第112話 初陣
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障子が開かれた音を聞いた重秀と縁は、思わずその音のした方に顔を向けた。そこには、縁の侍女で乳姉妹の照が立っていた。
「ヤるんですか!?ヤるんですね!?ヤッちゃうんですね!?」
興奮しながらそう言うと、照はその場でくるりと身体を回転させ、両掌を口元で立てると外に向けて大きな声を上げた。
「皆さ〜ん!若君と御姫様がヤッちゃいますよ〜!」
照の大声が二の丸御殿の奥に響き渡った。しばらく経ってから、それまで静かだった二の丸御殿の奥が一斉に騒がしくなった。部屋から侍女が出てくると、まるで自分たちの役割が分かっているような機械的な動きを始めた。
そんな中、照の後ろから乳母である夏と七が居間に入ってきた。唖然とする重秀を尻目に、七が縁をどこか連れて行くと、夏と照、さらに複数の侍女達が重秀を取り囲むように座った。
「お、おい!何なんだよ!これはっ!」
立ち上がりつつもそう大声を上げる
「ささ、まずはお座りください。そして一献。夜は寒うございます故、どうぞお飲みください」
再び座らされた重秀は、夏がどこからともなく新しい酌と盃の乗ったお膳を重秀の前に出すと、酌から盃に酒を注いで重秀に勧めた。しかし、重秀が拒否する。
「ちょっと待て!何なんだよ、いきなり!どういうことか説明しろ!」
「説明も何も、御姫様をズブっとヤッちゃうんでしょ?その準備でございますよ」
夏の隣で照が、右の人差し指と親指で輪っかを作り、その中に左の人差し指を抜き差しして男女の交わりのジェスチャーをしながらそう返すと、重秀はより大きな声を上げた。
「そんなことするつもりはなかったんだよ!」
「でも、口吸い(キスのこと)はしようとしたんですよね?」
重秀に顔面を近づけさせつつ、鼻息を荒らげて照がそう言うと、重秀は「それは・・・」と言い淀んだ。そんな重秀に夏が語りかける。
「私共は何も若君を責めているのではありませぬ。夫婦ゆえ、御姫様とその様になることは当然のこと。ただ、それ故、準備が必要なのです」
「じゅ、準備?」
重秀がそう尋ねると、夏は「はい」と力強く答えた。
「御姫様に限って絶対にありえませぬが、御姫様がご懐妊となった場合、本当に若君の子であるという証が必要になります。それには、第三者の目が必要です」
「・・・えっと、それはつまり・・・」
「若君と御姫様がヤッている現場を私達が見なければならない、ということでございますよ」
照がニヤニヤしながらそう答えると、重秀は心底嫌そうな顔になった。そんな重秀を見た夏が照の言葉を訂正する。
「実際には直に見るのではなく、隣の部屋で耳を澄ましたり、襖から垣間見るだけですので、若君や御姫様に意識されないようにはいたしまするが」
「いや、意識するなというのは無理だろう・・・」
重秀はそう拒否しつつも、夏や照の言い分は理解していた。昼間の与一郎に対する秀吉の発言のことを思えば、証人の監視下でそういったことをヤるのは仕方のないことなのだ。だが、理解したとは言え、感情的に受け入れられるかは別問題である。
とりあえず夏から勧められるままに酒を飲む重秀。いっそ酔い潰れたことにしてやり過ごそうかとも思ったが、そこは数えで十七歳の重秀である。異性とそういうことをしたいと思う健全な男子であった。自然と酒の量を調整してこの後の展開に備えていた。
そんなこんなで半刻後、重秀達のいる居間に七がやってきた。
「申し上げます。すべての準備が終わりました。寝所へお越しくださいませ」
何故か困り顔の七の言葉を聞くや否や、夏は重秀に「では、どうぞご寝所へ」と言って平伏した。
「う、うん」
重秀は緊張気味にそう頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
重秀が夏と七、照や他の侍女を引き連れて寝所の前にやってくると、七が話しかけてきた。
「では若君、私と夏殿は隣の部屋で待機しておりまする」
「・・・照は?」
重秀が頭に浮かんだ疑問を思わず口に出してしまった。それに対して照がすぐに答える。
「私は他の方々と共に寝所の縁側にて待機しております。もし、何かありましたらお声がけくださいませ」
そう言うと照と他の侍女たちは頭を下げた。重秀は黙って頷いた。
「では若君、御姫様がお待ちにございまする」
照の言葉に頷いた重秀は、意を決して寝所へと入っていった。
その日の寝所はいつもと雰囲気が違っていた。寝所の燈台の数が減らされている一方、布団周りの燈台の数は増えていた。恐らく行為を見やすくするためにしているのだろう。ご丁寧に燈台には高価であるが明りの強い蝋燭が数多く灯されていた。
また、寝所の中は冬だというのに妙に暖かかった。目を凝らすと、薄暗い寝所の至るところに火鉢が置いてあった。
そして、布団の上には、着物を着た女性が正座をして座っていた。この時代、女性も胡座をかいて座るのが普通なので、正座をして座るというのは珍しいことであった。当然、女性は縁である。
そんな縁に近づく重秀。重秀の心臓の鼓動が縁に近づくに連れて早くなる。しかし、それと同時に、重秀には違和感が感じられた。
縁の顔がおかしい。そう思いつつも近づいた重秀は、布団の前まで来ると歩みを止めた。そして縁の顔に思わず目を見開いてしまった。
この時の縁の顔は白粉で真っ白にしていた。いや、普段から縁は白粉を顔に塗っていたが、元々色白なお嬢様。軽くしか塗っていなかった。しかし、今夜の縁は、まるで漆喰を塗りたくっているような感じであった。
蝋燭の明かりがあるとは言え、暗がりの中でのこの白さは不自然であった。暗い中では人の顔は暗いものだ、というのが常識であった重秀から見れば、薄暗い中でも真っ白な顔の縁は不自然を通り越して不気味でさえあった。
「うわぁ・・・」
思わず小声で呟いた重秀であったが、重秀の声は縁には届いていなかった。縁は恭しく平伏した。
「御前様、何卒今宵はこの縁めを可愛がってくださいまし」
縁独特の可愛らしい声でそう言われた重秀は、その白塗りの化け物が縁であることにホッとしつつ、緊張の面持ちで縁と対面するかのように布団の上に座った。
ここまで来ると重秀も覚悟を決めたようで、房中術の漢籍で覚えた導引を行おうとした。まずは深呼吸を七回行って気を整える。そして、縁と気をやり取りするべく、白粉で塗られ、先っちょを紅で申し訳程度に塗られた唇に、己の唇を重ねようとするのであった。
次の日の朝。それまで休暇で山内屋敷に戻っていた千代が、二の丸御殿へとやってきていた。摂津から戻った夫の山内一豊と夫婦水入らずの時間を過ごしていた千代は、心身共に充実していた。そんな状態で千代は、取り敢えず重秀に挨拶しに行こうと、重秀が朝餉を摂っている居間へと向かっていた。
そんな千代に、こちらに向かってくる一人の若武者と一人の子供が見えてきた。それは石田正澄と黒田松寿丸であった。
「あら、お二方。そのように慌ててどうされたのですか?」
千代が二人にそう尋ねると、二人は驚いたような顔を千代に向けたが、すぐに正澄が千代に話す。
「ああ、千代殿。いや、若君と御方様(縁のこと)と乳母殿らと朝飯を一緒にしたのですが、えらく雰囲気が悪うございました。市兵衛(福島正則のこと)等はさっさと部屋を抜け出すし、松寿丸なぞ怯えて飯も食えぬ有様で・・・。止むを得ず席を外したのでござる」
正澄の話を聞いた千代が、視線を下に移すと、確かに松寿丸が怯えたような顔つきをしていた。正澄が千代に話しかける。
「それがしは別室で松寿丸に飯を食わせた後、摂津異動の準備がございます故、これにて」
正澄がそう言うと、松寿丸の手を引っ張って行ってしまった。そんな様子を不思議そうに見ていた千代は、そのまま居間へと向かって行った。
居間の前の障子にまでやってきた千代は、その場に座ると中に「千代、ただいま参りました」と声をかけた。女性の声で「どうぞ」という声が聞こえたので、作法通りに中に入ると、そこは異様な雰囲気に包まれていた。
囲炉裏を囲んでいた者達のうち、重秀は重苦しそうな雰囲気で朝餉を食べており、縁は俯いたまま朝餉には手を付けていなかった。夏や七は冷たい目で重秀を見ていたし、照は重秀を睨みつけながら大盛り飯をかき込んでいた。
「・・・どうかされましたか?皆様」
異様な空気を感じとった千代は、なるべくなんでも無いかのように尋ねた。その声に気がついた重秀が「ああ、千代さんか」と声を上げながら千代の顔を見つめた。
「・・・何かあったのですか?」
「いや、何も」
重秀がそう言うが、千代は重秀が何かを隠していることに気がついた。
「・・・若君。実は、我が夫の摂津での働きについて、いささか疑わしいところがございます。何卒、この千代の話を聞いて頂けませぬでしょうか?」
「伊右衛門の?いや、摂津ではよく働いてくれたと思うが・・・」
重秀はそう言うが、千代は納得していないような顔つきで重秀の顔を見つめていた。
「・・・分かった。朝飯を食べ終わったら聞こう」
そう言って朝餉をかき込んだ重秀は、夏や七、照の突き刺さるような視線から逃れるように、居間を後にするのであった。
二の丸御殿の『表』にある書院で重秀は、千代と向き合っていた。書院には他には誰もいなかった。千代が人払いしたからである。
「・・・それで、伊右衛門の働きについて、何かあるのか?」
重秀の言葉に、千代は平伏しながら言った。
「・・・申し訳ございませぬ。夫の話は嘘にございまする。全ては、若君のお悩みを聞くべく方便を申しただけにございまする」
「・・・やっぱり、千代さんには見抜かれていたか」
そう言って溜息をついた重秀に千代は「申し訳ございませぬ」と再び平伏した。重秀が千代に言う。
「いや、良い。むしろ、こういった事は千代さんにしか話せないと思っていたのだ。気を回してくれて感謝している」
「・・・それで、一体如何なされたのですか?どうやら、御方様と何かあったようでございまするが」
千代がそう聞くと、重秀は戸惑いつつも千代に説明をし始めた。
縁を抱こうとした重秀であったが、唇を合わせるべく近づいた瞬間、縁の白粉の咽せるような匂いに思わず引いてしまった。その後、何度も挑戦したものの、白粉の匂いで昔行われた女体に対する鍛錬を思い出し、性欲が段々と萎えてしまったのであった。特に、乳房にまで厚く塗られた白粉を見た瞬間、完全に性欲は吹き飛んでしまった。
「・・・そこまでは聞いていないのですが」
「ああ、すまん。他に話せる相手がいなくて」
冷静に言われた千代に対し、重秀は顔を赤くしながら謝った。千代が話を続ける。
「しかし・・・、こう言ってはなんですが、御方様を迎える前の鍛錬では上手くできていたではございませぬか。一体何がいけなかったのですか?」
「正直言うと、白粉の匂いが駄目なのだ。あの匂いは、どうも好かぬ」
さすがに千代による結婚前の夜の鍛錬が厳しすぎたのが原因、ということは言えなかったのだが、それが原因で白粉が苦手になったことは事実なので、その点だけ正直に答えた。
「・・・そうでしたか。若君が白粉がお嫌いなこと、気付かなかったのは千代の不手際。何卒お許しください」
千代は重秀の言葉をそのまま受け入れて謝罪した。
「いや、千代さんが謝ることではない。それよりも、この一件で縁とは口もきけんようになってしまった」
重秀がそう言うと、深刻そうな顔をして溜息をついた。それに対して、千代は大した問題でもないように言う。
「しかし・・・。それなら白粉が苦手であることをおっしゃればよろしいではございませぬか。そして白粉を塗らないようにすれば、万事解決なのでは?」
千代の言葉に、重秀はキョトンとした顔になったが、直後に「ああ、それもそうだな」と納得したような顔になった。千代は平伏しながら「それでは、私はこれから夏殿と七殿と話し合いましょう」と提案した。
「さすがに御方様に直接申し上げるのは若君もお辛いと思われます。ここは乳母達を介して話し合いをしましょう。仲介者がいれば、冷静に話し合えますから」
重秀の元から離れた千代は、さっそく夏と七と会談を始めた。重秀の事情を話した千代に対して、夏はハッキリとした口調で千代に言う。
「事情は分かりました。しかしながら、白粉無しというのは平に御容赦あれ」
その強気な口調に、千代はもちろん、七までもが驚いたような顔をした。
「・・・それは、何故・・・?」
千代がそう尋ねると、夏は意外そうな顔で口を開いた。
「何故?既婚の女性が白粉をするのは当然でございましょう」
夏がそう言うと、何かに気がついたような顔をしながら千代に言う。
「・・・そう言えば、千代殿は白粉をつけてはございませんね?夫を持つ身なれば、白粉をするべきではございませぬか?」
「白粉は直ぐに剥がれる故、付ける意味がありませぬ」
「それは安い白粉をつけているからでございましょう。高い白粉は、そうそう剥がれることはございませぬよ」
白粉の原料は植物系と鉱物系の2つがある。米や麦、葛の粉を使った白粉は安価であるものの、肌へのノリが悪く、すぐに剥がれるものであった。一方、水銀や鉛を使った白粉は高価であるものの、肌へのノリもよく、剥がれにくいという利点があった。
「こう言うのは余計なお世話かと存じますが、千代殿は羽柴を支える山内殿の正室。正室なら、正室らしい格好をするべきではございませぬか?もっと高価な白粉を使いなされ」
「山内の正室たる者、夫の留守を守り、功名を立てやすくすることこそ役目。その様な物に銭を使わず、常に戦に備えることこそ肝要かと存じますが」
「主君の奥方がそのようでは、家臣の奥方達に軽んじられまするぞ」
「我が山内の家臣の奥方達に、武士の妻としての本分を忘れた者などおりませぬ」
夏と千代の言い合いがヒートアップしていくのを感じ取った七が思わず声を上げた。
「お二方、お控えあれ。それよりも、若君と御方様の事をお考えくださいまし。このままでは、二人の目合いなどありえぬことになりまするぞ。そうなれば、羽柴と織田の縁が切れる恐れがございますぞ」
織田の本家から派遣された七にとって、織田の羽柴へのコントロールの要である縁が重秀から遠ざけられることは避けなければならなかった。
「夏殿。この際は若君に合わせるべきかと存じます。妻が夫に従うのは当然のこと。夫が白粉を厭うのであれば、それに合わせるのが御方様の務めにございませぬか?」
「何を仰る。男子たる者、色白の女子を好むものにございます。暗い寝所で白粉を塗らなければ、肌の白さは現れませぬ!」
当時の照明は油灯明か和蝋燭であった。火の明かりだったので、照明は暖色系であった。そんな明かりの中で肌を白くするには、軽く白粉を塗っただけでは足りず、それこそ漆喰のように塗りたくらなければならなかった。
何もそこまで、という気がしないわけでもないが、美白こそ美人の絶対条件であるとする当時の感覚から言えば、薄暗い寝所でも美白を保つことが女性の嗜みであった。
「若君の正室である以上、御姫様には美しくあるべきだと存じますが?」
夏がそう言うと、夏の言うことも理解できる七が黙り込んだ。しかし、今度は千代が猛然と反論する。
「それでは、若君が御方様を肌が白いだけで想われていると仰られるのですか?若君はそのような方ではございませぬ!婚儀以来、常に御方様と会話をなされ、その為人を分かろうとして参りました。そして、御方様もまた、若君との会話を通して若君の為人を分かろうとして参りました。結果、二人は仲睦まじい夫婦となったではありませぬか!?」
千代の強い口調に、夏と七が息を呑んだ。常に冷静な千代が、ここまで感情を露わにして自分の意見を言うのを初めて聞いたからだ。
千代が再び夏と七を説得する。
「お二方は確かに織田と羽柴の結びつきを強めるためだけに婚姻を結ばれました。しかしながら、今は互いが互いを思いやる夫婦と相成りました。側室を迎えようとした時、若君は御方様に頭を下げられました。御方様はそれを受け入れる一方、須磨へ行ける喜びを素直に申し上げられました。そこに白粉の有無は無かったではありませぬか。そこには心のこもった結びつきがございました。私達は、二人の心の結びつきを信じるべきではございませぬか?」
その日の夜。重秀が寝所に入ると、そこは昨日と同じ光景であった。しかし、違う部分もあった。火鉢から良い香りが立ち込めていたのだった。恐らく、白粉の匂いを消すため、火鉢にお香が入れられているのであろう。
布団の上で正座をしている縁に近づく重秀。縁は平伏して待っていたが、重秀が近づくと顔を上げた。その顔は、昨晩と違い、白粉が薄く塗られていた。普段よりも薄い白粉顔の縁を見た重秀がホッと胸をなでおろす。
「・・・昨晩の様な顔でなくてよかった」
縁の前に座りながら重秀がそう言うと、縁は平伏しながら言う。
「申し訳ありませんでした、御前様。昨晩はよく見せんがため、多くの白粉を使いました。・・・変だったでしょうか?」
顔を上げた縁に、重秀が笑いながら話しかける。
「最近流行りの漆喰塗りの壁を思い浮かべた」
「まあ、それは酷い」
そう言うと縁も笑い出した。その笑顔に惹かれるように、重秀が顔を近づけると、縁は両腕を延ばして重秀の首に抱きつく。重秀も両腕を縁の腰に回すと、そのまま己の唇を縁の唇に重ね合わせた。縁の着物からもお香の香りがして、白粉の匂いを完全に消していた。
二人はそのまま布団の上に倒れ込むのであった。