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第126話 羽柴水軍

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


 天正六年(1578年)八月上旬。兵庫津には数多くの軍船が投錨していた。


「短期間でよくぞここまで揃えた・・・」


 入江を守る防波堤から海を眺める秀吉が、船団を見ながら感心したように呟いた。


「・・・大した数ではありませぬが」


 隣で重秀が苦笑しながら答えた。


 重秀と秀吉の目の前にいる船団は、関船五隻と小早十一隻。これに今日進水した関船と小早それぞれ一隻を合わせたのが羽柴水軍の全てであった。


「揃えただけでも十分よ。まだ造るのであろう?」


 秀吉の問いかけに重秀は「はい」と答えた。


「兵庫城の建築も残すは天守と『御座所』となりました。これらには船大工ではなく宮大工などその道の玄人に造らせます故、城の建築に駆り出されていた船大工も船の建造に回すことが可能となります。これで船の建造はより早くなるでしょう。

 ただ、兵庫津ここの船大工達は南蛮式の船の作り方を知りませぬ故、当分は長浜の船大工にはこちらに残ってもらいます。安濃津でフスタ船を作った後にこちらに来た船大工にはご足労をかけますが」


「そ奴らには報酬をたっぷりとしてやれよ?それより、材木の方はどうだ?」


 秀吉のさらなる質問に、重秀は答える。


「南蛮式で作っております故、巨木を使うことはありませぬ。木の数は多く入りまするが、ありがたいことに有馬郡は山が多い故、木に苦労は致しませぬ」


「材木は船だけに使うものではない。分かっておろうな?」


「伐採した後は必ず植林を行っておりまする。また、山林を持つ村の望みがあれば、油桐を植えておりまする」


 打てば響くような重秀の返答に満足しながら、秀吉は満足げに頷いた。


「それでは、お主の造り上げた船をじっくりと見ることにするかのう」


 そう言うと、秀吉は踵を返すのであった。





 兵庫津には入江が二つある。北に川崎船入江、湊町の真ん中に築島船入江である。一応、南にも須佐の入江があるが、これは港としての機能を持っておらず、総構そうがまえの巨大な堀という機能を果たしていた。

 さて、秀吉達は築島船入江の中にある二隻の船を見ていた。一隻は関船でもう一隻は小早である。


「この関船が『村雨型』の六番船、『秋雨丸』でございます」


 重秀が指さした先には、変わった形の関船があった。


 船首は一本水押っぽく見えるが、船首先端には前に突き出した形状の造りとなっていた。上部は平らとなっており、人一人が歩ける程度の幅があった。そして先端部分は黒く塗られた鉄が貼られており、いかにも頑丈そうな造りをしていた。

 船体には関船に見られる、船全体が同じ階層の総矢倉とはなっていなかった。船体の上は一層の総矢倉となっていたが、これは漕手を守るだけの総矢倉である。そして船の前後にはもう一層、瓦の屋根を乗せた櫓が乗せてあり、その間の船中央部には人の身長ぐらいの高さまでの竹束が横に積み重ねられていた。竹束の所々に狭間が付いており、そこから鉄砲や矢が撃てるようになっていた。

 船体には二本の帆柱が建っており、全てが三角帆であった。船体横から突き出しているのはではなくオールであり、三角帆と共にこれがフスタ船をモデルにした関船だということが秀吉にも理解できた。


「『村雨型』は一番船『村雨丸』を筆頭に、『春雨丸』『五月雨丸』『夕立丸』『時雨丸』そして『秋雨丸』の計六隻から成る関船にございます。この後は安濃津で学んだ唐船の構造を取り入れた関船を建造しようと思っております」


「『村雨』の名はやはり、『松風村雨伝説』からか?」


「御意。あとは古文漢文から雨に関する言葉を探し出してつけました」


 ふむふむ、と言いながら納得する秀吉であったが、まだ疑問に思う事はあった。


「櫂の数は?」


「片舷四十の計八十です。関船としては大型です」


「櫂にしたのは何故じゃ?艪ではいかんのか?」


「艪の場合、逆さに進むのがちと難しいのです。この『村雨型』は逆に進むことを重視しております故」


 そう言うと重秀は秀吉に詳しく説明し始めた。


 南蛮船の戦い方にあって和船の戦い方に無い戦法として、体当たり戦法がある。古代ギリシャ、古代ローマの代表的な軍船であるガレー船の戦い方については今更ここで書く必要はないであろう。

 ガレー船は実はこの時代でも地中海内ではまだまだ主力であった。しかし、体当たり戦法に若干の変更があった。

 すなわち、船首の喫水線下にあった衝角(ラム)が喫水線上に移り、甲板と同一化した。この突撃船首の役割は船体に穴を開けることと、その穴を使って兵を敵船に送り込み、白兵戦を行うことであった。というのも、喫水線下の防御が厚くなり、オールで漕いで発生するガレー船の速度(大体6ノット)では、衝角で船を開けるだけの衝撃を与えることが不可能になったからである。

 一方、接舷攻撃は未だに有効であったため、突撃船首を橋代わりとし、人を送り込むことがこの時代のガレー船、そしてガレー船から発展したガレアス船の戦い方となっていた。


 さて、重秀とその家臣、琵琶湖の船乗り達は『淡海丸』と『細波丸』の二隻のフスタ船で体当たり戦法の模擬戦を繰り返し行っていた。その結果、一つの結論に至った。


「この船首、ただ船に穴を開けるだけで、沈めることはできないのでは?」


 そう思った重秀達は、長浜に来る伴天連をとっ捕まえてはフスタ船の突撃船首について聞きまくった。結果、ガレアス船を知っていた伴天連から船首の話を聞いた重秀は、早速その改良を船大工達に指示した。

 結果、突撃船首は体当たり用の武器ではなく、兵を敵船に送り込む橋と化した。しかし、頑丈にすれば敵船を破壊することは可能なのと、高さが丁度艪を漕ぐ漕手がいる場所と同じなので、体当たりで船体を破壊し、漕手そのものを攻撃する研究は続けられた。


 その後の研究によれば、突撃船首が船体に刺さった場合、抜くのが大変なことも分かった。後進すれば抜けると思われがちだが、破壊された敵船の材木が引っかかり、抜くのは難しい。しかも艪は取り付け具合では後進することができない。

 一方、櫂の場合はその様な必要がない。人が場所を変えればすぐに後進できる様に成るし、何なら漕ぎ方を変えれば人の位置替えをしなくても後進は可能である。こういったことから、『村雨型』では櫂を使用することになったのだった。


 重秀から説明を受けた秀吉が、さらに質問をする。


「総矢倉にしなかったのは何故か?」


「船体を軽くすることで、船が深く沈まぬようにするためです」


『村雨型』は竜骨キールと肋材を有する南蛮船仕様となっている。なので和船より材木の量が多く使われており、船体部分の喫水は深い。しかし、それでは浅瀬の多い瀬戸内海を走るのに都合が悪いのだ。

 そこで、少しでも喫水を浅くすべく、船の上層部分を軽くするため、総矢倉を諦めたのが『村雨型』であった。

 とは言え、それでは防御力が低くなる、ということで防御力を高める工夫はされていた。竹束を横に積み重ねて防御壁にしたのは、軽量化との兼ね合いであった。


「その代わりと言ってはなんですが、漕手のいる層の壁は厚くしておりますし、前後の二層櫓は城の櫓と同じ造りをしております。当然、船全体には虎模様としての黒い銅板や鉄板を張っております故、防御力は高いかと」


「ならば、船首の櫓はいらぬのではないか?」


 重秀の説明を聞いた秀吉がそう尋ねると、これまた重秀はハキハキと答える。


「船首より敵船へ乗り込む際、援護射撃するための櫓となります」


「ああ、なるほどのう」


「さらに、船首の櫓には大鉄砲を備え付けますれば、集中して撃てば敵船の盾板を撃ち抜けるものと存じまする」


 重秀の説明に「ふむふむ」と言って顎を擦る秀吉。一通り『秋雨丸』を見回ると、今度は別の船に視線を移した。


「それで、あの小早が『松風型』か」


「あれは最近できた『松風型』十二番船、『時津風丸』でございます。『松風型』は『松風丸』、『春風丸』、『秋風丸』、『朝風丸』、『浦風丸』、『濱風丸』、『初風丸』、『神風丸』、『天津風丸』、『沖津風丸』、そしてあの『時津風丸』でございます」


「・・・小早如きに大層な名前をつけたのう。まだまだ増やすのであろう?」


 呆れた表情でそう尋ねる秀吉に、重秀は後頭部を右指で掻きながら答える。


「考えていると結構楽しくなりまして・・・。それに、長岡与一郎殿(長岡忠興、のちの細川忠興)に『風を使った言葉を知ってるだけ教えてくれ』と文を送ったところ、結構な数の言葉を文にしたためてくれました」


 笑いながらそう言う重秀をジト目で見つつ、秀吉は「それで、この小早も他の小早と違うのであろう?」と訪ねてきた。重秀が嬉しそうに答える。


「御意にございます父上。まず、南蛮船仕様なのは関船と同じですが、艪の数が片舷四挺の計八挺のみとなっております」


「八挺!?あの大きさからするに、四十挺は必要なのではないか!?」


「正確には『松風型』は片舷十五挺、両舷三十挺の艪が必要な小早ですが、あの小早は艪ではなく帆走を主としており、艪は湊や入江での細かい動きをするための補助に使いまする」


「ということは、例の三角帆か?あれだけで航行が可能と?」


 秀吉が信じられないような顔をしながら聞くと、重秀は「御意」と言いながら頷いた。


「小早はあくまで物見と伝令にしか使いませぬ。まあ、自らを守るための鉄砲は載せますが、進んで戦う船ではございません故」


「なるほど」


「それに、漕手を廃することでその分兵を乗せることができます。同じ形式の小早よりも戦う能力は高いと存じます」


「ふむ・・・。まあ、水軍はお主に任せておる。良きにはからうが良い」


 重秀にそう言った秀吉であったが、気になることを思い出した。さっそく重秀に尋ねる。


「して、水夫共は大事無いのであろうな?」


「・・・一応、櫂や艪の扱いに慣れた者達を集めておりますが・・・」


 渋い顔をしながら答えた重秀にも、秀吉の懸念は理解できた。


 羽柴水軍の構成員は実に雑多であった。菅浦、長浜、大浦、塩津から来た船乗り達は重秀と共に琵琶湖で船に乗っていたということもあり、信頼の置ける者達ばかりであったが、数が少なかった。合わせて70人くらいしかいなかったのだ。しかもこの者達は琵琶湖は知っているが海は知らぬ者達がほとんどであった。

 他にも前野長康や蜂須賀正勝麾下の舟手衆が参加していたが、彼らはいわゆる川並衆であり、木曽三川で腕を鳴らした連中であったが、海をあまり知らない者達だった。強いて言うならば、長康麾下の川並衆は越前一向一揆平定戦で若狭水軍と行動を共にしていたが、海での経験はそこまでだった。しかも人数は200人を超えない人数であった。

 残りは摂津で募集した水夫と、藤堂高虎の下、琵琶湖で鍛錬を積んだ雑兵や報酬目当てでやってきた百姓の次男坊、三男坊、そして摂津にいた旧荒木の足軽がほとんどであった。


「人数は確保してありますが、雑多な分、統一された動きができませぬ。今は何とか船内での役目を果たせるようにはなりましたが、船同士の連携は未だに・・・」


 ますます渋い顔をしながらそう述べる重秀に対し、秀吉はいかにも軽い感じで話しかける。


「まあ、人というものは同じ釜の飯を食ってりゃ仲良くなるものじゃ。儂も若い頃はよぉ人様の屋敷にしれっと入り込んで飯を食うては仲良うなったものじゃ。生駒屋敷でそれをやったら、生駒のお嬢様(吉乃のこと)に夜這いした後の上様に出会うてのう。それで仲良うなり、仕えるようになったのじゃ」


「父上何やってんですか!?ってか上様も何やってんですか!?」


 秀吉のカミングアウトに思わず声を上げた重秀。秀吉が「懐かしいのう」と遠くの空を見ながら呟いているのを見て呆れ果てた重秀は、咳払いを一つすると話をし始める。


「・・・まあ、船同士の連携については、琵琶湖でやっていた旗振りを使った伝達方法をしっかりと教え込みますし、船内での伝達方法である太鼓や鐘の音色の聞き分けをしっかりと鍛錬させまする。あと、狼煙や銅鏡を使っての連絡方法なんかも考えております」


「うむ、頼んだぞ。報せを怠るなよ?」


「分かっております」


「正直に話せよ?お主が戦場に出たいと思うあまり、鍛錬不足なのに偽りの報せで水軍を率いて戦場に出ようと思うなよ?」


「さ、さすがにそのようなことは・・・。しかし、もしそうなった場合は私は如何すればよろしいのですか?」


「鍛錬を続ければ良い。此度の戦には間に合わないやも知れぬが次の戦では鍛錬をこなした我等の水軍が武功を立てるやも知れない」


 秀吉がそう言うと、自分よりも背の高くなった重秀の目を見上げるように真っ直ぐ見つめながら諭すように話す。


「藤十郎よ。そなたが武功を挙げんと戦に出たい気持ちはよう分かる。武士として育てられた以上、その想いは当然よ。しかしな、鍛錬不足の者が戦に出ても役に立たずに死ぬだけじゃ。それでは面目の立ちようもないし、世間の者共からは愚か者として笑われてしまう。一時の恥を忍び、後日大功を挙げることも武士としての立派な道じゃ」


 そう説得する秀吉に、重秀はただ頭を下げるのであった。





 それからというのも、重秀は連日水軍の鍛錬に付きっきりとなった。兵庫城には帰らず、水夫達と共に兵庫津の水夫達が過ごす長屋の側にある寺を借りると、そこから長屋や船へ通う生活を始めた。伝承によれば長屋で朝食を摂っている水夫の夫婦や家族の中にしれっと入り込んで共に食べていたと言われているが、彼の記した『長浜日記』によれば、ちゃんと寺で朝食を摂ってから長屋や船に行っていたらしい。

 そして船の上では積極的にコミュニケーションを取って水夫や将兵との意思疎通を行っていたようだ。実際、『長浜日記』では彼の乗る船は日によって異なり、ほぼ全ての船に乗っていたことが分かっている。と同時に、羽柴水軍の軍船の名前が後世にまで伝わっている。この時代の船の名前が資料に残っているのは珍しい。


 鍛錬を続ける羽柴水軍。と同時に『村雨型』や『松風型』に不満や不備に対する水夫や将兵達からの声が上がり始めた。重秀はその意見を船大工と共にまとめると、次の関船や小早の設計に取り入れられていった。また、簡単な改造がなされていった。

 戦法についても多くの意見が出された。戦法と言えば『秀吉の両兵衛』と言われた竹中重治と黒田孝隆なのだが、二人は水上戦については書物では知っているものの、実戦をしたことはなかった。特に重治は岐阜の山奥の出身。海なんて知る由もなかった。

 しかし、重秀は重治と共に水上戦の戦法を考え出していた。書物とは言え水上戦の戦法を知識として知っていた重治が重秀に全面的に協力したのだった。また、播磨攻めの際に使えそうな戦法も編み出すことができた。

 さらに、重秀は福島正則や加藤清正、加藤茂勝や大谷吉隆、井上利助や田村保次郎にも意見を求めたし、中には水夫や兵達からも意見を聞いた。これは陸の軍勢ではありえない話であったが、重秀はそんな常識に囚われることはなかった。

 恐らくだが、『板子一枚下は地獄』と言われる船上生活を共にした重秀は、将兵や水夫との間の垣根を取らなければ海の上では生きていけないことを知ったのかも知れない。また、菅浦を始めとした琵琶湖の舟手衆や塩飽の船乗りの話から、舟手衆が皆で集まって物事を決めていたことを知っていたことが影響にあるのかも知れない。





 天正六年(1578年)八月下旬。淡路島の東側の海域から木津川河口、堺周辺海域を航行している毛利の輸送船や村上水軍の軍船、堺へ向かう塩飽の船が、この海域では見たことのない船と遭遇していた。

 これらの船は大型の小早か関船で、必ず2〜4隻で航行していた。小早の方は三角形の帆を張り、毛利や村上の船の船を付け回していた。攻撃すること無く付いてくるものの、怪しい船であったため護衛の小早が追い払おうと近づくが、三角形の帆を持った小早はさっさと逃げ出していた。しかも、横風や向かい風でも艪を使うこと無く航行していたため、追い風以外では艪漕ぎの小早で追いつくことは難しかった。

 さらに、兵庫に新しくできた南蛮寺(カトリック教会のこと)に赴任した伴天連が、イエズス会の本部に以下のような報告書を送っている。


『兵庫には今までこの国には無かったガレアス船が建造されている。日本人は自らの力でガレアス船を運用している』


 ここで言うガレアス船とは恐らく羽柴の関船であろう。


 何はともあれ、天正六年の秋、兵庫にて羽柴水軍は誕生した。この小さな水軍が、歴史にいかなる影響を及ぼすかは、この時は誰も知る由はなかったのであった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 沿岸海軍として順調ですね
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