第103話 三田にて
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挨拶が遅れましたが、明けましておめでとうございます。本年もご愛読のほど、よろしくお願い致します。
昨日は大きな地震がありました。被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。
彗星が出現している中での有岡城陥落の報は、敵味方にすぐに伝わった。そしてそれは、巨大な衝撃となって周辺に広がっていった。
まず衝撃はすぐ近くの大物城を襲った。村重が入城したことで士気が上がったものの、その直後に有岡城が降伏したことが伝えられると、村重は降伏を主張した。しかし、この時の大物城にはすでに本願寺からの援軍や一向門徒、そして毛利からの軍使がいたため、村重の降伏論は受け入れられなかった。受け入れられなかったものの、有岡城陥落と彗星の出現が結びつき、このまま戦うのは凶事に繋がるのでは?と大物城の兵達は考え、結果士気がさらに下がってしまった。中には城から逃げ出すものまで出てくる始末であった。
荒木久左衛門がやってきて、信長の降伏勧告を伝えたものの、村重は周囲の圧力を受けてこれを拒否した。しかし、このまま城にいても好転するとは思えなかった村重は、その日の夜に信頼できる家臣と息子の荒木村次と共に城から脱出。城主たる村次とその父である村重が花隈城へ逃げたことで城兵を指揮するものがいなくなってしまった。
一方で、村重を降伏させることができなかった久左衛門は、信長の勘気を恐れて逃亡してしまった。そのことを知った信長は大激怒。信忠に大物城攻撃を命じると共に、有岡城にいた荒木方の人質を全員処刑することを決めた。まずは村重の妻(側室、もしくは継室だと言われている)であるだしとその他の荒木一族を津田信澄に京まで護送させた後、六条河原にて斬首に処された。また、残りの人質のうち、122名の荒木方の家臣の妻子が大物城を囲んでいる信忠の下へ移送させられると、大物城の前で磔もしくは鉄砲での銃殺を行った。さらに残った人質は近辺にあった農家4軒に押し込められて、火を放たれて殺されてしまったのだった。
一方、大物城では指揮統制を行う武将がいなくなってしまったので、城の防御態勢は著しく低下した。そんな中、信忠による総攻撃が行われた。一度ならず二度も村重を逃してしまった信忠の怒りは凄まじく、城兵全ての根切り(皆殺し)を命じると、自ら槍を奮って城内に突入するほどであった。
こうして大物城は陥落した。しかし、ここに来て織田軍の攻勢も限界に達しており、花隈城攻略は当分の間延期させられることとなった。
大物城が陥落する頃には摂津国中に有岡城が陥落したという風聞が伝わり、国衆と一向門徒に衝撃が走った。まず摂津北部の国人である能勢頼道が一族を引き連れて池田城へ赴き、信長に謝罪と臣従を改めて申し出た。すでに弟を人質に出していたとは言え、未だ足利将軍家への忠誠心が消えていない能勢家であったが、彗星出現にも関わらずに有岡城を落とした信長に恐れを感じた頼道は、完全に足利義昭を見限ることに決めたのだった。
ただし、能勢家を降伏させたのが一応重秀ということになっているため、取次は重秀が行うこととなり、結果、三田城への進撃が遅れてしまった。秀吉が羽柴勢、堀勢、中川勢を率いて三田城に進出したのは、大物城が陥落した更に後であった。
秀吉率いる軍勢が三田城を取り囲んだ時には、すでに三田城だけではなく有馬郡にある全ての城に有岡城と大物城陥落の報せが届いていた。特に、竹中重治による誇張された噂(と言っても虚偽は村重戦死の報しかないのだが)を聞いた小さい城は、秀吉が有馬に入る前にすでに降伏していた。そして三田城もまた、秀吉が取り囲み、使者として黒田孝隆が乗り込むと、城主の荒木重堅は降伏。城を明け渡した。
「筑前様。此度の降伏の願い出を受けて頂き恐悦至極に存じまする」
秀吉の陣まで来て秀吉に面会した重堅が、平伏しながら秀吉にそう言うと、秀吉は微笑みながら重堅に声をかける。
「平太郎殿、頭を上げてくだされ。平太郎殿の英断により、我等は無駄な血を流さずに済みもうした。礼を言うのはこちらの方じゃ」
そう言って秀吉が軽く頭を下げると、重堅はさらに恐縮したかのように平伏し続けた。秀吉がさらに言葉をかける。
「ときに、孫右衛門尉殿(別所重宗のこと)は如何なされた?援軍で三田城にいたのではありませなんだか?」
「実は有岡城が落ちたとの報せを聞いた後、兵をまとめて三木城に戻られました。『事態が急変した故、殿と相談してくる』と言ってました。我等は引き止めたのですが、それを聞かずに引き上げてしまいました。そのせいで我等は兵力が不足したのでございます」
重堅はそう言うと、悔しそうに顔を歪めた。とはいえ、有岡城陥落の報が伝えられた直後から兵達の脱走が相次いでいた三田城。別所重宗の手勢が残っていたとしても、秀吉の軍勢を退けることができたかどうかは疑問であった。
「・・・まあ、過ぎてしまったことは致し方ありませぬ。実は上様より平太郎殿の所領安堵の朱印状をすでに頂いておりますれば、織田への臣従の証として人質と城を引き渡して頂きたい。そうすれば、平太郎殿には引き続き所領の管理を行っていただきたいのでござるが?」
「おお、願ってもないことにございまする。筑前様、今後ともよろしゅうお願い致しまする」
秀吉の提案に重堅は改めて平伏しながら承諾した。こうして、三田城は秀吉の物となった。
その後、秀吉は十一月に入る前には有田郡を平定。有田郡の国衆からとった人質をすでに安土城に戻った信長の下に送り込むと、三田城を拠点に播磨への調略を開始したのだった。
天正五年(1577年)十一月下旬。有馬郡を平定した秀吉は、新たに知行地となった有馬郡での検地を進める一方、播磨での調略、諜報を進めていた。この日はその結果と情報共有をするために評定が開かれていた。
「・・・というわけで、播磨の情勢を皆に知ってもらおうと集まってもろうたのじゃが、その前に藤十郎から話がある」
秀吉が開口一番にそう言ったので、皆の視線が重秀に集まった。有岡城で半月ほど信忠の下で摂津北部の国衆である能勢や塩川との取次をし、昨日三田城に帰ってきた重秀が一つ咳払いをすると、帰る間際に信忠から聞いた事を話しだした。
「・・・摂津平定の総大将となられた殿様(織田信忠のこと)の下に、新たなる増援が参りました。越前に派遣されていた惟住様(丹羽長秀のこと)、伊予守様(滝川一益のこと)、上総介様(織田信包のこと)、そして国元で軍の再編を行っていた三介様(北畠信意のこと)と三七様(神戸信孝のこと)の伊勢衆でございます。それと越前府中より、前田様、佐々様、不破様の軍勢も有岡城へ向かっております。合計一万五千の兵数だとか」
重秀の言葉に皆が「おおっ!」とどよめいた。蜂須賀正勝が顎を擦りながら言う。
「すでに摂津の織田方の兵力は回復している。しかも、高山右近が高槻城に復帰したので高山勢も無傷で我等の味方だ。これで北陸や伊勢の軍勢が加われば、摂津の織田の兵力は四万を越えるな」
ちなみに高山重友の父で有岡城で人質になっていた高山友照は、有岡城降伏の際に他の人質共々救出されていた。だが自ら有岡城に入ったことが咎められ、現在は安土城下の高山右近の屋敷内にて謹慎中であった。
「しかし、越前府中の連中まで動員するか。上杉の抑えはしなくて良いのか?」
浅野長吉の発言に対し、秀吉が答える。
「北陸はこれより雪よ。恐らく不識庵(上杉謙信のこと)も能登や加賀に取り残される前に越後へ引き返すじゃろ。後は加賀の一向門徒だけじゃが、あいつらなら右衛門尉殿(佐久間信盛のこと)だけでも十分だと上様も判断されたのじゃろう」
「佐久間様に任せて良いのだろうか?上様の命に従わず、能登へ援軍に行かなかったのでは?」
前野長康がそう言うと、秀吉は首を横に振りながら話す。
「いや、右衛門尉殿の判断は正しい。敵地の加賀を突破して能登へ向かうのは余りにも無謀じゃ。それに、不識庵も馬鹿ではない。七尾城を攻めるに当たり、調略を仕掛けていたはずじゃ。そもそも、七尾城の内紛を上様が考慮していないのがおかしいのじゃ」
秀吉が治める北近江は、長浜だけではなく大浦や塩津といった湊町を抱えている。これらの湊町には、北国街道や日本海航路と接続している。そのため、北近江は実は北陸や東北の日本海側の情報を比較的手に入りやすい場所なのだ。従って、秀吉は長浜にいながら、北陸や東北への情報網を独自に持っていた。
そんな秀吉から見れば、能登国畠山家の内紛は当然知っていた情報であった。
「ま、右衛門尉殿は上様への報告を怠ってた、と又佐(前田利家のこと)が言っておったからな。右衛門尉殿が畠山の内紛を知っていたのか知らなかったのかは儂には分からんが、その旨をお伝えしなかった右衛門尉殿が一番悪いんじゃがな」
秀吉はそう言うと、「ヒヒヒ」と嫌な笑いをした。続けて自分の考えを述べる。
「恐らくじゃが、全てが落ち着いたら右衛門尉殿には何らかの処分が下されるぞ。まあ、あの方もそろそろ歳じゃ。隠居して息子の甚九郎殿(佐久間信栄のこと)に家督を譲って、知行を減らされる、と言ったところかのう」
秀吉の言葉に、皆は複雑な表情を浮かべた。織田家第一の重臣の処分をどう捉えればよいのか判断できなかったからであった。そんな場の空気を読んだ秀吉が、話題を変えるように話し出す。
「というわけで、藤十郎からの話は以上じゃ。花隈城攻めは恐らく十二月中に行われるじゃろう。それが終われば、摂津の平定は完了じゃ。来年からは、いよいよ播磨平定に動くことになる。が、その前に調略や諜報をまさにやっているところじゃ。今日はその状況を皆に知ってもらいたい。まずは半兵衛の話を聞こうかの」
秀吉がそう言うと、妙に顔色が良い竹中重治が「承りました」と平伏した。
「三木城の別所長治の動向でございますが、有岡城と大物城陥落の報で、三木城内は混乱の極みに達しております。まず、三田城から撤退した別所孫右衛門尉殿(別所重宗のこと)が三木城に入らず、自らの居城である豊池城に引き上げ、そのまま籠もってしまいました。それに対して、小三郎殿(別所長治のこと)のもう一人の叔父で親毛利派の山城守(別所吉親のこと)が兵を率いて攻めましたが、返り討ちにあって失敗。三木城の別所勢は豊地城に手を出せない状態となっております」
この頃の豊地城は、別所家が織田方についていた頃に三木城と共に信長の支援を受けて拡張改築されており、しかも周辺に支城を抱える大規模な近世城郭となっていた。さらに、重宗とその兵は長治の名代として織田の戦に駆り出された歴戦の猛者揃いなのに対し、反信長の吉親とその兵は理由をつけては織田への援軍を断っていたので実戦経験には乏しく、吉親が重宗に勝てる道理はなかったのであった。
「おかげさまで、三木城内は一枚岩とは言えない状況のようですな。まず、戦に負けた山城守の発言力が低下しました。次に叔父の裏切りという出来事に小三郎殿が疑心暗鬼となり、国衆へ疑いの目をかけるようになりました。結果、小三郎殿に反発する国衆も出てくるようになりましたので、これを期に城内に調略を仕掛けました。残念ながら、内応したのが有馬源次郎殿(有馬則頼のこと)と加古川城主の糟屋助右衛門殿(糟屋武則のこと)だけでしたが、それでも東播の情報が入りやすくはなりましたな」
重治の報告を聞いた皆は「おお〜」と感嘆の声を上げた。しかし、そんな中、重秀が訝しむような視線を重治に向けていた。それに気がついた重治が重秀に聞く。
「・・・何か、それがしの報せにご不明な点でもありましたかな?若君」
「あ、いや。そのようなことは。ただ、やたらと顔色がよろしいなと思ったもので・・・」
重秀が遠慮がちにそう言うと、重治は「ああ、これですか」と、頬を右手で撫でながら話し始めた。
「殿の命で、湯山温泉(有馬温泉のこと)にて調略や諜報を行っております。あそこは他国からも湯治客が多く来ますからな。諜報には丁度良い場所なのです。ついでに、それがしも湯治を行っておりました」
「殿様のところに行っておった藤十郎は知らなかったか。儂が湯治しろと命じたのじゃ。半兵衛にはまだまだ働いてもらわねばならぬ。湯山の温泉は万病に効くと昔から言われておったからのう。年末まで我等はここにいるのだから、ついでに湯治してもかまわんじゃろ?」
重治に続いて秀吉が話を続けた。重秀が「とてもよろしいことにございます」と言って賛意を示すと、秀吉は満足そうに頷いた。そして今度は視線を黒田孝隆に向けた。
「官兵衛。西播はどうなっておる?」
「はっ、西播にも有岡城での戦いの詳細が伝わっており、やはり小寺家内部に動揺が広がっておりまする。我が父(黒田職隆のこと)と残った家臣達は、姫山城(のちの姫路城)で表向きは小寺政職に従う素振りをしておりまするが、水面下で他の小寺家の家臣達に接触、何名かをこちら側へ寝返らせておりまする。また、西播では鶏籠山城主の赤松孫次郎様(赤松広英のこと)および置塩城主の赤松左京大夫様(赤松則房のこと)と接触することに成功。筑前様が西播侵攻の際はすぐにでも馳せ参じると申しておりました。ただ、毛利の軍勢が上月城へ増援を送り込んでいることから、今年中には御着城に毛利の軍勢が入るものと考えておりまする」
ハキハキと答えた孝隆に、秀吉は満足そうに頷いた。この頃になると、孝隆は秀吉の家臣として振る舞うようになってきた。
―――父上に優秀な者が家臣になるのは喜ばしいのだが・・・。あんなに重用して家臣達の和が乱れなければ良いんだけど。それに、あまり活躍すると、姫山城が報復で攻められるんじゃないのか?―――
重秀がそんなことを考えているとは知らない秀吉は、今後のことについて話し始めた。
「我等羽柴勢も兵力を回復することができた。これも小一郎が三田城攻略直後に長浜に戻って我が領地を適正に治めてくれたお陰じゃ。これなら十二月中に行われるであろう花隈城攻めに羽柴勢も参加できるというものよ。というわけで藤十郎、羽柴勢の総大将はお主に任せる故、殿様のもとで功を上げて参れ」
「承りましたが・・・。父上は行かれぬのですか?」
首を傾げながら尋ねる重秀に、秀吉はしどろもどろになりながら答える。
「あー、その、なんだ。儂は播磨平定の準備をしなければならぬ。半兵衛と共に調略をしようと思ってだな。半兵衛の身体の様子も気になるし。そうそう、小一郎とも連絡を取らねばならぬ。戦場でうろちょろしては小一郎とも連絡はつきにくいからのう」
「義兄貴よ、『湯山温泉で女子と一緒に風呂に入りたい』と正直に言ったらどうだ?」
「阿呆!女子は余計じゃ!」
長吉のからかいの言葉に思わず秀吉が怒鳴った。その後、秀吉を含めた全員が大笑いした。もっとも、重秀からは乾いた笑い声しか出なかったが。
十二月に入ると、有岡城攻めの話は尾ひれが付きまくって他国に広がっていた。さすがに十万人が死んだという誇張はなされなかったが、それでも数万人が有岡城で殺されたという話が中国や九州にまで伝わっている。そして各勢力はそれぞれの思惑に従い動き出していた。
備前石山城主、宇喜多直家は有岡城攻めの話を聞いた後、織田家への認識を改めることとなった。すなわち、織田の力が毛利や足利義昭の考えている以上なのではと考えるようになっていた。とりあえず直家は表向きは毛利に従う素振りを見せながら、織田とも接触できないかを考えるようになった。
毛利家は有岡城陥落の報が入って戦略の立て直しを図ることとなった。摂津が落とされたことにより、陸路での石山本願寺への補給を諦め、水軍での補給を強化することとなった。毛利はこの時点ではまだ楽観視していた。織田には強力な水軍がまだ無いと判断していたからだった。
毛利が楽観視していたのに対し、石山本願寺は悲観的な考えが広がっていた。それまで教如などの強硬派は箒星の出現を仏敵信長への凶事と散々煽っていたのに、凶事にならなかったどころか吉事になってしまったことに、一般門徒だけでなく指導的立場の僧侶までもが強硬派を批判し始めた。ここまで来ると父親で講和派の顕如に逆らう教如への支持がますます下がってしまった。一部の僧からは教如を後継者から外すべし、という声まで上がってきたほどであった。教如の追い込まれ方は尋常ではなく、この頃安国寺恵瓊に出された密書には、恨み言ではなく泣き言が書かれており、ご丁寧に血涙を表現した血痕まで散らされてあった。
上杉に話が伝わった時、記録では上杉謙信は春日山城にある毘沙門天が祀ってあるお堂に籠もったとされている。
上杉謙信は毘沙門天に帰依しており、願文(神仏へに願いを立てる時にその趣旨を記す文のこと)を毘沙門天に捧げていた。謙信の願文は現代にも数多く残されており、その数は戦国大名でも一番多い。しかし、その内容はやたらと敵を罵倒したり自分の正当性を大げさに書いている物が多い。
今回の有岡城陥落および彗星出現に関する願文は残念ながら残っていない。本人が書かなかったのか、それとも罵倒の内容がひどすぎたので歴史の闇に葬り去られたのかは不明である。
こうして、有岡城の戦いは各地に影響を及ぼすこととなり、織田の名声が上がる一方、信長包囲網はますます綻んでいくこととなった。