2-5.
日頃から被害者の食事の世話をしていた家政婦の保田紀代子は、ダイニングルームに呼ばれるなり、「わたくしはなにもやっておりません!」とやはり目尻に涙を浮かべて訴えた。
星乃がどうにかなだめて席につかせ、一緒に深呼吸をしてやると、ようやく落ちついて話を聞くことができるようになった。
「今から二十九年前のことです。丸篠本社に勤めていた夫を早くに亡くし、途方にくれていたわたくしに、前社長の宗之さまが『よかったらうちで働かないか』とお声をかけてくださいました。以来、こちらのお宅で住み込みの家政婦として働いております。はしたない話ではありますが、お給金もわたくしにはもったいないほどの金額をいただいておりますので、不満は一切ございません」
「よくわかりました」受け答えはすべて班長が担当した。
「では、ひばりさんの今日の様子について伺います。なにかいつもと違うことをしていたとか、どこかでなにかをもらってきたとか、そういったことはありませんでしたか?」
「土曜日の午前中は、毎週お花のお稽古へお出かけになります」
「生け花ですか?」
「えぇ。送迎は専属の運転手がつき、お稽古のあとはいつも決まって、他の生徒さんや先生方と外でお食事をなさいます。ご帰宅なさったのは午後二時頃のことです。こちらも毎週変わりません」
「なるほど。今日が誕生日だったということですから、なにかプレゼントをもらって帰ってきたとか、そういったことは?」
「えぇ、えぇ、ありました。お着物の帯だったり、花器だったり、たくさんの袋をおかかえでしたよ。もちろん、ピーナッツを含む食品は一つもありませんでした」
だろうな、と星乃は心の中だけで独りごちる。そんな簡単な話だったら、星乃たち本部の人間が呼ばれるまでもない。
「晩餐会の時の様子は? 出された食事は完食されたんでしょうか?」
「ありがたいことに、きれいに召し上がっていただきました。ですが……」
保田の表情がより一層暗くなる。
「奥さまは和食を好まれるので、今夜も魚をメインにご用意したのですけれど、お孫さんにあたる青羽さんのお子さま、誠くんと愛ちゃんのために作ったハンバーグを見て『私も食べたかったわ、ハンバーグ』とぽつりと漏らされて。事前にご希望をお伺いしておくべきだったと、今でも後悔しております」
割烹着から取り出したハンカチで涙を拭う保田の姿は、これが家族としての正しい反応なのではないかと強く思わされるものだった。母を失っても心が動かないと断言した青羽も、事故だと決めつけている泉も、ポータブルゲームに夢中だった朝日も、本当に被害者の実子なのかと疑いたくなるような、あまりにも冷酷な態度ではなかっただろうか。
ピーナッツについて詳しく尋ねると、買い出しの際は必ずアレルギー成分表示を確認する、惣菜をはじめとした出来合いのものは信用できないので買わない、調味料もドレッシングやマヨネーズなら手作りするなど、とにかく徹底してピーナッツを排した食生活を送っていたようだった。
根っからのお嬢さま育ちでありながら、ひばりは料理への興味と造詣が深く、保田ともよく二人でキッチンに立っていたという。歳は保田のほうが三つ若いが、主従関係というより、妹や距離の近い友人といったようなフランクな関係だったと保田は話した。彼女が厳しい態度で接していたのは五人の子どもたちだけだったというのも、保田から引き出した証言だった。
「孤独な人だったのよ、母は」
晩餐会終了後の午後七時半には夫の福谷浩輔とともに邸をあとにし、突然の母親の訃報を受けて戻ってきたのは午後九時過ぎだったという長女の福谷泉だが、彼女の口からは、母を亡くしたばかりの娘とはおよそ思えない冷めた証言が飛び出した。
「わたしが幼稚園にかよい出した頃に紀代子さんがうちで働くようになって、わたしの世話はほとんど紀代子さんが見てくれたわ。翠や朝日、桜の面倒はわたしが見た。母は兄さんにつきっきりだったもの。母がわたしたち四人に言うことは、決まって『自立なさい』だった。自分だって世間知らずのお嬢さまのくせに、わたしたちにはなんでも自分でやれって言うの。……いいえ、世間知らずのお嬢さまだからこそ、そういう偏った教育しかできなかったのね。丸篠の跡継ぎを産み、立派に育て上げるためだけに、母は篠岡家に嫁いできたんだから。それしか頭になかったのよ」
このあたりの事情は、青羽や保田の証言と矛盾しない。青羽にはマンツーマンで、泉以下四人の子には突き放すことで厳しく接した。兄弟間に亀裂が生まれるのも無理のない話だった。
「わたしたちへの態度は、兄さんが社会に出てからも変わらなかった。今さらどう接していいのかわからなかったんでしょうね。この家には今でも朝日と桜が住んでいるけれど、母とは食事の時にようやく顔を合わせる程度で、三人が三人とも自分の部屋に引きこもるような生活らしいわ。母と唯一関係がうまくいっていたのは紀代子さんだけ。母の死を一番悲しんでいるのも、きっと紀代子さんよ」
そう話す泉の瞳は、清々しいほど乾いていた。家族の仲はよくなかったという青羽の証言を後押しするような言動に、星乃は故人を想うと胸が痛んだ。
母親の死を素直に悲しめないというのは、それこそひどく悲しいことではないだろうか。
「へくちっ」
次女の篠岡翠は、ダイニングルームへ入ると同時にくしゃみをした。エメラルドグリーンのセーターに、裾がアシンメトリーになっているブルーのロングスカートを合わせるというファッショナブルな服装は、さすが新米デザイナーと言いたくなるほどのハイセンスだ。
一方で、顔面はぐちゃぐちゃだった。ティッシュで押さえられた鼻は真っ赤で、ばっちりメイクを施してある目も充血している。ティッシュの箱をかかえ、何度もくしゃみをくり返す姿に、星乃は知らず知らずのうちに「花粉症ですか」と尋ねていた。
「違うんです。あたし、猫アレルギーで」
あぁ、と星乃は磨りガラスの扉に目を向けた。ソファに座って泣いていた三女の桜の膝の上に、白い猫が収まっていたことを思い出す。
「あの猫、メアリーっていうんですけど、一年くらい前から母が飼い始めた猫で。世話も掃除も大変だから、普段は母の寝室から出さないようにしているらしいんですけど、警察の人が来て、捜査の邪魔になるからって言うので、仕方なく桜が抱っこすることになったら、あたし、くしゃみが……へくちっ」
いたたまれなくなって、星乃は「申し訳ありません」と頭を下げる。ものすごい勢いでティッシュを使い減らしていく翠の姿は、発作が起きた時の自分を鏡に映しているようだった。
「だからあたし、母の部屋には絶対に入れないんです。なんなら、母と近い距離で話すのもイヤ。メアリーを抱いた服なんて、フケだらけに決まってるから」
「わかります」
共感の嵐で、星乃は黙っていられなかった。
「自分は花粉症なんですが、この時期は一歩も外へ出たくないです」
「やっぱり? つらいですよね、くしゃみと鼻水」
「はい、とても」
「どうして猫だけダメなんだろ。犬は平気なのに。あぁでも、お母さんも桜もピーナッツはダメだけどくるみは大丈夫だから、それと一緒か」
「そうなんですか?」
星乃と翠のやりとりを静観していた班長が、ここではじめて口を挟んだ。
「アレルギーが出るのは、ピーナッツだけ?」
「そうなんです。ピーナッツは豆で、くるみやカシューナッツは木の実だから、全然違うんだって聞きました。だから今夜も、サラダの上に砕いたくるみが振りかけてありましたよ。母も桜も平気な顔で食べてました」
星乃はうなずきながら、頭の片隅に一瞬『もしかして砕いたくるみの中にピーナッツを混ぜたのでは』という推理が過ったが、だとするなら被害者は晩餐会の最中に倒れていなければ辻褄が合わない。即座に却下した。
母親の話をしているうちに現実を思い出したのか、翠は涙を流し始めた。
「おかしいですよね。あたし、お母さんのことなんてちっとも好きじゃなかったのに。お父さんの時は泣けて当たり前だったけど、お母さんも一緒だ。いざ死んじゃうと、やっぱり悲しい」
ダイニングテーブルに突っ伏した翠は、わんわん声を上げて泣いた。
この家にも少しはあたたかい血がかよっていることがわかって、星乃は胸をなで下ろした。
「僕には関係ない」
ホッとしたのも束の間、次男の篠岡朝日は一級品の冷たさで言い放った。
「僕は晩餐会に出ることすらイヤだったんだ。終わってからはすぐに自分の部屋に戻った。なんで僕が母さんの還暦を祝わなくちゃならないんだ。知らないよ。向こうがこっちに興味がないんだから、こっちだって無関心になるのは当たり前だろ」
今回の騒動が起きていること自体、朝日は迷惑に思っているようだった。かかわり合いになりたくない、事件の真相すらどうでもいいといった風に、「僕には関係ない」とくり返すばかりでとりつく島もない。
「紀代子さんがいてくれるから、この家に住んでいられるんだ。紀代子さんのごはんがまずかったら、県外の大学へ進んでた。母さんが死んでも全然悲しくないけど、紀代子さんが死んじゃったら、僕、しばらく立ち直れないと思う」
この発言から、泉の話が事実だったことが窺える。朝日が生まれた頃には保田紀代子は篠岡家に仕えていて、朝日に母親らしいことをしてくれたのは被害者ではなく保田だったのだろう。被害者がいかに夫と長男に依存していたかがよくわかるエピソードだった。




