第109話 ファクショナリズム
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信忠に挨拶に行ったその日の夕刻。羽柴屋敷に戻った重秀は、信忠のことを父秀吉にだけ伝えた。
「・・・よく分かった。この件については儂に任せよ。こう見えて、上様の女子遊びの後始末はよくやらされたものよ」
ニヤニヤしながら言う秀吉に、重秀はただ「はあ」と返事をすることしかできなかった。
「とりあえず、この件については儂と藤十郎だけの秘密としよう。他には漏らすなよ?」
「元より承知しております」
重秀が頭を下げてそう言うと、秀吉は腕を組み、視線を上の方に向けながら呟く。
「しかし・・・、殿様は塩川の姫をいつ傍に置いたのだ?」
「あ、それは私めの取次のせいかと思われます」
「・・・はっ?」
秀吉が唖然としながら重秀に視線を移すと、重秀は説明をし始めた。
「去年の十一月頃に私めが殿様の側にいたことは父上もご存知でしょ?その時に塩川伯耆守様(塩川長満のこと)が人質として鈴という名の娘を差し出したのでございます。その時の取次を私がやっておりました」
「ああ、あの時か・・・。って、そんな事やってたなんて聞いていないぞ?」
「・・・そう言えば、取次したとお話しましたが、姫を殿様に会わせたことはお話していませんでしたね」
「阿呆!娘を差し出すということは、人質というだけではない!側室、いや愛妾として差し出すということじゃ!殿様が手を出すこと前提に差し出すに決まっておろう!これでもし鈴という者が男児を上げたならば、その子が次の織田家の当主になるのやもしれぬぞ!そうなれば、塩川家は外戚じゃ!織田家中の序列が変わるんじゃぞ!娘を差し出したことも報せんかいっ!」
そう怒鳴ると秀吉は扇子で重秀のおでこを軽く叩いた。重秀が「も、申し訳ございませぬ!」と言って平伏すると、秀吉は溜息をつきながら重秀に言う。
「よいか、藤十郎よ。武士にとっての婚姻は己の勢力を拡大するのに一番手っ取り早いやり方よ。我らは婚姻を通じての勢力拡大ができぬ。それ故、他家の婚姻関係には常に目を配らねばならぬ。そうしないと、羽柴が包囲されかねぬ」
「しょ、承知いたしました。父上のお言葉、胸に刻みます」
重秀の言葉に秀吉は「うむ」と頷いた。続けて秀吉が重秀に語りかける。
「まあ、塩川の娘についてはこのくらいにしよう。まだ子が生せていない以上、羽柴が騒ぐことではないからな。それより、もうすぐ又佐(前田利家のこと)がやってくる。準備しておけ」
秀吉がそう言うと重秀は「承知いたしました」と言って部屋から出ていったのであった。
それから少し経って、前田利家と前田利勝が前田家の家臣を連れて羽柴屋敷にやって来た。それから羽柴家と前田家の大宴会となった。そこで、秀吉達は利家から重要な話を聞くことになった。
「何?修理亮様(柴田勝家のこと)が娘を孫四郎(前田利勝のこと)に嫁がせたいと?」
盃から口を離してそう尋ねた秀吉に対し、利家は頷いた。秀吉が首を傾げながら尋ねる。
「・・・修理亮様に娘なんていたのか?」
「お市の方様の連れ子だ」
利家の即答に秀吉は納得したかのような顔をした。利家が話を続ける。
「昨日、親父殿(柴田勝家のこと)に挨拶に行った時にそう言われた。儂は『孫四郎の妻は上様にお任せしている』と言ったんだが、一緒にいたお市の方様より『ならば、娘を上様の養女にしていただきましょうぞ』と言ってきてな。強くは断れなかったのじゃ」
「なるほどな」
秀吉がそう言うと盃の酒を飲み干した。それを見た利家が自分の銚子で秀吉の盃に酒を注いだ。お返しとばかりに秀吉も利家の盃に酒を注ぎつつも話を進める。
「孫四郎とお市の方様の姫御・・・あの三人のうち誰になるかは分からぬが、婚を結ぶのはめでたいと思う。しかし、柴田家と前田家が婚姻を結んで、何か意味があるのか?又左は今は修理亮様の与力ではないんじゃろ?永原城と府中城だと遠いしのう・・・」
「親父殿の考えはよく分からぬ。が、お市の方様には何か考えがあるのでは?とまつが言っていたな」
「ああ、お市の方様か・・・。昔、上様が『市が男ならば名将になれたものを』と言っていたことがあったな。婚姻で柴田の味方を増やす気か?」
秀吉の言葉に、利家は「織田家中で味方も何もないだろう」と顔を顰めた。が、秀吉は盃を口につけながら考える。
―――そうか、修理亮の奴はお市の方様を娶ったことで、上様の義弟という地位だけではなく、三人の姫という駒を持ったことになったのか。これは気が付かなかった。しかも、上様の姪という血筋としては申し分のない姫じゃ。この三人を上手く使えば、修理亮の縁者は一気に増える。そうなれば、羽柴の地位を脅かしかねん。
・・・こういう事は修理亮には思いつかん。さだめし、お市の方様の入れ知恵であろうな―――
「・・・お市の方様、げに恐ろしきお方よ」
「藤吉?なにか言ったか?」
誰にも聞こえないように言った秀吉の独り言を聞き逃した利家がそう尋ねると、秀吉は笑いながら陽気に答える。
「いや、お市の方様に考えが及ぶとは、さすがはおまつ殿、と思ったのじゃ。又佐、大切にいたせよ!」
秀吉のごまかしに気付かない利家は、「当たり前じゃ。何を今更」と笑いながら答えるのであった。
次の日からは家臣同士の新年の挨拶回りである。秀吉も重秀を連れて自分よりも上位の者達の屋敷に行って挨拶をした。秀吉もこの頃には重臣なので自分の足で行く必要はほぼ無いのだが、そこは人たらしの秀吉。自分の息子である重秀の優秀さのアピールを兼ねて今日一日外回りである。
「・・・お前もすでに大身となったのだ。もう少し腰を据えたらどうなのだ?」
池田屋敷にて、主たる池田恒興に呆れられつつもそう言われた秀吉。後頭部を右手で掻きながら秀吉は恒興に話しかける。
「いやぁ、そう言われましてものう。ここまで出世するまでには皆々様のお助けがあったからこそ。この筑前、その恩を忘れて屋敷でふんぞり返るほど心の臓は強くありませぬで」
秀吉がそう言うと、恒興が「よく言うわ」と言って笑い出した。一頻り笑うと、恒興は真面目そうな顔をしながら平伏した。
「・・・勝九郎(池田元助のこと)の妻に対し、鶏肉と鶏卵、そして薬を贈ってくれたこと、この池田紀伊守、伏して御礼申し上げる」
そう言うと、隣りにいた元助も「筑前守様のご配慮、誠にかたじけなく」と言いながら平伏した。秀吉が両手を振りながら答える。
「いやいやいや!面をお上げくだされ!・・・いや、儂の妻のねねは産後の肥立ちがよくなく、この藤十郎を産んだ後に亡くなってましてなぁ。母親のいない子は苦労致しまするぞ。去年お生まれになられた岩松殿(池田元助の長男。のちの池田由之のこと)を不憫と思い、ついつい余計な世話を焼いてしまいました」
元助の妻は去年に男児を産んでいるが、その後は体調を崩していた。
「余計な世話などと申すで無い。いや、ありがたいことにどうやらこの冬は超えられそうじゃ。このまま回復してくれればよいのだが」
そう言う恒興であったが、何かを思い出したかのような顔をすると、秀吉に再び話しかける。
「そうじゃ。上様から来月中には伊丹城へ移るように言われているのだ。お主も確か、三田城に移ると聞いたが?」
「播磨への調略があります故、長浜ではちと遠すぎて」
秀吉がそう答えると、恒興が秀吉に労るように話しかける。
「まあ、お主も播磨で大変じゃと思うが、何かあれば遠慮なく儂等に言ってこい。上様より『筑前にも力を貸してやれ』と言われておるからのう。勝九郎(池田元助のこと)共々、力を貸そうぞ」
恒興の提案に対し、秀吉は「かたじけない」と言って頭を下げた。その後、秀吉と重秀は恒興と元助と雑談を少し交わすと、次の訪問先である明智屋敷に向かうべく、池田屋敷を後にしたのであった。
明智屋敷についた秀吉と重秀は、明智光秀から一人の若者を紹介された。その若者は、光秀の隣で姿勢正しく座っていた。顔は幼さが残るものの、顔立ちはハッキリとしており、どことなく知的さを感じさせた。
「ご紹介致します。土佐岡豊城城主、長宗我部宮内少輔様(長宗我部元親のこと)の長子、長宗我部千雄丸殿(のちの長宗我部信親)でござる」
明智光秀がそう紹介すると、千雄丸は礼儀正しく平伏しながら挨拶をする。
「お初にお目にかかりまする。長宗我部宮内少輔が息、長宗我部千雄丸にございまする。羽柴筑前守様の勇名は我が土佐にまで鳴り響いておりまする。若輩者ではございまするが、何卒よろしゅうお願い申し上げまする」
千雄丸の挨拶に、秀吉と重秀もまた、礼儀正しく挨拶を返す。
「ご丁寧な物言い、痛み入り申す。拙者は羽柴筑前守秀吉。こちらにいるのは我が嫡男の藤十郎重秀にござる。土佐の出来人、長宗我部様の武功は常々聞いておりました。我が愚息共々、よろしくお願い申し上げまする」
一通り挨拶が終わった後、千雄丸は席を外した。残った秀吉が光秀に尋ねる。
「ところで、千雄丸様は何しに安土へ?」
「元々、上様と宮内少輔様とが盟を結ぶ際に、上様が嫡男の千雄丸様の烏帽子親になることが決められておりました。今年千雄丸様が元服されるということで、安土にて元服の儀が行われることと相成りました。すでに、『信』の通字を与えることとなっております」
光秀の回答に秀吉は「通字ですと・・・!」と驚いた。偏諱の授与ははよく行われるが、通字の授与は中々行われない。信長の通字を授与された者で、織田家中ではない者は、徳川家康の嫡男である徳川信康と、長篠の戦いで武功を上げた奥平信昌ぐらいなものである。つまり、信長は長宗我部元親を徳川家康と同等の同盟相手と見ているのだ。
「これは予想ではございまするが、長宗我部家の通字は『親』だったはず。なので、千雄丸様の諱は『信親』になるのではないでしょうか?」
光秀の言葉に、秀吉はただ「はぁ・・・」としか言いようがなかった。
その後、秀吉と光秀の話は丹波へと移っていった。
「丹波の様子はいかがですかな?」
「前線基地となる亀山城はほぼ築城が終わっており、兵糧が次々と貯えられております。また、去年の初雪までに波多野の居城である八上城周辺の支城や砦はすべて奪っており、包囲は完成しております。また、兵部大輔殿(長岡藤孝のこと)が道の整備拡張を行っておりますれば、後は雪解けを待って一気に八上城を抜き、赤井の黒井城を攻め落とす所存でござる」
そう答えた光秀は、視線を秀吉から重秀に移すと、重秀に話しかける。
「兵部大輔殿の名が出たことで思い出しましたが、藤十郎殿は昨日、兵部大輔殿のご子息とお会いになられたとか」
「はい。与一郎殿とは昨日殿様にご挨拶に行ったおりに」
「昨日、兵部大輔殿と与一郎殿がこちらに来た際にお話は伺っております。百人一首で歌を学んでいるとか。実に素晴らしいことです。今度、坂本にて連歌会を開きます故、是非とも参加して頂きたいものです」
光秀の誘いに対し、重秀は慌てた様に首を振りながら答える。
「と、とんでもない!まだまだ修行の身なれば、高名な連歌師が参加する日向守様の連歌会に参加するなど、恥をかくだけにございまする」
そんな重秀に対し、光秀は優しく微笑みながら答える。
「いえいえ、ご心配なく。京で行う連歌会なら里村殿(里村紹巴のこと)を始めとした連歌師や公家の方々が参加いたしますが、坂本の連歌会には近隣の国衆や商人しか参加しませんから、そんなに肩肘張るようなものではございませんよ」
「ふむ、そう言った軽いものであったら、一度参加してみてはどうじゃ。どちらにしろ、繋がりができるのは良いことじゃ。それに、己の歌の力量を測るには、戦と同じで実戦に優るものはないぞ」
秀吉からもそう言われた重秀は、光秀に「承りました。摂津が落ち着きましたら参加致しとうございます」と平伏しながら答えた。
光秀は更に話しかける。
「そうそう、実は与一郎殿は我が三女、玉の許嫁なのです。今年中には祝言を挙げる予定です。宴にはぜひお越しくだされ」
「それは祝着至極でございます。私でよろしければ、喜んで」
重秀はそう言って光秀に頭を下げた。そんな中、秀吉が口を挟む。
「祝言といえば、日向殿のご子息はどうなっておりまするか?そろそろ婚約の話が出ているのではござらぬか?」
秀吉の何気ない言葉に、光秀は動揺しながら聞き返す。
「なっ・・・!?何故そのようなことを聞きなさるのか!?十五郎はまだ十歳ですぞ!?」
「え?いや、日向殿ほどの大身のご子息なら、そろそろそう言った話があるのでは、と思いましてな。・・・何か、聞かれて拙い事でもございましたか?」
そう聞いた秀吉に対し、光秀は溜息をつきながら話し出す。
「まあ、隠すことではないので申し上げるが・・・。実は柴田様より姫を十五郎に嫁がせたいという話はあります」
光秀の発言に、秀吉は目を丸くした。更に光秀が話す。
「それがしとしては上様の娘、もしくは織田一門から頂きたいと思っておるのですが・・・。十五郎と柴田様の姫君達とは歳が近い故、悪くない縁談だと思っております」
「なるほど。でしたらさぞ似合いの夫婦になりますでしょうな!」
笑いながらそう言う秀吉であったが、心の中では別のことを考えていた。
―――修理亮め、まさか日向と縁戚を結ぶとは・・・。いや、これはお市の方様の考えか?三人の姫を上様の重臣に嫁がせ、柴田派を増やす気か・・・。まずい、確か五郎左様(丹羽長秀)の嫡男(のちの丹羽長重)も確かお市の方様の姫達とは歳が近いはず・・・。後で五郎左様にも聞いておくか―――
楽しそうな表情の裏で、秀吉の心は不安で満たされつつあった。
次の日は羽柴屋敷に大勢の挨拶の人間がやってきた。その中には、堺の千宗易、今井宗久、津田宗及といった信長の三茶頭、小西隆佐・弥十郎親子といった商人、ルイス・フロイスやオルガンティノやロレンソ了斎と言ったバテレンなどが挨拶に来ていた。
意外な事に、従三位参議日野輝資の使者も正月の挨拶に来ていた。元々菅浦の荘園の持ち主であるが、戦乱で年貢が納められていなかったのが、秀吉が菅浦を支配してから年貢が納められるようになっていた。今回その御礼としてわざわざ京から使者を遣わしてきたらしい。
そんな数多くの来客を捌き終えつつある時に、今度は蒲生賢秀・賦秀親子がやってきた。
「明けましておめでとうございまする。筑前守様」
「左兵衛大夫殿、そして忠三郎殿。よくぞ参られた。ささ、その様に硬くなされずに、楽にしてくだされ」
そう言うと秀吉・重秀親子と賢秀・賦秀親子は対面になるように座った。賢秀がさっそく話し始める。
「筑前様。筑前様は新たに摂津二郡を上様より与えられました。誠に重畳。我が蒲生家はより一層、羽柴家と誼を通じたいと思っております」
「それは、とら姫様を藤十郎に嫁がせる、と言うことでよろしいのですかな?」
秀吉がそう言うと、賢秀が「然り」と言って頷いた。秀吉が訝しがるような表情で尋ねる。
「・・・こう言っては何じゃが、藤十郎にはすでに正室がいる。そして我が羽柴家は下賤の出である一方、蒲生家は由緒正しい武家の出じゃ。その様な家の姫が、側室の地位に甘んじるのは蒲生家の面目を損なうことにならぬか?」
「ご懸念無用。藤十郎殿の正室は上様の養女。しかもただの養女ではない。男系の姪に当たる方。その様な方と我が娘では、どう考えても我が娘が下にござろう。どうして側室の身で不満があろうや」
こういった話はすでに家臣間の交渉で折り合いがついているのだが、当主同士が改めて口に出すことで、両家に遺恨がないことを確認しなければならなかった。事前の交渉で決着していることを、ここまでする必要はないと言えば無いのだが、相手が信長お気に入りの蒲生家となると、やはり気を使わざるを得なかったのであった。
また、石高では上の秀吉が敢えて蒲生に気を使っていることを示すことで、蒲生家の印象を良くし、今後の羽柴家の仲間にしようという魂胆もあった。
「左兵衛大夫殿のお気持ち、この筑前秀吉、感じ入りました。藤十郎共々、とら姫は大切に致すよう、ここで誓いますぞ」
そう言って頭を下げる秀吉。それにつられて重秀も頭を下げると、賢秀や賦秀も頭を下げた。秀吉が頭を上げると、賢秀に尋ねる。
「して、祝言の日取りは如何なされるか?そちらの準備もありましょうが・・・?」
「こちらはすでに準備を終わらせております。後はそちらの準備次第ということで」
賢秀の発言に秀吉は深々と頭を下げる。
「左兵衛大夫殿のご配慮、かたじけなし。然らば、さっそく羽柴家より上様に婚儀の件の許しを得ます故、それが終わり次第お輿入れをお願いしとうございます」
「・・・上様からの許しはもう得ておりますが・・・」
賦秀がそう言って口を挟んできた。それに対して秀吉ではなく重秀が答える。
「恐れながら忠三殿。私の側室となると、我が正室の縁の許しが必要となります。その縁が、しかと承知したことを上様に認められなければ、縁の養父たる上様の面目を失いかねませぬ。それ故、羽柴からも上様へ許しを得なければならぬと存じます」
重秀の言葉に、賦秀は「それはごもっともだ」と言って頷いた。
こうして羽柴と蒲生は一応縁戚となることに決まった。しかし、柴田の婚姻攻勢を知った秀吉は、蒲生しか縁戚がいないことに不安を感じていたのだった。