第125話 兵庫城(後編)
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秀吉の話によれば、別所長治の叔父である別所吉親は織田から寝返る際に散々信長と秀吉をコケにしたらしい。
別所家は元々赤松家の庶流である。赤松家は村上源氏を祖とする播磨の豪族であった。この豪族を日本の歴史の表舞台にのし上げたのが、赤松円心であった。
円心の南北朝時代の活躍は数多くの歴史書で描かれているのでここでは割愛するが、とりあえず室町時代、赤松家は播磨、美作、摂津、備前を有する巨大な守護大名であった。
そんな赤松家の庶流である別所家は、赤松家の下で播磨守護代として東播を代々支配してきた。そんな別所家にとって、尾張守護代の家老職の家である織田弾正忠家出身の信長や、それこそ氏素性の知れない秀吉などは別所家にどうこう言える立場ではない、と吉親は主張した。
更に、ご先祖の円心の戦上手を殊更持ち上げると同時に信長や秀吉の戦術を批判するなど、やたらと信長と秀吉、特に出自の低い秀吉を下げに下げまくったのだった。
「儂ぁ別に山城(別所吉親のこと)の奴が言ったことに腹は立てん。真のことだからじゃのう。許せんのは藤十郎のことまで馬鹿にしおったことじゃ」
秀吉はそう言うと、重秀の顔をじっと見つめた。
「上様の養女を嫁に迎え、羽柴の嫡男として武功を挙げるお主まで馬鹿にしおったわ」
悔しそうな顔をしている秀吉を、重秀は黙って聞いていた。
「それ故、お主にはできる限りのことをしてやりたい。領地や銭はもちろん、学問も良きものをお主に与えたい。それ故、参議様(日野輝資のこと)や頭弁様(広橋兼勝のこと)に教授をお願いしたのじゃ」
「なるほど・・・」
重秀はそう言うと、父親の心情を慮った。そして平伏すると秀吉に言う。
「父上の心情、この藤十郎確かに承りました。父上の無念は我が無念。必ずや学問を修め、上様や殿様の下で武功を上げ、武家羽柴家の家名を上げてご覧に入れます!」
重秀の言葉に、秀吉は嬉しさのあまり涙を流した。
「藤十郎!おみゃーは儂には勿体ない息子ぎゃ!よくぞ、よくぞ申した!そうよ、羽柴の家はお主から始まるのじゃ!」
尾張訛りを隠そうとせずにそう言うと、重秀の方をバンバンと叩きながら更に声を上げる。
「案ずることはないぞ!儂が、お主を立派な侍にしてやるからのう!全ては儂に任せい!」
そう言う秀吉に対して、重秀は緊張した面持ちで「ははぁ!」と平伏するのであった。
次の日、兵庫城の本丸御殿にある表書院にて、秀吉と重秀は千宗易から茶の湯の稽古を受けていた。
昨日の事があったからなのだろうか、重秀の茶の湯の学びは真剣そのものであった。試しに行われた作法では、あまりの見事さに、いつもなら揚げ足を取る山上宗二が口を挟まなかったほどだった。
「・・・見事なお手前でございましたな、藤十郎殿」
宗易の言葉に頭を下げる重秀。そんな重秀に宗易が更に話しかける。
「基本はもちろん、客を第一に考えた茶をお出しなされた。もはや藤十郎殿の茶に文句を言う者はおらぬでしょう」
そう言って重秀を褒めた宗易であったが、直後、厳しい顔つきになるとじっと重秀を見つめた。重秀はこの時、前に福島正則が宗易のことを「恐ろしい」と言った意味を分かったような気がした。
宗易は言葉を続ける。
「しかしながら、作法は申し分のないものでございましたが、それは私めが教えた作法のままでございます。それでは、猿真似と言われても致し方ありませぬ」
唖然とする重秀に、宗易はさらに畳み掛ける。
「藤十郎様は安濃津で建造した虎船の如き独自の面白き考えが出来るお方でございます。その創意工夫を、何卒茶の湯でも発揮していただきとうございます」
「と、虎船?」
宗易から予想外の言葉を聞いた重秀が思わず口に出した。宗易が再び話し出す。
「はい。来たる七月十七日に堺の湊に九鬼様率いる大安宅船の船団八隻が到着いたしました。今まで見たこともない巨船に、堺の者共は大騒ぎにございました。その中で、上総介様(織田信包のこと)の船が虎模様となっており、堺の者達は大変感心しておりました。しかも、その考案者が藤十郎様だと水夫たちが言っておりました故、藤十郎様の数寄者ぶりを褒めそやす者達も多くおりました」
「いや、あれは父上の発案でして・・・」
そう言おうとした重秀を秀吉が小突いた。
「阿呆。そういう事は己の手柄にしておけ。何、儂の武功に比べれば、その様な事は些末なことよ。別に藤十郎のものにしても痛くも痒くもないわ」
そう言いながらも堺の者達に藤十郎の名が知れ渡って嬉しいのか、顔はニヤついていた秀吉であった。そんな秀吉を横目で見ながら、さらに宗易が話しかける。
「しかも、長岡の与一郎様(長岡忠興のこと)と共に百人一首のカルタをお作りとか。その様な創意工夫ができるのであれば、きっと藤十郎様の茶の湯は天下に知られるものとなりましょう」
宗易の言葉に重秀や秀吉、そして宗二までも唖然となった。しかし、すぐに秀吉の笑い声が部屋に響いた。
「あっはっはっ!カルタというのはよう分かりませぬが、我が愚息をそこまで褒めて頂き恐悦至極!儂も鼻が高いというものでござる!」
―――藤十郎め。儂に報せずそんなものまで作っておったのか―――
秀吉はこの時、重秀の欠点を見つけた気がした。重秀は内政や戦など、秀吉から仰せつかった役目については相談や報告をしっかりと行っている。しかし、自分がプライベートでやっていることや、秀吉から言われた役目以外の役目について、秀吉に話したがらなかった。カルタの件もそうだが、前の塩川の姫君を信忠に会わせたことだって秀吉に言っていなかった。
―――まったく。儂に隠れて何をやっておるのか。いや、隠そうという気はないんじゃろうが、どうもこっちから聞かないと己のことを話したがらないのう―――
そう思いつつも秀吉は、話題を変えようと宗易に話しかける。
「宗匠、兵庫城の茶室のことなのじゃが・・・」
秀吉の問いかけに宗易が「はい」と頷いた。秀吉が更に尋ねる。
「真に『御座所』だけでなく、『本丸御殿』にも作っていただけるのか?儂としては上様が逗留される『御座所』に作ってくれるだけでもありがたいのだが・・・」
「はい。信春に多大なる報酬を持って本丸御殿の障壁画を任せてくださいました。その御恩に報いるには、『御座所』だけではなく本丸御殿にも茶室を作らせて頂きとう存じます」
そう宗易が話すと、重秀が申し訳無さそうな顔をしながら宗易に話しかける。
「あの、宗匠。茶室を造る場所がもうないのですが・・・」
兵庫城本丸の半分以上が『御座所』であり、残りのスペースを本丸御殿と庭園、そして天守台で分け合っている。さらに茶室(ここで言う茶室とは草庵風茶室のことである)を立てるスペースはほぼ無くなっていた。
そんな懸念を説明した重秀に対し、宗易は上品に笑いながら答える。
「ご心配にはいりませぬ。この宗易の全身全霊をかけて兵庫城本丸御殿に相応しき茶室を拵えてご覧に入れまする」
そう言うと、宗易は秀吉と重秀に平伏した。そして、つられるように宗二も平伏するのであった。
宗易達との茶の湯が終わった後、表書院には秀吉と重秀が残っていた。そこに、竹中重治と黒田孝隆、前野長康と山内一豊が入ってきた。
「よし、揃ったな。ではこれより播磨攻略の説明を藤十郎に致す」
秀吉が兵庫城に来たのは、もちろん宗易達を出迎えたり会談するためであった。しかし、それ以外にも目的があった。それは、重秀に今後の予定を聞かせるためであった。
「まず、藤十郎に言わなければならぬことがある。九月には播磨へ兵を発する、というのは聞いておるな?」
「はい。小一郎の叔父上から聞いております。・・・しかしながら、ちと急な話ではございませぬか?もう少し後、今年の冬くらいになると思っておりましたが」
重秀がそう言うと、秀吉は渋い顔になりながら答える。
「儂もそのつもりであったのだがのう・・・。どうも毛利が上洛の軍を起こすらしい」
秀吉の言葉に重秀が「ええっ!?」と驚いた。側にいた孝隆が口を開く。
「実は先日、姫山城(のちの姫路城)の我が弟(黒田利隆。のちの黒田利高のこと)から密使が来まして。毛利輝元が自ら兵を率いて公方様(足利義昭のこと)と共に攻めてくるとの報せが入ってきました」
「輝元めが率いる兵力は五万とも八万とも言われておる。そんなのが播磨に攻めてくれば、播磨に潜んで織田と内通している者共は完全に毛利に飲み込まれる。その前に、なんとしても姫山城を奪取するのじゃ」
秀吉が力強くそう言うと、重秀以外の者達が力強く頷いた。
「姫山城を取れば、事前に内応している鶏籠山城と置塩城の赤松家もこちらに寝返ることは、非才な私にも分かります。ただ、それだけで毛利の大軍を防げるのでしょうか?」
重秀がそう疑問を口にした。それに対して答えたのは秀吉ではなく孝隆であった。
「鶏籠山城と置塩城は堅牢な山城故、落とすのは剣呑でござる。それに、備前と美作には宇喜多がおります故」
「宇喜多ですか?あれは毛利の味方ではございませぬか?」
「その宇喜多が動けぬ可能性が高くなってきたのです」
重秀の疑問に、今度は重治が答えた。重治は更に解説する。
「実は、京からの報せによれば、浦上遠江守(浦上宗景のこと)が京より備前に向かったとのこと。恐らく、宇喜多に対して蜂起する模様です」
「どうも遠江守は上様の支援が思うように得られなかったことにしびれを切らしたらしい。独自に備前を奪還するつもりじゃ」
重治に続いて話した秀吉の説明に、重秀は納得した。
「首尾よく浦上が反乱を起こせば、宇喜多も毛利も備前に釘付けになるでしょう。いや、宇喜多が怪しい動きをすれば、備前は三つ巴の戦いになりましょう。播磨にかまってられなくなると思われます」
孝隆の発言に重秀は考え込んだ。もしそうなれば、毛利は備前で足止めを食らうことになる。
「・・・では、その様になるよう、宇喜多と浦上を煽りますか?」
重秀がそう言うと、重治が「それはなりませぬ」と反対した。
「宇喜多をも調略にかけるとなれば、所領安堵を認める必要があるかと。しかし、双方に所領安堵を約束しては、双方に良い顔をした我等の信頼が無くなり、また毛利に靡かせる事になりましょう。相手の信を失わせる調略は控えたほうがよろしいかと」
重治がそう言うと、孝隆も「竹中様の考えに同心致します」と頷いた。
「ここは静観するがよろしいかと。仕掛けるにしても、宇喜多と毛利の仲を裂くような噂を流すだけでよろしいかと」
孝隆の話を聞いた秀吉が、膝をポンっと叩くと、声を上げた。
「よし、備前に関しては官兵衛の言うとおりにしよう。官兵衛は播磨の調略で忙しいから、備前に関しては半兵衛に任せよう。良いな?」
秀吉が尋ねると、重治が頷く。
「了解いたしました。摂津防衛の策はすでに立てておりますれば、さっそく備前への工作を始めまする」
重治がそう言って平伏した。それを見た秀吉が、今度は話題を変えた。
「さて、播磨攻略時の兵力だが、我等だけではなく上様からの援軍が来ることになっておる。すでに、目付として久太(堀秀政のこと)が来ることは決まっておる。また、丹波より尼子勢が来ることになっておる」
永禄九年(1566年)、尼子義久が毛利に降伏した。結果、月山富田城が毛利方に引き渡され、戦国大名尼子家は滅亡した(義久は助命されている)。しかし、この滅亡した尼子家復興に命をかける者がいた。山中幸盛、通称山中鹿介である。
三日月に向かって「我に七難八苦を与えよ!」と祈ったという逸話で有名な幸盛については、すでに知ることであるから敢えてここでは書かない。ただ、出雲や因幡、隠岐で縦横無尽に毛利を引っ掻き回していた幸盛も、この頃には主君として担ぎ上げた尼子勝久と共に信長の庇護を受けていた。
しかし、信長の下で燻っているような幸盛ではない。共について来てくれた仲間達と共に信長の戦いに参加、武名を上げていった。
具体的には明智光秀の与力として丹波平定に参加。また、松永久秀が謀反を起こし、信貴山城に籠もった時も光秀の麾下で戦っている。特に幸盛は一騎打ちで松永配下の武将を討ち取っている。
「尼子勢を実質率いている山中鹿介とやらは毛利への復讐に並々ならぬ決意を持っていると聞く。毛利と直接対決できると思い、日向殿や上様に羽柴への配置換えを願い出ていたらしいが、それが認められたのじゃ」
秀吉がそう説明すると、重秀は首を傾げながら聞く。
「しかし、そんな勇猛果敢な軍勢を日向様はよく手放されましたね。まだまだ丹波平定は終わっていないでしょう?」
重秀の言葉に、秀吉は「ああ、藤十郎は知らなかったか」と言いながら納得したような顔をした。
「兵庫に来る直前に報せが入った。丹波黒井城に籠もっていた赤井忠家が逃亡したようじゃ。すでに黒井城は我が方の手ぞ。まあ、まだ落ちておらぬ赤井方の城はあるが、ほぼ平定は済んだと言えるじゃろうな」
秀吉の解説で納得したような顔をした重秀であった。秀吉がさらに話を進める。
「他にも援軍が来ることになっておる。これらをまとめて、およそ八千の軍勢で播磨に攻め込む」
「八千・・・ですか」
重秀があからさまに不安そうな顔つきで呟いた。その呟きを聞いた秀吉が重秀に聞く。
「なんじゃ、不安か?」
「はい。毛利の事を考えると、数は少なすぎではないかと」
重秀が秀吉にそう言うと、秀吉ではなく孝隆が重秀に答える。
「先程申し上げましたとおり、毛利については備前を騒がせることで足止めを食らわせます。また、播磨での調略も進み、毛利方の城も早急に落とすことが可能です。八千でなんとかなるかと存じます」
更に秀吉が話を続ける。
「それにじゃ。上様から播磨への出陣の許可をもらいに安土に行った際、上様より援軍を約束されておる。殿様を総大将に、三万の軍勢を我等に使わすとおっしゃられておった」
それを聞いた重秀だけでなく、一豊や長康も「おお」と感嘆の声を上げた。秀吉が口を開く。
「話を進めるぞ。九月になったら、小一郎の率いる別働隊が淡河城を攻める。これは陽動じゃ。三木城の別所勢を他へ向かわせぬようにするためのものじゃ。そして儂が率いる主力が兵庫より西国街道を西に向かう。街道沿いの城を攻め落とし、最終的には姫山城へ向かう予定じゃ」
秀吉の解説を聞いた重秀は納得したかのような表情を浮かべた。そして、肝心なことを秀吉に聞く。
「して、私めの役割は」
そう言った瞬間、秀吉は狼狽えたような表情を顔に浮かべ、黙り込んでしまった。何度か口を開いたり閉じたりして、何かを話そうかとしていたが、それが言葉に出てこなかった。しばらくそうしていると、秀吉は視線を重治に向けた。
「なあ・・・。やっぱり言わなければならんか?」
「殿。何を躊躇っておられるか。この役目、若君以外になせるものはおりませぬ」
重治が毅然とした態度でそう言うと、秀吉は躊躇いつつも重秀に言う。
「藤十郎。そなたには水軍大将として水軍を率いてもらいたい」
「・・・承知いたしました。しかし、何故父上は私めが水軍を率いるのに躊躇われたのでございますか?」
不思議そうな顔で秀吉を見つめる重秀に対し、答えたのは重治であった。
「まだまだ発展途上な羽柴水軍です。百戦錬磨の毛利水軍や村上水軍は言うに及ばず、高砂城の梶原水軍にすら勝てるかどうかもわからない我が方の水軍では、若君をお護りすることは難しい、と殿はお考えです」
重治の言葉に秀吉が渋い顔をした。秀吉からすれば、唯一の嫡男に脆弱な羽柴水軍を指揮させるのは心もとない。かといって他に水軍を指揮する人材はいない。陸戦だが実戦経験のある脇坂安治は『龍驤丸』で木津川河口の封鎖に参加しているし、福島正則や加藤清正など他の者は若くて指揮を取らせるには経験不足だ。
その点、重秀は若いながらも部隊の指揮を取った経験はあるし(但し補佐つき)、琵琶湖での水戦の研究も率先して行った。そして何と言っても羽柴の嫡男である。水軍の頭になりそうなのは重秀しかいなかった。
「・・・正直、此度の戦では水軍を出しとうないのじゃが・・・」
「しかし、西国街道を西進する我等の側面を海から攻められては、色々厄介でございまする。そこで、若君率いる水軍は、斥候と海岸警固をお願いしたいのです」
「父上の主力軍の側面を守るのでございますね?」
重秀がそう言うと、重治が「ご明察です」と言った。
「本当は船を使っての兵糧物資の輸送もお願いしたいのですが、船を使うよりも陸路を使ったほうが危険は少ないので」
「分かりました。では兵庫津の船を徴用するのは控えたほうがよろしいですね」
重秀がそう言うと、重治だけではなく秀吉も頷いた。
「うむ。あくまで水軍は斥候と警固のみとする。藤十郎、手柄を立てんと、あまり無理はするなよ」
秀吉の言葉に、重秀は「承知仕りました」と言って平伏したのだった。