4.
ありがとうございます、と小さく礼を述べると、星乃は事件の詳細について、頭の中を整理するように順を追ってマスターに話して聞かせた。
玄関扉は施錠されており、一階のリビングの窓が一つ無施錠だった。
一階、二階ともに荒らされた形跡があり、財布、宝石類、スマートフォンなどの金品は余すところなく奪われ、被害者の指には結婚指輪すら残されていなかった。
被害者である家主の妻は寝間着姿で、リビング奥の書斎に備えつけられた一畳強の防音ブース内で餓死した状態で発見された。扉に鍵はないが、重みのある段ボールをつっかえ棒代わりにして扉を開けられないようにされており、被害者は中から出られない状態だった。
夫は先週、一月十一日火曜日から二週間の予定で東京へ出張に行っており、遺体の第一発見者は被害者の不倫相手。くだんの不倫相手によれば、被害者との連絡が途絶えたのは一月十一日火曜日だが、メッセージアプリを使ったやりとりのみであり、スマートフォンが室内に残されていなかったため、夫が妻に代わって不倫相手と連絡を取った可能性が考えられる。夫は現在東京から自宅へ戻る段取りをしていることを最後に言い添えた。
「なるほど」
星乃が口を閉ざすと、マスターは深くうなずいた。
「妻の浮気が殺害動機であるとするのは少々苦しい気もしますが、夫婦の問題は夫婦の数だけバリエーションがあるわけですし、状況が状況だけに、お客さまがご主人をお疑いになりたい気持ちは理解できます」
「絶対に夫が怪しいと思うんです」
所轄署のベテラン捜査員から「あまり先入観を持たないように」との助言を受けたばかりだというのに、星乃の考えは夫の犯行にすっかり傾きつつあった。
「だっておかしいじゃないですか。留守中に空き巣に入られて、なおかつ奥さんまで殺されるなんて。都合よすぎですよ、そんなの。だいたい、夫が長期不在ということは、若い女性が一人で長い時間を過ごすことになるわけで、そんな時に窓が無施錠のまま放置されるなんてことになりますか。普段以上に戸締まりには気を配るはずでしょう。物干し竿だって二階のバルコニーにあったし、この真冬に一階の窓の鍵が開けっぱなしになるなんてあり得ない」
凝り固まった思考をまくしたてるように披露したら、マスターに苦笑いを向けられた。
「お客さまのお考えにも一理あります。ただ、お客さまが『都合よすぎ』と言って切り捨てた、ご主人の留守中にたまたま強盗が入ってたまたまご在宅だった奥さまが監禁された末にお亡くなりになった、という可能性はゼロではありません。否定するには、それ相応の材料が必要になってくるのでは?」
「それは……」
マスターの言うとおりだった。
班長にも釘を刺されたが、夫の犯行を裏づける証拠が出ない限り、純粋な強盗殺人の線を捨てるわけにはいかないのだ。目撃情報が挙がらないのも、犯行が一週間前のできごとだからというだけかもしれない。根拠もなしに可能性の芽を摘むことは、刑事としてあるまじき行為だ。
「では」
頭をかかえる星乃の向かい側で、マスターが右手の人差し指をピンと立てた。
「こういうのはどうでしょうか。本件がご主人の犯行だったと仮定して、ご主人が具体的にどのような行動を取ったのかシミュレーションしてみるというのは」
なるほど、それはいい。犯人の思考や行動をたどってみる、ということだ。「やってみます」と言って、星乃は脳をフル回転させた。
「まず、東京への出張は予定どおり行くはずですよね。事情もなく、突発的に取りやめるなんてことはできないだろうから。だとしたら、妻を防音ブースへ閉じ込めたのは東京へ発つ前。つまり、一月十一日火曜日の朝だった、ということになるのか?」
「出張当日の朝に事を起こしてもいいのでしょうが、出張前夜にすべての作業を終えておく、というタイムスケジュールのほうが気持ちにも時間にも余裕があっていいのかなと個人的には思います」
「出張前夜?」
「えぇ。たとえば、奥さまにこっそり睡眠薬を飲ませて深く眠らせ、夜中から明け方のうちに二階の寝室から一階の書斎にある防音ブースへ運び、重みのある段ボールを扉と壁の間に挟むことで扉が開かないように細工をする。ドアハンドルが回らないことを確認したら、室内を引っかき回して強盗が入ったように見せかける。そして翌朝、出張当日です。奥さまが目を覚まさないうちに、あるいは目を覚ましていても無視を決め込んで、必要な荷物をまとめて家を出る。そうすれば、あとは奥さまが寒さと飢えで体力を奪われ死に至るのを待つばかり、という状態になります」
なめらかに語られたマスターの推理は、なるほど説得力のあるものだった。
「考えてみれば、なかなかの重労働ですもんね。出張当日の朝にこれだけの作業をこなすのは大変だ。俺だったら、夜中のうちにやり遂げておきたいかも」
と、マスターの見解に一応は同意したものの、まったく疑問点がないわけではなかった。
「でも、待ってください。室内はただ荒らされていただけでなく、実際に金品が消えています。夫の犯行だとしたら、夫は出張先までそれらを持っていったってことになりませんか?」
「持っていったのかもしれませんね。金品はご自身の財産でもありますから、手もとに置いておけるのであればそれが一番安心でしょう」
「じゃあ、帰ってきた夫の所持品を調べれば」
「見つからないでしょうね、おそらく」
「え」
星乃の目が点になる。涼しい顔で首を横に振ったマスターは、再び自らの見解を述べた。
「今回の事件がご主人の仕業であるならば、明らかに計画的な犯行ですから、最後の最後でヘマをする、なんて都合のいい展開は期待するだけ無駄でしょう。この計画の穴をあえて指摘するなら、不倫相手の方が奥さまと連絡が取れなくなった時点で奥さまの様子を見に家に来てしまった場合にどう言い逃れするのか、という点ですが、それに関しては考えるまでもないでしょうか。不倫相手の心理として、連絡が途絶えたからといってすぐに様子を見に来るというのはさすがに度胸がありすぎますから。実際、不倫相手の方が被害者宅を訪れたのは、連絡が途絶えた一週間後のことだったわけですし」
確かに、と星乃は腕組みをしてうなずいた。他人の心理を計算に入れることは基本的には難しいが、不倫という絶対にバレてはならない秘密の営みなら、バレないような行動を取るはずだと、ある程度の予測を立てることはできそうだ。
「殺人事件だもんなぁ」
星乃がひとりごとのようにつぶやく。
「警察が被害者の周辺を詳しく調べることは簡単に想像できるだろうし、不倫相手がいることも、警察ならそう時間をかけずともたどり着ける。そこまで頭が回れば、夫は自分が疑われる可能性も当然計画に練り込んでいたはずですよね」
「そうでしょうね、おそらく」
「不倫相手への連絡も、アプリの予約送信機能を使えばスマートフォンを東京まで持っていく必要はない。逆に東京へ持っていってしまうと、たとえ位置情報や電源をオフにしておいたとしても警察に追いかけられる不安からは完全には逃れられない。そう考えるくらいなら、むしろ名古屋へ残しておくほうが賢い」
「えぇ。金品も、特に宝石類は換金すると足がついてしまう可能性がありますから、すぐに処分はせず、ほとぼりが冷めるまで手もとに置いておきたいと考えるのが普通でしょう」
「といっても、自分に疑いがかかる可能性がある以上、常に持ち歩いているわけにもいかない。東京から帰ってきたところを俺たちに押さえられて、所持品検査を受ければアウトだ」
「ならば、どう動くのがベストでしょうか?」
マスターを真似て、星乃も右の人差し指をピンと立てた。
「盗まれたように見せかけた金品は、スマホと一緒にどこか別の場所に隠して、出張へ行った」
マスターはうなずき一つで星乃の発言に同意を与えた。となると、隠し場所が問題になってくる。
「駅のコインロッカーなんてどうですか」
星乃は思いつくままに意見を出す。
「東京へ行くなら新幹線を使うはずだから、新幹線に乗る前に、名古屋駅のコインロッカーに預けたとか」
「どうでしょうか。駅のコインロッカーの使用期限は長くても三日が限度だったはずです。それ以降は駅員によって中身を取り出され、一定期間別の場所で保管されたのち、処分される。預けるものが高額な金品であることを考慮すると、他人の手に触れるような場所に保管しておくという選択肢は心理的に除外されるような気がします」
もっともな意見を突きつけられ、「そうだよなぁ」と星乃はがっくりとうなだれた。
「でも、他にいい隠し場所なんてあります? 家の中に隠し部屋があるとか、床板をはずしたら地下室が現れるとか、それこそ小説みたいな仕掛けでもない限り、人目につかないところへ隠しておくなんて難しいですよ」
「そうでしょうか」
立ち往生してしまった星乃とは違い、マスターはなぜか自信たっぷりな顔をしている。
「お客さまは先ほど、ご主人は新幹線を利用して出張に行ったとおっしゃいました。なぜそう思ったのですか?」
「えぇ? そりゃあ、覚王山からなら中部国際空港より名古屋駅のほうが近いし、『のぞみ』なら一時間強で東京駅につくでしょ。車じゃ最低でも六時間はかかる上に、東京は駐車場代が高いからコスパもよくない。そもそも、被害者宅の駐車場には車が二台停められていました。夫婦で一台ずつ所有していたようです。つまり、夫は車を使っていない。車じゃなければ、新幹線。そう考えるのが自然な流れじゃないですか」
「はい、私もそう思います」
「は?」
意味がわからなかった。マスターはなんのために、東京出張への交通手段について星乃に考えさせたのか。
「あのー、今のはどういった主旨の質問だったんですかね……?」
「見つかったではありませんか」
「え?」
「金品の隠し場所です」
なんだって? 今の問答の中に、金品の隠し場所があるというのか。
「……あ」
星乃は椅子を鳴らして立ち上がった。
「そうか、その手があった!」
迂闊だった。家の中ばかりに気を取られて、家の外にはまるで目が向いていなかった。
「ありがとうございました! コーヒー、ごちそうさまでしたっ」
財布から取り出した千円札をカウンターに置き、星乃は店を飛び出した。「お客さま!」とマスターが呼び止める声は耳に届いていなかった。
ここへ来て正解だった。マスターと話ができてよかった。
一杯四百円のコーヒーに倍以上支払うことになったけれど、それだけの価値、いや、それ以上の価値がこの店にはあった。
刑事が素人の手の上で踊るなんて、それこそ小説の世界のような話だ。
だが、些細なことだ。大事なのは、事件が確実に解決へと向かうことなのだから。
西の空に太陽が沈み、夜の帳が下り始めた名古屋の街を、星乃は全速力で駆けた。
息を弾ませ、事件現場である矢上家に舞い戻る。
図ったようなタイミングで、被害者の夫である矢上拓保が帰宅したところに鉢合わせた。