第120話 龍驤丸
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本来、2/25に投稿したのが2/27に投稿予定の話で、今週火曜日は投稿する予定ではなかったのですが、投稿ペースを調整するため、今週火曜日にも投稿させていただきます。
天正六年(1578年)五月下旬。重秀は福島正則、加藤茂勝、脇坂安治、松田利助、竹本百助、井上成蔵らを引き連れて伊勢国安濃津を訪れていた。岳父の一人である織田信包から、大安宅船とフスタ船が完成したという報せが入り、それを見に来たのだった。
ちなみに、加藤清正は兵庫城での作事作業に携わっており、また、大谷吉隆は浅野長吉と共に検地に携わっていたため、ここにはいなかった。
「・・・でかいな・・・」
大安宅船を見た重秀が思わず呟いた。正則達もその大きさに圧倒されていた。全長十八間(約32m)、幅六間(約10m)、総矢倉は4層という大きさは、琵琶湖に浮かんでいる安宅船『菅浦丸』『大浦丸』『塩津丸』を上回る大きさであった。
「大きさもさることながら、羽柴と九鬼、そして安濃津の船大工の腕と知識を集結させたものとなっておりまする」
現場の総監督として指揮を取っていた信包の家臣で船奉行の高坂松次郎が自慢げに重秀達に説明していた。自分の指揮でこれだけの巨大な船ができたことが誇らしいのだろう。その顔には喜びと誇りの表情が浮かんでいた。
「船体部分は竜骨と肋骨(肋材のこと)で強化しております。これなら、小早どころか関船に体当たりをしても十分耐えられまする」
「り、竜骨?」
重秀が聞き慣れない単語に思わず反応した。高坂が説明をする。
「元々唐船のカワラ(船底の板のこと。船首から船尾まで貫くように使われている)のことを唐の国(今の中国。当時の明王朝)では竜骨と呼んでおりました。羽柴様が船底の一本角材を『背骨みたいなもの』と言っていたので、我等は竜骨と呼ぶようになりました」
「な、なるほど」
そう言いながら、重秀は興味深そうに大安宅船を眺めていた。
安濃津の港には大安宅船以外の安宅船も一応停泊していたが、大安宅船の形が他の安宅船と異なるのは一目瞭然であった。
まず、船首が他の安宅船と違っていた。安濃津の安宅船は『伊勢船』の特徴である『戸立造り』と呼ばれる箱型の船首であった。一方、大安宅船は一本水押が船首にあり、航行性能を高めていた。
また、安宅船は戦闘時には艪で進むため、帆柱を折り畳めるようにしているが、大安宅船は帆柱を船首付近と船中央に2本立てており、折りたたむことができないようになっていた。そして、他の安宅船が木綿布の横帆なのに対し、大安宅船の帆は木綿布に竹の骨組みを何段にも通した、唐船独特の帆―――いわゆるジャンク帆と呼ばれる縦帆を備えていた。
そして船尾には城にあるような瓦屋根の平櫓が建てられていた。普通の安宅船では船の前方、もしくは中央に建てられるものである。
「こうやって帆だけ見ると、なんだか唐船っぽく見えるな。しかし、唐船と同じ帆を乗せるとは思わなかったぞ」
「本当は羽柴様の言う通りに南蛮船と同じ三角帆をつけたかったのですが、あれ、下部が意外と場所を取るので邪魔なのです。その点、唐船の帆は下部を小さくしても帆の面積は小さくしないことができます故、唐船の帆をつけてみました。唐船の帆は三角帆と同じく横風や向かい風でも進もうと思えば進めますしね」
「へー、そうなのか。それは知らなかった。しかし、よく唐船の帆なんて知っていたな」
「安濃津の船大工は唐船の構造は知っております故、作るのも造作ないのです」
高坂の言葉に、重秀は「そうなのか?」と思わず聞いてしまった。そこで高坂が詳しく説明をした。
中国の明の時代に書かれた書物によれば、安濃津は『日本三津』の一つとして知られていた。本来、日本では三津といえば、筑前博多津、薩摩坊津、摂津堺津なのだが、中国では堺津ではなく安濃津が知られていた。
元々、室町時代に行われた日明貿易にて、日本の重要な貿易港は堺であった。そのため、中国の船は堺を目指して出港するのだが、そう上手くはいかなかった。
当時、明王朝の政策により、中国南部の広州が中国最大の貿易港となっていた。日本へ向かう中国の貿易船は広州から出港すると、まずは台湾を目指した。次に琉球へと向かうのだが、この時に黒潮に乗って北上した。黒潮は一部は対馬海流として九州の西を通り、博多の近くを通るので、中国の船も博多へ着くことが可能となる。一方、黒潮の大部分は日本海流として日本の太平洋岸に沿って北上する。そしてこの流れに乗った中国の船もまた、太平洋側の沿岸を東進する。そして室戸岬を超えたところで南風を捕まえて北上、紀伊水道を航行すれば堺に着くことができた。
しかし、室戸岬の先で船にトラブルがあったり、航海技術が乏しかったりすると、船は黒潮に流されて紀伊半島を超えてしまうことがある。そこで中国の船が代わりに目指したのが安濃津であった。紀伊半島を超えたところで北上し、安濃津へ向かうのであった。
さて、安濃津に着いた中国の船は船のトラブル、または長期航海で船が故障していることが多い。そこで安濃津の船大工に修理、もしくは整備を依頼した。なので安濃津の船大工は中国人の船乗りから唐船―――ジャンク船の構造を学んでいったのである。
「・・・ひょっとして、安濃津の船大工は唐船を作れるのか?」
「まあ、作ろうと思えば作れますが、作る必要性がありませぬなぁ」
説明を聞いた重秀の疑問に、高坂がそう答えた。
後世、西洋の蒸気船と戦って完敗したジャンク船が破壊される瞬間を描いた絵画のせいで、ジャンク船は弱くて脆い船というイメージがあるが、少なくともこの時代では西洋のガレオン船やキャラック船と言った外洋航行に優れた船と引けを取らないほど優秀な船であった。
ただ、日本で使用される船は沿岸を航行することがメインであったので、そこまでの外洋航行能力は必要としていなかった。そのため、安濃津の船大工も商人も敢えてジャンク船を作ろうとはしなかったのだ。
大安宅船に乗り込み、一刻ほど見学をしていた重秀に、高坂が話しかけてくる。
「羽柴様。実は我が殿より羽柴様にお願いがございまして・・・」
「お願い?安濃津城でお会いしたときには何も言われていなかったが・・・?」
首を傾げる重秀に、高坂が申し訳無さそうな顔をしながら話す。
「この大安宅船に名をつけていただきたいのです」
「え?私にですか?しかし、これは上総介様(織田信包のこと)の船ではございませぬか」
「まあ、そうなのですが・・・。実はこの船は上様の命により、羽柴で使うように言われました。なので、命名も羽柴でやってもらおう、ということに相成りました」
「ああ、そういうことか・・・」
―――変だと思ったんだよな。安土城で久太郎様(堀秀政のこと)から上意として『羽柴の船乗りを安濃津に集めよ』なんて言われたから、何かあると思ったのだが・・・。まさか大安宅船を下賜されるとは思わなかった―――
兵庫で水軍の育成に着手している重秀にとって、船はありがたいのだが、正直こんなデカい安宅船は必要なかった。というのも、仮想敵である毛利水軍とその中心である村上水軍は小早と呼ばれる小型船を多用し、スピードと連携で攻撃してくる水軍である。これに対抗するには、こちらもスピードと連携を重視した水軍とするべきだと考えており、そのための小早と関船代わりのフスタ船を建造中だったのである。安宅船も一応持つつもりであったのだが、それは琵琶湖に浮かんでいる『菅浦丸』『大浦丸』『塩津丸』と同程度の安宅船を考えていたのである。
―――まあ、あって困るようなものではないし、ありがたく頂戴するとするか。すでに小一郎の叔父上からは『安宅船に慣れた水夫を与右衛門(藤堂高虎のこと)に連れさせて安濃津へ送り込んだ』という報せも受けているしな。
・・・とすると、名前はどうするか・・・?―――
名前について悩むことしばし。重秀は頭の中で漢籍を始めとする書物の内容を思い出していた。そして、ある言葉を思い浮かべた。
「・・・『龍驤丸』というのはどうだろうか?」
重秀がそう呟くと、皆が「龍驤丸?」と声を上げた。重秀が説明する。
「『三国志』の『諸葛亮伝』にある言葉から持ってきた。意味は『龍が天に昇る』という意味だ。最初読んだ時は、何と素晴らしい言葉なのだ、と思ったものだ。それ以来、何かに使えないかと思っていたのだ」
「『龍驤丸』・・・。素晴らしい名前です。まさに、勢いのある羽柴を象徴する言葉ですな」
高坂の言葉に対し、重秀は「いや、その様に言われては自惚れているようで、かえって恥ずかしいですな」と照れながら言った。そんな重秀に、正則が話しかける。
「しかし兄貴よ。羽柴の船にするのであれば、虎柄にしなければならないんじゃねぇのか?兵庫で作られている小早やフスタ船は船体に墨で黒くした油を塗った銅板や鉄板を等間隔で貼り付けて、虎柄になるようにしているじゃねーか」
「うーん、さすがに今更貼り付けてもなぁ・・・。まあ、総矢倉にだけでも虎柄になるよう、鉄板を貼り付けておくか。それくらいなら今からでも遅くはあるまい。
・・・高坂殿、よろしいですか?」
重秀の質問に、高坂は「承知いたしました」と答えた。
「よし、次に安濃津で作られたフスタ船を見に行こう」
重秀がそう言うと、皆は頷いた。そして重秀達は『龍驤丸』から降りたのだった。
安濃津の港に係留してあるフスタ船は2隻あった。2隻共に同じ型であり、同型船と言っても良かった。
船体は一本水押で細長く、如何にもスピードが出そうな形をしていた。船首には体当たり用の角である柱が備わっていた。ただ、南蛮船っぽい部分はそれだけで、船の前方と中央に立てられた帆柱にはジャンク船と同じ様な帆が張っており、船側から出ているのは櫂(オールのこと)ではなく艪であった。俗に脇艪と呼ばれる艪は、左右の船側からそれぞれ5本づつ出ていた。
「・・・『淡海丸』や『細波丸』とちょっと違うな」
「三角帆と櫂でないだけで、それ以外は同じです」
重秀の呟きに高坂が即答した。重秀が更に聞く。
「櫂でなくて艪にしたのは何故だ?」
「唐船の帆を試しに張ったら、横風や向かい風でも進もうと思えば進めるようになりました。お陰で櫂で漕ぐ必要がほぼ無くて。まあ、湊の岸壁に寄せるために細かい操作をするために艪にいたしました」
「ということは、帆走だけで目的地まで行けるのか?」
「はい。少なくとも、尾張の熱田までは。ただ、熱田までは数え切れないほど行ってますからな。潮や風はすべて把握しておりますし、沿岸の地形を見なくても迷うことはありませぬ」
「ということは、水夫はそれほど要らないことになるな」
「ええ。廻船商人達が色めき立っておりました。『水夫を乗せない分、荷物が多く積める!』と。すでに商人のうち何人かが建造と所有の許しを求めております。ただ、これらの船はまだ検証してみないと海で使えるかどうか分かりませぬ故、当分は船奉行たるそれがしの下で運用いたしますが」
そんな説明を高坂から受けた重秀達は、フスタ船にも乗り込んだ。確かに、高坂の言う通り、琵琶湖に浮かんでいるフスタ船っぽい船と同じ構造をしていた。重秀が船の内部を興味深く見ていると、高坂が何かを思い出したかのような顔をしながら重秀に話しかける。
「そういえば、フスタ船の名前なのですが・・・」
「それも私に付けろと?」
「いえ、すでに船大工達の総意で決まっております。『赤鯨丸』と『黒鯨丸』です」
「ええ・・・」
重秀が思わず嫌そうな顔をしながら声を出した。高坂が笑いながら説明する。
「殿(織田信包のこと)より下賜された『琵琶湖の鯨肉』に船大工達がえらく気に入りましてな。その味と琵琶湖に南蛮船を浮かべた長浜の船大工に敬意を評して、『赤鯨丸』と『黒鯨丸』と付けたようでござる」
高坂の発言に、重秀は「そ、そうか」と苦笑いするしかなかったのだった。
その日の夜。安濃津城に戻った重秀達は、織田信包主催の酒宴に参加していた。酒宴には信包の他、分部光嘉や河北藤元、細野藤敦といった重臣たちも参加していた。
「いやいや、藤十郎様のご活躍はこの伊勢にも轟いておりますぞ」
「左様左様。摂津の荒木攻めでは、調略で高山右近殿や能勢家を下し、花隈城では本丸への一番乗りを果たしておられる。大姫様(主君の長女のこと。ここでは縁を指す)の婿として実にふさわしいお方ですなぁ」
光嘉と藤元がそう言い合って重秀を褒め称えた。信包も上機嫌で酒を飲みながら話に加わる。
「全くだ。摂津での活躍は織田家中でも評判になっている。女婿の活躍で儂も鼻が高いというものよ。我が嫡男(のちの織田三十郎信重)も見習って欲しいものよ」
「・・・そう言えば、上総介様の若君は今は殿様(織田信忠のこと)の小姓を勤めておられるとか」
重秀がそう聞くと、信包が鷹揚に頷いた。
「うむ。殿の下で忠勤に励んでおる。前年の摂津の平定では岐阜城に居残りであったからな。残念ながら初陣というわけにはいかなかった。
・・・ああ、そうそう。来年には元服し、その直後に津川治部様(津川義近のこと。前の斯波義銀)の娘御と婚姻を結ぶことになっている。婿殿も宴には参加してもらいたい」
「はっ。喜んで」
重秀がそう言って頭を下げたときであった。それまで黙って酒を飲んでいた藤敦が口を開いた。
「時に羽柴殿。昨今の織田の情勢をどう見ておりますかな?」
藤敦の言葉に、酒宴の空気が変わった。信包が咎めるような視線を藤敦に向け、光嘉と藤元が実の兄である藤敦に複雑な感情を込めた視線を送った。
こうなるのは仕方のないことであった。天正五年(1577年)の正月に藤敦は信包に対し、謀反を起こしていたのだ。この謀反は滝川一益の仲介で短期間で集結し、藤敦は再び信包に仕えたのだった。しかし、信包は謀反を起こした藤敦を信用はしていなかった。
このことは当然重秀も知っていた。しかし、ここで諍いを起こす気が全くない重秀は、さも今日の天気でも話すかのような口調で話し始めた。
「昨今の織田家は、天に愛されているかの如き勢いにて。三月に不識庵(上杉謙信のこと)が亡くなり、その跡目を巡って上杉家中では不穏な動きがあるとか。しかも、越後の背後にいる蘆名が越後を狙う動きを見せているとも聞いております。少なくとも、年内は上杉は安定しないでしょう。つまり、北国においては佐久間様が動けば加賀、能登、越中は織田の支配下に置かれるものと考えまする」
「ほう。不識庵が死んだことは儂等も知っているが、上杉がそこまで弱体化するのか・・・」
「ただ、佐久間様に動きがないのが気になります。兵庫からこちらに向かう途中、安土に寄った際に堀様(堀秀政のこと)から伺ったのですが、北ノ庄城では出陣の様子が全くないとか。上様から加賀平定の命が出されているはずなんですが」
重秀がそう言うと、信包達は互いに顔を合わせた。なんと言って良いのかよく分からない様子だった。重秀が空気を変えるべく、別の話をする。
「五月に入って丹波八上城に籠もっていた波多野が降伏しました。その後波多野兄弟(波多野秀治、秀尚、秀香のこと)は安土で処刑されたと聞いております。与一郎殿(長岡忠興のこと)からの文では、丹波氷上郡にある黒井城を攻めるべく、全軍が氷上郡に入ったとの報せを受けております。早晩、惟任日向守様(明智光秀のこと)や兵部大輔様(長岡藤孝のこと)の軍勢によって丹波は平定されるものと存じます」
重秀の説明に信包達が「おおっ!」と声を上げた。そんな中、藤敦が重秀に尋ねる。
「筑前守様の方はどうなっておりますかな?播磨の調略は進んでおるのですかな?」
「四月に三木城の近くにある丹生山の明要寺を父上自らが攻め落としております。そして近くにあった丹生山城を接収し、現在は加藤作内殿(加藤光泰のこと)が城を再建しております」
波多野家の縁者である別所長治へと牽制として、秀吉は自ら明要寺を陥落させると、寺を焼き払い、逃げ出した僧侶や稚児を根切りにしてしまった。丹生山の近くに稚子ヶ墓山という山があるが、この時に殺された稚児達の墓が名前の由来とされている。
その後、明要寺の近くにあった丹生山城という廃城(南北朝時代の城である)を再建し、三木城や淡河城の監視に使っていた。
重秀による織田家の状況説明は酒宴を盛り上げた。上杉謙信という巨大な敵がいなくなり、丹波も平定されたことで皆の心に余裕ができたせいか、その日の酒宴は穏やかなものとなった。
注釈
中国の伝統的な船であるジャンク船には竜骨がない、と言われている。しかし、ここで言う『竜骨』とは、西洋帆船で見られる『キール(keel)』のことである。
そもそも、『竜骨』と『キール』は別物である。『キール』は船の土台としての役割以外に、帆船が風上に向けて航海する場合に横滑りしないよう、抵抗力をもたせる事が求められている。つまし、船外に飛び出していないといけないのだ(但し、オランダの帆船のように飛び出していないキールもある)。一方、ジャンク船の『竜骨』は、あくまで船底に使われる材料のことを指し、船外に飛び出してはいない。
『キール』と『竜骨』が同一視されたのは、『キール』の訳に困ったので似たような物である『竜骨』を当てたからとされている。
ちなみに、ジャンク船も西洋帆船と同じく風上へ向けて航海することができるが、この時に横滑りしないのは、巨大な舵と船体の横につけられた横舵と呼ばれるもので抵抗をつけていたからである。
注釈
地域によっては和船の船側の内側を補強する部分(いわゆる肋材)のことを竜骨と言う。