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推理茶房4869  作者: 貴堂水樹
二作目 アレルギーと殺意
9/24

2-1.

『星乃巡査長、招集がかかりました。殺人の疑いあり。被害者(マルガイ)は丸篠ホールディングス前社長の妻、篠岡(しのおか)ひばりだそうです』


 そんな電話がかかってきたのは、三月十二日土曜日、午後九時を少し回った頃だった。

 ようやくからだじゅうにへばりついた花粉を風呂で洗い落としたところだったというのに、再びスーツに袖を通して外に出たらまた全身が花粉まみれになってしまう。憂鬱でたまらなかった。

 夜通しの仕事になることもしんどいが、花粉との闘いはもっとしんどい。重い足取りで、星乃は自宅をあとにした。


 東京ではなく、名古屋に本社を置く日本有数の大企業、丸篠ホールディングスの創業者一族が住む邸宅は、県警本部からそれほど遠くない尾張徳川家ゆかりの地、名古屋市(ひがし)白壁(しらかべ)にある。



 丸篠ホールディングス。

 もともとは戦前から続く不動産業で富を築いた家族経営の会社だったが、今やありとあらゆるビジネスに手を出し、ことごとく成功を収めているグループ企業である。本社は創業時から変わらず名古屋にあり、創業者一族が経営権を握る昔ながらのスタイルも長らく守り継がれている。

 篠岡ひばりは、今からちょうど四十年前、二十歳の時に丸篠ホールディングスの創業者一族である篠岡家に嫁いだ、東京都出身の資産家令嬢だった。夫であり、先代の丸篠ホールディングス代表取締役社長であった篠岡宗之(むねゆき)とはいわゆる政略結婚で結ばれたそうだが、特に夫の宗之のほうがひばりにゾッコンだったらしく、社内でも評判のおしどり夫婦だったという。


 夫の宗之の訃報が日本列島を駆け巡ったのは、ちょうど星乃がニセ強盗殺人事案をきっかけに『珈琲茶房4869』のマスターと出会った頃、一月二十日のことだった。死因は末期のがん。発見から幾月も経たないうちに、六十三歳という若さで急逝した。

 宗之とひばりの間には五人の子どもがおり、一番上の長男、篠岡青羽(あおば)は三十歳という若さで取締役専務のポジションにつき、現在は副社長の地位につく三十七歳。飄々とした立ち姿とは裏腹に、堅実な仕事ぶりが高い評価を呼び寄せている若手の有望株だそうだ。四つ年下の妻、歌織(かおり)との間に二人の子ども、すなわち、被害者である篠岡ひばりの孫がいる。十歳の長男、(まこと)と、六歳の長女、(あい)だ。


 そんな有能な青羽でも由緒ある大企業の舵取りをするにはまだ少し早いと判断されたのか、宗之の死によって予期せず空席となった社長の椅子には、彼の実弟である篠岡和之(かずゆき)がついている。宗之の剛腕ぶりは歴代の社長をはるかに(しの)ぐとささやかれていたそうだが、和之もなかなかの策略家であると組織の幹部連中は口を揃えて言うのだとか。彼は妻、惠美(えみ)との間に子がおらず、近い将来、青羽が社長の座につく予定になっているそうで、「俺は所詮つなぎ役だよ」と漏らす姿もあったようだ。


 丸篠ホールディングス関連では、上から数えて二番目の長女、福谷(ふくたに)(いずみ)、旧姓篠岡泉の夫である福谷浩輔(こうすけ)が、企業法務を専門とし、丸篠の顧問弁護士を務めている。

 副社長である青羽に次ぐナンバースリー、取締役専務の座につくのは大沢(おおさわ)道明(みちあき)という男で、創業者一族の人間ではないが、宗之・和之兄弟の父の時代から丸篠に仕え、実直な性格と確かな手腕で信用と信頼を勝ち取り、数年前から執行役員に就任している生え抜き社員である。


 創業者一族に生まれついた男の中で、唯一丸篠で働いていないのが、上から数えて四番目の次男、篠岡朝日(あさひ)だ。彼はまだ大学三年生で、卒業後も関連子会社を含む丸篠グループで勤めるつもりはなく、専攻している機械工学の道を(きわ)めたいのだという。

 上から数えて三番目の次女、篠岡(みどり)も、丸篠とはまるで縁のない職についている。駆け出しのファッションデザイナーで、普段は東京のデザイン事務所で鋭意修行中とのことだ。名古屋に帰ってくるのは正月休み以来らしい。

 末っ子の三女、篠岡(さくら)は現在高校二年生。医学の道を(こころざ)しているそうで、受験勉強に明け暮れる日々を過ごしているという。


 ここまでに名前の挙がった、篠岡ひばり、篠岡青羽、篠岡歌織、篠岡誠、篠岡愛、福谷泉、福谷浩輔、篠岡翠、篠岡朝日、篠岡桜、篠岡和之、篠岡惠美、大沢道明の十三名に加え、二十年以上前から篠岡家で住み込みの家政婦をしている保田(やすだ)紀代子(きよこ)を含めた十四名が、この日、篠岡邸につどっていた。三月十二日は篠岡ひばりの記念すべき六十回目の誕生日で、ささやかな還暦祝いが()りおこなわれていたらしい。


 そのようなめでたい日に、事件は起きた。

 パーティーの主役である篠岡ひばりが、ピーナッツアレルギーによるアナフィラキシーショックを起こし、尊い命を落としたのだ。



 班長を隣に乗せた捜査車両で現場に向かった星乃は、車両から降り立った瞬間、(そび)え立つ大豪邸に軽いからだの震えを覚えた。


「でっけぇ……!」


 制服警官が警備に当たっている門扉が、まずもって立派だった。高さは二メートルを優に超え、物語の世界に登場する西洋の城を思わせる尖った装飾が施された鉄柵の扉である。

 制服警官と互いに挨拶を交わし、開けてもらった門をくぐると、星乃は改めて(やしき)の外観を見上げるように観察した。


 邸周辺を囲む洋風の外灯と、建物から漏れ出す室内灯の光はともにあたたかみを感じる暖色系で、濃紺の夜空を照らす冴えた月の明かりも相まって、二階建ての建物の輪郭は夜でもくっきりと映し出されていた。

 立派という言葉ではとても言い尽くせないほどの大豪邸だった。更地にすれば一般的な一軒家が三つ、四つは軽く建ってしまいそうだ。

 邸だけでなく敷地そのものが広大で、街を歩く人の視界を遮るように、やや背の高い生垣が周囲をぐるりと囲っている。絢爛なドレスをまとったお姫さまでも暮らしているのか。

 ため息まじりに星乃はぼやいた。


「一度でいいから住んでみたいっすよねぇ、こんな城みたいな家」

「オレは遠慮する。広すぎて、どう暮らしていいのかわからん」


 隣を歩く班長の意見は、庶民的だがもっともだった。確かに、これだけ大きいと何部屋も持て余すことになりそうだ。掃除もかなりの重労働になるだろう。

 邸の扉まで続く石畳(いしだたみ)を歩きながら、星乃は向かって右手に広がる庭の中心に噴水を見つけた。庭に噴水のある豪邸。住む世界が違うというのはまさにこのことだと痛感した。


「ワンワンッ!」

「うわぁっ」


 噴水に気を取られていて、左側にまったく意識が向いていなかった。左耳をつんざくような野太い鳴き声に驚いて振り返ると、邸の入り口前にある短い階段の脇に、黒いドーベルマンが控えていた。


「ワンワンッ!」

「わぉ、番犬までいるのね」


 明らかに星乃を威嚇しているくだんのドーベルマンは体長一メートル強。シャープな顔に眼光鋭い目つき、闇夜に光る白い牙。なるほど、ヘタなセキュリティ対策よりよほど役に立つかもしれない。邸に馴染みのない警察官が大勢出入りしているせいで、少々気が立っているようだ。


「大丈夫。おにいさん、悪い人じゃないよ」


 足音を立てないようにゆっくりと近づくと、賢いドーベルマンは威嚇の姿勢を解いた。星乃はなぜか昔から動物に好かれるタイプで、「よしよし」と頭や首を撫でてやると、ドーベルマンは「クゥン」と嬉しそうに喉を鳴らした。


「かわいいなぁ。そうか、メスか。名前は……イレーネ? アイリーンかな」


 首輪に下げられたシルバーのネームタグには『Irene』と刻まれていた。英語読みならアイリーン、フランスではイレーヌ、イタリアやポルトガルではイレーネと発音すると聞く。


「イレーネ」


 ドーベルマンは返事をしない。


「アイリーン」

「ワン!」


 今度は胸を張って一つ吠えた。彼女の名はアイリーンというらしい。素直ないい子だと、星乃はアイリーンをあちこち撫で回してから、改めて邸へと足を向けた。

 が、


「へっくしゅん!」


 短い階段を上り、邸宅に足を踏み入れようとした瞬間、唐突にくしゃみの発作が起きた。二回、三回とくり返すと、班長が呆れた目をして星乃に言った。


「なんだよ、おまえ犬アレルギーまで持ってんのか」

「いえ、全部花粉のせいです」


 グズグズやり始めた星乃にあきれて、班長は「現場に入ったらくしゃみ禁止だぞ」と釘を刺した。わかっている。星乃だって、無闇に鑑識係と睨み合うことは避けたい。

 途切れることを知らない鼻水をすすりながら、右手の親指と人差し指で小鼻をつまみ、迎香(げいこう)というツボを刺激する。鼻づまりなど花粉症の諸症状を軽減してくれるというが、気を緩めると透明な鼻水が滝のように流れ出るので、効果のほどは定かではない。


 どうにかこうにか落ちついたところで、星乃は新品のマスクや足カバーなど現場保存のための装備を身につけ、現場へと踏み込んだ。篠岡ひばりが息絶えたのは、建物の一階にある寝室でのことだと聞いていた。


 一般家庭のリビングと同等の広さがあり、しかし内装の絢爛さはそれほど感じられない、シンプルで落ちついた部屋だった。

 扉を開けて左手には、手前から本棚、ロッキングチェア、デスク一式、四十インチのテレビ、背の高い観葉植物。デスクの上にはラップトップPCが一台、ディスプレイの閉じられた状態で置かれていたが、鑑識係が中身を調べるために押収したと聞かされた。

 中央にはソファが二台と、その間にガラス天板のローテーブル。正面奥、バルコニーへと出られる大きな窓にはモスグリーンのカーテンがかかっている。

 そして、入って右手側。手前から洋簞笥(たんす)、西洋アンティーク風のドレッサー、キングサイズのベッドとナイトテーブルが順に並ぶ。ドレッサーの椅子には被害者のものと思われる革製のハンドバッグが置かれており、財布やスマートフォンなどが入れられていた。

 それ以外に目を引いたのは、ベッドの脇に用意されたペットのためのトイレと寝床、天井に向かって伸びるキャットタワー、猫用の登り木だった。今はその姿は見えないが、邸の外につながれていたドーベルマン、アイリーンだけでなく、この邸では猫も暮らしているらしい。


 被害者である篠岡ひばりは、広々としたベッドの上で動かなくなっているところを発見されたという。うつぶせ寝の状態で、発見時にはすでに脈がなく、近隣の病院へ緊急搬送されたが、まもなく死亡が確認された。

 篠岡ひばりは重度のピーナッツアレルギーを持っており、検視の結果、死因は当該アレルギーによってアナフィラキシーショックを起こし、呼吸器不全に陥ったものと判断された。ピーナッツを食べることで喉が炎症を起こして腫れ、気道を塞いでしまうのだという。

 だが、病院へ連れ添った長男、篠岡青羽の証言によれば、その日ひばりが口にしたものの中にピーナッツが含まれていた可能性は万に一つで、事件性ありとして警察が本格的に出動。事故と事件の両面から捜査が始まり、今に至る。


 きれいに整えられた寝室の中で、遺体が下敷きにしていたと思われるベッドの上の掛け布団だけが乱れていた。咳き込んだ際に吐き出したらしい嘔吐物の痕跡も見られ、やや茶色っぽく変色している。

 第一発見者は家政婦の保田紀代子で、ひばりの遺体に近づいた際、口もとからかすかにピーナッツクリームのような甘いにおいがしたのに気づき、アナフィラキシーショックが起きたのだとすぐにわかったとのことだった。

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