5.
「ぼくが殺らなきゃ、死んでいたのはぼくのほうだったんです」
証拠を突きつけて問い詰めると、矢上拓保はあっさり犯行を自供した。妻が高給取りの自分と金目当てで結婚したのが悔しかったことに加え、離婚を切り出したが、別れるならDV被害を会社へ訴える、おまえに罪を着せて死んでやる、などとありもしない事実を積み上げて脅され、このままではろくでもない人生を送る羽目になると感じ、自らの命と妻の命を天秤にかけた結果、妻の殺害を決意したと彼は取調室で静かに語った。
何者かに奪われたように見せかけた金品は、矢上の所有する自家用車のボンネットを開けたエンジンルームの中から発見された。車上荒らしならいざ知らず、空き巣被害に遭った家の車の中まで調べることはないだろうと踏んだようで、実際、星乃たちは『珈琲茶房4869』のマスターから指摘されるまで、銀色のボディーカバーをかぶった車がアウディであることすら気づいていないという体たらくぶりを発揮していた。灯台下暗しとはまさにこのことだと、星乃は期せずしていい教訓を得ることになった。
矢上拓保の逮捕から一週間後。
ますます冷え込む名古屋東部の街、覚王山を、星乃は上機嫌で歩いていた。寒いけれど、陽は出ている。それだけで気分は自然と上がった。
目的地の扉をくぐると、「いらっしゃいませ」と耳に馴染みのいいテノールボイスが聞こえてきた。今日もグリーンのエプロンに身を包んだ、『珈琲茶房4869』のマスターだ。
テーブル席が埋まっていたので、カウンター席に案内される。午後二時。ティータイムであるせいか、カウンターも残り一席だった。運がいい。
「ご来店ありがとうございます」
水の入ったグラスを持って、マスターが星乃の席までやってきた。
「ホットで」
「ホットコーヒーですね。かしこまりました。すぐにご用意いたしますが、その前に」
マスターは注文を書き留めた伝票をエプロンのポケットへしまうと、一度レジに立ち寄り、すぐに星乃の席へと戻ってきた。
「前回ご来店いただいた時のおつりと、お約束していた本です」
マスターが持ってきたのは、小銭数枚と、一冊の文庫本だった。複数の短編作品を収録しているらしいその本にはしっかり年季が入っており、経年劣化で紙がやや茶色く変色していた。
「いやぁ、おつりはいらないですよ。コーヒー代以上にお世話になったんだし」
「そういうわけにはいきません。金の切れ目が縁の切れ目、と言うではありませんか」
それは少し違うのではと指摘しようかと思ったが、マスターの目があまりにも真剣だったので、「では、遠慮なく」と結局おつりも本も受け取ってしまった。
「お返しいただくのはいつでも構いませんので。『密室の行者』を含めて名作揃いですから、ぜひごゆっくりお楽しみください」
「はぁ、ありがとうございます」
と言われても、そもそも本を読む習慣のない星乃にとって、まずは読書時間を捻出するところからスタートしなければならない。読み終えるまでに、果たしてどれだけの時間がかかることやら。
マスターの淹れてくれたコーヒーは今日も変わらず美味だった。今回はブラックのまま口をつけ、わずかに酸味のきいた味わい深い飲み口を堪能する。
二つしかないテーブル席は、どちらも女子大生が陣取っていた。わいわいガヤガヤ、狭い店内は少し騒がしい。
だが、それくらいのほうが都合がよかった。一週間前の事件について、マスターに礼を述べに来たのだ。
「先日はありがとうございました。マスターのおかげで、首尾よくいきました」
「それはなによりです。私は特になにをしたわけでもありませんけれど」
「ご謙遜を。マスターの言ったとおりでしたよ。例のもの、車の中から見つかりました」
そうですか、とマスターは微笑み、それ以上なにも言わなかった。星乃が刑事であることを周りに悟られないように、わざと会話を慎んでいるのだろうか。
やはりこの人は、警察に対する理解が深く、対応に慣れていると見えた。頭も切れるし、ここでポツンとカフェを営んでいるだけとはとても思えない。
「あの」
「はい」
「マスターって、ひょっとして元刑事……なんてことはないですよね」
同じ愛知の民のために尽くす警察官であっても、愛知県警の配下にいる警察官全員と面識があるわけではない。今は喫茶店経営者だが、マスターがかつて愛知県警に身を置いていたとしてもなんら不思議はないのだ。
マスターは星乃の問いかけに目を丸くし、やがて小さく笑い声を立てた。
「お恥ずかしながら、私は運動がてんでダメでして。剣道や柔道などを覚えなければならない警察官にはとてもなれそうにありません」
「へぇ。そうなんですか」
言われてみれば、どことなく線の細い彼がスポーツに精を出しているところはあまり想像できなかった。どちらかというと文化系で、音楽や絵などは得意そうだ。
「すいません、ヘンなことを聞いちゃって。ほら、この間ここでお話しをした時、着眼点がすごくよかったから、ひょっとしてそういう経験があるのかなと思って。その……捜査の、というか」
まさか、とマスターはかぶりを振った。
「まったくの素人ですよ。それに、あの日の私はお客さまのひとりごとに耳を傾けていただけで、これといって有力な発言をした覚えはありません」
「なにをおっしゃってるんですか。いろいろと助けてくれたじゃないですか。例の車の件もそうだし」
「私はなにがどこにあるとか、具体的なことはなに一つ言っていません。すべてはお客さまが、お客さまご自身の力でお気づきになったことです」
そう切り返されるとなにも言えない。実際、マスターはかなり早い段階で矢上の犯行だと確信していたのだろうが、星乃を真相へ誘導するような発言をくり返すばかりで、事件の核心部分にはほとんど触れていなかった。彼なりの気づかいで、星乃の刑事としての顔を立ててくれたということなのだろうか。
それにしても、優れた洞察力だった。いつ、どのタイミングで矢上拓保の犯行だと確信を持ったのだろう。それだけは知っておきたかった。
「マスターは最初からわかっていたんですよね? あの事件がただの強盗殺人じゃないって」
「最初から、というのがどの時点をさすのかわかりませんが、死因が死因だけに、偶然で片づけるにはあまりにも不自然だとは思いました。決め手というか、決定的におかしいと思ったのは、被害者の指から結婚指輪が抜き取られていたことでしょうか」
「えぇ、そこ?」
「はい。仮に純粋な強盗殺人だったとするなら、被害者が意識を失った状態でなければ指にはまった指輪は抜き取れないでしょう? 今回のケースではじめに有力視された見解は、犯人は被害者を生きたまま防音ブースへ閉じ込めたというものだったそうですから、そうなると犯人はいつ被害者の結婚指輪を指から抜き取ったのかなぁ、と疑問に思ったわけです。被害者が意識を失っているのなら、わざわざ防音ブースに閉じ込める必要はなかったはずなので」
あぁ、と星乃は納得の声を漏らした。それもあの時現場でいだいた違和感のうちの一つだったことが、今になってようやくわかった。
金品を残らず持ち去られたように見せかけることに必死だったために、矢上拓保はやりすぎてしまったのだ。被害者の意識を奪うことなく防音ブースへ監禁した強盗犯に、結婚指輪を抜き取る余裕は生まれない。被害者を殴るなどして意識を奪っていたなら外傷が残るはずだし、そもそも防音ブースへ監禁する必要がなくなる。明らかな矛盾点だ。
「いやぁ、さすがです」
星乃は小さく拍手を贈った。
「やっぱり、着眼点がいい。名探偵の名を冠した店には、本当に名探偵がいました」
「やめてください。私はただの喫茶店経営者です」
「でも」
星乃が目をやった先には、黒地の板に白い字が踊るメニューボード。
「一番下のあれ、まんざらでもないんじゃないですか」
指さしたのは、『謎解き Free』と書かれた謎のメニューだ。注文する人がいるかはわからないが、頼めばマスターは見事に答えを導き出してくれるに違いない。
「あぁ、あれですか」
言いながら、マスターは遠くを見るようにすぅっと目を細くした。
「あれ、妻と妻のお祖父さんがおもしろがってつくったメニューなんです。店の名前が『シャーロック』のもじりなんだから、それらしいメニューがあってもいいんじゃないかって。まぁ、真に受ける方はほとんどいらっしゃいませんし、開店から六年ほど経ちますけれど、実際に頼まれたことも両手の指で数えられるほどですから、そのままにしておいても問題ないかなぁと思いまして」
「へぇ、頼む人いるんだ」
「ごくまれに。と言っても、なぞなぞをふっかけられたり、身の回りで起きた不思議なできごとをしゃべるだけしゃべって満足されたり、といった具合です。謎解きらしい謎解きをしたことはなかったかもしれません」
「じゃあ、まじめに事件を解決したのはこの前がはじめてだったってことですね。俺が第一号だ」
星乃が嬉しくなってそう言うと、マスターは「ですから」と困ったような笑みを浮かべた。
「私はなにもしていません。解決されたのはお客さまです」
星乃は声を立てて笑った。彼はあくまでこの低姿勢を貫き通すつもりらしい。
それでもよかった。ここでマスターと話をして、結果的に事件は無事に解決した。マスターにその気はなくても、マスターのおかげで真相にたどり着いたのだ。
冷めきらないうちにコーヒーを飲み干し、星乃は静かに席を立った。
「ごちそうさまでした。また来ます」
「ありがとうございます。お待ちしております」
喫茶店の名探偵は、朗らかに微笑んだ。