第12話 羽柴
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天正元年(1573年)九月。秀吉が対浅井・朝倉戦での恩賞を貰った次の日の朝、木下屋敷では秀吉が全ての人を座敷に集めていた。
集められたのは大松、小一郎、とも、あさ、治兵衛、小吉(ともの次男、のちの豊臣秀勝)、木下弥助、副田甚兵衛吉成、市松、夜叉丸であった。
「皆、朝早くから集まってもらったのは他でもない。今後の木下家について話そうと思う」
上座に座った秀吉は、そう言って話を始めようとした。しかし、あることに気がついた。治兵衛が涙目になっていたのだ。しかも、左右の頬が赤く腫れ上がっていた。よく見ると、掌の跡が赤く残っていた。
「おい、なんで治兵衛の頬が両方腫れとるんだ?」
「父上、申し訳ございません。夜叉丸がやりました」
秀吉の疑問に、大松が平伏しながら答えた。下座に座った面々の後ろの方から、「申し訳ございません!」という夜叉丸の大声が聞こえた。
「何があった?」
「はい、実は・・・」
大松が言うには、朝、大松と市松と夜叉丸が朝の鍛錬として木刀の素振りをしていた時、起床した治兵衛が通りがかった。大松が声をかけたが無視されたので、市松が咎めたところ、「木下ごときが宮部の俺に声をかけるな!無礼だぞ!」と言ってきた。
大松と市松が驚いている間に、夜叉丸がキレて治兵衛に往復ビンタをかましてやったのだった。
「・・・というわけでございます。義弟が申し訳ありませんでした」
「・・・そんなこと言ったのか?治兵衛。主君の嫡男にそんな舐めた口を・・・」
大松の説明が終わった後、秀吉の左斜め前に座っていた小一郎が怨念を込めるような低い声を出した。
「小一郎やめよ。治兵衛が震えてるではないか。よしよし、治兵衛よ」
秀吉が小一郎を止めると、秀吉が優しい口調で治兵衛に語りかけた。涙目で震えていた治兵衛が秀吉の方を見る。
「これから、大事な話があるでの。ちゃぁんと聞くんだぞ。その話を聞けば、なぜ夜叉丸や叔父さんが怒っているのか、分かるからのう」
秀吉がそう言うと、目線を治兵衛から離し、座敷を見渡した。
「まず、大松だが、木下ではなくなった」
秀吉がそう言った瞬間、座敷に驚きの声が上がった。最も、事前に聞いていた大松と小一郎は口を開いていなかったが。
「ついでに言うと、小一郎と儂も、木下ではなくなった。名字が変わったのじゃ」
「じゃあ、何になったん?」
ともが質問した。
「うむ、『羽柴』となった。羽根の『羽』、柴刈りの『柴』じゃ」
「兄者よ、そんな分かりにくい説明せんでも、丹羽五郎左様(丹羽長秀)の『羽』と柴田権六様(柴田勝家)の『柴』と言えばよかろう」
秀吉の答え方に小一郎が呆れながら言った。
「・・・なんでそんな名字にしたのよ・・・」
「いつものおべっかを使ったのじゃ。兄者の得意技じゃ」
「仕方なかろう。あの時の広間の様子を思えば、重臣方、特に柴田様におべっかを使わなければ今頃は視線だけで射殺されておったわ」
あさの疑問に小一郎が答えると、秀吉が恩賞を貰った時のことを思い出して身震いした。
「ま、儂が『織田の双璧たる柴田様と丹羽様に習い、より一層織田家への忠節を誓いまする』と言ったら、柴田様も丹羽様もまんざらではないというお顔をされておったわ」
そう言うと秀吉はペロッと舌を出した。秀吉は話を続ける。
「すでに御屋形様の許しも得てるし、そういうことじゃから。今後は儂と小一郎、大松は羽柴じゃ」
「・・・?オラ達は?」
ともが質問する。
「弥助たちは木下のままじゃ。許しを得たのは儂ら三人だけじゃ」
秀吉の話は嘘だった。秀吉は羽柴家を自分の血筋と優秀な小一郎に限るつもりであった。このことは大松は知らなかったが小一郎は知っている。
「次に、先の戦で儂は武功を挙げた。よって御屋形様よりどデカイ恩賞を頂いた。小谷城と北近江三郡、十二万石じゃ。儂は城持ちの大名じゃ!」
おお!という歓声が上がった。秀吉は話を続けた。
「というわけで、大松を除いて全員お引っ越しじゃ。皆の衆、これからはお城ぐらしじゃ!」
「兄者、小谷城と麓の屋敷は戦で燃えてしまったじゃろが。まずは建て直しからじゃ」
秀吉の話を聞いて、再び歓声が上がったものの、小一郎がそう言うと嫌そうな声が上がった。そんな中、あさが秀吉に聞いた。
「・・・待ちなさいよ。大松を除いて、ってどういうことよ・・・?」
「これから話すから、頼むからその人を祟り殺そうとするような目をするな」
秀吉は苦笑すると、話を始めた。
「実は、大松は御屋形様の命により、小姓見習いとして岐阜城に上がることになっている。なので岐阜に残ることになった」
「おお、それは祝着至極!よろしゅうございましたなぁ!」
秀吉に吉成が感嘆したような声で言った。
「うむ、まさか儂の子がお城に上がれるとはのう・・・。これで御屋形様に気に入られればよいのじゃが」
秀吉の言葉に小一郎が眉をひそめた。
「・・・でも、だからといって大松だけ置いていくの?誰か一緒に置いていかないの・・・?」
「うむ、実は小谷城では人手が足りんのじゃ。なので、この屋敷にいる者はもちろん、杉原や浅野も全員、向こう行きじゃ。そして、市松と夜叉丸!」
あさの質問に秀吉が答えると、急に市松と夜叉丸を呼び出した。二人は「は、ははぁ!」と慌てたように返事をした。
「お主達は儂の小姓として、向こうに行ってもらうぞ」
秀吉がそう言うと、市松と夜叉丸は飛び上がるように立ち上がった。
「はあぁ!?兄貴と一緒じゃねーのかよ、殿さん!」
「殿さん!いくら何でもそれは・・・!?」
「黙れ!これは大松のたっての願いじゃ!」
秀吉の一喝で黙りこんだ市松と夜叉丸は、すがるような目で大松を見つめた。
「・・・義弟たちよ。聞いてくれ」
そう言いながら、大松は立ち上がった。
「俺としても二人には残ってもらいたい。しかし、お前たちを残せば、折角身についた武術の腕がなまってしまう。仙石殿(仙石秀久のこと)が、お前たちが一角の武将になれると言っていた。岐阜で無為に過ごすより、小谷城で色んな人達に鍛えて貰いたい。頼む、このとおりだ」
そう言うと大松は頭を下げた。市松と夜叉丸は互いに顔を見合わせると、大松に寄って行った。
「そう簡単に頭下げるなよ、兄貴。羽柴の若様じゃねぇか。分かった。向こうでしっかりと鍛えてくるぜ」
「長兄。俺も市松と同じです。向こうでしっかりと武術を鍛えて参ります。いずれ、長兄の片腕になれますように」
市松と夜叉丸はそう言うと、一斉に頭を下げた。
「・・・ついでに、小一郎の叔父上に頭の中も鍛えてもらってくれるとありがたい」
「えっ!?それは勘弁して!」
大松の呟きに市松が焦ると、夜叉丸が笑い出した。つられて大松と市松も笑い出し、ついには座敷に広まった。
「さて、治兵衛よ」
一通り笑いが収まると、秀吉は治兵衛に語りかけた。
「ここまで話したとおりじゃ。お前が朝、罵った大松はただの従兄弟じゃない。北近江十二万石の大名、羽柴の御曹司である御方を罵ったんじゃ。お前の養子先だった宮部は一万石もいってないはずじゃし、そもそもこれから儂の与力になるんじゃ。君臣の分はしっかりとつけねばならん。本当なら、夜叉丸にひっぱたかれるでは済まされんぞ?」
秀吉の話を聞いて、治兵衛の顔が青ざめていく。
「ここまで聞いて、治兵衛よ。大松に何か言うことは?」
「・・・申し訳ございませんでした、従兄上」
秀吉に聞かれた治兵衛は、大松に対して土下座した。
「・・・ちょっと。治兵衛はどうでもいいのよ。一人置いていかれる大松はどうなるのよ」
あさが秀吉に聞いてきた。
「お前、治兵衛も甥なんだから少しは・・・。まあ、いいか。大松は城に上がったら城の一角で他の小姓見習いと共同生活じゃ。その中には前田の犬千代もいるから、まあ、全くの一人というわけでもない。また、岐阜には儂か小一郎が来とるから、屋敷に帰ることができれば儂か小一郎が面倒を見ることになるのう。ただ・・・」
秀吉は一旦話を止めた。皆が注目している中、再び口を開いた。
「実はこの後、儂と小一郎、その他の者も小谷城へ移動せねばならん。そこで、その間だけでも大松と屋敷の管理をある人に頼んでいる」
「・・・誰よ。前田様?」
あさの質問に対して、秀吉が首を横に振る。
「又左は当分岐阜には来れんじゃろう・・・。今年の年貢について、帳簿と蔵の中の量が合ってないそうじゃ。奥村殿(奥村永福のこと)が戻ってきたは良いが、あの様子では再計算に時間がかかりそうじゃ・・・」
秀吉が遠くを見るような目をしながら言った。
「では、一体どなたなのですか?」
吉成の質問に、秀吉がニカッと笑いながら答えた。
「儂の古い知り合いじゃ。きっと、小姓見習いとなった大松のことも助けてくれる」
それから三日後の午後、秀吉の言っていた古い知り合いに会いに行く、ということで、大松は秀吉と共に出かけていた。
秀吉達が向かったのは、岐阜城にほど近い重臣たちが滞在する屋敷の近くであった。信長から与えられた家臣の屋敷は、岐阜城に近づくにつれて重役の屋敷となる。つまり、秀吉達が目指した屋敷の主は、織田家にとって重要な人物である、ということだ。
「ごめん!」
ある屋敷の前の門前で、秀吉が声を掛けると、門脇にある小さな扉から下男が現れた。
「へえ、なんでしょう?」
下男に秀吉が自らの名を名乗る。
「羽柴藤吉郎である。主人との約束で参った」
「へえ、お待ちくだせぇ」
そう言うと下男は一旦引っ込んだが、その後しばらく経って門の扉が開いた。秀吉と大松は門をくぐると、その屋敷の玄関へと向かった。そこには、一人の侍が立っていた。
「きの・・・、羽柴様、お待ち申しておりました」
「おお、三右衛門殿!お懐かしゅう!息災で何よりですじゃ!」
秀吉がにこやかに手を振る。一方、三右衛門と呼ばれた侍はやや渋い顔をしていた。
「主がお待ちです。・・・申し訳ないのですが、書院までご足労願います」
「・・・その様子じゃと、いつもどおりなんじゃな?」
秀吉が笑いながら三右衛門に聞くと、三右衛門の顔がますます渋くなる。
「ご推察通りでございます」
「ああ、良い良い。昔から知っておるわ。では書院まで案内をよろしゅうな」
そう言うと秀吉は草鞋を脱いで玄関から上がった。大松もそれに続いた。
書院の前の縁側に着いた秀吉、大松と三右衛門。まず三右衛門が立て膝で座り、書院の障子から中に声を掛ける。
「殿!三右衛門でございます!羽柴様がお着きになりました!」
しかし、中から返事はない。三右衛門は溜息をつくと、秀吉の方を見た。
「羽柴様、しばしお待ちくだされ」
そう言うと三右衛門は立ち上がり、障子を開けると書院の中に入っていった。そしていきなり中から三右衛門の怒号が聞こえた。
「テメエ!いつまで寝てるんだ!さっさと起きろ!」
「はあ?『後もう少し』じゃねー!起きろ起きろ!羽柴様が来てるんだよ!」
「・・・『羽柴って誰?』じゃねー!前の木下様だよ!」
「ほらほら!なんで酒坏と銚子が転がって・・・、褌を本の上に置くなっつーの!」
そんな三右衛門の怒号を聞きながら、大松は秀吉を見た。その目には不安と疑念が浮かんでいた。
「大事無い。昔から知っているが、あれほど頼りになる奴はいない」
しっかりとしたもの言いで秀吉が言うと、大松も若干安心したような顔をした。
「・・・お待たせ致しました。主がお待ちです」
障子が開き、中から三右衛門の声が聞こえた。
秀吉と大松が書院に入ると、まず感じたのは匂いだった。少し酒の香りがした。次に、部屋の中の様子が目に飛び込んできた。あちらこちらに本や書物の山ができていた。大松が驚いたのは、本や書物が本当に山の形に積まれていたのだ。竹中重治の座敷も本や書物で埋もれていたが、ちゃんときれいに(?)積み重なっていたのに、こちらは乱雑もいいところだった。
そんな本の山を縫うように書院の中を進んだ秀吉と大松。無理やり開けたと思われる屋敷の主の前の畳に座ると、秀吉は軽く頭を下げ、大松は平伏した。
「お久しゅうござるな、久太郎殿」
「久太で構いませんよ、藤吉・・・、いや、羽柴様」
「こっちも藤吉で良いぞ、久太」
「いやいや、十二万石の大名捕まえてそれは駄目でしょう・・・と言いたいのですが、私もお固いのは苦手でしてね。ここでは昔みたいに藤吉殿と言いましょうか。藤吉殿、十二万石の所領、おめでとうございます」
「お言葉、痛み入る」
主の祝辞に秀吉は礼を述べた。主は眠そうな目を大松に向けた。
「やあ、お前さんが大松だね。話は聞いているよ」
「お初にお目にかかります。羽柴藤吉郎が息、大松にございます」
大松が挨拶をすると、主はキョトンとした顔をした。そして、後頭部を掻き始めた。
「やれやれ、お前さんと会うのは初めてじゃないんだけどね。覚えてなかったか」
「えっ!?」
予想外のことを言われた大松は驚いて顔を上げてしまった。あわてて無礼を謝ろうと頭を下げた時、秀吉が呆れたように主に言った。
「久太よ。その時は大松は赤子だったじゃろが。覚えているわけなかろう」
「いやあ、あの時の事は今でも覚えてますよ。藤吉殿から『すまんが子供の様子を見てきて欲しい』と言われて前田の屋敷に行ったら、いきなり御方様から『手が離せないから大松のおむつ替えて!』って言われましてなぁ。初めてでしたよ、赤子のおむつを変えたのは。四苦八苦いたしましたよ」
「その割には上手くできたらしいな。おまつ殿が褒めておったぞ。さすがは『名人久太郎』よ」
「おむつの取り替えでその二つ名はどうなんですかねぇ・・・」
たはは、と笑いながら言うと、主は真面目な顔になって大松を見た。そして軽く頭を下げると自己紹介を始めた。
「元、木下藤吉郎配下で今は御屋形様の奉行を務めている堀久太郎秀政だ。よろしく。父上からは話は聞いているから安心して欲しい。お前さんが岐阜城にいる間、依怙贔屓はできないが、なるべく力になれるようにはするよ」




