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推理茶房4869  作者: 貴堂水樹
三作目 ラブホテル殺人事件

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20/24

2-2.

 事件から三日が立ち、(こよみ)が六月に変わった。


 捜査はほとんど進展していなかった。津下実久の犯行を裏づける証拠がなかなか集まらず、現時点では逮捕、送検しても証拠不十分で起訴まで持ち込めそうにない。かくなる上は被疑者の自供をと、依然として津下への厳しい取調べが続けられている。


 殺された茅野皓についても徹底的に身辺を調べ上げた。

 彼は身を寄せていた半グレ集団で詐欺行為をくり返していたと思われるが、組織犯罪対策課の話では、彼らは自分たちが関与したという証拠が残らないよう慎重に動いているため摘発が難しく、存在は知られていても、組織を壊滅させるためには相当の時間と労力が必要とのことだった。

 つまり、茅野たちは事実上、野放しの状態だった。どこかで恨みを買っていてもおかしくはないし、本人の知らないところで殺されるだけの理由を積み上げていた可能性は大いにある。


 津下に殺す動機がなくても、茅野には殺される理由があった。そういう見方をするならば、津下はひょっとすると真犯人に利用されたのかもしれない、なんていう線も浮かんできそうだ。

 しかし、裾野が広がるばかりで収束の見込みがまるでない。これという明確な証拠は、どう動けば見つかるのか。


 捜査はあっという間に暗礁に乗り上げ、星乃は気持ちの晴れないまま、名古屋屈指の高級住宅街、覚王山の一角に店を構える『珈琲茶房4869』に足を運んでいた。

 春が終わり、日暮れの時刻はすっかり遅くなった。まもなく午後四時三十分。六月の太陽はやや西に傾いたところで燦々(さんさん)と照り輝いている


 コインパーキングに車を停め、徒歩で店の前に差し掛かる。星乃は看板を見つめたまま、動かしていた足を静かに止めた。

 三月の中頃、丸篠(まるしの)ホールディングスの創業家で起きた事件の捜査に追われていた時に訪れて以来だから、ここへ来るのはずいぶんと久しぶりだ。なかなか扉をくぐる勇気が出ないのは、前回この店のマスターと交わした会話に、「やめておけ」とスーツの襟首を後ろから掴まれているような気がしているからだった。


 ――一年前に、妻を病気で亡くしました。


 篠岡(しのおか)ひばりの死が自殺であるとわかり、胸を痛めていたあの日のマスターの告白は、そんな一言から始まった。星乃の推測どおり、やはり彼も『当事者』だったのだ。


「彼女と出会ったのは大学時代でした。ミステリ研究会の先輩で、好きな作家が何人もかぶっていたことですぐに意気投合しました」


 なかなかかわいい人でしょう、とマスターは壁の飾り棚に立てかけられた写真立て、ウェディングドレス姿の亡き妻を振り返った。星乃が素直に「はい、うらやましいです」と言うと、マスターは満足げに微笑んだ。


「なんとなく流れで付き合い始めて、私のほうが彼女にどっぷりハマっていった感じでした。彼女のからだに異変が起きたのは、彼女が大学四年生になったばかりの春でした」


 悪性リンパ腫が見つかったのだという。血液のがんで、入院治療を余儀なくされたそうだ。


「早期発見だったわけではなく、発覚した時点であとどのくらい生きられるかわからない、という状況でした。お恥ずかしい限りなのですが、それを聞いて一番うろたえたのは私でした。毎日不安で、彼女の病室に足を運んでは泣いてしまって、本当に情けない男だったんです。彼女のほうが『大丈夫だから』と言って私を励ましてくれるような体たらくぶりで、あきれるような失態をくり返す毎日でした」


 星乃はなんと言っていいのかわからず、けれど、マスターの気持ちは少しわかるような気がした。決して失いたくない大切な人の命の灯火が目の前で消えかかっていたら、どうしようもなく不安になるに決まっている。

 だが、マスターもこのままではいけないと思ったそうだ。彼の話は明るい方向へと進み始める。


「私は当時大学三年生でしたが、彼女のためにしてあげられることはなんだろう、と考えられるようになってから、少しだけ前を向けるようになりました。あれこれ思い巡らせた結果、彼女の願いをできる限り叶えてあげるのが一番いいのかなという結論に達しました。尋ねてみると、彼女の夢は三つありました。一つめは、ミステリ作家になること。二つめは、カフェを開くこと。そして三つめは、私と結婚することでした」


 おぉ、と星乃は表情を明るくして声を上げた。

 素敵な話だ。彼女のいだいた夢のうち、少なくとも二つは実現している。


「三つめの『結婚する』という夢を聞かされたことは、実質、彼女からのプロポーズでした。私としても異論はなく、二人とも学生でしたが、翌日には書類を揃えて籍を入れました。貧乏学生だった私でもどうにか手が出る金額の指輪しか用意してあげられませんでしたが、それでも彼女は喜んでくれて、苦しい治療もがんばれると言って、一時は外出が認められるまでに回復したんです。その機を逃すまいと、ウェディングドレス姿で記念写真を撮りました。式を挙げる余裕はありませんでしたけれど、いい思い出になりました」


 二人が白い晴れ姿に身を包んで笑い合う姿は、星乃にも容易に想像できた。ほんの数時間の撮影だったのだろうが、幸福に満ちあふれた時を過ごしたことは、飾られた写真を見れば一目瞭然だ。


「一つめの『作家になる』という夢は、体力的な問題もあって苦戦したのですが、二つめの『カフェを開く』という夢は、彼女のお祖父さんが彼女に代わって叶えてくれました。お祖父さんはこのあたりの地主で、このビルの所有者でもあったので、知り合いを頼って開店のためのノウハウを学び、店を出す算段をあっという間につけてくれたんです。私が学生のうちはお祖父さんと私で店を切り盛りして、卒業後は私が晴れてオーナーになりました。ついでだからと、お祖父さんはこのビル自体を私たち夫婦に譲ってくれたんです。なので、今の私はカフェ経営者兼ビルの管理責任者でもあります。就活の手間が(はぶ)けた分、妻と過ごせる時間が増えて、お祖父さんの計らいにはすごく助けられました」


 途中からなんだかスケールの大きな話になっていったが、お祖父さんとしても、余命幾ばくもない孫のためにできるならなんでもしてやるつもりだったのだろう。すべては丸く収まったというわけだ。


「どのくらい生きられるかわからないと言われた妻でしたが、当初の診断以上に長生きしたと担当の先生からはおっしゃっていただきました。このカフェへ一度でも多く足を運びたい、という想いが心の支えになったようです。元気な時にはここへ来て、私の隣に立ち、お客さまと楽しそうに話していました。妻がコーヒーを淹れることもあったんですよ。なかなか様になっていました」


 マスターは、まるでそこに愛しの人が立っているかのように目を細くして微笑む。


「彼女がいると、店の中いっぱいにひまわりが咲いたみたいに店内が明るくなるんです。よく笑う人でした。二十八で逝くなんて、早すぎますよね」


 語尾が震え、きれいなアーモンド型をしたマスターの瞳の端にうっすらと涙が浮かんだ。「すみません」と断りを入れて目もとを拭うマスターの姿に、星乃のほうが言葉を失ってしまう。


 丸篠の事件の際、夫に先立たれたことで自殺した篠岡ひばりの気持ちがわかると言ったマスターの言葉は、紛れもない本心だったのだと改めて感じた。

 最愛の人を失うと、遺された者の心は、あまりの痛みに形を変えてしまうのだ。


「妻が亡くなったのは一年前の四月でしたが、この店の営業を再開できたのは、十二月に入ってようやくのことだったんです。本当に情けないというか、長くは生きられないとわかっていたのに、いざいなくなってしまうとなかなか立ち直れなくて。この店も誰かに譲ってしまおうかと思ったんですが、開業に手を貸してくださったお祖父さんに『孫のためにも続けてやってほしい』と頭を下げられてしまいました。妻のためだと言われたら、なにがなんでも続けるしかありません。妻の願いを叶えると決めた以上、逃げ出すわけにはいきませんよね」


 その話しぶりから、今でもマスターはこの店の厨房に立つのが苦痛なのかもしれないと星乃は思った。

 ここへ来るたびに愛する人の笑顔が蘇れば、その人がもうこの世にいないことを嫌でも実感してしまう。一年が経った今になっても、マスターにとってはひどくつらいことなのだ。


「ごめんなさい」


 星乃は席を立ち、マスターに向かって深々と頭を下げた。


「知らなかったとはいえ、マスターの前で殺人事件の話なんて、配慮が足りませんでした」


 大切な人を亡くしてまもない人に、誰それを殺した犯人が捕まえられなくて困っているなんて話をしていいはずがなかった。他人であっても、今のマスターにとっては、誰かの死に触れることは否応なく最愛の人の死を思い出す材料になってしまう。


「そんな、やめてください」


 マスターは慌てて厨房から飛び出してくると、星乃に頭を上げさせた。


「私のほうこそ申し訳ありません。お客さまに身の上話をするなんて」

「いいんです。マスターだって、俺たちの話を聞くばっかりじゃつらいでしょ。たまには自分の話をしたほうがいい。俺でよければ、いつでも聞きますから」

「ですが……」

「素敵だと思いました。マスターと奥さんの関係」

「え?」


 星乃の言葉に、マスターは虚を突かれたように両眉を跳ね上げた。


「この店、奥さんの夢が詰まった場所じゃないですか。畳んじゃったら、奥さん、きっと悲しみます。マスターが今でも一生懸命この店を守ってくれてること、奥さんは喜んでるんじゃないかな」

「……そうでしょうか」

「そうですよ。大好きな人が自分のために力を尽くしてくれてるってわかったら、どんなことでも嬉しいと感じるものじゃないですか? そりゃあ愛が重すぎるって思う人もいるだろうけど、奥さんはきっとそうじゃない。マスターが今でもこの店を開けて、お客さんと笑顔で向き合っている姿、奥さんは天国からちゃんと見守ってくれていると思います。で、きっと喜んでる。『ありがとう』って言ってくれてます」


 マスターの瞳が揺れた。目尻にうっすらと涙が浮かぶ。

 どうにか背中を押してあげられるように、星乃は精いっぱい言葉を選び、微笑みとともにマスターへ贈った。


「天国は遠い。俺たちじゃ手の届かない、すごく遠いところにあります。そんな場所にいる奥さんのところまでマスターの気持ちを届けなくちゃいけないんだから、少し迷惑なくらい、やりすぎなくらいでいいんですよ。たくさんやってあげてください、奥さんのためにできること。『大げさだよ』って奥さんに天国で苦笑いさせるくらいが、きっとちょうどいいんです」


 離れていても、愛する人のためにしてやれることはある。

 今でも二人で同じ道を歩み、同じ場所を目指し続けているのだと強く信じることができたなら、最愛の人の魂は、マスターの心の中で永遠に息づいていてくれるはずだ。


 励ますつもりが、わかったような口を利くなと(ののし)られそうなことを言っていた。刑事という職業柄、遺族の心のケアには慣れているはずなのに、なぜか今はひどく失敗したような気がしている。仕事の時でも、遺族を怒らせてしまうことが時々あった。


 反省する頃には話に一段落がついていた。マスターは驚いたような顔をして、語り終えた星乃をしばらく見つめ、やがて静かに「はい」と言って微笑んだ。


「ありがとうございます。私ごときにできることはあまりないような気もしますが、妻が見守ってくれているなら、がんばるしかないですね」

「すいません。俺、余計なことを言っちゃいました」

「とんでもないです。私は幼い頃からどうにもふがいない男でして、こうして誰かに発破をかけてもらわないとなかなか行動できないんですよ。とてもありがたいお言葉を頂戴しました。しっかり背中を押していただきました」


 ありがとうございます、と今度はマスターが星乃に深々と頭を下げた。「それなら、いいんですけど」と星乃は控えめにこたえて、その日は店をあとにした。


 それから二ヶ月半、マスターとは一度も顔を合わせていない。

 自分のためにも、マスターのためにも、もう二度と会わないほうがいい。そう思っていることは確かだ。捜査に行き詰まった時にマスターの顔を見ると、彼の心に痛みを与えるとわかっているのに、どうしても『謎解き』を注文したくなってしまうから。

 けれど、捜査がうまくいかないときに限って、マスターのことが頭に浮かぶのだ。マスターの手の中にはいつだって真実が握られているような気がして、そんな曖昧な希望に(すが)ってしまう刑事としての自分が情けない気持ちもありつつ、彼の意見を聞いてみたい気持ちを抑えることができない。

 なんだかんだと言い訳をして、結局、今回も来てしまった。『珈琲茶房4869』――名探偵のいる店に。


 腕時計に目を落とす。時刻は午後四時三十分を回った。

 店の看板の電灯が消えた。扉にかかった『OPEN』のプレートを『CLOSE』へとひっくり返すため、以前と少しも出で立ちの変わらない美青年のマスターが店から出てきた。


「あぁ、刑事さん」


 目が合うと、マスターはごく自然な笑みを星乃に向けた。


「いらっしゃいませ。どうぞ、お入りください」

「あ、いえ。今日は……」

「知り合いの農家さんから、おいしいイチジクをたくさんいただいたんですよ。タルトを焼いたので、よかったら召し上がっていきませんか」


 私の(おご)りで、とマスターは気前のいいことを言ってくれた。奢り云々は一旦脇においておくとしても、イチジクのタルトなんておいしいに決まっている。


 気がつけば、星乃はマスターに促されるまま店に足を踏み入れていた。

 昔から、甘い誘い文句に弱かった。

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