ねねの子
永禄五年(1562年)八月。秋の気配が漂う尾張・清洲の町を、一人の男が全力で駆けていた。五尺(約151センチメートル)にも満たないその小柄な男は、顔を猿のように真っ赤に―――というより猿顔の男が顔を真っ赤にして息を切らしながら駆けていた。
足をもつれさせながらも駆けきった猿顔の男は、長屋のとある部屋の前で止まると、息を整えることもなく障子もろくに貼られていない戸を引き開けた。
「小竹!ねねは!?ねねはどうした!?」
そう言いながらも猿顔の男は部屋に入っていく。しかし、部屋には誰もいなかった。狭い部屋なので見渡せるはずなのに、それでも猿顔の男は部屋を歩き回りながら誰かを捜していた。
「・・・あんちゃん」
焦るような気持ちで部屋の中を捜していた猿顔の男の背中に、誰かが話しかけてきた。男が振り向くと、そこには男よりやや背の高い男が、部屋の土間に立っていた。
「おお!小竹か!?どこいってた!というか、なんでそんなにボロボロなんじゃ!?いや、それよりも、ねねは!?ねねはどうした!?」
小竹と呼ばれた男に飛びかかろうとした猿顔の男の目の前に、小竹は右手に持っていた物を見せた。それは使い古しながらも清潔な手ぬぐいにつつまれた物であった。
「・・・義姉さまじゃ。杉原の家から取り返してきた」
真っ赤な顔から真っ青な顔に変わった猿顔の男は、小竹から受け取ると、手ぬぐいをゆっくりと開いた。そこには、小さな位牌があった。
「あ・・・、ああ・・・、あああ・・・」
小さな位牌を抱いたまま、猿顔の男はその場に崩れ落ちた。そんな猿顔の男の前で、小竹は勢いよく土下座した。
「すまねぇ!あんちゃん本当にすまねぇ!オラがいながら、義姉さまを死なせちまった!それだけじゃねぇ!葬式も出せず、杉原家で出してもらった!位牌は何とか返してもらった!それで堪忍してくろ!」
猿顔の男がが帰る直前まで義姉の実家で罵られたことを思い出し、小竹は泣きながら謝った。
土下座し、頭を土間に何度も叩きつけている小竹の懺悔の声を、猿顔の男は位牌をじっと見ながら聞いていた。涙を拭かず、ただ位牌を見つめ続けた猿顔の男は、そっと位牌を脇の板床に置くと、立ち上がり、土下座して頭を打ち付ける小竹の側に近づいた。そして、片膝をついてしゃがむと、いきなり小竹の頬を張り飛ばした。
「阿呆!お前が頭かち割ったところで、ねねはもう帰ってこねぇ!だから、もうそんな事するのはやめろ!」
そう言いながら、打たれた頬を抑えながら見つめる小竹の額を、さっきまで位牌を包んでいた手ぬぐいで拭いていた。何度も土間に打ち付けたせいで血まみれになった額を優しく拭われた小竹は、嗚咽しながら男の猿顔を見つめていた。
あらかた拭い終わった猿顔の男は立ち上がると、小さな位牌のある板床まで歩くと、その位牌を部屋の隅にある小さな箱に置いた。
「あんちゃん、それは・・・」
「・・・ねねが実家から持ってきた針道具を入れた箱だ・・・。あいつなぁ、これでややこの服を作ってやるんだ、って言ってた。とても嬉しそうに言ってたな・・・。あれが、儂が見たねねの最後じゃった・・・」
そう言うと、猿顔の男は箱の前でうずくまり、再び嗚咽し始めた。そして、大声で叫び始めた。
「ねね!なんで死んでしもうたんじゃ!折角、折角ややこも出来て、親子三人で暮らしていけると思ったのに!なんでじゃ!・・・やっと、やっと人様と同じ生活ができると思ったのに・・・。儂は、儂はまた一人になってしもうた・・・」
オイオイ泣き崩れる猿顔の男に、小竹は近づくと、そっと背中に手をおいて話し始めた。
「あんちゃん、ややこの事なんじゃが・・・。ややこは生きとる」
「・・・」
うずくまっていた猿顔の男は、小竹の言ったことが理解できず、思わず小竹に顔を向けた。
「・・・義姉さまが亡くなったのは、ややこが思ったより早く産まれたからなんじゃ。しかも、結構な難産だったんじゃ・・・。ややこが産まれた後、三日は生きていたんじゃが・・・」
小竹の話を聞いていた猿顔の男は、最初は呆然としていたが、次第に双眸の光が強くなっていた。そして小竹の両肩を両手で掴むと、揺さぶりながら聞いた。
「・・・ややこはどこじゃ。ややこはどこにおる!」
「前田様んところの奥方様が預かってる・・・。杉原んちじゃあ『忌み子』じゃっつうて預かってくれんし、浅野んちじゃあ『乳母がまだ見つかってない』つって渋ってたところに、おまつ様が『じゃあ、うちで預かりましょう』つって・・・」
小竹がそう言うと、猿顔の男はあっという間に部屋から飛び出していった。向かう先は、猿顔の男が尾張国清州城城主、織田上総介信長に仕え始めたときから良くしてもらっている前田又左衛門利家が住む侍屋敷―――猿顔の男が住んでいる長屋の隣であった。
荒子城城主、前田蔵人利久の三番目の弟である前田利家は、幼少より織田信長に仕える若武者である。信長の親衛隊に当たる赤母衣衆筆頭にも選ばれたこの男は、信長の同朋衆(主君の近くで芸能や雑務を行う人々)の一人を斬殺するという事件により織田家から追放され、その後帰参を許されるという経緯を持つ男であった。そのため、本来ならもう少し清州城に近い侍屋敷に住むことができるのであるが、出戻りということで足軽長屋の隣にある、身分の低い侍が住む事になっている小さな屋敷に住んでいた。
さて、そんな小さな屋敷には、利家の他に妻のまつ、娘の幸、そして今年の二月に生まれた犬千代(後の前田利長)が住んでいた。妻のまつは、先日なくなったねねの幼馴染であり、また、利家自身も血筋や家柄に関係なく人と付き合える好男児であったため、ねねとその夫であり、百姓出身の猿顔の男―――木下藤吉郎とは仲が良かった。そんな前田家の屋敷に、藤吉郎が裸足で駆け込んできた。
「おまつ殿ー!儂の、儂のややこはどこじゃー!」
「お静かに!ややこが起きてしまいまする!」
叫びながら障子の扉を引き開けた藤吉郎に、部屋にいた女性が藤吉郎が扉を開けると、部屋の女性が鋭くたしなめた。
「す、すまん。で、儂の、儂とねねの子は?」
「こちらで寝ておりますよ」
ひそひそ話をしながら藤吉郎は、まつが手で示した先を見ると、そこには二人の赤ん坊が並んで寝ていた。
「おお・・・、おおっ・・・」
双眸から涙を流しながら赤ん坊が寝ている布団に近づくと、手前にいた赤ん坊を大事そうに抱いた。
「かわええのう・・・。かわええのう・・・。なんという猿顔じゃ・・・。儂にそっくりじゃあ・・・」
「それは犬千代でございます」
顔をクシャクシャにしながら呟く藤吉郎に、まつはそっけなく告げた。藤吉郎は黙って抱いていた赤ん坊を元の布団の上に戻すと、隣で寝ていた赤ん坊をそっと抱きかかえた。
「おお、おお、かわええのう。かわええのう。これは大きくなったら美しい娘になりそうじゃのう・・・」
「男子でございます」
まつが若干怒気を孕んだ声を藤吉郎にかけた。
「そ、そうか。し、しかし、こう言ってはなんじゃが、少し男らしくないというか、なんというか・・・」
「赤子は産まれたときには男も女もございません。それに、ねねさまに似たのでしょう。誠に、まっことに父親に似てなくてよろしゅうございました」
まつが本気で喜んでいるような言い方に藤吉郎は苦笑いするしかなかった。
「おう、藤吉郎。戻ってたのか」
座りながら赤ん坊を抱いている藤吉郎の背中から、男の声が聞こえた。藤吉郎が振り向くと、そこには藤吉郎の弟である小竹と、身長六尺(約180cm)はあろうかという大男が立っていた。この大男こそ、この屋敷の主、前田利家である。
「父上、お帰りなさいませ」
それまで黙ってまつの隣りに座っていた娘―――幸が立ち上がって利家の足に抱きついた。
「おお、幸か。只今帰ったぞ」
「これは又左殿、お邪魔しておりまする」
「俺とお前の仲ではないか、そう恐縮するな」
頭を下げる藤吉郎にそう声をかけながら、利家は藤吉郎の隣に腰を下ろした。そして、幸を膝の上に座らせると話し始めた。
「どうじゃ、子を持つというのは。良いものであろう?」
利家の問いに、藤吉郎は只々うなずくばかりであった。
「ふむ、それにしても、見れば見るほど父親に似ておらぬのう・・・」
「きっとねね似ですじゃ。大きくなったら、さぞかし眉目秀麗な男子となるに違いないですぞ」
「ああ、確かにねね殿は中々の器量良しじゃったからのう・・・。ならば、幸と娶せるか。幸も美人になるから、良き夫婦になるぞ」
「おお、そうなれば木下と前田は縁戚になりまするな!大変ありがたいことですじゃ」
「お二人とも、気が早うございまする」
暴走しつつある藤吉郎と利家の会話をまつが止める。二人が苦笑しながら会話を止めると、まつは藤吉郎の方に体を向けた。
「ところで、その子の乳母はどうなりましたか?」
「え?それは、その・・・」
まつからの質問の答えに窮した藤吉郎。そんな藤吉郎を助けるかのように、今まで部屋の隅でかしこまっていた小竹が口を開いた。
「今の所、浅野家の方で捜しておりますが、未だ見つかっておりません・・・」
そう言うと、小竹は今までの経緯を話し始めた。
現在と違い、当時の赤ん坊が口にできる栄養源は母乳のみであった。また、当時は医療が現在のように発達しておらず、ねねのように産後に衰弱して亡くなる母親が多い時代でもあった。つまり、母乳が飲めずに死ぬ乳児も多くいた、ということである。
乳児の時期に母親が亡くなった場合、乳児を生かすには、母乳を与えてくれる人を捜さなければならない。これが高貴な人々や大商人など、経済的に裕福であれば乳母を雇えばいいのだが、乳母を雇えるほど余裕がない人は、母乳が出る親戚や知人、近所の人を頼らなければならなくなる。
「私共には姉と妹がおりまして、共に所帯を持っておりますが、今だ子を作ってはおりませぬ。故に乳が出ない以上、ややこを預けることができませなんだ」
小竹の言う通り、藤吉郎兄弟にはともと言う姉とあさと言う妹がいる。二人共すでに藤吉郎らの出身地である尾張国愛知郡中村の近辺にある百姓に嫁いでいた。しかし、二人共まだ子ができておらず、したがって母乳が出せなかった。
「藤吉の実家が頼れんとなると、後はねねの実家か・・・」
小竹の話を聞いた利家が呟いた。
木下藤吉郎の妻、ねねには実は2つ実家がある。生まれた実家である杉原家、その後養女に入った後の実家である浅野家である。
「杉原家は乳母を捜すことを拒否いたしました。当主様と義兄上は捜す気だったのですが、御方様が反対されておりまして・・・」
「あそこの家はなぁ・・・」
小竹の説明に、前田利家はため息をついた。
百姓の子である木下藤吉郎と低いながらも武家の娘であるねねとの身分差結婚に、最後まで反対したのがねねの生みの母親である杉原家の御方様(朝日殿)であった。
ねねが出産の後に亡くなると、朝日殿の藤吉郎とその子に対する憎悪は凄まじいものであった。朝日殿にしてみれば、子を作らせた藤吉郎や直接の死の原因となった子は、かわいい娘を殺した張本人だと思っているのだろう。
実際、ねねが死ぬと、仕事で帰ってこない藤吉郎の留守を守っていた小竹に有無を言わさず―――小竹も強くは言えなかったが―――ねねの亡骸を引き取り、杉原家で葬儀を済ませると、杉原家の菩提寺に墓を作って埋葬してしまった。小竹はせめて位牌だけでも兄に渡そうと杉原家と交渉するも、朝日殿の強硬な反対で中々位牌を渡してもらえなかった。
小竹が三日三晩、杉原家の屋敷の門前で土下座し続けて、その姿を見て同情したねねの実兄である杉原孫兵衛(後の木下家次)の説得がなければ、今でも位牌は藤吉郎の手元にはなかったであろう。
「御方様は今でもややこを『忌み子』と呼んでいます」
「・・・小竹、すまねぇ。儂がねねの側で居られんばかりに苦労をかけるのう・・・」
「それは仕方なかろう。今、清州城から新たな城に移らんとしている真っ只中じゃ。賄方(台所などを管轄する部門)や普請(土木工事を管轄する部門)を任されておる藤吉は、家に帰る暇もないはずじゃ」
利家の言うとおり、現在、織田信長は本拠地を清州城から小牧山にある城に移ろうとしていた。美濃攻略のための本拠地とするためである。
本拠地の移転となると、織田信長本人はもちろん、本人の家族や家臣、その家族に城下に住まう人々をも移転させるのであるから、織田家家中が多忙になるのは当然である。そして、藤吉郎も例外ではなかった。
小竹の話はまだ続く。
「浅野家の方は杉原家と違い、当主様も御方様も実妹様も積極的に乳母捜しをなされておりまするが、中々適当な方が見当たらないご様子です」
ねねのもう一つの実家、浅野家は杉原家と違って全員が藤吉郎とねねとの結婚に賛成していた家である。一説では、藤吉郎とねねとの結婚を仲介した織田信長が、反対する杉原家の朝日殿に業を煮やし、ねねを浅野家の養女として藤吉郎に嫁がせるよう、浅野家に命じたと言われている。
浅野家にはねねが養女になる前に、ねねの実妹であるややと言う人が養女に入っていた。彼女は浅野家の入婿という形で夫となった浅野長吉(後の浅野長政)と結婚していたが、残念ながらまだ子を成していなかった。なのでこちらも藤吉郎の子のために乳母を捜さなければならなかったのだ。
「でしたら、いっそ私が乳離れするまで面倒を見ましょうか?」
小竹の話が終わるやいなや、それまで黙って聞いていたまつが声をかけた。
「いや、ただでさえややこの命を救ってくれたおまつ殿に、これ以上のご迷惑は・・・
」
「何を言ってるのですか。ねね殿が命をかけて残した子です。友である私が助けなくては、ねね殿に叱られてしまいます。それに、我が夫が織田家より追放されていた頃、大変良くしていただきました。その御恩を返しとうございます」
「そうだなぁ、うちには犬千代もいるし、ついでに乳も与えられるしなぁ。赤子が一人増えたところでどうということはない。それに幸と一緒に育てられるなら、将来夫婦になっても仲睦まじくなれるだろうし」
藤吉郎が困惑しながら遠慮すると、まつと利家が微笑みながら答えた。その笑みを藤吉郎はまじまじと見つめていた。
藤吉郎は故郷である中村を飛び出した後、行商人やら武家奉公人やらを苦労してやった後に織田信長に拾われ、武士になったとされている。その間、彼は乱世で最底辺の生活を送ってきたとされる。その時に彼は人間の闇の部分を嫌というほど見てきたと思われる。そのためか、彼は人の笑顔を信用していなかった。人を騙すのに笑顔ほど有用な手段はないからだ。
しかし、利家やまつが藤吉郎に向けた笑顔は、邪な心を覆い隠すものではなかった。ただただ純粋に、生まれた命を救わんがための善意から生まれた笑顔であった。そして、多くのことを経験し、生き延びてきた藤吉郎にそれが分からない訳がなかった。
「・・・前田様、御方様。この猿、御恩は一生忘れません。稼いだ禄は、全て前田家に納めさせていただきまする」
正座し、両手を床に揃えて頭を下げる藤吉郎。それを見た小竹も同じように頭を下げた。
「いや、流石に全部はいらんよ。しかし、実はうちもカツカツなんだ。禄は少ないし、荒子の兄上(前田利久のこと)はケチで仕送りしてくれないし。藤吉の子の分だけの食い扶持さえ貰えればありがたい」
「その程度でよろしければいくらでも持ってってくださいませ」
「ところで藤吉郎様、ややこのお名前は?」
利家と藤吉郎が笑いながら話し合っていると、まつが藤吉郎に問いかけた。
「おう、考えてきたぞ。『大松』じゃ。大きい松と書く。冬でも枯れず、青々とした大きな松のように、大きく、長く生きてほしい、そういう意味で名付けた」
藤吉郎が晴れ晴れとした顔で答える。その笑顔は、まるで日輪のように明るい、温かい笑顔であった。
「それは良い名前でございまする」
そんな藤吉郎の笑顔を見て、まつも微笑む。
「よし!名前も決まった。藤吉、大松は前田家でしっかりと養育するからな。安心して励めよ!よし、こうしてはおれんな。今から犬千代と一緒に槍の鍛錬じゃ!」
「又左殿!?まだ赤子ですぞ!?」
「何を言うか藤吉!儂の婿殿になるのじゃ。儂より強い男子でなければ婿とは認めん!」
「『槍の又左』に勝てるわきゃねーぎゃ!いい加減にしてくだされ!」
利家と藤吉郎の声が段々と大きくなったせいで、藤吉郎の腕の中で寝ていた大松が目を覚まして泣き出してしまった。つられて布団の上で寝ていた犬千代も目を覚まし、泣き出してしまった。
「ほらほら、そんなに騒ぐから、大松も犬千代も起きて泣き出したではございませんか」
まつの楽しそうな声と、赤ん坊の鳴き声にオロオロする利家と藤吉郎、そんな大人を興味深そうに見つめる幸。そんな光景を見ながら、小竹―――後の豊臣秀長は心の中で亡くなったねねに語りかけていた。
―――義姉さま、ややこはこんなにも多くの人に慈しまれておられまするぞ。何卒、大松をあの世から見守ってくだされ―――
木下藤吉郎―――後の豊臣秀吉の腕の中で、元気に泣き続ける赤ん坊こそ、この小説の主人公である木下大松、元服して羽柴藤十郎重秀、そして後の豊臣秀重その人である。
注釈
豊臣秀吉の妻、ねね(寧々、おね、寧とも)の生年月日は不明である。しかし、後世に伝わる数少ない資料によれば、ねねは1548年(天文17年)生まれだと言われている。
この時代の結婚適齢期は15歳前後とされている。しかし、子を産むのはその数年後から、とされていた。やはり、15歳前後の出産は母子の生命に関わる危険な行為だったのである。
そう考えると、満年齢11歳で長女、幸を産んだ前田利家の妻、まつは例外中の例外と思われる。