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推理茶房4869  作者: 貴堂水樹
一作目 飢えた女
2/24

1-2.

「マスター、お会計」


『謎解き』の文字に目を奪われている星乃の背後で、おしゃべりに興じていた老人二人組が席を立った。店主が「マスター」と呼ばれたことに、あ、呼んでいいんだ、と星乃は次から俺もマスターって呼ぼうと心に決めた。


 午後四時三十分。店内は星乃とマスターの二人きりになった。

 レジを離れたマスターは、厨房へ戻らず、甘ったるいが香り高いホットコーヒーに舌鼓(したつづみ)を打つ星乃のもとへ歩み寄ってきた。


「お客さま、どなたかとお待ち合わせですか?」

「いえ、違います」

「そうですか。失礼いたしました。どうぞ、ごゆっくり」

「あの、マスター」


 そそくさと厨房に戻りかけたマスターを、星乃はさっそく「マスター」と言って呼び止めた。


「なにか不都合がありましたか?」

「いえ、まもなくラストオーダーの時間でして、お待ち合わせでしたら追い出してしまうことになりかねないなぁと不安に思ったものですから」


 心底申し訳なさそうな顔をするマスターに、星乃のほうがよほど申し訳ない気持ちになった。こんなにも早い時間に店を閉めるとは知らなかった。


「すいません、ややこしい時にお邪魔しちゃいましたね」

「とんでもないです。他のお客さまからもよく言われるんですよ、十七時閉店なんて早いねって」


 無意識のうちに、星乃は腕時計に目を落としていた。確かに、十七時閉店の飲食店は珍しい。


「けれど、なにかご事情があってのことなのでしょう?」

「えぇ。私のわがままといいますか、夜はどうしても時間を作っておきたくて」


 肩をすくめるマスターの立ち姿に、星乃は納得したように深くうなずく。

 厨房の奥の壁に、飾り棚がいくつか設けられている。そのうちの一つ、小さな観葉植物の鉢から葉と(つる)がオシャレに垂れ下がる棚に、マスターと若い女性のツーショット写真が飾られていた。マスターは白いタキシード、女性のほうは白いウェディングドレスにティアラ姿。結婚式の写真だ。

 奥さんのことが大好きなんだな、と星乃は勝手に想像して微笑ましい気持ちになった。夜は家族サービスの時間と決めているのだろう。妻どころか彼女すらいない星乃にとって、最愛のパートナーを得、仕事と家庭を両立させようと奮闘する同世代のマスターの姿は、キラキラと輝かしく映った。


 会話が途切れたところで、マスターは一度店の外へと出た。ガラス扉に設置された『OPEN』のプレートを裏返し、『CLOSE』の表示にしたようだ。意図せず星乃はこの店の今日最後の客になった。

 客のいなくなったテーブル席を片づけ、厨房に戻って洗い物を始めたマスターは、ツーショット写真の飾られた棚とは別の飾り棚を背にしている。その棚には年季の入った本が整然と並べられていた。

 目を凝らして見てみると、著者はすべてアーサー・コナン・ドイルだった。フィクションに暗い星乃でも、飾られているのが『シャーロック・ホームズ全集』であることは察しがついた。


「マスターはホームズのファンなんですか?」


 ()くまでもないことと知りながら尋ねたが、意外にも回答は「いいえ」だった。


「私はどちらかというとエルキュール・ポアロ、アガサ・クリスティ派なんです。シャーロキアンだったのは、妻と、妻の母方のお祖父(じい)さんで」


 エルキュール・ポアロ。よく知らないが、ポアロという名前を聞いたことくらいならある。

 星乃がそんな曖昧な顔をしたことを目敏(めざと)く見抜いたマスターが、丁寧に説明してくれた。


「エルキュール・ポアロは、アガサ・クリスティというイギリス生まれの女性推理作家が生み出した名探偵です。『オリエント急行(きゅうこう)殺人(さつじん)事件(じけん)』や『ABC殺人(さつじん)事件(じけん)』あたりが有名かと思うのですが、ピンときませんか」

「すいません。職業柄、推理小説は特に読む気になれなくて」


 推理小説どころか、星乃はこれまであまり本を読んでこなかった男である。学校でも、国語の成績はあまりよくなかった。得意科目は体育で、文系か理系かどちらか選べと言われた時には迷わず理系を選択した。文章よりも数字と(たわむ)れているほうが性に合っていたし、本は本でも、読むのはもっぱらマンガだった。


「職業柄」


 泡だらけの食器をすすいでいるマスターは、一瞬手を止め、ひとりごとのようにつぶやいた。星乃をまっすぐにとらえた形のいい(とび)色の瞳に、おもしろいオモチャを見つけたような光が宿る。


「失礼ですが、ご職業は」


 その目はすでに、星乃の仕事に見当がついているようだった。星乃は黙って、マスターに警察バッジを掲げて見せた。


「愛知県警の星乃といいます」

「これはこれは。ご苦労さまです」


 驚きつつも、好奇心で胸がいっぱい、という顔をマスターはした。おそらくは無意識だろう。推理小説に明るいというのだから、私服警察官である星乃が刑事である可能性が高いことは当然気づいているはずだ。

 しかし、不思議だった。警察官だと名乗るとたいていの一般市民は身構えるが、マスターからはそれらしい雰囲気がほとんど感じられなかった。

 本物の刑事に会えて嬉しいのか、やましいことがないから自然体でいられるのか。いずれにせよ、警察官であると名乗ってからも、星乃とマスターの間に存在する距離は変わらなかった。客と店員。その関係性を保ったまま、マスターは星乃との会話を続けた。


「昼過ぎでしたか。パトカーのサイレンが何台分も重なって聞こえていたので、なにかあったのかなと思っていたのですが」

「そうなんです。夕方のニュースで流れるでしょうが、強盗殺人事件が発生しまして」


 強盗殺人、とつぶやいたマスターの瞳がいよいよ本格的に輝き始めた。


「恐ろしいですね。このあたりは裕福なご家庭が多いですし、空き巣の被害に遭われるお宅も一軒や二軒ではないと聞きます」

「そのようですね。今回の事件現場も立派な一軒家でした」


 と返しながら、星乃は内心、おいおい、と思って苦笑を漏らした。

 恐ろしいと口にしながら、マスターはどうやらこの状況を楽しんでいるらしい。現場は東山通を挟んだ北側、日泰寺側だが、店のすぐ近くで殺人事件が起きたのだから、普通はもう少し怖がるものじゃないのか。犯人がこのあたりへ逃げてきているかもしれないのだから。


「犯人は捕まったのですか」


 無自覚だろうが、マスターはやや前のめり気味に尋ねてくる。星乃は力なく首を振った。


「捜査中です」

「では、ここへは聞き込みにいらっしゃったというわけですね」

「それは……まぁ、はい。そうですね」


 自然と言葉を濁してしまう。純粋に熱いコーヒーを飲みに来ただけだとは今さら言い出せそうにない。

 ごまかすように、星乃はマスターにいくつか質問を投げかけた。


「ここ一週間ほどの間に、このあたりで不審人物を見かけた、などということはありませんでしたか?」


 マスターは腑に落ちないという顔をした。


「なぜ、一週間前まで(さかのぼ)って情報をお集めに? 事件が起きたのは今日のことではないのですか?」

「いえ、それが……」


 星乃はソーサーの脇に置いていた黒いノートを、右の人差し指でトンと叩いた。


「遺体発見は今日の昼過ぎのことなんですが、実際に事件が発生したのは、今から一週間前のようなんです」

「一週間前?」


 マスターの表情がいよいよ険しくなってくる。


「では、ご遺体はかなり腐敗が進んでいた?」

「いえ、それがそういう状況でもなくて」


 マスターは大きく首を捻った。それはそうだろう。星乃も現場に足を踏み入れた時、猛烈な違和感を覚えてならなかった。その違和感の正体がいまだにはっきりとせず、もう何時間もモヤモヤしたまま捜査に当たっているという状況である。

 そんなことを考えているうちに、ハッとした。マスターとの問答があまりにも自然だったせいで、余計なことをしゃべってしまいそうになっていた。


「あの……」

「そうか、冬ですもんね」


 星乃が言い(つくろ)うよりも先に、落ちつきのあるテノールボイスでマスターはつぶやいた。


「夏なら腐敗の進行も早いでしょうが、ここ数日は特に寒かった。……いや、それにしたって、一週間前に殺されたご遺体ならある程度腐敗していなければ辻褄が合いませんよね」


 星乃は目を丸くした。ここでのやりとりは、まるで刑事部の先輩たちとの会話そのものだ。

 胸の奥がざわついている。何者なのだ、この喫茶店経営者は。推理小説に詳しいというだけで、こんなにもなめらかに事件についての会話が成立するものだろうか。


「申し訳ありません」


 しゃべりすぎたと思ったのか、マスターは頭を下げた。


「出すぎたことを申しました」

「いえ、とんでもない。すごくお詳しいので驚きました」


 マスターは「恐縮です」と曖昧な笑みを浮かべたきり、口を閉ざしてしまった。食器を洗い終え、流していた水を止めた彼の表情を窺うと、うまく言葉にできないが、後悔しているような、なにかに苦しんでいるような、そんな顔をしていた。

 会話を自ら中断したマスターを気づかい、星乃は言う。


「別に迷惑とか思ってないです。むしろ、マスターと話していると頭の中が整理できてありがたいというか」


 本音だった。一人であれこれ悩んでいるより、誰かと言葉を交わしていたほうが、心が健康でいられる気がした。

 マスターは少しホッとしたようで、「それならば、よかったです」と言った。


 ぬるくなり始めたコーヒーを一口すすって、星乃は先ほどまでの会話を再開させた。


「おかしな事件なんですよ、本当に。事件発生が一週間前っていうのはほぼ間違いないんですが、被害者が亡くなったのは三日前、十五日の土曜日じゃないかというのが検死官の見立てで」

「三日前、ですか」


 マスターは濡れたマグカップをタオルで丁寧に拭きながら、難しい顔で小さくうなった。


「一般家庭で起きた強盗殺人で、事件発生から被害者が死に至るまでにいくらか時間があき、なおかつ、ご遺体が発見されるまでにも時間があいた。確かに、前例の(とぼ)しそうなケースですね」

「はい。被害者は監禁されていて、助けを呼ぶことができない状況にありました。事件の発覚が遅れたのはそのためです」

「監禁」


 星乃の言葉をすくい上げたマスターは、一瞬、瞳をキラリと輝かせた。


「ますますおかしな状況ですね。強盗殺人で、監禁? 耳慣れない組み合わせです。強盗殺人と聞くと、犯人と鉢合わせた被害者が手近にあったもので撲殺される、なんていう状況を真っ先に想像してしまうのですが」


 まさにマスターの言うとおり、強盗殺人の被害者が自宅に監禁されるというのは他に類を見ない事例だ。

 しかし、事件は実際に発生した。星乃は短く切った黒髪をくしゃくしゃとかき乱し、小さく息を吐き出してから言った。


「被害者の殺害方法は、撲殺でも刺殺でも扼殺(やくさつ)でもありません。犯人の手によって自宅の一角に監禁された被害者は、餓死した状態で見つかったんです」


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