礁する虞があるからだ。
羽柴唯一の嫡男を夜の航海に出すなど、そんなリスクを負うほど秀吉は無謀ではなかった。
「・・・相分かった。水軍の魚住城の船を奪うことは止めよう。毛利方の舟手衆はあえて逃すとするか」
そう言った秀吉に、重秀が声をかける。
「父上がそうおっしゃるのであれば、この藤十郎何も申しませぬ。しかしながら、この時期の瀬戸内の潮の流れと風の向きを鑑みますに、卯の刻から巳の刻が我が水軍が力を発揮できる時と心得ます」
「あー、つまり、日の出から戦をするには、夜のうちに戦場へ行かなければならぬのか」
「御意。しかも、この時期の夜の瀬戸内の潮の流れは西から東への流れに変わることが多くあります。そうなれば、日の出と同時になるならば、結構早めの出立でないと間に合いませぬ」
瀬戸内海は潮の流れが激しいところで有名である。これは、潮の満ち引きと地形によるところが大きい。すなわち、満潮の時には西の豊後水道と東の紀伊水道から瀬戸内海に海の水が流れ込むため、東西から中央(大体鞆の浦付近)へ潮の流れができる。一方、引き潮時には西の豊後水道と東の紀伊水道から太平洋へ海の水が吐き出されるため、中央から東西への潮の流れになる。
瀬戸内海の潮の流れは激しく、明石海峡あたりでは5〜6ノット。村上水軍の一つである来島村上水軍の本拠地に近い来島海峡では10ノットの速さになる。当時の船は人力走行では3ノット、帆走で6ノットが最大速度と言われているので、潮の速さの影響力は無視できないものであった。
「ふむ・・・」
重秀の話を聞いた秀吉は思う。
―――さて、困ったのう。藤十郎を夜の海に出しとうはないが、これから先水軍に活躍の場を与えないわけには行かぬ。少なくとも、実戦の一つは経験させないと、毛利は儂等の水軍を歯牙にもかけぬだろう。せめて、あの梶原水軍に勝利したいものじゃが・・・―――
考え込んでいる秀吉に、側にいた黒田孝隆が「恐れながら」と話しかけてきた。
「この林ノ城の周辺には漁村が多くあります。恐らく漁師ならばここいらの潮の流れや風の向きなど、より詳しいと存じます。それらの者から話を聞いてみては如何でしょうか?ひょっとしたら、日の出後でも十分我が水軍が有利になる潮や風の動きを聞くことができるやも知れませぬ」
孝隆の言葉に秀吉は、「ふむ、それもありだな」と言うと、重秀の方を見た。
「藤十郎。近くの村でこの近くの海について調べよ」
「御意」
そう言うと、重秀は秀吉の前から立ち去ったのだった。
重秀が秀吉の前に現れたのは、夜もだいぶ更けてからだった。
「・・・てっきり、勝利の酒宴を行っているものとばかりと思っておりましたが」
重秀が城内で見たものは、慌ただしく出陣の準備をしている兵達であった。
「半兵衛の策でな、魚住城の前に魚住泊を占拠しようとなったのじゃ」
魚住泊とは、現代の兵庫県江井ヶ島港付近にあった古い港である。奈良時代の名僧行基が開いた摂播五泊の一つで、この時期、魚住城への補給路として使われていた。
「魚住泊を占拠し、船と水夫を確保すれば、その船を使って軍勢を魚住城の西側に上陸させることができる、と半兵衛が言ってきたのじゃ。それで魚住城を素早く包囲できるというものよ」
「包囲、ですか?」
重秀がそう尋ねると、秀吉がニヤリと笑った。
「完全包囲して降伏を迫れば、我が方の損害はないじゃろう。降伏しなくても、備えていない城を落とすぐらい大したことはないじゃろ」
秀吉がそう言うと、重秀は右手を口元に持っていき、しばし考え込んだ。そして秀吉に言う。
「そうすると、水軍の役目は魚住泊から船を出さないようにするための封鎖と、城の西側へ上陸させるための船の護衛、そして魚住城を海から包囲するために展開することでしょうか?」」
重秀がそう言うと、秀吉は大笑いした。
「あっはっはっ!儂が言う前に言われてしもうたわ!・・・藤十郎、行けるか?」
「はい。近くの漁師から聞きましたが、この時期は日の出の頃より上げ潮(満潮のこと)になるそうです。一方、風の向きは北風となるそうで、巳の刻(午前9時頃から午前11時頃)を過ぎると西風となるそうです。
・・・ですので、寅の刻(午前3時頃から午前5時頃)、大体暁七つに出帆すれば日の出と同時に魚住城の包囲に展開できるかと」
重秀の発言に、秀吉は覚悟を決めたような顔つきになった。そして凛とした声で重秀に命じる。
「藤十郎に命じる。水軍を率いて魚住泊へ向かうように」
「ははっ!」
力強く答える重秀を、秀吉は頼もしく思いながら見つめていた。
重秀は秀吉の前から立ち去ると、水軍の将達が待機している部屋へと向かった。
「皆、出撃だ!」
部屋に入るなりそう叫ぶ重秀を皆が囲んだ。
「おお、兄貴!殿さんからの許しは出たか!?」
福島正則がそう尋ねると、重秀は力強く頷いた。
「ああ、明日の暁七つに出帆、日の出と同時に魚住泊を海から封鎖する!その後は魚住城包囲に参加だ」
重秀の言葉に、正則だけではなく、その場にいた者達全てから「応っ!」と声を上げた。
「私の指揮する関船隊は長蛇の陣、関船隊の左舷側を小早一番隊が、右舷側を小早二番隊が長蛇の陣で固めるように。魚住泊に到達したら、小早二番隊は西に展開、横陣にて西から来る敵を監視するように。そして小早一番隊は関船隊の周囲を固めよ」
そう言われた小早一番隊隊長の井上成蔵と小早二番隊隊長の田村保次郎が「承知!」と大きな声で返事をした。
この時代、水上戦における陣形は陸上戦と同じ陣形が取られていたと思われる。少なくとも村上水軍が残した資料では、『魚鱗の陣』や『鶴翼の陣』という言葉が見られる。
「長兄、関船隊の先頭はやはり長兄が?」
加藤清正がそう言うと、重秀は「当然だろう」と答えた。
「指揮を取る船が先頭に立たなければ、船尾の旗振りで指示が出せないだろう」
当時の艦隊行動(と言って良いのか分からないほど単純なものであったが)の指示は太鼓や鐘による音か、旗を使っての視覚によるものであった。羽柴水軍では独自に開発した旗振り信号によって先頭の旗艦から後ろにリレー方式で伝える方法も取っていた。後は横陣にした場合は中央の旗艦から左右に旗振りでリレー方式で伝える方法もあった。
しかし、旗艦を最後尾に置き、艦首からリレー方式で伝えるという方法は取らなかった。物理的にできなくはないが、最後尾では状況が判断できなかったからである。さすがに旗振りだけで双方通信ができるほど、高度なコミュニケーションを取ることは難しかった。
「長兄の乗る『村雨丸』が先頭に立てば、接舷攻撃を受けるか仕掛けるかの時に危険に晒されるのでは?」
「だから私の乗っている『村雨丸』には市が乗っているし、いざという時には孫六も戦ってくれるさ」
清正が『春雨丸』の指揮を任されているのに対し、正則は船を任されていない。これは、重秀が乗る船『村雨丸』が先頭になるので、敵船に体当りしたりされたりした場合、敵船に斬り込む必要がある。その時の指揮を取るのが正則の仕事であった。
ちなみに、加藤茂勝は艦隊指揮を取る重秀に変わって『村雨丸』の指揮を取るのが仕事であった。
「なら良いのですが。市松と一緒になって敵船に乗り込まないでくださいよ。殿に叱られるのは俺たちなんですから」
清正の小言に、重秀が「分かってるよ」と顔を顰めながら言うと、その場にいた者達が一斉に笑いだしたのだった。
重秀率いる水軍が林ノ城を出帆したのは、暁七つと呼ばれる時刻であった。
一応、空が明るみ始めていたこともあり、夜目が効くものであれば十分地形や周囲の船を見ることは可能であったものの、それでも詳しい形状は分からなかった。そのような中、羽柴水軍は直線コースで魚住泊を目指していた。
「兄貴、湊に突っ込んで占拠しなくて良いのか?」
『村雨丸』の後部櫓で正則が重秀にそう話しかけてきた。重秀は首を横に振りながら答える。
「魚住泊の占拠は父上の軍勢が行う。我等は船が湊の外に出ないようにするだけだ」
「そっか。まあ、こっちの兵のほとんどは鉄砲兵。船同士の戦いや防衛戦ならともかく、敵地の占領には向かないな」
「そういうこと・・・。って、市は随分物分りが良いじゃないか」
「兄貴や虎の血の気が多すぎるだけだと思うぜ」
正則の言葉に、重秀は思わず笑いだした。
そんなこんなで重秀の艦隊が魚住泊に到着。予定通り小早二番隊が更に西に向かって進み、魚住城沖の西側に警戒ラインを設定した。そして関船隊と小早一番隊が魚住泊沖とすぐ側の赤根川河口に展開し封鎖を完了した。
関船隊と小早一番隊の船内で鉄砲や大鉄砲、狭間筒の準備がなされている中、重秀は『村雨丸』の後部櫓の狭間から魚住泊と魚住城を見つめていた。
日の出の時間ではなかったが、それでも空が明るくなり、魚住城も魚住泊もなんとなくであるが見えていた。
「全く動きがないな」
そう呟いた時だった。同じく後部櫓から魚住城を見ていた茂勝が重秀に向かって叫んだ。
「若っ!魚住城の方から火が上がってますぜ!」
「何っ!?」
重秀がそう言うと、すぐに茂勝の側によった。そして茂勝が指差す方の狭間を覗き見ると、魚住城の方向から数か所、明るいものが見えた。その明るいものは、段々と広がっていくのが分かった。
「我が軍が火を放ったのか?それとも単なる失火か?」
重秀がそう呟いた直後、今度は魚住泊の方を見ていた見張りの兵が叫んだ。
「若君!湊で動きがありました!」
重秀がさっきいた場所に戻って狭間から魚住泊の方を見やる。よくは見えないものの、微かにだが発砲音や鬨の声が聞こえた。
「始まったぞ!こちらも合戦に備えよ!太鼓を鳴らして知らせよ!」
重秀がそう指示を出すと、すぐ側で太鼓が鳴らされた。決められたリズムで太鼓が鳴らされると、『村雨丸』の内部が騒がしくなっていった。と同時に、外から音色の違う太鼓が鳴らされた。『村雨丸』の鳴らした太鼓を聞いた他の船が、周りの船や自分たちの船内に知らせるために『村雨丸』と同じリズムの太鼓を鳴らしているのだった。
羽柴水軍では旗振りの他に太鼓の音で船同士の通信も行っていた。ただ、これではどの船が鳴らしているかが分からない。そこで、船ごとに太鼓を変え、音だけでどの船が鳴らしているのかが分かるようにしたのだった。
羽柴領では牛の肉を南蛮人に売ったり自分たちで食べるようになり、多くの牛の皮が手に入るようになった。そして、黒田孝隆との繋がりで姫路の革加工の技術を取り入れることにより、羽柴領では新たに革製品を生産することができるようになった。そして、その革製品の中には太鼓も含まれていたのだった。
つまり、種類豊富な太鼓を生産することによって、船同士のコミュニケーションを太鼓の音でもできるようになったのである。
『村雨丸』を始めとする関船隊の戦闘準備が終わったのと同時に、魚住泊から船が次々と出てきた。それを見ていた重秀が落ち着いた口調で側にいた者に伝える。
「近づいてきたら撃ち方始め。船に近寄らせるな。逃げようとしたら体当りしてでも沈めよ。但し、飛び乗って斬合はしないように。湊に戻る船には手を出すな。後は陸の味方に任せる」
林ノ城で取り決めた命令を改めて言った重秀。その命令を船内に伝えるべく、聞いていた者が船尾楼の下へと降りていった。その直後、前方から大鉄砲の重い発射音が聞こえてきた。そしてその音は、周辺の海を覆い尽くすほどの大きさとなっていった。