第10話 ファースト・コンタクト
明けましておめでとうございます。
去年は感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い致します。
1月6日に新年スペシャルとして2話投稿する予定でしたが、新年のご挨拶として、本日1話を投稿致します。なお、1月6日には通常の投稿として1話投稿予定です。
予告と異なる投稿ではありますが、どうぞよろしくお願い致します。
元亀四年(1573年)四月。甲斐の戦国大名、武田信玄が亡くなった。享年53。病気で倒れ、西上作戦を中止して甲府へ帰る途中の出来事であった。
これにより、去年十二月に三方原で大敗した徳川家康と、同盟相手である織田信長は滅亡の危機から脱することができた。と同時に、東に向けられていた主力を、西へ向けることができるようになった。
七月、何度目かの足利義昭の挙兵に対して、信長は主力部隊を自ら率いて足利勢を撃破。足利義昭は降伏し、河内国へと逃れた。
一応、足利義昭は征夷大将軍の地位を有しており、未だ諸大名に影響力を発揮できていたが、これを持って室町幕府の滅亡、とされている。そして、信長の目は、北陸へと注がれるようになる。
元亀四年改め天正元年八月、対浅井・朝倉戦線の最前線である横山城には織田信長を始め、信長麾下の武将たちが軍勢を率いて集結していた。
これに対して浅井長政は5千の兵で小谷城の守りを固めて籠城戦の構えに入り、朝倉義景は(他の武将が寝返っていたり出陣拒否などをしたため)自ら2万の兵を率いて、本拠地である一乗谷城を出陣していた。
そんな中、大松は甲冑姿の秀吉、小一郎などと一緒に、横山城の屋敷にある奥座敷の一つへと向かっていた。秀吉が寝ている奥座敷の更に奥、普段は秀吉や小一郎に「絶対に入るな!」ときつく言われた場所である。
「木下藤吉郎、入りまする」
そう言って障子を開けて入る秀吉。小一郎らが続いて最後に大松が入った。この時、大松は伏し目がちに来たため、部屋の全貌はよく分かっていない。もし、部屋の全貌を見ていたら、大松は腰を抜かしていただろう。
部屋の四方は織田家の家紋である『織田木瓜』が描かれた大きな幕が掲げられており、部屋の左右には床几(折りたたみの椅子)に座った、立派な甲冑を着た大人たちが座っていた。そして、部屋の上座、一段上がった場所には、床几に座ったひときわ目立つ甲冑と派手な陣羽織を羽織った男性がいた。その男性の対面に、秀吉が床に座り、さらに後ろに小一郎達が並んで座った。大松もそれに習って、浅野長吉の隣に座った。そして一同一斉に平伏した。
「御屋形様のご着陣、真に恐悦至極にございまする!」
「猿、役目大義!」
秀吉の口上に、上座の男性が低い声で答える。大松が初めて聞いた御屋形様―――織田信長の声であった。
その後は秀吉と信長との間で何やら言葉をかわしていたらしい。一度、周囲からあまり品のない笑い声が聞こえたが、大松の場所からは秀吉と信長が何を言っていたのか聞き取ることはできなかった。
「大松!前へ!」
「は、はいっ!?」
秀吉のいきなりの呼び出しに、大松は驚いた。一応、大声で返事はしてみたものの、何が起きたか訳が分からず、思わず顔を上げてしまった。
顔を上げた瞬間、左右で床几に座っている大人たちからどよめきが上がった。中には「親父に似てないじゃないか」という声も聞かれた。
大松に最初に会った人たちは必ず同じ事を言う。「父親に似てない」か「母親の生き写し」かのどちらかである。大体の人はねねのことはあまり知らないから、前者の方をよく言っていた。大松もそれには慣れていた。
とりあえず、目線を落として両手を太ももに当てながら小走りで父の傍らまで行くと、目線を上げずに座って両手を床につけた。そして平伏しながら、
「木下藤吉郎秀吉が息、大松にございまする。お目通りが叶いまして、恐悦至極に存じ奉りまする」
と口上を述べた。
「面をあげよ」
信長の声に、大松はやや顔を上げた。目上の人に対して目線を合わせるのは無礼なので、目線は下のままだ。しかし、
「顔がみたい。もっと上げよ」
と信長に言われたので、大松は信長の顔が見えるまで顔を上げた。
「ほう・・・」
感心したような声を出した信長。次に初対面の人が大松に言う言葉をかけた。
「驚いた。ねねにそっくりではないか」
「母を知っているのですか!?」
思わず聞いた大松の後頭部を、秀吉が叩いた。
「たわけ!御屋形様に無礼を働くな!」
「あ、申し訳ありません!」
謝罪し、再び平伏した大松。信長は対して気に留めていなかったらしく、
「許す。面を上げよ」
と言った。大松が再び顔を上げると、信長は話し始めた。
「そなたの母と父を会わせたのはこの儂よ。それに、ねねは吉乃(信長の側室)に仕えていてな。短い間だったけど。・・・実に面白い女子だったな」
懐かしそうに語る信長。気のせいか、声が高くなっていた。しかし、すぐに口調がいつもどおりになった。声も低くなる。
「して、汝はここで何をしておる?」
「大松、御屋形様は・・・」
すかさず秀吉が仲介しようとするが、信長に止められる。
「猿、直答は許しておる。出しゃばるな」
「・・・ご無礼致しました」
秀吉はそう言うと、大松の背中を軽く叩いた。答えよ、という意味だ。大松は平伏しながら答えた。
「皆様方より色々教えていただいておりました」
「具体的には?」
「父より礼儀作法と茶の湯を、小一郎叔父上より算術を、竹中様より漢籍と兵法を、前野様(長康のこと)より馬術と棒術を、山内様(一豊のこと)からは槍術を、浅野様(長吉のこと)からは弓術と囲碁と将棋をお教えいただいております」
今年に入ってから、大松は秀吉から本格的な武家の礼儀作法を学んでいた。というのも、これも茶の湯と同じく、秀吉が自分が習ったことをより深く理解するためのものである。むろん、武士になった秀吉は今まで色んな人から武家の作法を学んでいたが、やはり、当時の都である京の武士や公家からは礼儀がなっていないと蔑まれていた。
そこで秀吉は、同じ京の奉行職を務めていた明智光秀に頭を下げ、京でも通用する武家の礼儀作法を学んでいたのだ。後に光秀の紹介で、幕臣で有職故実の大家でもある長岡藤孝(今年になって細川から改名した)からも教わるようになった。それを大松に教えることで、自らの理解を深めようとしていたのだった。
「で、あるか。励めよ」
信長はそう言うと、秀吉に顔を向けた。
「秀吉、息子を岐阜に返せ。城に置いては邪魔だ」
「承知致しました」
姉ちゃんとの約束を破ることになるけど、御屋形様の命令には逆らえなから仕方ないね、と思いながら秀吉は平伏した。
「では、ゆくか」
そう言うと信長は立ち上がった。左右に居た武将たちも立ち上がった。その時だった。
「御屋形様!武運長久をお祈り致しまする!」
大松が平伏しながらも、腹に力を込めて力強く叫んだ。
「うむ」
信長は頷いただけであった。
その後、大松は市松や夜叉丸と共に岐阜の木下屋敷に帰る準備をしていた。
「急に岐阜に戻れって、何かあったんでしょうか?」
夜叉丸の問いに大松が答えた。
「御屋形様の命令だよ。俺たちは邪魔だってさ」
「邪魔って言い方はねえだろうに。俺たちを何だと思ってんだか」
口を尖らせる市松に、大松が注意した。
「市松、口を慎めよ。相手は御屋形様だぞ」
「ここまで聞いちゃいねえだろうよ」
「説曹操、曹操就到」
「は?何?」
「唐の国のことわざだよ。曹操の噂をすれば曹操が来たっていう逸話があって、そこから『噂をすれば本人が来る』という意味のことわざとなったんだ」
大松が市松に説明する。しかし、市松にはよく分かってないようだ。キョトンとした顔をしている。
「分かってない市松は置いといて、御屋形様ってどんな人でしたか?」
「おい」
置いていかれた市松の不満げな声を無視して、夜叉丸が大松に聞いた。
「・・・よく分からなかった」
「ええ・・・」
大松が首を傾げながら言うと、夜叉丸が失望したような顔をした。
「いや、最初は怖い方かな?と思ったんだ。話し方に威厳もあったし、近寄りがたい雰囲気もあったし。でも・・・」
「でも、何だよ兄貴」
話すのを止めた大松に、市松が促すと再び大松は話し始めた。
「・・・母上のことを話した時に、口調が変わったんだ。なんていうか、柔らかくなった、というかなんというか・・・」
そう言うと、大松は黙ってしまった。本当になんと言っていいのか分からない、という表情を顔に出していた。
「・・・ところで、岐阜に帰るのはこの三人だけですか?」
しばしの沈黙が続いたため、それを破るために夜叉丸が口を開いた。
「まさか、杉原の伯父上(杉原家定、のちの木下家定のこと)と一緒さ。正確に言うと、横山城に兵糧を運んできた小荷駄隊(輸送部隊のこと)の一部が岐阜に引き返すんで、それと一緒に、ということさ」
大松がそう答えると、夜叉丸はほっと胸をなでおろした。
「そうですか、さすがに三人で、というわけには行きませんか」
「この三人だけだと、関ケ原あたりで山賊に襲われそうだしな」
「へっ!三人いれば、山賊なんか屁でもねぇぜ!」
夜叉丸と大松の会話に市松が加わった。
「兄貴もそう思うだろ!?」
「いや、さすがに駄目だろう・・・」
話を振られた大松は苦笑いした。そんなところに、家定が部屋にやってきた。
「おう、三人とも、御屋形様がご出立される。見送りに行くぞ」
横山城の城門の前で、守備兵や岐阜に戻る小荷駄隊に混じって、大松、市松、夜叉丸、そして家定が整列していた。彼らの目の前を、各侍大将が率いる備(騎馬隊と槍組、鉄砲組、弓組等の各種足軽をまとめた組と小荷駄隊を一つにまとめた戦闘グループ)ごとにまとまった集団が列を成して、門の外へと向かっていくのだ。
最初の備は先遣隊として命を受けた秀吉たちであった。
「兄者、うちの殿さんたちだぜ」
「ああ」
市松に指摘されなくても、先頭を行く秀吉の前を往く馬印を見れば分かった。美濃攻略戦の時に初めて掲げられた木下藤吉郎の象徴、金の瓢箪だ。秀吉の馬印と言えば千成瓢箪だが、この時期は一個の瓢箪であった。
「父上!ご武運を!」
大松がそう大声を上げながら手をふると、秀吉が気付いて「おお、行ってくるぞ〜!」と手を振り返した。
「皆様方もご武運を!」
続けて大松が大声を上げると、馬上にいた小一郎を始め、秀吉を支える幹部たちはもちろん、歩行の足軽大将や足軽たちも大松に向かって手を振り始めた。
「お、木下の若さん!行ってくるで〜!」
「木下の若さん!また話を聞かせてくだせぇ!」
足軽達が大松に声をかけながら門に向かって行進していった。
「相変わらず、兄者は足軽たちに気に入られてますね」
夜叉丸が苦笑しながら言った。
ここ数ヶ月、横山城にいた大松は、横山城の中にいた人全員から知られる存在となっていた。城内のあちらこちらで武将たちから武術を学び、屋敷内では侍女に混じって飯炊きの仕事を手伝い、竹中重治の授業の一環で横山城周辺の地形を調べ回ったりしていたため、多くの人々に記憶される存在となった。
また、秀吉自身が兵の掌握のために夜な夜な足軽達と酒盛りをしていたため、大松は時に酒肴を持っていったり、酔いつぶれた秀吉を市松達と担いで部屋に連れて行ったり、秀吉に促されて書物から得た面白い話(大体三国志のエピソード)を足軽たちに聞かせたりしたところ、これが意外にも評判になったりしていた。気がついたときには城にいた人々からは「木下の若さん」として親しまれていた。
大松は木下隊の最後の一人が門の外に出るまで、声援を続けていた。
「・・・あれ?前田の父上?来てたんだ」
秀吉の備が行った後、何個かの備が目の前を過ぎていった時、大松はある備の先頭にいる騎馬武者に気がついた。それは前田利家であった。六尺(約180cm)の長身に、金色に輝く甲冑を身に着けていた。兜は烏帽子形で、立物(兜の前面についている飾り物)には絶対に後退しない『勝ち虫』トンボの意匠が施されていた。
そしてなんと言っても目につくのは、朱色に塗られた三間半(約6.3メートル)の長い槍である。当時の槍の平均的な長さの槍が二間(約3.6メートル)なので、倍近い長さである。
そんな前田利家の威風堂々とした姿に、大松はもちろん、市松や夜叉丸も見とれていた。
「かっけえな〜。俺もあんな武将に早くなりてぇな〜」
市松が呟くと、夜叉丸も頷いた。
「前田様!ご武運をお祈り致しまする!」
大松が両手で拡声器を作るようにして口を囲い、そう叫んだ。馬上の利家はそれに気付くと、大松に顔を向けて力強く頷いた。
備の集団が通り過ぎると、今度は騎馬武者の集団がやってきた。背中には永楽通宝がデザインされた旗を掲げている。信長直轄の馬廻衆である。さらに後ろからは、旗ではなく赤い母衣を背中にまとった赤母衣衆と、その後ろから黒母衣衆が列を成してやってきた。そして、その後ろより総大将織田信長が馬上の人となってやってきた。
さすがに信長に声をかける勇気は大松にはもうなかったので、他の人と同じ様に頭を下げていた。だから信長が大松を見ながら進んでいたことに気がついていなかった。
織田勢全軍が横山城を出発してから、見送りに来ていた人は各々の持ち場へと戻っていった。大松たちもすぐに岐阜に向けて出立・・・というわけではなく、岐阜へ帰る小荷駄隊が明日の夜明け前に出立するので、それに合わせて明日の夜明け前に出立することとなった。
横山城を出立した織田勢はその後、多方面から集結した総勢3万人の兵力をもって、小谷城を挟んで朝倉勢と対峙する。ところが、浅井方の武将、阿閉貞征が織田方に寝返ったせいで、彼の本拠地である山本山城を通過して小谷城の西側を北国街道沿いに北上することが可能となった。結果、小谷城どころかその北側に布陣している朝倉勢2万をも包囲できる状態となった。
その後、信長自ら少数の兵で朝倉の陣地に暴風雨に紛れて奇襲したり、撤退する朝倉勢に追撃戦を仕掛けたりして朝倉勢を壊滅させた。そして、裏切った朝倉家臣を吸収して膨れ上がった織田勢の攻撃を受けて朝倉の本拠地であった一乗谷城は陥落。その城下町もろとも灰となってしまった。
朝倉義景は脱出に成功したものの、脱出先で朝倉景鏡の裏切りにあって自刃。首が景鏡によって信長のもとに届けられた。これにより、越前朝倉家は滅亡した。
信長はその後、軍勢の一部を越前に残すと、小谷城に取って返して小谷城を包囲、翌日、全面攻撃を指示した。翌日の夜に秀吉率いる別働隊が小谷城の中にある京極丸を占拠、浅井長政が立てこもる本丸とその父である浅井久政が立てこもる小丸を分断することに成功。直後に小丸が陥落。九月に本丸が陥落。浅井長政は妻で信長の妹であるお市の方と三人の娘を織田方に引き渡すと、弟らと一緒に自害した。
小谷城陥落後、逃げた長政の息子の万福丸は越前敦賀郡にて織田の計略によって捕まり、信長の命を受けた秀吉の手によって関ケ原にて殺害された。
こうして、近江浅井家も滅亡したのだった。




