第116話 堺での出会い
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24/02/17追記
前話では多くの感想をいただきました。ありがとうございました。そしてお礼が遅れましたことをお詫びします。
それにしても、忠興くんの人気に驚いております(笑)
「与一郎殿、いっそ、商人に我等の計画を話し、その商人に百人一首カルタの作成をお願いしては如何かな?」
重秀の提案に、忠興は思わず「はあ?」と声を上げた。重秀が詳しく説明する。
重秀の考えは、要するに『銭を持っている商人に百人一首カルタのプロデュースを頼もう』ということであった。
商人であれば職人や絵師、能書家との繋がりは重秀や忠興よりは持っているだろうし、銭もあるため初期投資に問題はない。むしろ、忠興が考えるような百人一首カルタなら、公家や大名、大商人にも売れるだろう。さらに、長岡家が百人一首カルタを信長や朝廷に献上すれば、その付加価値は更に上がるだろう。商人としても高値で売ることができる。
「・・・お待ち下され、長岡が上様や朝廷に献上するとなると、羽柴の名が出てこなくなるのでは?」
「しかし、羽柴は元々出自が卑しい身なれば、上様や朝廷に献上しても、あまり注目されないと思うのです。その点、長岡家は名門細川家に連なるお家ですし、そもそも兵部大輔様(長岡藤孝のこと)が古今伝授の家元であることを鑑みれば、むしろ百人一首カルタを世に知らしめることができるのは、長岡の家に他なりますまい」
「しかし・・・、それでは羽柴が得るものがありませぬぞ?」
「その代わり、羽柴がカルタを欲した場合、羽柴が優先されるようにしていただきたい。長岡によって名を挙げたカルタは、必ずや諸国に鳴り響きましょう。それを羽柴が贈呈致すのです。羽柴は卑しき身の出自なれど、百人一首を嗜む程度の有職は持っている者である、というのを他の大名や国衆に言うことができますし、都の物を贈呈することで、調略しやすくなるというものです」
重秀の言葉に忠興が「そ、そこまで考えておられたのか・・・」と舌を巻いた。重秀が話を続ける。
「それはともかく、私も与一郎殿も京に長く滞在できるわけではありませぬ」
重秀の言葉に忠興が首肯した。重秀はこの後兵庫に行かなければならないし、忠興は藤孝や明智光秀と共に雪解け時期に丹波平定を再開しなければならない。つまり、京でカルタ作りをしている暇はないのだ。
「ああ、それで我等の代わりに京の商人にカルタ作成を任せようと言うわけですな?」
「左様、というわけで与一郎殿。どなたかふさわしい商人はご存知ありませぬか?」
「それはまあ、長岡家に出入りする商人はいくらが居りますれば、探せば相応しき者も居りましょう。ただ、羽柴にも居られるのでは?」
「いやぁ・・・。それが、長浜に出入りする商人は堺の商人が多く、私の知り合いの商人も、千宗易様か小西隆佐殿ぐらいしかいないのですよ」
「おお、三茶頭の一人である宗易様ならそれがしも会ったことがあります。今度茶の湯を教えてもらうことになっております」
そこまで言った忠興は、何かを思いついたかのような顔になると、重秀に話しかける。
「・・・宗易様に頼んでは如何か?」
「宗匠にですか?あの方、茶の湯に関することには積極的に関わりますが、それ以外にはあまり関わらない方ですよ?」
「しかし、あの方、確か羽柴の養蚕を支援していたと聞きましたが・・・?」
「あれは茶の湯に使う絹製品に、綸子や縮緬を導入しようとする宗匠が、堺で綸子や縮緬を作れるよう、羽柴の生糸を手に入れるために養蚕を支援したのですよ」
重秀の解説に、忠興が「ああ、なるほど・・・」と言って納得した。ただ、重秀も宗易を取りまとめ役にするのはありなのでは?と考えていた。
茶の湯では床の間に飾る掛け軸に絵や書を使うことがよくある。特に、古筆(平安時代から鎌倉時代までに書かれたかなの名筆)を裁断して掛け軸にして茶室に飾ることが、この頃から流行りだしていた。茶の湯の総合プロデューサーであった宗易が、絵や書の名人と繋がっていてもおかしくはなかった。
「・・・兵庫へ向かう行きがけです。堺まで足を伸ばして、宗匠と相談してみますか」
「おお、それはありがたい。では堺は藤十郎殿にお任せ致します。それがしの方でも、京の商人に声をかけてみましょう」
こうして、重秀と忠興は夜になるまで、百人一首カルタ作成について話し合ったのだった。
次の日、京を出立した重秀達は、予定を変更して堺へと向かった。千宗易に会うためである。
日の出前から出立した重秀達は一日かけて堺につくと、前に厄介になった宿に入り、その夜はゆっくりと身体を休めた。そして次の日、日が出た後に宗易の屋敷へと向かった。
いきなりの訪問だったので、宗易には会えないかもしれない、と重秀は予想していたが、その予想通りとなった。
「え!?宗匠は京に行っている!?」
「へぇ。旦那様は一昨日、山上宗二様と長谷川信春様(のちの長谷川等伯)と共に京へ向かっとります。今日は確か日野参議様(日野輝資のこと)と広橋頭弁様(広橋兼勝のこと)に茶を教えると申しとりました。当分は戻ってきまへんで」
留守を預かっていた番頭からそう聞かされた重秀は、右手で顔を覆いながら「入れ違いだったのか・・・」と呻いた。
「兄貴、どうするよ?」
正則がそう尋ねると、重秀は右手を顔から離しながら、ため息をついた。
「・・・致し方あるまい。こんな事もあろうかと、文を書いてきてある」
そう言うと重秀は懐から一通の手紙を出した。宗易宛にしたためた手紙である。その手紙を番頭に渡そうとした時、重秀はふと気になることが脳裏に浮かんだ。そしてそれを番頭に尋ねる。
「・・・さっき、宗匠と共に京へ向かった長谷川信春?ってのは何者だ?」
「へぇ。能登国は七尾の出の絵師と聞いておりますねん」
「絵師!?」
重秀が驚いて思わず声に出してしまった。そんな重秀に構うことなく番頭が話を進める。
「へぇ。元々京で狩野一門やったようやけど、そこを飛び出して今は堺に住んでおます。たまに旦那様から絵の仕事を仲介してもろうて、糊口をしのいでいるみたいでんな」
そう聞いた重秀は「ほう・・・」と興味深そうな表情を顔に浮かべた。その後、手紙を渡した重秀達は宿に戻っていった。
宿に戻った重秀は、今後のことを皆で話し合った。
「長兄、このまま宗匠が帰ってくるまで待つのですか?」
清正の質問に重秀が首を横に振りながら答える。
「いや、さすがにそろそろ兵庫に行かないとまずいだろう。明日にはここを発つさ。ただ、少し休んだら小西隆佐殿に顔を出しておこう。さっきの番頭の話だと、この時期は堺にいるはずだと言っていたし」
「ああ、なるほど。小西殿ですか。カルタの話を小西殿には話さないのですか?」
「いや、あの人キリシタンだろ?キリシタンや伴天連との関わり合いが深いのと反対で、公家衆との繋がりはほとんどなかったはずだ。絵師や能書家との繋がりがあるとも聞いたことはないな」
重秀の回答に清正は「はぁ、なるほど」と言って頷いた。横から正則が話に入ってくる。
「で?兵庫へはどう行くんだ、兄貴?ここから摂津に行くには、あの石山本願寺の支配地域を突破しなけりゃならないんだぜ?」
「それ面白そうだからやってみたいんだけど・・・、駄目?」
重秀の提案に正則や清正はもちろん、茂勝や吉隆までもが一斉に「駄目です!」と声を上げた。
「そうか・・・駄目か・・・」
そう言って溜息をつく重秀に、冷たい視線を向けながら正則が話しかける。
「兄貴が変装偽装が得意だからって、さすがに一向門徒になりきるのは無理だろうがよ」
「弥八郎(本多正信のこと)程度の一向門徒ぐらいには化けることできるぞ」
ふてくされる重秀に、「何言ってるんですか、長兄」と清正も呆れ顔で呟いた。吉隆も会話に参加する。
「・・・若君、何かあれば羽柴存続の危機に陥りまする。何卒、ご自重くだされ」
「紀之介の言う通りっすよ、いや、言うとおりですよ、若」
吉隆だけではなく茂勝にすら諌められた重秀は、結局摂津へは一旦京に戻ってから摂津へ向かうことに決まった。
「さて、少し休んだし、小西殿の屋敷を訪れるか」
そう言うと、重秀は立ち上がるのであった。
堺にある小西隆佐の屋敷を訪れた重秀達。即座に客間に通され、待つまもなくすぐに隆佐と息子の弥十郎、そしてもう一人、商人ではなく侍の格好をした若物が客間にやってきた。
「おお、おお!羽柴様!急なご訪問痛み入ります!いや、実はわてもお会いしたいと思ってましたんねん!ちょうどいいところに来ましたなぁ!これぞ神のお導きですな!」
隆佐が満面の笑みを浮かべながらそう挨拶すると、重秀の前に座った。そして自分の右隣にいた若侍を紹介し始めた。
「これは我が次男の小西弥九郎申します。他家に養子に出しましたんですが、その時に備前の宇喜多様(宇喜多直家のこと)の目に止まりましてなぁ、そのまま宇喜多様のもとで侍になって仕えとるんですわ。ほれ、お前からもご挨拶せぇ。前に話しとった羽柴筑前様のご嫡男様や」
隆佐に促された弥九郎という侍は、武士の作法に従って重秀に平伏する。
「お初にお目にかかりまする。御前に侍りますは、備前石山城主、宇喜多和泉守様が家臣、小西アウグスティヌス行長と申します。羽柴筑前様のお噂は遠く備前にまで鳴り響いております。その嫡男にお会いできるとは、このアウグスティヌス、望外の喜びにございまする!」
そう言うと、弥九郎は更に深々と頭を下げた。重秀が弥九郎に声をかける。
「えーと、あうぐ・・・殿、面を上げられよ」
重秀の言葉に行長が「はっ」と声を上げながら顔をあげた。身なりはたしかに武士だが、顔が武士っぽくない。父親似の、如何にも商人という顔であった。
そんな行長の首元には、十字架がぶら下がっていた。その十字架を見ながら重秀が問いかける。
「ああ、あうぐ・・・殿もキリシタンでしたか」
「はっ、父上と同じく、幼き頃より洗礼を受け申した。聞けば、羽柴様はあの高山右近様の命を助け、高槻城下のキリシタンを右府様(織田信長のこと)の根切りからお護りになったとか。いや、羽柴様は正にキリシタンの心の友にございます!」
行長の誇張された話にうんざりとした顔になりながら、重秀は行長に話しかける。
「で、あうぐ・・・殿」
「弥九郎とお呼び下さい。アウグスティヌスが日本人に言いづらいことは分かっております故」
「ああ、それは助かった。で?弥九郎殿は宇喜多家の家臣と言っていたが、そんな方が何故堺へ?実家帰りですか?」
「いえいえ、織田のことを調べておりました」
行長の回答に、重秀は顔を顰めた。正則達の表情も険しくなった。重秀達は織田に仕える羽柴の者である。なので、行長の発言が織田の勢力範囲内で諜報活動を行っている、と聞こえたのであった。
行長もそう受け取られたことを理解したようだった。首を横に振って話を続ける。
「いやいや、そんな顔をしないでいただきたい。確かに、我が宇喜多家は毛利と繋がっておりますが、かといって積極的に織田家と敵対したいわけではないのです」
そう言うと、行長は詳しい話をしだした。
備前国、美作国は元々播磨国と共に守護である赤松家の支配領域であった。赤松政則の頃に戦国大名となり、嘉吉の乱以降衰退した赤松家を復活させていた。
しかし、政則死後、後を継いだ赤松義村が幼年であったため、備前守護代であった浦上家と対立してしまう。そして、とうとう義村は浦上家の当主たる浦上村宗によって暗殺されてしまう。その後、村宗は赤松家の実権を握ってしまい、備前国と美作国を支配してしまった(播磨国は一応赤松家が支配している)。
さて、村宗はその後大物崩れと呼ばれる戦いで戦死。後を巡って息子の浦上政宗と弟の浦上宗景が争うことになる。これに赤松家、尼子家、毛利家それに備中国、美作国、備前国、播磨国の国衆がどちらかを支援する形で介入し、混乱状態となった。
結局、兄弟の争いは政宗が赤松政秀(播磨鶏籠山城城主)の奇襲を受けて死亡。宗景が浦上家の当主となった。そんな宗景を支えた国衆の一人に、宇喜多直家がいた。
宇喜多和泉守直家は享禄二年(1529年)生まれ。父は宇喜多興家だと言われている。祖父の宇喜多能家が暗殺されて以降、宇喜多和泉守家(他に宇喜多大和守家がある)は没落していった、と言われている。
真偽はともかく、宇喜多直家は浦上宗景派に属する国衆の一人として、正宗派を攻撃、その才覚を伸ばしていった。と同時に、宇喜多大和守家(元々正宗派の国衆である)も滅亡寸前にまで追い込んでいた(その後家臣化されている)。この時期の直家の謀略の凄さはすでに知られているとおりであり、この場で改めて書くことはない。
さて、浦上家が宗景に統一されると、その功績で直家は有力な国衆となっていた。しかも、独立心の強い国衆であったため、次第に浦上家と対立するようになっていた。
この頃、浦上家はそれまで支援してくれた毛利家と手を切り、足利義昭とその後見人であった織田信長と手を組んでいた。直家は義昭と信長の仲介で宗景と和解。一応独立した大名となっていたが、信長が義昭を京から追放したことで宗景は信長派になってしまい、直家は独立の根拠を失ってしまう。結果、信長から離れることを決めた直家は毛利と手を組み、再び宗景と対立することとなった。
その後、直家は浦上政宗の孫を旗頭に宗景と抗争を重ね、天正二年(1574年)四月、天神山城の戦いにて宗景を撃破、宗景は播磨国へ逃亡した。結果、直家は備前国、美作国、播磨国の三カ国に跨る支配権を確立しつつあった。
とは言え、領内には未だ宗景を慕う旧臣や国衆が多くおり、その支配権は未だ不安定であった。また、また、毛利の支援を受けていたことから、他家からは毛利配下の大名としか見られていなかった。
「我が主君は毛利家と共に公方様(足利義昭のこと)を頂き、右府様と敵対しておりました。しかし、右府様の予想以上の力に我が主君は考えを変えつつあります」
「それは、毛利と手を切り、上様の側につく、ということですか?」
重秀の問いかけに、行長が「はい」と返事をした。
「右府様は摂津の荒木村重を短期間で討伐し、摂津を平定いたしました。毛利は瀬戸内の制海権が未だに毛利の手の内にあることから、楽観的に物事を捉えておりますが、我が主君はそのようには考えておりませぬ。必ず、右府様は播磨を席巻すると見ています。その前に、右府様より宇喜多の家の所領を安堵していただきたいと考えております」
行長の発言を黙って聞いていた重秀であったが、おもむろに口を開くと、行長に尋ねる。
「・・・それで、弥九郎殿は具体的に何を調べているのですか?」
「まずは、播磨や但馬の取次を行っている羽柴筑前守様について。次に、織田の今後の動きにございます。特に、京に滞在している浦上遠江守(浦上宗景のこと)の状況を調べております」
この頃、宗景は京に滞在していた。播磨にいたものの、播磨どころか摂津の荒木村重まで毛利に寝返ったことから播磨に居られなくなり、京まで逃げてきたのである。その後、信長と何回か面談しているものの、未だ信長からの支援を受けられていなかった。
このことを知らない重秀は当然行長に話すことはできなかった。もっとも、知っていても話す義理は無いのだが。
「しかし、この様にまさか羽柴のご嫡男にお会いできるとは思ってもおりませんでした。羽柴様、お願いがございます!」
そう言うと行長はおでこを畳にこすりつけながら重秀に声を上げる。
「ここで会ったのも何かの縁。何卒、何卒この弥九郎めを筑前守様と会わせてくだされ!我が主君、宇喜多和泉守と必ず取り付いでご覧に入れます!」
そう言って平伏する行長を見ながら、重秀は考え込んだ。
―――確かに父上は播磨や但馬の取次。ただ備前まで取次をやってないんだよな・・・。それに、今まで上様は浦上を支援していた。宇喜多の所領安堵ということは、浦上を見捨てることになる―――
とは言え、宇喜多が毛利から織田へ寝返ることは、今後の対毛利戦略に多大な影響が出ることは重秀にも分かっていた。
―――そうだな。父上に会わせてみるか。父上なら、きっと何か突拍子もない策を思いつかれるかもしれないし、思いつかなくても、半兵衛殿や黒田殿が何か考えてくださるだろう―――
重秀はそう思うと、おもむろに口を開いた。
「面をお上げくだされ、弥九郎殿。分かりました。父上に会わせましょう」
「おお、真にございまするか!いや、今日は実に運が良い!織田家の中でも重臣中の重臣たる筑前守様にこうも早くお会いできるとは!これも全て神の思し召しでございましょう!」
顔を上げて喜ぶ行長を見て、ニコニコ顔の重秀に対して、正則や清正、茂勝や吉隆は胡散臭そうな顔つきで行長を見つめるのであった。