第119話 兵庫にて(後編)
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天正六年(1578年)三月下旬。兵庫津で新しい城の普請の指揮(と言っても実質的な指揮を取っていたのは前野長康であったが)を取っていた重秀の元に、花隈城にいた竹中重治がやってきた。
「半兵衛殿、如何なされましたか?」
とりあえず普請を指揮する陣所に戻った重秀が重治にそう尋ねると、重治は懐から書状を取り出した。
「長浜の小一郎殿からの書状でござる」
重治からそう言われて手紙を受け取った重秀は、手紙を開くと読み始めた。そして、読み進めるうちに眉間にしわを寄せていった。
「・・・上杉で跡目争い、ですか?」
重秀が重治にそう聞くと、重治は「左様」と言って頷いた。
「若君、不識庵(上杉謙信のこと)が三月上旬に急死したことはご存知ですね?」
「ええ。あの時は私も三田城に呼び出されて父上から直接聞きました」
「此度のことで織田にとって重荷であった北国の脅威はなくなりました。一方、毛利にしてみれば織田に二方面作戦を取れなくなったことで、織田の圧力を一挙に受けることとなりました」
重治の解説を聞いた重秀が「はい」と頷くと、重治は更に話を進める。
「ただ、不識庵が死んだだけでは意味がありません。その後継者が不識庵と同じ考えならば、上杉はまだ織田の脅威でした。しかし、長浜に集まった情報によれば、どうも不識庵の養子同士で家督争いが始まる気配がありそうです」
「不識庵には実子がいないと聞きました。ただ、養子についてはよく知らないのですが」
「不識庵の養子は姉の子である喜平次(上杉景勝のこと)と北条からの養子である三郎(上杉景虎のこと)がおります。それとあと二人いるのですが、これは無視して構いません。そして、家督争いをしそうなのが喜平次と三郎なのです」
「・・・血筋的に考えても姉の子が跡を継ぐのが筋なような気がしますが」
「若君の言う通りですが、そこには越後の国衆等の思惑が絡んでいまして。それに、三郎が北条からの養子となると、北条の思惑も絡んできますからね。そして、北条の同盟国の武田の思惑も絡んでくることになるでしょう。あ、ついでに陸奥の蘆名の思惑も絡んできますな」
「・・・ひょっとして、上杉は揉めに揉めますか?」
重秀の質問に、重治が可笑しそうに笑いながら答える。
「ええ、揉めに揉めますな。それがしが越後に近い所にいたら、引っ掻き回せるだけ引っ掻き回すのですがね」
「・・・それは北国を任されている佐久間様がなされるのでは?」
重秀がそう疑問を呈すると、重治は爆笑しながら答える。
「あっはっはっ!それは無いですな!そもそも、上杉で跡目争いが起きていることも知らなさそうですからな!」
重治の発言に、重秀が「ええ・・・」と声を上げた。重治が説明する。
「佐久間様は他国への諜報、調略をなされぬお方です。いや、しないと言うよりはできないと言うべきでしょうな。佐久間様自身は交渉事はお得意なのですが、家臣にそれができるものがおりませぬ。それに、加賀や越中の一向門徒に調略をしていない時点で論外ですな」
「あそこは百年近く一向門徒によって支配された場所。寝返る者がいないでしょう」
「殿や私なら寝返らせることはできますぞ。大体、一国の中で全ての者達が同じ考えになるわけ無いじゃないですか。いくら一向宗のお題目が共通だからといって、現実で生きていく中で摩擦が起きないわけが無い。しかも、上層部が法主(顕如のこと)の言うことをあまり聞きませんからな。隙をつくことなぞ造作もないことです」
重秀は「な、なるほど」と言って答えた。しかし、あることに思いが至ると、そのことを重治にぶつけた。
「半兵衛殿。もしかして、播磨へ調略を仕掛けたいのですか?何か、現状に不満でもおありなような物言いでしたので」
重秀の言葉を聞いた重治が一瞬だけ驚いたような顔をした。そして、後頭部を掻きながら話し始める。
「・・・正直申さば、若君の言うとおりでござる。現在、播磨への調略は官兵衛殿(黒田孝隆のこと)が担っておりますからな。不識庵が亡くなったことで、播磨の国衆に動揺が広がっておりますれば、今こそ調略を仕掛けていくべきかと存じまする」
「・・・思うのですが、父上が播磨の調略で官兵衛殿を重用するのは、官兵衛殿が播磨情勢に詳しいだけではないのではないでしょうか。むしろ、別のやり方で播磨を平定する方法を考える時間を半兵衛殿に与えているのではないでしょうか?」
重秀の言葉に重治が「ほう・・・」と呟いた。
「では、若君はそれがしに何をせよと申されるのか?」
「摂津の防衛及び播磨侵攻の作戦を立てることです」
重秀の即答に、重治に再び驚きの表情が顔に現れた。重秀が話を続ける。
「半兵衛様は今まで羽柴の戦において策を出す一方、調略も行ってきました。今、調略は官兵衛の手で行われておりますが、来るべき播磨侵攻の策を担っているとは聞いておりませぬ。また、毛利の後ろ盾を得ている別所や小寺が摂津に攻めてくる可能性はなくはないでしょう。その対応を半兵衛殿が担うべきなのではないでしょうか?」
重秀の言葉に唖然としていた重治であったが、少し経つと真面目そうな顔つきで頷いた。
「・・・若君の言う事、この竹中半兵衛、胸を打たれもうした。おっしゃるとおりです。それがし、どうやら官兵衛殿に役目を取られたことばかり気にして、自ら役目を探そうとは思ってもいませんでした。上様のため、常に役目を探さんとする殿からしてみれば、それがしはなんと不甲斐ない家臣だと思われるか」
「いや、そこまで自らを卑下しなくても。それに、私の補佐も重要な役目ですからね。私を無視しないで下さい」
重秀が心配そうにそう言うと、重治は「もちろんもちろん、分かっていますよ」と笑いながら答えたのであった。
重秀の仕事は兵庫城の築城と、摂津八部郡の検地、そして水軍の育成である。とは言え、弱冠十七歳の重秀には手の余る仕事内容である。そこで、有能な家臣団によって実務は行われていた。
兵庫城の築城は前野長康をトップに加藤清正が補佐について行われていた。検地については浅野長吉をトップに石田正澄と大谷吉隆が補佐についており、水軍の育成には脇坂安治をトップに加藤茂勝が補佐についていた。他にも、山内一豊と福島正則が陸上兵力の整備と鍛錬を行っており、尾藤知宣は八部郡内にいる零細国衆の取次を任されていた。
さて、そんな中、正則が陸上兵力の整備担当から外され、重治付きとなるよう重秀から命じられた。
「竹中様の下で、何をやれば良いんだ?兄貴」
「半兵衛殿には播磨からの侵攻に備えて、防衛の策を練ってもらう事となった。その補佐を市に頼みたい」
「お、俺がか!?」
正則は重秀から予想外の頼み事をされて困惑した。今まで自分は槍働きしかできない武将だと思っていたし、その事に不満どころか誇りすら持っていたからだ。
「市。市は言動が荒っぽくて槍の腕も優れているから、猪武者っぽく見える。が、実際のところは周りをよく見ることもできるし、意外にも、本当に意外にも冷静に物事を判断できる奴だ」
「若干言い方が気になるが、確かに虎や佐吉よりは気は長い方だぜ」
「そろそろ槍働きだけでなく、軍略も学んだほうが良い。いや、軍略を使いこなせと言うわけではない。軍略を知れば、相手が何を考えているか分かるだろうから、罠にかかることはないだろう。俺は市という有能な武将・・・いや、有能な義弟を阿呆な理由で失いたくないのだ。『三国志』とかの史書によくあるだろう?むやみに突っ込んで死んでいく出落ちの猪武者が」
「いや、よく知らねーけど・・・。まあ、兄貴がそういうんだったら兄貴に従うさ。半兵衛殿の下で、軍略とやらを学んでくるさ」
正則がそう言って請け負うと、重秀は「おう、頼んだぞ」と言って頷いた。
こうして、正則が重治と共に八部郡や有馬郡を縦横無尽に駆け巡っていた四月中旬のある日。重秀の元に2通の手紙が届いた。
1通は長岡忠興からで、京で百人一首カルタをプロデュースしてくれる商人が見つかったこと、その商人によって百人一首カルタが制作されていることが書かれていた。
重秀は羽柴のために百人一首カルタを5部作って欲しい旨、返事を書くと、傍に控えていた石田正澄に返事を届けるように頼んだ。
「さっそく手配致します。ところで、もう一通の文の返事は如何いたしましょうか?」
「ああ、これか。・・・そうだな、これを読んで、すぐに返事が書けるならついでに出してもらおうか」
そう言うと、重秀はもう1通の手紙を開いた。それは千宗易からの手紙だった。その内容は、今焼のプロデュースが忙しくて百人一首カルタのプロデュースができないことを詫びる内容と共に、長谷川信春という絵師を推薦する旨が書かれていた。
重秀が手紙を畳みながら「弥三郎」と正澄に声をかけた。
「明日は確か兵庫城の普請を見に行くんだったな」
重秀の質問に正澄が「御意」と答えた。
「では、その時に将右衛門殿(前野長康のこと)と虎(加藤清正のこと)と相談するか」
「・・・何をでございますか?」
正澄がそう聞いてきたので、重秀は千宗易からの手紙の内容を教えた。
「絵師を紹介したい、ですか?」
「長谷川信春という絵師を新しい城の障壁画作製に使って欲しいとのことだ」
「聞いたこと無いんですが」
「能登国は七尾の出身で、狩野一門にいたが飛び出して堺に出てきたところを宗匠に拾われたらしい。宗匠が言うには、水墨画と仏画が得意なんだと」
「なるほど。で、如何なされますか?」
「・・・正直言うと、気軽に作品を頼める絵師は欲しいところだ。ただ、兵庫城には御座所を造って上様をお迎えするやもしれぬから、そこは狩野派が望ましいんだよな・・・。ただ、狩野派は忙しいから、頼んでもこちらまで来てくれないやもしれぬ・・・」
「・・・これは将右衛門殿だけではなく、殿ともご相談した方がよろしいかと」
正澄の提案に、重秀は「そうだな・・・」と溜息をつきながら言った。
―――ただ、あの宗匠が推薦してくれた絵師。ひょっとしたら、良い腕の絵師なのかもしれないな。御座所はともかく、本丸御殿は任せても良いかもしれない―――
そう思った重秀は、とりあえず秀吉と相談する旨の返事をその場で書くと、その返事を正澄に託したのであった。。
天正六年(1578年)四月下旬。重秀は重治と正則を連れて有馬郡の三田城を訪れていた。父秀吉に呼ばれて三田城に来たのだが、すぐに秀吉と面会となった。
本丸御殿の広間には、秀吉の他に蜂須賀正勝・家政親子、仙石秀久、黒田孝隆、石田三成、増田長盛らが集まっていた。彼らが広間の左右に分かれて座っている中、重秀達は下座の中央で秀吉と対面していた。
重秀が兵庫城築城の進捗状況を説明し、また宗易の推薦した長谷川信春を本丸御殿の絵師に推薦した。
「・・・問題は、御座所の絵師はどうするか、ということです。やはり、狩野派に任せるべきなのか、というのは私と将右衛門殿と話しあっても結論は出ず、父上の判断を仰ぎたく存じまする」
そう言って平伏した重秀に、秀吉は「相分かった」と頷いた。
「御座所の建築は上様もご承知のこと。恐らく上様・・・いや、久太(堀秀政のこと)を通せば、狩野派を使うことは可能だと思うが、一応久太と相談してみよう。まあ、狩野一門には木村の息子(木村光頼のこと。のちの狩野山楽)がいるから、そっちからの伝手でも頼もうと思えば頼めるけどな。それよりも、藤十郎に話したき儀がある」
秀吉がそう言うと、重秀は「伺います」と姿勢を正しながら聞いてきた。秀吉が話を進める。
「日向殿(明智光秀のこと)と兵部大輔殿(長岡藤孝のこと)がいよいよ丹波八上城を攻めるらしい。そこで、八上城の波多野と縁戚関係にある別所を牽制して欲しいとの要請があった。そこで、儂等はどうやって牽制するかを話し合っていたところじゃ。丁度藤十郎や半兵衛も来ていたことじゃし、お主等の意見も聞きたいと思ってのう」
秀吉がそう言うと、重秀と重治、そして正則がお互いの顔を見やった。そして、重秀が秀吉に言う。
「恐れながら、半兵衛殿はすでに策を練っておりまする」
「だろうな」
秀吉の予想外の発言に重秀が驚いたような顔をした。そんな重秀の顔を見ながら、秀吉は笑った。
「あっはっはっ!半兵衛と市松が国境をほっつき歩いておったのは知っておったわ!どうせ攻められた時の防衛や攻め込んだ時の攻め場所を考えておったのだろう?」
「・・・ご慧眼の至り、恐れ入りまする」
重治がそう言って平伏すると、重秀も正則もつられるように平伏した。秀吉が重治に質問する。
「して、半兵衛の考えは?」
「丹生山の明要寺を攻めまする」
明要寺とは、現在の兵庫県神戸市北区にある丹生山にあった寺である。開基がいつ頃かは不明であるが、奈良時代にはすでにあったものと言われている。
平安時代末期に平清盛によって保護されて以降、僧兵を抱える一大勢力となっていた。そして、別所長治が織田から毛利へ寝返ると、別所に加担して織田とは敵対関係となっていた。
「お待ち下さい。明要寺には現在こちらに寝返るように調略を仕掛けておりますが」
孝隆がそう言うと、重治が「存じております」と言って孝隆を見た。
「しかしながら官兵衛殿。明要寺は未だこちらに寝返っておりませぬ。ならば、力攻めをしても問題はありますまい」
「それは・・・。そうではございますが・・・」
孝隆がそう言うと、黙り込んでしまった。しかし、それは自分の考えをまとめるために考え込んだだけであった。少し考え込んだ孝隆が、秀吉の方を見て発言する。
「恐れながら申し上げます。日向様の支援というか、別所への牽制ならば、明要寺はいささか弱いと存じます。むしろ、淡河城を攻めては如何でしょうか」
淡河城は明要寺より更に北側にある山城である。播磨の豪族である淡河氏の居城であり、三木城の東の防衛拠点でもあった。
孝隆の提案に対し、重治が疑問を呈する。
「あそこは花隈城から道が繋がっており、明要寺よりは行軍するには容易いとは思いますが、その行軍中に明要寺より側面を突かれる虞があるかと。また、城主の淡河弾正(淡河定範のこと)は戦巧者としてその地では有名な武将。攻めるにはこちらの損害も大きいかと」
「別に落城させる必要はありませぬ。あくまで八上城へ援軍を送らせないようにするための牽制ですから、兵を出して城を包囲すればよろしいかと」
孝隆の提案に、重治が口をつぐんだ。重治は孝隆が淡河城攻めをただ思いつきで口にしていることはない、と分かったからだ。ここで重治が孝隆の案に反対しても、それを論破できるだけの考えを持っているだろう、と予想したのだった。そしてその予想は正しかった。
「淡河城の包囲はすぐに別所に伝わるでしょう。当然、三木城やその周辺の城、明要寺からも援軍は来るものと存じます。来ることが分かっているのであれば、迎え撃つのは容易いことかと存じます」
重治の懸念―――羽柴による包囲戦に対する別所の反撃をどう防ぐか、を払拭するような孝隆の提案に、その場にいた者達が感嘆の声を上げた。ただ、秀吉と重秀、重治だけが感嘆の声を上げずに黙ったままであった。
秀吉が重秀も黙っていたことにはすぐに気がついた。そこで、重秀の考えを聞いてみることにした。
「藤十郎。どう思う?」
「・・・こう言っては日向守様だけではなく、我が友与一郎殿からも批判されると思うのですが・・・」
重秀がためらいがちにそう言うと、自らの考えを述べ始めた。
「去年の戦から羽柴の兵力は回復途中でございますれば、現段階での兵力の動員はいささか負担がすぎるのではないかと。できますれば、兵を大規模に動かすのは控え、兵の消耗を避けるが肝要かと」
「若君の意見に同心仕る」
重秀の意見に長盛が賛同し、側にいた三成も頷いていた。二人は有馬郡と八部郡の内政を担当しており、さっさと降伏した有馬郡はともかく、激しい戦いのあった花隈城を抱える八部郡は兵庫城を新築していることもあり、未だ軍勢を動かすだけの兵站能力を回復しきれていなかったのだ。
「ふむ・・・。では、藤十郎なら如何いたす?」
「半兵衛殿の言っていた明要寺を攻めまする」
重秀の即答にその場にいた者達が驚きの声を上げた。そんな中、秀吉が冷静に尋ねる。
「何故、明要寺を攻める?」
「あそこは僧兵が多くおりますが、実戦経験は無いと聞いております。こちらの損害を抑えつつ、別所勢の目を向けることが可能と存じます。そして、明要寺の側には、丹生山城という廃城がありますれば、そこを改装して使えるようにすれば、次は淡河城だと別所勢に思わせれば、別所も援軍を多く丹波に差し向けますまい」
「丹生山に廃城があるのですか!?」
孝隆が素っ頓狂な声を上げると、皆が驚いて孝隆の方を見た。重秀も孝隆の方を見ると、孝隆に説明する。
「元荒木村重の家臣で、私に仕えている者の一人が、『丹生山の山頂には建武の御代の頃に建てられた廃城がある』と言ってました。市が実際に行って確認もしております」
重秀がそう言うと、姿勢を正し、秀吉の方に向けると、恭しく平伏しながら秀吉に言う。
「父上、丹生山の明要寺へは三田城よりも兵庫からの方が近うございます。さすれば、摂津にいる羽柴勢を兵庫に集結させ、そこから一気に明要寺を攻めましょう。その指揮、何卒この藤十郎にお命じくだされ!」
その後、話し合いの結果、三木城への牽制は明要寺攻めをもって成すことが決まった。もっとも、全軍を率いるのは秀吉であり、重秀は兵庫でお留守番となってしまったが。