3-1.
閉店間際になっても、平日の店内は近隣の大学にかよう女子たちで賑わっていた。
テーブル席はすべて埋まり、カウンター席ではなにかの打ち合わせをしているらしいサラリーマンが二人並んで座っている。
星乃はサラリーマンたちから席一つ分距離を取り、マスターお手製のイチジクタルトをほおばっていた。とろとろに熟したイチジクは、口の中に入れた瞬間とろりと溶け、サクサクのタルト生地と混ざり合うと絶妙な食感になる。「うま……!」と我知らずつぶやきながら無心で食べ続ける星乃の気づかぬところで、マスターはひっそりと星乃に微笑みかけていた。
午後五時を十五分ほど過ぎた頃、ようやく店内が星乃とマスターの二人きりになった。なんと切り出すべきか迷っていると、マスターのほうから「お久しぶりですね」と声をかけてくれた。
「毎日お忙しいですか」
「えぇ、まぁ」
「では、今もなにかの事件の捜査中でいらっしゃる?」
星乃は観念して両手を上げた。やはり、この人にはなにもかもお見通しだ。
だからといって、マスターのかかえる痛みを知った今、気軽に相談することはできない。そもそも、捜査上の秘密を一般市民にベラベラとしゃべること自体よろしくないのだ。
マスターの冴えた推理に期待してしまうのは、イチジクタルトにつられた時と同じである。いい加減、断る勇気を持たなくてはならない。
覚悟を決めかけた星乃だったが、マスターに先を越された。「どの事件だろう」とマスターは顎に手をやり、すっかり事件の話をする体勢に入っている。
「最近報道された大きな事件ですと、刈谷のラブホテルの事件でしょうか」
さすが、憎らしいほど勘が鋭い。星乃は条件反射的に「そうなんです」と答えていた。
「報道を見る限りですけれど、ホテルの部屋には被害者の他にもう一人いらっしゃったとか。しかし、まだ逮捕には至っていないようですね」
マスターが巧みな話術で誘導してくるが、星乃は首を横に振った。
「つらいですよね、こんな話」
「はい?」
マスターがキョトンとした顔をする。「だって」と星乃は視線を下げた。
「奥さんを亡くされたばかりなのに、人が死んだ話なんて、つらいじゃないですか」
それも、ただ死んだだけではない。殺人事件だ。気持ちのいい話題ではないし、事件の真相はたいてい、憎悪や欲望、人間の汚い部分が浮き彫りになって、目を覆いたくなるほど醜い。
だというのに、マスターはケロッとした顔をして「いいえ」と言った。
「確かに、私は妻を亡くしました。ですが、それはそれです。お客さまのお話には、どんなことでも耳を傾ける覚悟はできています」
「でも、最近は大好きな推理小説も読めていないっておっしゃってたじゃないですか。奥さんのことを思い出してつらいからでしょ」
マスターはやっぱりあっけらかんとして、「それがですね」と表情を自然に明るくした。
「また読み始めたんです。先日、お客さまに背中を押してもらえたおかげで、楽しめるようになりました」
「あぁ、あの時……」
マスターから最愛の人を失ったと聞かされた時だ。たいした励ましもできなかったどころか、わかったような口を叩いてしまったとすっかり落ち込んでいたのだが、意外にも星乃の言葉はマスターの胸に大きく響いていたらしい。
「一年ぶりに紙の本をめくったのですが、やはりいいですね、本は。知り合いにエンタメ系の書籍編集者をしている人がいまして、最近話題になった推理小説をいくつか送っていただいたんですよ。それがもう、どれもこれもおもしろくって。おかげで少々寝不足です」
マスターが明るく声を立てて笑うところを見たのははじめてだった。久しぶりの読書がよほど楽しかったのだろう。訊いてもいないのに、彼は星乃を相手に最近読んだ小説について饒舌に語っている。星乃は時折相づちを打ちながら、声を弾ませるマスターの姿に微笑ましい気持ちになった。
最愛の人を失い、止まってしまっていたマスターの時間が、星乃のささやかな励ましをきっかけに再びゆっくりと動き始めた。彼が前へ進むための勇気を手にする助けになれたのなら、それ以上に喜ばしいことはない。これで少しは恩返しができたかな。そう思えたことも嬉しい。
ベストスリーの解説を終えて満足げなマスターに、星乃は「俺も時間を見つけて読みます」と笑顔で応じた。心から好きと思えるものがあって、それを素直に「好き」と言えるマスターのことが、星乃には少しうらやましく思えた。
「それで、なんのお話でしたか」
散々遠回りをして、マスターはようやく現実の殺人事件についての話題に戻った。
「そうそう、刈谷のラブホテルの事件でしたね」
「はい。現場はラブホテルの一室。夜中のうちにナイフで喉を刺されて死んだ男と、チェックイン前から翌朝まで意識を失っていたと主張する女が、中からも外からも鍵の開かないホテルの部屋の中で一緒にいたんです」
ほう、とマスターの瞳が輝いた。
「遺体と生存者が、同時に密室の中にいた、と。フィクションの世界でもたまに見かける状況ですね」
「そうなんですか」
「えぇ。ミステリにおいてそうした舞台を設定する理由の多くは生存者に殺人の罪を着せることですが、それ以外にも、生存者が密室内に残ることでしか成立し得ないトリックが施されていたり、あえて犯人が被害者とともに密室内に残る場合があったりなど、読者を驚かせる仕掛けは幾通りも存在します。遺体の一部、たとえば首だけが生存者とともに密室の中で発見された、なんていう物語もあるくらいで」
星乃は思わずウッと顔をしかめてしまった。生首の転がる密室とは、いかにもミステリらしい不可解な舞台設定だ。ホテルの部屋に首が転がっていなくてよかったと星乃は心底安堵した。胴体を探し出すために費やされる時間と労力は計り知れず、頭で少し考えるだけでどっと疲れる。
「一緒にいた生存者の女性は、犯人ではないのですね」
マスターはせっせと皿やカップを洗いながら言う。
「そうでなければ、お客さまはお悩みにならないわけですから」
「犯人ではないと明言はできないんですけど、逮捕には踏みきれないというか。彼女は犯人ではないという証拠も、彼女が犯人だと確信を持てるだけの物的証拠もなくて。なにより、本人が頑として犯行を認めないんです。ヘタな言い訳をするでもなく、とにかく私はやってない、ホテルへ連れ込まれたことも記憶にないと言い張っていて」
「なるほど。現場は出入り不能なラブホテルの部屋だったわけですから、どう言い訳をしても疑われることは避けられないと開き直っている、ともとれますが」
星乃は静かに首を振る。
「彼女の取調べを最初に担当したのは俺ですけど、なんていうか、うそをついているようには見えなかったんですよね。俺の質問にもなるべく細かく正確に答えようとしていたし、わからないことははっきりわからないって言うところが潔くて、証言をごまかそうとする様子はまったく感じられませんでした」
「そうですか。だとすると、おかしな話になりますね。被疑者の女性の証言どおり、事件当時の記憶がなく、目を覚ましたらラブホテルの一室にいたというのが本当ならば、彼女をホテルの部屋へ運び込んだのは被害者で、彼女の知らないうちに喉を刺されて死んでしまった、ということになります」
「そうなんですよ。事件当日のホテルのフロント係の話だと、その日は三人以上で宿泊した客はおらず、顔を直接見たわけではないものの、フロントの前を通る人影は全組が男女二人のカップルだった、とのことでした」
マスターは一人で納得しているようで、大きくうなずいてから口を開いた。
「唯一の抜け穴はそこでしょうね。ラブホテルという場所の性質上、客とホテルの従業員が顔を合わせることは基本的にない。その点をうまく利用すれば、被害者の男性と被疑者の女性、そして犯人の三人が、同じ部屋に同時に入室することができそうです」
「できるんですか?」
マスターはこの上なく美しく微笑み、「考えてみましょう」と言った。毎度変わらない受け答えだ。
わかっていても、自分の口では決して答えを言わない。ヒントは出すが、本筋は星乃に考えさせ、星乃が自力で答えにたどり着けるよう誘導する。それがこの人のやり方なのだ。三度目ともなれば、直接答えを聞こうとした自分がバカだったと納得できる。




