第113話 とら
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天正六年(1578年)一月下旬。秀吉と重秀の摂津への異動準備は粛々と進められていた。この頃になると長浜城下にも話が伝わり、異動のための人夫や物資が集められていた。そして、それらを取り扱う商人達が忙く動く度に、長浜城下では経済活動が活発化させていった。
そんな中、秀吉と重秀は他の家臣と共に、朝の評定を行っていた。
「藤十郎、兵庫に連れて行く舟手衆とかの選別は終わっているのだろうな?」
秀吉が質問をすると、重秀はかしこまりながら答える。
「はっ・・・。長浜、大浦、塩津、菅浦から十から二十人ほど、家族ごと兵庫に行くことに同意しております」
「ほう・・・。菅浦も人を出すとは思わなんだ。あそこは村人がそれほど多くまい?」
「中心となる松田利助は元々分家筋だそうです。あと、菅浦を出るのは次男、三男といった者達だそうです」
重秀の回答を聞いた秀吉が「なるほど」と言って頷いた。そんな秀吉に、重秀が少し困惑した顔で尋ねる。
「それと・・・。小谷城の牛や豚、鶏はいかがいたしましょう?できれば兵庫でも飼育したいと考えておりますが?」
「牛や鶏はともかく、豚は残っていないのではないか?」
「父上。正月に挨拶に来た小西隆佐殿が『琉球より再び豚を購入することに成功しました』と言っていたではございませぬか。三月には小谷に納めることが可能だとも仰っておりました」
「ふむ・・・。いや、兵庫へ持っていく必要はないじゃろう。兵庫で一からやり直すよりも、小谷で規模を拡張したほうが出費は少ないじゃろう。それよりも、蚕と桑を持ち込みたい」
「蚕と桑、ですか?確かに摂津では養蚕はなされていないようですが」
「それ故、新たな産業として養蚕を奨励したい。それに有馬郡は山が多いからのう。養蚕にはうってつけじゃ。ついでに、油桐もやらせようぞ」
「油桐ですか・・・?西国では荏胡麻油が主流と聞きましたが?」
「しかし、荏胡麻油は衰えたとは言え、未だ大山崎油座(山城国山崎にある離宮八幡宮の神人が中心となっている油座のこと)が牛耳っておるからのう。特に山崎に近い摂津はその影響が大きい。しかし、羽柴が安い桐油を売れば、食用油以外の油では大山崎油座の一角を崩すことができる。それに、長浜でやっているように羽柴の商人を使えば、利益の一部は儂等に入るというものよ」
「なるほど。しかし、油桐が実をつけるのは当分先になりますが」
「構わぬ。要は羽柴が新しい銭儲け、それも民百姓が儲けることができる物を持っているということを知らしめれば良い。そうすれば、そういった話は摂津から西に勝手に流れていくわ」
「ああ、播磨や但馬に噂が流れることで、儲け話に釣られて国衆が毛利から羽柴・・・ではなく織田に寝返るということですか?」
重秀がそう言うと、秀吉は「そう言うことじゃ」と言って笑った。
その後、朝の評定で重秀と共に兵庫に行く者達を誰にするかを決める話し合いが持たれた。これが意外にすんなりと決まることができず、決まったのはもうすぐ正午だという時間帯であった。
朝の評定が終わり、秀吉は重秀を大書院に呼び出した。そこで秀吉が重秀に言う。
「・・・先日蒲生から使者がやってのう。とら姫との祝言は一月二十九日にして欲しいとのことじゃ」
「・・・側室でも祝言を挙げるのでございますか?」
重秀がそう尋ねると、秀吉は何でもなさそうな表情で答える。
「本来はしてもしなくても良いのじゃが、相手はあの蒲生家の姫君じゃ。新たな縁戚となる以上、それなりの礼は尽くさねばならぬ。とはいえ、縁の面目もある故、縁の時よりは規模は縮小するがの。その旨、縁や乳母に伝えるように。ああ、それと」
秀吉が何かを思い出したかのような表情に変わった。
「照じゃが、あれは側室にはするな。愛妾にするように」
「愛妾・・・でございますか?」
愛妾とは現代風の言い方をすれば『愛人』のことである。つまり、正式な婚姻関係にない相手のことである。一方、側室は正室以外で婚姻関係にある者のことを指す。
「蒲生家の姫と、伊勢の国人の娘を側室という同じ地位にするのは、蒲生家に対して申し訳が立たぬのじゃ」
大名の奥向のヒエラルキーは、正室が絶対的な頂点に立ち、その下に側室が立つ。原則、側室の間には出自の家柄などで上下が決まるが、例外的に男児を生した側室が他の側室より上に立つ(ただし、子を生していない正室の上に立つことはできない)。
一方、愛妾は婚姻関係にないから当然側室よりも下の地位になる。というか、ただの侍女と地位は同じである。
「そして、十三歳のとら姫ではまだ子は生せぬが、十六歳の照は子は生せる。とら姫より先に照が子を生した場合に蒲生家の面目を潰したくないのじゃ」
13歳のとらは子を生すことは難しい。何度も言うようだが、前田利家の正室のまつは例外中の例外である。一方、16歳の照は子を生すことが可能である。つまり、理論上はとらより先に照が子を生むことになる。となると、照が側室の場合、とらより地位が上がってしまうのである。
一方、照が愛妾の場合、例え子を産んだとしてもとらの地位より上に行くことはない。側室として迎えられる可能性はあるが、そのようなことがない限り、子を産んだとしても愛妾は愛妾、侍女扱いなのである。
これは子の扱いにも影響する。側室の場合、子を生した場合は母親は側室となる。その子が嫡男となるならば、正室の養子となるが、そうでない場合は側室の子として育てられることになる。
一方、愛妾の子の場合、産まれた瞬間、正室の子として育てられる。そして産んだ愛妾は母親として認められない。そのため、愛妾は我が子から母親ではなく侍女として扱われるのである。
話が脱線したが、秀吉としては、羽柴の血を受け継ぐ子は欲しいが照がとらより上位に立って欲しくない。そこで、照を側室にしないようにし、愛妾とするしかなかったのである。
現代の感覚からすれば酷い話であるが、当時としてはこれが当然だったのである。
「・・・照には辛い想いをさせますな・・・」
「その分お主がちゃんと可愛がってやれ。女子の一番の幸せは男子に愛でられることじゃ」
ニヤニヤしながらそう言う秀吉に、重秀は「はぁ」と気の進まない返事をするのであった。
二の丸御殿の『奥』に戻った重秀は、縁と照、そして乳母達を集めると、とら姫との祝言と照の処遇にについて話し合った。
「・・・とすると、とら姫様が長浜に来るのは一月二十八日・・・。もうすぐですね」
千代の言葉に重秀が頷く。
「うん。それで、準備は千代さんに任せたいのだが・・・」
「承りました。夏殿、七殿と相談の上、準備致します」
「男衆についてはすでに伊右衛門に伝えてあるから、遠慮なく言ってくれ」
重秀がそう言うと、千代は「承りました」と言って頷いた。重秀は今度は夏に顔を向ける。
「夏、照のことは父上のお達し故、不本意かと思うが、堪えてくれ。不憫な想いをさせないよう、心を配るよう努めるから」
重秀の言葉に、夏は「はい・・・」と言いながら平伏するが、顔からは不満げな表情が垣間見えた。
側室ならば一応妻としての地位を保証される。一方、愛妾の地位は侍女と同じであり、その地位は不安定だ。気に入らなかったり子を生せなければ、城から追い出されるほどだ。
いくらこの時代の女性の地位低く、それが当たり前だと受け入れていたとしても、娘の照の幸せを願わないほど夏は割り切ってはいなかった。やはり、一人の母親として、照には幸せになってもらいたかった。それが夏の願いであった。
夏の様子を見た重秀が、夏に声をかけようとしたときだった。それまで黙っていた照が口を開いた。
「母上、そんな顔をなさらないでください。若君は羽柴の嫡男。その愛妾になれるだけでも誉れと思わなければなりませぬ。母上、若君や殿をお恨みなされますな」
「恨んではおらぬが・・・。しかしのう・・・」
そう言いよどむ夏に、今度は縁が話しかける。
「夏、案じないで。藤十郎様はお優しい方。きっと照にも優しくいたします」
皆の視線が縁に集まる中、縁は話を続ける。
「藤十郎様の正室として、私も照を大切に扱いましょう。元々照は私の乳姉妹、どうして粗略にできましょうや。そして、妻として夫が照を見捨てることが無きよう、しっかりと見ておきまする」
縁のしっかりとした発言に、夏は「御姫様・・・」と言って涙を流した。一方、しっかりと見られる立場となった重秀は、これからの奥向について考えて、そっと溜息をつくのであった。
天正六年(1578年)一月二十八日。この日、重秀は福島正則と加藤清正、そして少数の騎馬武者を連れて羽柴領の南端の境目に来ていた。北国街道の脇で、往来のじゃまにならないようにしつつも馬から降りない重秀に、同じく馬上の正則が声をかけた。
「・・・若君、本当に戻らなくて良いんですか?」
「祝言は明日だからな。今日は外出したところで誰も文句は言わないさ」
重秀がそう答えると、同じく馬上の清正が口を挟んでくる。
「しかし長兄。婿が自ら出迎えることはないでしょうよ」
「とはいえ、送り役が忠三殿(蒲生賦秀のこと)だからなぁ・・・。まさか忠三殿自ら送り役で来るとは思わなかったな」
「あの人、こういうのが好きなんですかね?」
「無駄に積極的なんだよなぁ・・・」
重秀の言葉に、正則と清正は心の中で「アンタもな」と呟いた。
そんなこんなで待っているうちに、北国街道の南側から、馬に乗った男達がこちらに向かってきているのが見えてきた。その後ろからは、大勢の男女が徒歩でついて来ていた。
「・・・あれでしょうか?」
「みたいだな」
清正と重秀がそう言い合った後、重秀達はその集団の前に塞がるように馬を進めた。重秀達を見た集団の先頭の馬上の男達は、一瞬だけ刀に手をかけた。重秀が笠を脱ぎながら大声を上げる。
「蒲生家の方々とお見受け致す!羽柴藤十郎、長浜城への道案内をすべく、お出迎えに参りました!」
その声を聞いた馬上の男達は驚きの声を上げた。そんな男達の中から、二人が馬に乗りつつも前に出てきた。そのうちの一人が笠を脱いだ。
「お久しゅうござるな、藤十殿」
「これは忠三殿。ご無沙汰しておりました」
笠を脱いだ男―――蒲生賦秀の挨拶に笑顔で答えた重秀。羽柴と蒲生の嫡男が揃っているという状況に、両家の家臣達は驚きつつも互いに挨拶を交わした。
「わざわざ出迎えるとは痛み入ります、藤十殿」
そう言った賦秀は、隣りにいた馬上の男に声をかける。
「どうやら、大切にしてもらえそうだな、とら」
そう言われて馬上の男はコクンと頷いた。重秀が何かに気がついたような顔をしながら賦秀に尋ねる。
「・・・その男子はどなたですか?・・・まさか」
「そのまさかよ」
賦秀はそう答えると、隣りにいた馬上の人物に「おい、笠を取ってやれ」と命じた。そしてその人物はゆっくりと笠を取った。取った瞬間、馬の尻尾のような感じにまとめられたきれいな黒髪が降ろされた。そして、笠で隠れていた顔があらわになると、それは前に賦秀の茶室で会ったことのある美少年、ではなく美少女であった。
重秀以外の者が唖然としている中、その美少女―――とらが重秀に話しかける。
「お懐かしゅうございます、藤十郎様」
蒲生の集団と合流した重秀達は、正則を露払いとして先頭においた後、その後ろにとらを挟んだ形で賦秀と重秀が並列して並び、その後ろに蒲生家から来た護衛と侍女が続き、殿軍には清正と羽柴の騎馬武者達がついた。
その状態で長浜城下町に入った一行。蒲生家が羽柴家に側室をよこすという話は城下には広まっていなかったものの、やはり昼間に百人程度の行列は目立つため、長浜城へ続く道の両脇には見物人がチラホラと立っていた。ただ、何の行列かは分かっていなかったらしい。騒がず、かといって恐れることもなく、ただ突っ立って眺めるだけであった。
そんなこんなで長浜城に入った蒲生一行。秀吉や小一郎といった羽柴家の面々の出迎えを受けた賦秀が、隣りにいる男装のとらを紹介した時点で秀吉と小一郎は驚いていたが、さらに驚くことが続いた。
「筑前守様および羽柴家の方々に対し、蒲生家より鹿や猪の肉と毛皮をお持ちしました。鹿と猪の肉はとらが自ら食して選んだものばかり。味は保証済みです」
秀吉の前に並べられた、毛皮の入った長櫃や味噌漬けにされた肉の入った桶を見せられた秀吉は、顔を引きつらせた。
「こ、これはかたじけなし。蒲生家の心遣いに感謝致す。しかし、とら姫は実に闊達な御方よ。これならば、さだめし丈夫な赤子を産んでくれようぞ」
秀吉がそう言うと、賦秀は「末永く、妹をよろしくお願いいたします」と深々と頭を下げるのであった。
そして次の日の夜。重秀ととらとの間で『結婚の儀』が行われた。縁の時とだいたい同じ形式で行われたが、唯一異なるのが、正室―――縁が乳母の七と共に参加していることであった。
縁と七が参加するには理由があった。重秀ととらの『結婚の儀』が、縁の許しの下で行われたこと、そしてそのことを七を通して織田家に伝わるようにするためであった。
『結婚の儀』を恙無く終わらせた重秀ととらは、二の丸御殿の広間に向かった。そこではささやかな『宴』が行われた。
『宴』に参加できたのは、秀吉を始めとした羽柴方の親族と賦秀のみであり、縁や七は参加しなかった。『宴』には縁の時と同じ『あろすこむわか』を始め、牛肉や豚肉の味噌焼きなどの肉料理が多く出ていた。
「・・・すごい。牛の肉というものがこの様に美味いものとは思いもしませんでした。兄上からはよく聞かされておりましたが、鹿や猪よりも柔らかいのでございますね?」
「牛は使役させずに育てますと、肉が固くなりにくいと言うことを伴天連より聞きまして、その様に育てました。それに、歳を取れば取るほど肉は硬くなるそうなので、若い牛の肉を使っております。更に一工夫加えております」
「一工夫?」
「はい。めでたい場故、今お教えすることはできませぬが、後でお教えいたしますよ」
「まあ、それは楽しみ」
縁のときとは違い、とらは平気そうに『あろすこむわか』を始めとする肉料理に舌鼓を打っていた。そのため、重秀とは肉料理について楽しく話し込んでいた。それはまるで、婚姻する前から仲が良かったような雰囲気であった。
そして、その雰囲気を見ていた賦秀は、この祝言の成功を確信すると同時に、貰い手のいなかった妹が人並みの幸せを迎えられそうだ、と安心したのだった。
『宴』を抜け出した重秀ととらは、そのまま寝所に向かい、いよいよ『床入れの儀』を行うこととなった。とはいえ、13歳の女の子相手にヤる気のない重秀は、その旨をとらに伝えた。
「・・・というわけで、とらが十六歳になるまでは手を出さないので、そのつもりでいてくれ」
「承知いたしましたが・・・。少し遅うございませぬか?聞けば、十五歳から子作りをすると聞きましたが」
「それは・・・、身体にもよるな・・・。とらも身体が子を生せる様な身体になれば、十五歳から目合いをしても良いと思うが・・・」
重秀はそこでふと気になる事をとらに尋ねた。
「・・・そう言えば、とらには乳母はいないのか?とらの身体については乳母に聞こうと思っていたのだが、昨日紹介された女子衆の中にそれらしきものはいなかったのだが?」
「おりませぬ。母から直接乳を頂きましたし、大姫(貴人の長女のこと)ではありませぬ故、乳母がつけられるということもございませんでした」
大名の長女は嫡男ほどではないがそれでも大切にされる存在である。嫡男がいなければ婿養子をとらなければならないし、その婿養子にその家の事を教えることができるのは長女しかいないからだ。
だから長女たる縁には乳母として夏がつけられ、夏に色々教育されたのだ。むしろ、縁を教育するために、和歌や古典に秀でた夏が選ばれたと言っても良い。
「・・・そうか。まあ、夏や七はともかく、千代さんは機転が良く利く方故、何かあれば相談すれば良い」
「分かりました。ところで藤十郎様、実は気になることがあるのですが・・・」
とらが少し困った顔をしながら重秀に聞いてきた。
「城内で何匹か猫を見かけたのですが・・・」
「ああ、何匹か飼っているな」
「羽柴では猫も食すのですか?一度だけ食したことがありますが、小骨が多い割には肉が少なく、あまり美味しくありませんでしたけど」
とらの衝撃的な質問に対して、重秀は羽柴でも猫は食さないことを、丁寧に説明するのであった。