2-1.
体表がカリカリに乾いた女性の遺体が発見されたのは、築十年にも満たないピカピカの二階建て住宅でのことだった。
「かわいそうに」
星乃の前に立ち、我先にと遺体に歩み寄って片膝をついた壮年の主任刑事、星乃の所属する班の班長が、その狭い空間を物珍しげにぐるりと見回しながら言った。
「怖かっただろうなぁ。こんな狭っ苦しいところに閉じ込められて」
振り乱した長い茶髪の下で、苦しみながら死んでいったことが窺える恐ろしい形相を浮かべた女性を見下ろし、星乃はしばらくその場で立ち尽くしてしまった。日本という食べるものに恵まれた国に生まれつきながら、飢えを経験して死に至ることになった彼女の絶望を思うと、いたたまれない気持ちになる。
今日、一月十八日火曜日に遺体で発見されたのは、この家に暮らす矢上季依という女性だった。星乃より一つ若い二十六歳、専業主婦であるという。
彼女は四畳半の書斎の一角に設けられた一畳程度の堅牢な防音ブースの中で、脱水を伴う飢餓状態で死亡していた。餓死である。
目立った外傷はなく、遺体の一部でミイラ化が始まっていた。検死官の見立てによれば、死後二日以上は確実に経過しているとのことだった。
ブースには遺体の他に、ケースに収納されたクラリネットと譜面台があり、水や食料など口にできるものはなに一つ置かれていなかった。楽器は被害者、矢上季依が学生時代から愛用しているものだといい、譜面台は大きく破損していた。扉をこじ開けるための道具として使ったようだが、成果は出なかったらしい。
遺体発見現場であるこの自宅を建てる時にわざわざ練習用の防音室を用意したほど、矢上季依はクラリネットの演奏に熱心だったようだ。遺体の第一発見者は夫ではなく、被害者がかよっていた音楽教室でクラリネットを教えている男性講師だった。
「こいつがドアを塞いでまって、出てこれなんだみたいです」
星乃ら県警本部の捜査員よりも早く現場に到着していた所轄署のベテラン捜査員が、書斎の壁に立てかけられていた高さ一.二メートルほどの厚みのない段ボール箱を指さしながら、ベタベタの名古屋弁で説明してくれた。段ボールの中には組み立て式の三段カラーボックスが入っているようで、これから組み立てて使う予定だったと思われた。
「塞いでいた、とは?」
班長が所轄署の捜査員に尋ねる。「こうです」とベテラン捜査員は遺体発見時の状況を再現してくれた。
くだんの防音ブースには外開きの扉が一つ設けられ、カラーボックスの段ボールは扉と書斎の壁の間に斜めに倒れていたという。上端がドアハンドルの下側に挟まり、ノブが回らない状態になってしまったため、被害者は扉を押し開けることができなかったようだ。
ブースの中から出られないのでは助けも呼べない。水も飲めない。人間は水なしでは生きられない生き物だ。その日のうちに夫が帰宅していればなんの問題もなかったのだが、タイミングの悪いことに、夫は現在東京へ長期出張中だという。
そんなこんなで、自宅で閉じ込められたことを誰にも知られることのないまま、矢上季依はひっそりと息絶えた。重なった不運を、死に際の彼女はどれほど嘆いただろうか。
「ジャストサイズですね」
被害者の無念に想いを馳せつつ、まるで用意された枠にハマったかのようにぴったりと斜めに制止している段ボールを見た星乃はひとりごとのようにつぶやいた。所轄署のベテラン捜査員も「そうなんですわ」とふさふさの白髪頭に手を添えながら同意した。
「ここまで完璧にハマっとると、作為的ななにかを感じずにはおれんのですけれどね。あんまり先入観を持ってもいかんもんで、余計なことを考えんようにはしとるんですが」
「わかります。ドタバタやっているうちに偶然起きた事故、という線は大いにあり得る状況ですからね」
こたえながら、星乃はブースから書斎、その向こうのリビングダイニングへと視線を移す。何者かが家じゅうを荒らして回った痕跡があちこちに残された室内だった。
どちらかというと横長であるこの一戸建ては、北側の玄関を入り、短い廊下をまっすぐ行くとリビングダイニングキッチンにつながる。入って右手にオープンキッチンとダイニング、左手奥がリビング、手前には引き戸で間仕切りできる四畳半の書斎が連なっており、全部で三十畳は軽く超える広い空間だった。
矢上季依の遺体が発見されたくだんの防音ブースは、書斎の一番奥、約一畳分のスペースを陣取っていた。白い壁の色になじむアイボリーの外観で、分厚い扉にはゴールドのハンドルと、縦に細く磨りガラスが埋め込まれている。扉を開けると、向かい側の壁にあるカラーボックスの段ボールに端がこすりそうだった。
普段は整然としていたであろう居間と書斎は、とんでもない散らかりようだった。
ソファの位置は斜めにズレているし、ダイニングテーブルの椅子の一つは倒されている。引き出しという引き出しが開けられ、中身の一部がフローリングに散乱していた。
特に書斎の荒らされ方はひどく、足の踏み場もないほど書類や本が床全体を埋め尽くしていた。所轄署の捜査員の話では、二階の寝室やウォークインクローゼットも同じような有様で、あちこち引っかき回されていたという。
一目見れば、物盗り目的で何者かがこの家に侵入したことは明らかだった。第一発見者である音楽教室のクラリネット講師の話によると、建物南側の庭に面した窓の一つが細く開けられた状態だったという。割られた形跡がないことから、もともと無施錠だったために入られてしまったと推測された。
空き巣狙いの犯行だったのだろうが、住人である被害者、矢上季依は在宅していた。いわゆる『居空き』で、強盗化する可能性の高い手口だ。
餓死した被害者が薄ピンク色のボアパジャマ姿で見つかったことから、犯人の侵入時、彼女は二階の寝室にいたのだろうと所轄署の捜査員は意見した。第一発見者の男性の証言では、先週、一月十一日火曜日に予定されていたクラリネットのレッスンを彼女は体調不良を理由に欠席したそうで、寝込んでいたのではないかというのが捜査員の見立てだった。
以上の点から、事件当時、こんなことが起きていたのではないかという想像を働かせることはできる。
空き巣狙いで侵入したこの家で、不運にも住人である矢上実花と鉢合わせてしまった犯人は、声を上げようとした矢上の口を塞ぐため、書斎奥の防音ブースへ矢上を押し込み、扉の向かい側に立てかけられていたカラーボックスの段ボールを斜めに倒して出入り口を封じた。防音効果で彼女の声は外へ漏れず、犯人は二階に上がって部屋を物色し、再び一階へ下りてリビングの窓から逃走した。
矢上を防音ブースに閉じ込めたままにしておいたのは、室内の様子からこの家の住人が彼女一人ではないことが見て取れ、帰宅した同居人に助けてもらえると考えたからだろう。まさかその中で彼女が餓死するなどという結末は、誰も想像できなかったに違いない。
この家の家主は、被害者の夫である矢上拓保。名古屋に本社を構える商社に勤める四十歳の彼は、ちょうど一週間前、一月十一日火曜日の朝から二週間の予定で東京へ出張に行っている。
自宅の駐車場には自家用車が二台停められており、ボディーカバーのかかったセダンタイプの車が夫のもので、カバーのかけられていないピンク色の軽自動車が被害者のものと思われた。東京へは新幹線を利用して移動したようだ。
夫の帰宅予定は週末の金曜だそうだが、妻の死の知らせを受け、今日じゅうに戻ってくるという。連絡を取った捜査員が、電話に出た夫はかなり混乱した様子だったと報告した。
「ますますかわいそうだな」
所轄署の捜査員による説明に耳を傾けながら、班長が改めて遺体に目を落とした。
「夫の留守中に空き巣に入られ、助けも呼べず、誰にも気づかれないまま餓死、か」
まだ若いのに、とつぶやいた班長の声には、被害者への同情と、犯人に向けられた怒りが込められていた。刑事は被害者のためにある、というのは多くの先輩たちからの受け売りで、星乃も彼らに倣って座右の銘としている言葉だが、若い命が理不尽に奪われる事件に遭遇するたびに悔しさで胸が苦しくなる。
「金品は根こそぎやられてまったようですね」
所轄署のベテラン捜査員が、自前のノートを広げながら説明を続ける。
「被害者の財布、スマートフォン、腕時計や宝石類。金目のモンは一個も残っとらんっちゅう状況です。結婚指輪まで盗られてまって、まー、お気の毒ですわ」
捜査員の視線の先には、遺体の左手があった。よく見てみると、うっすらと指輪の跡が刻まれている。
「あの」
星乃が挙手をして所轄署の捜査員に尋ねる。
「遺体は死後二日以上が経過しているんですよね? ということは、事件が発生したのは……?」
「一番早くて、十一日の深夜だな」
所轄署の捜査員が答える前に、班長が腕組みをして口を開いた。
「個人差はあるが、人間は水も食べ物も取らなければ三日から一週間で死に至る。現時点で死後丸二日が経過しているということは、被害者が死亡したのは少なくとも十六日の日曜より前、おそらくは十五日の土曜だろう。そこからさらに三日遡ると、十二日の水曜日。その前日、十一日の火曜日には、矢上季依本人から音楽教室にレッスンの欠席連絡を入れている。そうでしたよね?」
班長に問われた所轄署のベテラン捜査員は「はい」とうなずき、説明を加えた。
「レッスンは午後十二時半からの予定だったそうで、連絡が来たのはその日の午前八時半頃だったと」
「ずいぶん早かったんだな」
班長のいだいた疑問は、星乃と同じものだった。
「ですね。そんな時間にも教室は開いているものなんですか」
「いやぁ、それがね」
答えた所轄署のベテラン捜査員は、なぜか複雑な表情を浮かべた。
「その日、欠席っちゅう連絡を被害者から受けたのは、第一発見者のクラリネット講師だったそうでして」
「それって」星乃が言う。「教室経由ではなく、講師が被害者から直接連絡を受けたということですか。だから早朝?」
「お察しのとおりです。互いに個人所有のスマートフォンで、メッセージアプリを利用してやりとりをしやぁたと」
星乃と班長の視線が重なる。「ひょっとして」と口を開いたのは班長だ。
「その、第一発見者のクラリネット講師ってのは……?」
ベテラン捜査員はうなずいた。
「問い詰めたら吐きましたわ。第一発見者の弓長淳一は、被害者の不倫相手です」