第115話 京にて
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天正六年(1578年)二月。重秀とその家臣団及び家臣の家族達は多くの荷物と共に京の郊外である宇治に到着した。ここから重秀は福島正則、加藤清正、加藤茂勝、大谷吉隆と数名の護衛の兵及び3頭の牛を引き連れて北上、京へと向かった。一方、残りの者達は山内一豊に率いられて宇治で一泊した後、桂川を超えて摂津へ向かうこととなっていた。
さて、京についた重秀達は馬や牛を泊めることができる宿に泊まると、さっそく部屋で今後のことについて話し合った。
「明日の巳の刻(午前9時から午前11時までの間)に参議様(日野輝資のこと)のお使いが迎えに来るそうだ」
「たかが牛を届けるだけだろ?兄貴が行く必要あるのか?」
明日の予定を言う重秀に対して、正則が両腕を組みつつ首を傾げながら言った。重秀が答える。
「菅浦が荘園だったからな。その菅浦からの年貢を羽柴が保証したんだ。その礼を改めてしたいんだと」
それに、と続けて重秀は話す。
「父上からはこう言われている。『公家との結びつきは重要だから、今のうちに顔を繋げておけ』だとさ」
「しかし長兄。公家と顔繋ぎして、一体何の役に立つのですか?あいつら、なんかしているのですか?」
「色々としているぞ。特に、上様に対してな」
そう言うと、重秀は正則や清正達に公家について話し始めた。
公家とはぶっちゃけて言えば天皇の家臣のうち、儀式と文治を司る宮廷貴族のことである。特に位階が五位以上の貴族のことを指す。
平安時代には日本を支配する特権階級であった公家も、武士の台頭によって地方の荘園が侵食されていき、応仁の乱とその後の戦乱で京の都が破壊されると、京の周辺や地方の荘園に逃れていた。結果、地方の武士と手を組んだり、そのまま戦国大名化する公家も現れた。
その後、信長が足利義昭を奉じて上洛し、畿内を平定すると、公家たちは京へと戻ってきた。そして、実質的に京を守護している信長と誼を通じようと躍起になっていた。
一方の信長であるが、自身や家臣が田舎者であることはよく分かっていたので、公家を保護する代わりに、公家から文化的なものを学んでいった。重秀が大松だった頃、岐阜城で小姓をしつつも公家から色んなことを学んだのは、こういった背景があったからである。
天正元年(1573年)に足利義昭が信長と決裂し、京から居なくなって以降、信長はそれまでの将軍の権威を利用しての秩序維持を諦め、新たに朝廷の権威を利用した秩序維持を模索し始めた。それと同時に、信長は更に公家との結びつきを重視したのであった。
「上様は去年の十一月に右大臣兼右近衛大将に任じられた。右近衛大将と言えば、かの源右大将(源頼朝のこと)が任官した由緒正しい武家の最高位。事実上、朝廷より天下の差配を任されたと言ってもいいだろうな」
「朝廷は、何故上様にそこまで頼るのでしょうか?」
吉隆の疑問に重秀が「ずばり、銭だな」と即答した。
「朝廷には銭がない。神事や祭事、その他の儀式を行うための銭がないんだ。今までは各地の大名から献金を受けていたんだが、上様が銭を負担することになった。一方で、上様は朝廷に働きかけることで勅命を出すことができるようになった。これで上様と朝廷は持ちつ持たれつの関係になったんだ」
「・・・朝廷が上様を頼るのは分かりましたが、それと我等が参議様と顔つなぎするのは何故でございますか?」
吉隆の質問に、重秀は腕を組みながら答える。
「それは・・・、正直詳しくは分からぬ・・・。我等が公家とお付き合いすることないんだよなぁ・・・」
信長と朝廷の取次をしているのは京都所司代の村井貞勝である(他にも松井友閑、武井夕庵、明智光秀も取次をしている)。秀吉も京奉行を務めていた時に取次をやっていたことがあるが、今ではやっていない。なので、重秀が敢えて公家との顔つなぎをすることは無いと言えば無い。
「ただ、今回は参議様からのお呼び出しだからな。お断りするのも何だし、とりあえず会えるだけ会ってみようと思う」
重秀の言葉に、皆が一様に頷くのであった。
次の日。直垂姿の重秀達の宿に一人の侍がやってきた。日野家に代々仕える青侍(公家に仕える侍のこと)であった。彼の案内で牛を連れて日野屋敷へとやってきた重秀達は、そのあまりのみすぼらしい屋敷の佇まいに驚いてしまった。
―――なんと、岐阜城下にあった木下屋敷と同じくらいの小ささではないか。縁が見たら、さぞ衝撃を受けるだろうな―――
そう思いつつも屋敷に入った重秀。とりあえずそこら辺にいた小者に牛を引き渡すと、青侍の案内で客間に通された。もっとも、客間が小さいので、正則達は客間の外の縁側に控えさせられてしまった。
重秀が客間の下座で大人しく座って待っていると、客間の横の襖から、二人の男が入ってきた。重秀が平伏している中、公家の普段着である狩衣を纏った二人は、一人は上座の真ん中に座り、もう一人は重秀から見て斜め右手前側に座った。
「申し上げます。羽柴筑前守殿のご子息、羽柴藤十郎殿、お越しにございます。羽柴殿、御前におられますのが三位参議様。そして、横におられまするのは参議様の弟君、広橋頭弁様(広橋兼勝のこと)にございます」
重秀の隣りに座っていた青侍がそう言うと、重秀は平伏したまま自己紹介をした。
「羽柴藤十郎重秀にございまする。ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じまする」
「大義。面を上げられよ」
公家独特のイントネーションでそう言われた重秀は、少しだけ顔を上げた。
「これこれ、もそっと面を上げられや。その様に畏まることはありゃへん」
「は、ははっ」
そう言って重秀は完全に面を上げた。緊張気味な重秀に対して、二人の公家は実にリラックスしたような面持ちであった。興味深く重秀の顔を見ていた輝資が、隣りにいた兼勝に話しかける。
「昔、京で奉行を務めとった木下さんの息子て聞いとったけど、噂通り全く似ておりまへんな。木下さんは岐阜から来た猿やと皆言うとったけど、息子の方はちゃんとした人のようで、安心しましたわ」
「ほんに、ほんに」
そう言うと、輝資と兼勝が「ほほほほほ」と広げた扇子で口元を隠しながら笑いあった。そんな二人に、青侍が話しかける。
「殿様、羽柴さんより、献上の品の目録がこちらにございます」
そう言って青侍は書状が乗せられている三方を輝資の前に差し出した。輝資が書状を取り、中の内容を改めた。
「・・・ほう、牛だけではなく、米や銭、そして綸子に紙、そして今流行りの真綿の布団とは。羽柴さんはほんに、私等が欲しがっている物をよう知ってあらしゃいますなぁ」
「ほんに、ほんに」
輝資と兼勝がそう言い合うと、再び「ほほほほ」と笑いあった。
―――早く帰りてぇ―――
重秀がそう思いながらも頭を下げると、輝資が「これ、あのことを聞きゃれ」と、青侍に話しかけた。青侍が頷くと、重秀に話しかける。
「殿様は羽柴殿のご厚意に対し、深く感じ入っておられる。今後とも、日野家と広橋家は羽柴家と良いおつきあいをしたい、と殿様は思っていらっしゃる」
「ははっ、有難き幸せ」
「ときに羽柴殿。儒学については学んでいらっしゃるか?」
「はっ、八歳の頃より、竹中半兵衛殿より学んでおりまする」
「歌は学んでおられるか?」
「妻の乳母より、手ほどきを受けております。もっぱら、百人一首で学んでおりまする」
「書については如何か?どなたか、師について学んでおるのか?」
「・・・上様の小姓を務めていた際に、右筆から学んでおりますが・・・」
重秀がそう答えると、青侍は視線を輝資に向けると、「だ、そうでございます」と報せた。輝資が扇子を閉じると、青侍に話しかける。
「なるほどなるほど。羽柴さんはよう学んであらしゃいますなぁ。しかし、ちゃんとした師について学ばないのは実に惜しい。のう」
輝資の言葉に、青侍が「おっしゃるとおりでございますなぁ」と同意した。そして、重秀の方へ顔を向けると、重秀に語りかけた。
「如何でござろう。今後、羽柴家は更に織田様の重臣としてのご活躍が期待されておられるはず。その跡取りが、立派な師から学問を受けていないのはいささか不都合なことと思われる。殿様や広橋様はもちろん、日野家とその庶流は有職者を多く抱えております故、藤十郎殿も教えを請うては如何かな?」
―――ははぁ。参議様と頭弁様の目的は私からの束脩と謝儀だな―――
当時、荘園収入が事実上無くなっていた公家にとって、家業(世襲された職務や職能のこと。家職とも言う)に関する有職故実を他人(特に武士)に教えることで支払われる授業料が貴重な収入源となっていた。
日野家の家業は儒道(儒学のこと)と歌道(和歌に関する学問)であり、広橋家の家業は文筆である。つまり、輝資と兼勝は重秀の教師となって束脩(入門費のこと)と謝儀(授業費のこと)を稼ぎたがっていたのだ。
「それと、頭弁様は文筆がお上手なお方。もし、写本をお望みであれば、他家よりも安くお譲りすることもできなくはない」
印刷技術のない当時、本を持っているのは一部の人間だけであった。そして、公家はその一部の人間であったのだ。そこで、公家は自分の持っている本をせっせと写本して売り飛ばしては、収入の糧としていたのであった。
―――公家から学べるのは魅力的な提案だな。私だけではなく、市や虎、孫六(加藤茂勝のこと)や紀之介(大谷吉隆のこと)だけではなく、治兵衛(のちの三好秀次)や松寿丸(のちの黒田長政)にも教えることができるだろう。そうなれば、羽柴家全体の教養が高められるというものか・・・。
しかし、問題は銭だよなぁ・・・。高くなりそうだな・・・―――
重秀は考えた挙げ句、先延ばしにすることにした。
「恐れながら、参議様や頭弁様にご教授いただくのは真に恐悦至極。この藤十郎重秀、伏してお願い致したく存じまするが、一旦父筑前の意見も聞きとうございます。父筑前も参議様や頭弁様の教えを請いたいと申すやもしれませぬ。また、羽柴の家臣の中にもそう言ったものがおるやもしれませぬ。そう言った者共の意見を取りまとめ、改めてお願い致す所存にございまする」
青侍にそう言うと、それを聞いた青侍が輝資の方に顔を向けて「だ、そうです」と言うと、輝資は変わらぬ顔で「良き返事を待っておるぞ」と直接重秀に言った。
こうして、日野屋敷での会談は、重秀に精神的な疲れを与えつつ無事に終了したのであった。
次の日。重秀は京の中にある長岡屋敷を訪れていた。前日に行った日野屋敷と違い、広々とした屋敷の客間にて、重秀は長岡忠興と会話をしていた。
ちなみに、重秀について来たのは正則と清正のみであった。また、忠興の側には、忠興が幼少の頃から付き従っていた有吉立行が控えていた。
「ほう・・・。日野家から儒道と歌道の教授ですか。日野の参議様は歌については造詣が深いと聞きました。是非ともお受けなさった方がよろしいかと」
「あ、やっぱりそう思いますか」
そんな話をしつつ、二人は本題へと入っていく。
「これが、先日作った百人一首を題材にしたカルタです」
忠興が差し出した桐の箱を重秀が開けると、そこには二百枚の札が入っていた。重秀が何枚か取り出して札をじっくりと見つめた。
厚みのある硬い紙に、上の句のみが直に書かれただけのシンプルなカルタであった。重秀が別の一札を取ると、そこには別の歌の下の句のみが書かれていた。
「・・・良いではありませぬか。これなら十分遊べそうです」
そう言って重秀は視線をカルタから忠興に向けた。忠興はなんだか不満そうな表情を顔に浮かべていた。
「・・・与一郎殿、如何なされた?」
重秀がそう尋ねると、忠興は「物足りませぬ」と呟いた。続けて重秀に話しかける。
「藤十郎殿、確かに貝合せのように遊ぶにはこれでも十分。しかし、歌というものは、書かれた物を持つことに価値を見出す者もおりまする。特に都の界隈では公家や豪商にそういった者が多くおります。例えば、短冊に金銀の箔をつけたり、金銀泥の下絵を塗って装飾し、物欲を満たす者も少なくありませぬ」
詩歌と絵画を別の芸術とする考え方を持つ西洋美術と違い、当時の日本では屏風歌や扇歌のように絵画と詩歌が一緒になる芸術が尊ばれていた。そもそも、書そのものが芸術として鑑賞されるものである。例えば古筆(平安時代から鎌倉時代に書かれたかなの名筆のこと)を裁断し、掛け軸にして茶室に飾るようになったのはこの頃からである。
忠興はそういった芸術の流行を正確に捉えていた。そして、その芸術性をカルタにも取り入れたいと考えていたのである。
「・・・つまり、カルタにも装飾をすべきだと?」
一方、カルタを『遊べる教材』と考えていた重秀は、忠興の『カルタを芸術作品にする』という考え方に衝撃を受けていた。衝撃を受けつつ質問をした重秀に対し、忠興が困ったような顔をしながら話す。
「最初はそれがしもそう思い、実際に金箔を貼ってみたのですが・・・。何か違うのです。その何かが分からず、今日まで来ました」
忠興はそう言うと、重秀に近づき、重秀を見つめながら話を続ける。
「藤十郎殿ならば、如何いたしまするか?」
忠興の行動に引きながら、重秀は両腕を組んで考え込んだ。少し経ってから口を開く。
「・・・例えば、伊勢物語や源氏物語の貝合せでは、歌と共にその歌の情景を絵にしておりまする。カルタに絵を描けば、多少は華やかになるのではないかと思いますが」
「ああ、確かに貝合せではそうでございますな。それに、南蛮のカルタにも絵は描かれておりましたな」
忠興からそう言われた重秀が、何かを思い出したかのような顔で忠興に話す。
「あれに描かれている絵は、確か一から十まではよく分からない木や花で数を表し、十一から十三までは古の南蛮の王や女王を表したものと伺ったことがあります。何でも古の良く知られた名君だとか」
「ああ、あれには意味があったのですか・・・。えっ?今、古の、何て言いました?」
忠興が何かを思いついたかのような顔をして重秀に聞いた。顔が近くなっていることに驚きつつ、重秀がもう一度「古の南蛮の王や女王を描いております」と言うと、忠興は顔を離し、右手で口元を覆いながら考え込んだ。
しばらくして、忠興は右手を口元から離すと、重秀に話しかける。
「・・・藤十郎殿は、歌仙絵というのをご存知か?」
「確か、古の優れた歌人の絵とその歌を一緒にまとめた書ですな」
「左様。その書は鎌倉殿がいらした頃より都で流行ったものです。・・・藤十郎殿、これをカルタに使えるとは思いませんか?」
「・・・カルタに歌仙絵を描くと?カルタが小さくありませぬか?」
「大きくすればよろしいのです。むろん、書や巻物のような大きさでは遊べませぬが、今の大きさより一回りの大きさなら十分遊べますでしょう。これなら、百人一首カルタはただの遊び道具ではなく、公家や大名、裕福な商人が求める歌仙絵の一種となります」
そう言う忠興の言葉に、重秀は衝撃を受けた。もし忠興の言う通りの百人一首カルタができれば、帖や巻物ではない、第三の歌仙絵ができるのだ。
「・・・そうなると、百人一首カルタは、ただの百人一首の札ではなく、貝合わせの様な遊び方もできる歌仙絵という物になりますな・・・。しかも絵があるということは、有名な絵師に書かせればそれだけで価値のあるものになると・・・」
「ついでに能書家に歌を書いてもらえれば、さらに価値が上がりますな」
ニコニコ顔の忠興の言葉に、重秀は今までしたことのないような笑みを浮かべた。それはまるで、父秀吉が戦場にて勝利に繋がる策を思いついたような、凄みのある笑みであった。
「与一郎殿、これは・・・」
「左様、藤十郎殿・・・」
そう言い合うと、二人は笑いながら同時に言った。
「このカルタ、銭になる」
その後、重秀と忠興は長い時間話し込んだ。
「紙は羽柴が用意できますな。近江小谷で紙早合の原料となる紙を作っておりますが、越前から連れて来た紙職人によりだいぶ増産が進んでおります。京や堺向けの上質な紙も作っております故、頼めばカルタ用の紙もすぐに用意できます」
重秀がそう言うと、忠興がすぐに返す。
「では、紙の装飾は我等長岡にお任せあれ。元々公方様の奉公衆だったのと、古今伝授の家ということで、紙の使用が多く、そのために京の紙商人とは繋がりがございます。その伝手を使えば、装飾する職人はすぐに見つかるでしょう。藤十郎殿、絵師に心当たりはございますか?」
忠興の質問に対し、重秀は腕を組んで困惑した顔つきになりながら答える。
「・・・父の小姓で木村平三(木村光頼のこと。のちの狩野山楽)という者がおりました。絵がとても上手いため、父の推薦で狩野一門に入門し、今では永徳様(狩野永徳のこと)と共に安土城天主の障壁画を描く手伝いをしております。ただ、伝手はあるのですが、すぐに頼んでも描いてくれるかどうか・・・」
「・・・まあ、狩野一門は朝廷や上様からの依頼が多くて我等にまで手は回らないかもしれませぬなぁ・・・」
忠興もそう言うと、腕を組んで視線を上に向けながら「う〜む」と声を出した。そんな忠興に重秀が声をかける。
「与一郎殿、書は如何致す?まさか、日野参議様か広橋頭弁様に頼むなんて言わないですよね?」
「・・・駄目ですか?」
「駄目ではないと思いますが、我等が頼んでも足元を見られて銭をふっかけられますよ?私達はこれから水軍に銭かける予定ですのでちょっと・・・」
「うーん、そうなると、いっそ我が父上に書かせるか・・・?」
忠興がそう言うと、重秀が「兵部大輔様をそんな事に使うんじゃないですよ・・・」と諌めた。しかしその瞬間、重秀にある考えがひらめいたのであった。