3.
星乃のひとりごとに熱心に耳を傾けていた『珈琲茶房4869』のマスターは、話に一段落がつくと、嬉しそうに口を開いた。
「推理小説の世界にはじめてアナフィラキシーショックという概念が登場したのは、『キプロスの蜂』という作品でしてね」
前回同様、星乃にとって耳慣れないワードが飛び出した。マスターの推理小説マニアぶりが今回も炸裂しそうである。
「蜂」
「えぇ。著者はアントニー・ウイン、一九二六年発表の短編作品です。自動車の中で、座ったまま亡くなっている女性が発見されるのですが、検視の結果、彼女の死因は蜂に刺されたことによる突然死であることが判明します。その後の捜査でキプロス蜂という蜂が複数入った箱が発見され、事件は解決へと向かいます」
「その蜂を用意した人物が犯人だった?」
「はい。当時はまだアナフィラキシーショックという概念が一般に浸透しておらず、そうした殺害方法があるということを世間に広めた点が高く評価された作品でした」
「へぇ。じゃあ、今ではアナフィラキシーショックを利用した殺人を扱った作品がたくさんあるってことか」
「おっしゃるとおりです。日本人作家の作品もありますし、小説に限らず、漫画に出てくることもあります」
「漫画でも」
「えぇ。ですが、いくつかの作品では、アナフィラキシーショックで死亡する登場人物が物語のキーパーソンでありながら、被害者がどのような経路でショック症状を引き起こす原因物質を摂取したか、その点については問題視されていません」
「どうして」
「問題視する必要がないからです。お客さまが今追いかけていらっしゃる事件と同じように」
なんだって? 星乃は勢い余って椅子から腰を浮かせた。
「マスター、あなたまさか……?」
間違いない。この人にはすでに、事件の真相が見えている。
目を見開く星乃に一つ美しい微笑を贈り、マスターは朗々と語り始めた。
「推理小説の中でもしばしば説かれ、現役の警察官であるお客さまは誰よりも深く理解していらっしゃることだと思いますが、罪を犯す者というのは、得てして安心材料を欲するものです。犯行に対する抵抗感や罪悪感を軽減しようとする行動もその一つですし、なるべく自分に疑いの目が向かないように偽装工作をすることもある。今回の事件関係者の皆さんから直接お話を伺って、お客さまはどうお感じになりましたか? どなたかの言動に作為的な印象をお持ちになったでしょうか?」
問われるままに、星乃は事件当夜の記憶をたどった。
長男の篠岡青羽は、母親に対する嫌悪感を露わにしたり、晩餐会終了後の一時間の行動について、事件現場である寝室に近い場所にいたことを素直に認めたりと、隠しごとをしている素振りはなかった。
長女の福谷泉は晩餐会終了後すぐに邸を出ているので、それ以上の証言が出てくるはずもない。
次女の篠岡翠は聴取の最中に泣いてしまいほとんど話を聞けなかったが、晩餐会終了後の一時間は家政婦の保田紀代子や青羽の妻、篠岡歌織と行動をともにしていたことがわかっている。なにより彼女は重度の猫アレルギーをかかえており、くしゃみなどのアレルギー症状が現れたのは事件発覚後、被害者の飼い猫が寝室の外へと追い出されたあとのことだったと家族が証言していることから、事件発覚前に彼女が被害者の部屋へ入ったとは考えられない。
次男の篠岡朝日、三女の篠岡桜については、晩餐会終了後すぐに二階の自室へ引き上げたと証言し、それぞれアリバイはない。しかし、二人ともアリバイがないことで不安そうにする様子はなく、どこか他人事のように事件を静観する姿勢であったのは、やはり事件とは無関係だったからと考えるのが自然であるように思えた。
晩餐会終了とともに帰宅した福谷浩輔、篠岡和之、篠岡惠美、大沢道明の四名については、こっそり邸に戻って被害者にピーナッツを食べさせたという線を検討した結果、ほぼ不可能という結論が出た。
玄関扉はオートロックのため、外へ出れば勝手に錠がかかる。開けるには鍵が必要だが、四人とも所持していない。
なおかつ、玄関先には篠岡家の優秀な番犬、アイリーンがいた。アイリーンは邸に住む人間に対しても一度は必ず吠えるといい、昨夜吠えたのは晩餐会の出席者が続々と訪れた午後六時頃と、救急隊員や警察が到着した時だけとのことだった。誰か一人でも邸に戻ってきたとするなら、アイリーンの吠え声を邸にいた者が聞いていなければ辻褄が合わないということになる。
従って、四人のうちの誰かによる犯行という線は極めて低いと思われた。そもそも四人とも、被害者の寝室には一歩も足を踏み入れていないそうだ。
「そう言われると……」
星乃は再び椅子に腰を落ちつけて言う。
「確かに、誰の証言にもうそをついているような印象は持たなかったです。被害者を殺害する機会があったことを素直に認める人もいたくらいだし」
「はい。私もお客さまのお話を伺っていて、そう感じました」
「でも、マスターには犯人がわかっているんですよね?」
マスターはうなずかなかった。代わりに「視点を変えてみましょう」と言った。
「事件関係者の証言に引っかかる点がないのなら、真相につながる根拠を見つけるためには現場をよく調べてみる必要がありそうです。事件発生当時、被害者が発見された一階の寝室というのはどのような状態だったのでしょうか」
「えーっと、扉に鍵はなく、室内は整然としていました。被害者はベッドの上で発見されて、その時点ですでに息がなかった。第一発見者の家政婦が遺体発見時に運び入れたティーセット以外、部屋には食べ物や飲み物の類が一切置かれておらず、なにかを食べたあとに出る包装紙のゴミなども見つからなかったため、ピーナッツの摂取経路は不明。家政婦の証言によれば、被害者の着衣は晩餐会の時と同じ、濃紺の和服だったそうです。大事なポイントはこれくらいですかね」
マスターはここでようやくうなずいた。つまり、今星乃が列挙した事項の中に、事件解決のカギが隠れているということだ。
「お客さま」
「はい」
「仮に、お客さまが被害者だったとしましょう」
「はい?」
なるほど、事件当時の様子を想像してみろ、ということか。居住まいを正し、星乃は今一度「はい」と言った。
「もしもお客さまがピーナッツアレルギーを持っていて、誰かが手土産を持って部屋を訪ねてきたとしたら、どうなさいますか?」
「そりゃあ、その手土産が食べ物だったら、ピーナッツが入っているかどうかを入念に調べます。食品成分表示がなければ口をつけないかもしれない」
「正しいご判断かと思います。では、何者かにピーナッツを無理やり口の中に押し込まれたとしたら、どうなさいますか?」
「吐き出します。どうにかして」
「それもできない状況だったらいかがでしょう? たとえば、口の中に手を突っ込まれ、喉の奥までピーナッツを押し込まれてしまったら」
「待ってください。そんなことをされたら……いえ、されそうになった時点で必死に抵抗しますよ。最低でも、手に噛みついたり、爪を立ててひっかいたりすることは絶対にやります」
「では、事件関係者の中に、手に怪我をされていた方がいらっしゃいましたか?」
星乃は両眉を跳ね上げた。そんな人はいなかった。いたら見逃すはずはない。
「いません」
「だとするなら、被害者は今挙げた方法とは別のやり方でピーナッツを摂取した、ということですね。お客さまなら、他にどんな手段を思いつくでしょうか」
星乃はわかりやすく顔をしかめた。それがひらめかないから、こうしてマスターの知恵を借りようとしているのだ。
星乃がうなってばかりいるのを見かねて、マスターは論点を変えた。
「では、被害者がなんらかの方法でピーナッツを摂取したとしましょう。食物アレルギーは摂取後まもなく症状が現れますから、被害者が呼吸困難に陥ったのもピーナッツを食べたすぐあとのことだったと推測されます。だからといって、息ができなくなってすぐに意識を失うとは限りません。さて、お客さまが被害者の立場ならどう行動されますか?」
「そりゃあもちろん、助けを呼びますよ。スマホを使うなり、部屋の外に出るなりして……」
その先の言葉は出てこなかった。自分で言っておいて、大きな矛盾点にぶつかった。
「ヘンですね。被害者のスマホは寝室、それもハンドバッグに入った状態で見つかっている。……待て待て。そもそも被害者の遺体って、ベッドの上で発見されたんだよな。仮にベッドの上で呼吸困難に陥ったんだとしても、助けを呼ぼうとするなら床を這ってドアに向かうか、ドレッサーに置いていたスマホに向かうかのどちらかになるはずで……」
全身がぶるりと震えた。
事件発生から四日。自分たちはこれまで、とんだ思い違いをしていたのではないだろうか。
「マスター」
はい、とマスターは恐ろしいほど静かにこたえた。
顔を上げ、星乃はたどり着いた結論を口にした。
「篠岡ひばりは、自殺したんですね」