1.
「はっくしゅんッ!」
恥じらいの『は』の字もない馬鹿デカいくしゃみをしながら、星乃顕人は『珈琲茶房4869』の扉をくぐった。鼻が痒すぎる。これ以上外の空気を吸っているのは無理だった。
「いらっしゃいませ」
名古屋の片隅で見つけた名探偵、小さな喫茶店を一人で切り盛りする美青年のマスターは、今日も端正な顔でさわやかに微笑み、星乃の来店を歓迎してくれた。
にもかかわらず、二発目のくしゃみが出たおかげでマスターとはまだろくに目も合わせられていない。マスクをしていてもこの調子だ。鼻をグズグズやりながら右手の人差し指を立て、一人で来たことをアピールするだけで精いっぱいだった。
「どうぞ、あいているお好きなお席へ」
閉店時間をやや早めに設定しているこの喫茶店は、ラストオーダーが午後四時三十分だ。現在、午後四時二十分。閉店間際であるせいか、二つ用意されている四人掛けのテーブル席はどちらもあいていた。
星乃は迷わず、向かって左手にあるカウンター席のほぼ中央を陣取った。幸いというべきか、客は星乃以外に誰もいない。
「すいません、騒がしくて」
「とんでもないです。風邪ですか?」
星乃は力なく首を振った。
「花粉症なんです」
二月の末あたりから兆候は見られ始めていたが、三月に入った途端、くしゃみと鼻水が止まらなくなった。ちょうど地域課から刑事課へ異動になった頃にはじめて発症し、今年で三年目。マスクをしていても、事件現場でくしゃみを連発すると鑑識係に怒鳴られる。
内側がすっかり湿っている不織布マスクを顎のほうへとズラし、マチの狭いショルダーバッグに無理やり突っ込んできた箱ティッシュを取り出してテーブルの上に置いた。やはり恥じらうことなく盛大に洟をかむが、むず痒さは一向に改善される気配がない。
他に客もいないからと、無遠慮にくしゃみをし、真っ赤になった鼻からシャビシャビの鼻水を垂れ流し、ティッシュを順調に使い減らしていく。醜態を晒しているという自覚はあったが、もはやどうにも手が着けられなかった。
「あーもー、最悪だ」
「つらいですよね、この時期」
厨房から出てきたマスターが、星乃に同情の目を向けながら、水の入ったグラスを音を鳴らさず器用にカウンターテーブルに置いた。
「私も鼻にくるアレルギーを持っていますので、お気持ちはよくわかります」
「え、マスターも?」
「はい。花粉ではありませんが、私はハウスダストに弱くて。掃除中など、埃が舞うとくしゃみが止まらなくなります」
「そうなんですか。しんどいですね、掃除なんて年じゅうするのに」
話しているうちに、洟をかんだティッシュの山があっという間にテーブルの上に形成された。マスターは厨房へ戻り、半透明の小さなビニル袋を持って再び星乃の席までやってくると、ためらうことなく星乃が作ったティッシュの山を片づけ始めた。
「花粉症には緑茶がいいという話、ご存じですか」
星乃が礼も謝罪もしないうちから、マスターはいつもどおりの穏やかな口調で語り始めた。
「いや、聞いたことないです」
「緑茶に含まれるカテキンという成分に、くしゃみなどのアレルギー症状を引き起こすヒスタミンの放出を抑制してくれる効果があるという研究報告が上がっているようです」
「へぇ、知らなかった。花粉症に効く飲み物なんてあるんだ」
「他にもハーブティーや甜茶がオススメみたいですね。あいにくうちでは取り扱っていないのですけれど」
「でも、緑茶はありますよね」
星乃は壁にかかったメニュー表を見上げる。『煎茶』『ほうじ茶』『緑茶オレ』と、この店でも緑茶のカテゴリに含まれるドリンクを数種類提供していた。
「じゃあ、せっかくなんで今日は煎茶にしようかな」
「ありがとうございます。ホットとアイス、どちらでご用意いたしましょうか」
ホットを頼むと、マスターは「かしこまりました」と恭しく頭を垂れて厨房へと戻っていった。グズグズな自分とは違い、春も変わらずさわやかな出で立ちを保っているマスターのことが星乃は心底うらやましいと思った。
静岡のお茶農家から取り寄せたという煎茶は、湯飲みが運ばれてきた時点で芳醇な香りが鼻を突いた。ほとんど口でしか息のできない星乃の詰まった鼻でも香るのだから、相当のものであることがわかる。一緒に提供されたお茶請けのお菓子は、手作りの豆乳ラスクとのことだった。
淹れたてでアツアツのそれを、ズズッ、とわざとらしく音を立ててすする。「あぁ」と思わず声が出たほど、久しぶりにうまい茶を飲んだ。
店内には落ちついたジャズピアノのメロディーが流れている。ついついゆっくりしていきたくなってしまうが、のんびりくつろいでいる時間はない。午後六時までに署へ戻らなければならないし、今日この場所でやりたいことはいくつかあるのだ。
そのうちの一つは、以前借りた文庫本を返すことだ。読みきるまで、たっぷり二ヶ月かかってしまった。
「これ、ありがとうございました。長いことお借りしてしまってすいません」
立ち上がり、カウンター越しにマスターへ本を手渡す。マスターは湿っていた手をタオルで拭いてから受け取り、「いかがでしたか?」と感想を求めてきた。
「はい。なんていうか、すごいことを考えるな、と思いました。エンターテイメントだなぁって」
「そうですね。仕掛けが仕掛けだけに、文章を読みながら視覚に訴えかけてくる感覚が楽しめるところが、あの作品の一番の魅力だと私は思っています」
「えぇ、まさに。他の作品も、序盤からわくわくさせられるものが多くて、意外っていうと失礼ですけど、本が苦手な俺でも最後まで飽きずに楽しめちゃいました」
「素晴らしいことです。あぁいった、肩肘張らずに楽しめる短編が私も好きで……」
しゃべりすぎたとでも思ったのか、マスターはなにかを言いかけたまま口をつぐみ、本を片づけるために一度厨房奥のバックヤードへと消えた。すぐに戻ってきたけれど、その後も黙々と仕事を続けるばかりで再び口を開く様子はない。
「俺、いろいろ考えたんですけど」
なんとなく、星乃のほうから話しかけた。メニューボードを見上げてそう言うと、マスターの視線が星乃をとらえた。
「あの『謎解き』っていうメニュー、お金を取ってやってもいいんじゃないですか」
マスターは両眉を跳ね上げた。
「まさか。そんなことできませんよ。そもそもあれは妻と妻のお祖父さんが遊びで書いたもので、正式なメニューでもなんでもないわけですから」
「でも俺、やっぱりこの間のお礼をちゃんとしたいんですよ。あの時のニセ強盗殺人事案が解決したのは、どれだけ低く見積もっても、マスターのお力あってこそだったと思うから」
「お客さまがどう思われようがご自由になさっていただければ結構ですが、前回ご来店いただいた時のやり取りごときでお代をいただくわけにはいきません」
「じゃあ、お金っていう形じゃなくてもいいです。なにかお礼代わりになるもので、俺にできることはありませんか」
日が経つに連れて、改めてきちんと礼をすべきだという気持ちが大きくなっていった。素人に助け船を出してもらったことを悔しいと思うこともまるでなく、ただ純粋に、マスターの洞察力に感銘を受けるばかりだった。
さすがのマスターも星乃の押しの強さに打たれたのか、少し考えて、こう答えた。
「では、お時間のある時にここへ来て、うちの売上に貢献していただく、ということでいかがでしょう?」
「なるほど。いいですね。そうします」
「ありがとうございます。ご来店の際にはぜひ、私の話し相手になっていただけたら嬉しいです」
男の星乃でも惚れ惚れするほど、マスターの笑みは整い、美しかった。
しかし悲しいかな、星乃は刑事である。色っぽく細められたマスターの瞳に、一抹の寂しさ、消えない孤独のようななにかが浮かんでいるのを見逃すことはできなかった。
ゆったりとしたテンポのジャズが、急に感傷的な旋律に聞こえ始めた。星乃にじっと見つめられたままで、マスターは静かに厨房の清掃作業に入る。
なんと声をかけていいのかわからず、星乃は湯飲みに手を伸ばした。
いつまでも香り続けている煎茶をすする。垂れてきた鼻水もすする。
話し相手になってほしい、か。
少々引っかかるお願いごとだった。奥さんとの関係がうまくいっていないのかな、などと妙なことをつい勘ぐってしまう。刑事としての悪い癖がまた出ていた。無闇に干渉してはいけない。
ともあれ、話し相手になることをマスターが望むのならば、世話になった者として、こたえてやるのが星乃の務めだ。ちょうど彼と話したい話題もある。
世間話を前説代わりに、星乃はさっそく口を開いた。
「俺もそうですけど、日本人の二人に一人は、なんらかのアレルギーを持っているらしいですね」
「聞いたことがあります。中でも、花粉症に代表されるアレルギー性鼻炎の患者は年々増加しているのだとか」
「えぇ。俺は今年で三年目です」
「私もハウスダストアレルギーとは十年以上の付き合いになります。中学生の頃にはすでに悩まされていた記憶がありますので」
「へぇ。じゃあ俺より先輩だ」
「あまり胸を張れることではないですが」
確かに、と言って星乃は笑った。マスターも微笑み、今度はマスターから話を振ってきた。
「アレルギーといえば、三日ほど前でしたか。丸篠ホールディングスの事件で、ピーナッツアレルギーが話題になりましたね」
星乃は思わず拍手を贈りたくなった。今日ここへ訪れた理由の二つめは、まさにその件についてだった。
「マスターはどこまでご存じですか? 丸篠の事件について」
「ずいぶん含みのある言い方をなさいますね」
マスターは苦笑を漏らす。
「各種メディアの報道では不運な事故とされていましたので、それ以上のことはなにも。丸篠の創業者一族、前社長の奥さまが、ピーナッツアレルギーによるアナフィラキシーショックでお亡くなりになった。前社長が二ヶ月前にご病気で亡くなられたばかりだった。それくらいしか知りません」
星乃は深くうなずいた。おおむねそのとおりだった。
「ですが」
マスターは掃除の手を止めて言った。
「お客さまのご様子を拝見するに、ただの不運な事故ではないと、そういうことなのでしょうね」
ご明察です、と星乃はあっさり白旗をあげた。
「警察は事故ではなく、他殺をお疑いになっていると?」
「俺たちが、というより、ご遺族の方が事故の可能性はないと言いきっているんですよ」
「事故ではなく、誰かが故意に前社長夫人にピーナッツを食べさせた、ということですか」
「はい。だけど……」
他殺だとするなら、誰が、どうやって被害者にピーナッツを摂取させたのか。それがどうしてもわからないところが、本事案の悩ましいところである。
煎茶の湯飲みを握ったまま、星乃は苦笑いをこぼした。
はじめてこの店を訪れた一月以来、事件の捜査に行き詰まると、マスターの顔が頭に浮かぶようになった。
自分の手で事件を解決したいという気持ちがないわけではない。けれど、マスターならこの事件をどう料理するだろう。そんなことをふと考えてしまうのだ。
で、今回も結局ここへ来た。参考までにマスターの意見を聞いておこう、なんて尊大な態度を取るつもりはない。教えてください。そう頭を下げる覚悟で足を運んだ。
恥を忍んで、星乃は「マスター」と言った。
「二度めで恐縮なんですけれど、ここから先は俺のひとりごとってことで、話を聞いてもらえませんか」
ちらりと向けた視線の先で、『謎解き』の白い文字が躍っていた。聡明な名古屋の名探偵は、本事案をどのような視点で俯瞰するだろうか。
マスターは特別嬉しそうにするわけでもなく、数分前と少しも変わらない美しい微笑を湛えると、店先の看板を照らすライトを消し、扉のプレートを『OPEN』から『CLOSE』へとひっくり返した。
オーダーストップ。最後の客は、今日も星乃だ。
厨房に戻り、マスターは星乃のひとりごとに付き合う体制を整えて言った。
「お付き合いします。お客さまのお気の済むまで」