1-1.
「なるほど、『4869』ね」
その喫茶店が掲げる看板を見て、星乃顕人はそうつぶやかずにはいられなかった。
職業柄、フィクションは嗜まないが、かの有名なシャーロック・ホームズくらい知っている。元軍医で助手のワトソン博士を従え、数々の難事件を解決した名探偵だ。
六階建て雑居ビルの一階。吸い込まれるように、星乃はこぢんまりとした店の佇まいを見つめる。
誰もが知る名探偵の名をもじった店の看板が、散々歩き回った挙げ句、手がかりの一つも掴めないまま帳場――捜査本部の立った所轄署へ引き返す羽目になりかけている刑事の目に留まった。この事実に意味を求めるのは、やはり野暮というものだろうか。そんなことをつい考えてしまう。
日本列島のほぼど真ん中、中京圏の中心地として栄える愛知県名古屋市。今星乃のいる覚王山エリアは、東海道新幹線の通るJR名古屋駅から少し東へはずれた、名古屋でも指折りの高級住宅地である。
主要幹線道路の一つ、名古屋市内を東西に貫く東山通の走る地域で、お釈迦様のお骨が眠り、日本とタイの友好の象徴と言われる覚王山日泰寺があることでも知られる場所だ。すぐ東隣の本山エリアは難関国立大学や複数の私立大学が軒を連ねる文教地区で、そこからもう少しだけ東へ行けば、全国で七ヶ所しかないコアラに会える動物園もある。
老若男女、日々人の行き交いが絶えず、活気あふれる明るい街。そんな覚王山エリアの一角に、星乃の出会った喫茶店はあった。
『珈琲茶房4869』。
日泰寺から南へ下ると東山通にぶつかり、道を渡ってさらに南下したところに、新しくも古くもない六階建て雑居ビルがある。
くだんの喫茶店はビルの一階西側部分に出店していた。ガラス張りの扉には、目の高さに『OPEN』と書かれた木製の差し込み式プレートが設置されている。プレートを引き出して裏返すと『CLOSE』になるのだろうが、現在は絶賛営業中らしい。
扉の上に掲げられた看板には、白地に黒い文字で『珈琲茶房4869』と記されている。店名の隣に描かれているのは、パイプを咥え、ハンチングを被った男性の横顔のシルエット。なるほど、シャーロック・ホームズである。イラストのパイプからはご丁寧に、ゆらゆらと煙が立ち上っている。店名の数字にルビが振っていないことから、『シャーロック』と読ませるつもりはなく、そのまま『よんはちろくきゅう』と読めば良さそうだと星乃は勝手に推察した。
同じビルの一階、喫茶店の東隣にはもう一店舗、雑貨店が開業していた。そちらが窓際にあれやこれやと商品を並べ、店内をきらびやかに見せている反面、星乃の目に留まった喫茶店は、遮光のためか、ほとんどの窓にブラインドが下りていて中の様子があまり見えない。かろうじて覗ける扉のガラスの向こう側にレジスターが置いてあるのはわかったけれど、店内のつくりや人の入り具合はやはりよくわからなかった。
午後四時を回った一月の名古屋は、朝から続く曇天の影響もあり、気温は十度に届かなかった。スーツの中にニットのベストを着、上からコートを羽織っていても寒さがこたえる。
このエリア一帯を二時間以上歩いて回り、だいぶ足が重くなってきていた。二十七が若いのかそうでないのか自分では判断できないが、とにかく、少し休んで体力を回復させたい。舌をやけどしそうなくらいのホットコーヒーをぐいと呷って暖も取りたい。暑いのは得意だが、星乃は昔から寒さにめっぽう弱かった。
左、右と首を向け、最後に背後を振り返る。まるで自動車教習所で習うような所作だが、これで前後左右、自分の姿を見ている者が誰もいないことを確認できた。
同じ班の先輩であり、班を束ねる班長でもある主任刑事に連絡を取ろうかとも考えたが、やめた。「もう少し粘れ」と言われる気がした。県警本部の人間として捜査の主導権を握っている手前、所轄署の捜査員があくせく働いているのに自分たちだけ休むわけにはいかない。班長なら、きっとそう言う。
所轄署の捜査員と手分けして聞き込みをし、殺人犯を追っている最中である。抜け駆けすることは気が引けないでもない。この喫茶店の店主に話を聞く体を装うにしても、だ。
しかし、とにかく寒かった。一瞬でいいからあたたまりたい。
星乃の決意は固かった。なにがなんでも、この店に入ってコーヒーを飲む。
店の入り口にそっと近づく。キョロキョロ、コソコソとあたりの様子を伺う姿はまるで犯罪者のようだ。俺、刑事なのに。星乃は自分で自分を鼻で笑った。
いざ、と勢い込んでドアの取っ手に右手を伸ばしたところで、店から若い女性のグループが出てきた。大学生だろうか。続けざまに三人が扉をくぐり、一人が会計のため店内に残っている。
女子大生らしき四人組が揃って店の前を離れるのを待ってから、星乃は改めて『珈琲茶房4869』に足を踏み入れた。
女子大生が扉を開けた時にふわっと広がったコーヒーの香ばしいにおいが、ほどよくあたたまった店内に入るとより一層強く香って気分が上がる。はじめてコーヒーをうまいと思ったのは中学生の頃で、今では立派なカフェイン中毒者だった。
「いらっしゃいませ」
白いシャツに深いグリーンのエプロンを身につけた店主らしき男性が、さわやかな笑顔で出迎えてくれた。まっすぐ目が合うと、星乃は一瞬、彼の醸し出す独特の色気にたじろいだ。
目、鼻、口と、図ったように均衡の取れた顔立ちは、派手ではないが薄くもなく、どこか中性的な雰囲気があった。同性の星乃でもうらやましさを覚えるくらいに美しく、人を惹きつける不思議な力を感じる。
女性が元来持つような、内側からにじみ出る上品さを彼から感じる理由は、肌が白いことと、男にしては背が低い点にあるようだ。
一八〇センチの長身に広い肩幅というガタイのいい星乃と並ぶと、店主の男性はなおのこと小さく見える。身長は一七〇センチに届かないだろう。年齢は星乃とさほど変わらない二十代後半から三十代前半あたりで、「マスター」と呼びたくなるような貫禄をまとうには至っていないが、深緑のエプロンはよく似合っていた。
店主の男性が、レジの前から星乃の立つ側へと出てきた。
「お一人さまですか?」
「はい、一人です」
「すみません、少しお待ちいただければテーブル席もご用意できるのですが」
言われて店内を見渡すと、店は扉を入って右側に大きくスペースを取ってつくられていた。向かって右手、歩道に面した窓側に、今しがた店を出た四人組の女性が座っていたらしき四人掛けのテーブル席がある。その奥にもう一つ、同じく四人掛けのテーブル席があるが、七十代前後の男性二人が陣取り、世間話に花を咲かせていた。
向かって左手にはオープンキッチンタイプの厨房と、向かい側にカウンター席が四つ設けられていた。通路は広く取られており、突き当たりにトイレの扉が見える。
ブラウンを基調とし、グリーンを差し色として使ったインテリアで全体的にオシャレに飾られているが、全部で十二席しかない、売上にこだわらず趣味で開いているような狭い店だった。
「いいですよ、カウンターで」
答えながら、星乃はカウンター席に視線を向ける。座っている客は一人もいなかった。
「かしこまりました。どうぞ、お好きなお席へおかけください」
店主に促され、星乃は店の入り口扉からもっとも遠い、一番奥のカウンター席に腰を落ちつけた。親切なことに、足もとに荷物を置けるようカゴが用意されていたので、ショルダーバッグと丸めたロングコートを遠慮なく入れさせてもらう。
レジの横、星乃の座った席から一番遠い席の左脇が厨房の出入り口になっている。店主の男性は水の入ったグラスとおしぼりを片手に星乃の席までやってきた。
「ご来店ありがとうございます。メニューはそちらのボードに掲示しております」
店主は右手で星乃の頭のすぐ右上をさした。壁にかけられた黒地のボードに、白いマーカーでドリンクやフードのメニューが丁寧に手書きされている。ドリンクはテイクアウトもできるようだ。
星乃は促されるままボードに目を向けたものの、細かくは目を通さなかった。頼みたいものはホットコーヒーと決まっていたので、迷いなく注文する。
「かしこまりました」と星乃に対し恭しく頭を垂れて厨房へ戻り、慣れた手つきでコーヒーを淹れ始める店主の姿を目の端に映しつつ、星乃は足もとのショルダーバッグからA5サイズの黒いリングノートを取り出した。捜査の際、メモを取るために必ず持ち歩いているもので、罫線の走る白い紙はびっしりと小さな文字で埋め尽くされ、まもなく一冊使いきろうかというところまで残りのページが少なくなっている。
メニューボードの美しい文字とは違い、走り書きで読みにくい自分の字を睨みながら、星乃は小さくため息をついた。
今追いかけている事案を一言で説明するなら、強盗殺人事件である。
しかし、現場はどこを切り取っても違和感だらけで、考えれば考えるほど心のモヤモヤは募っていった。このまま近隣の聞き込みを続けることが本当に正しい捜査なのかどうか、どうにも納得できないでいる。
そもそも、この事件は本当に強盗殺人なのか? 疑問の出発点はそこからだった。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーでございます」
待ち時間はほとんどなかったが、店主は型どおりの文句を口にしながら、星乃の前にコーヒーカップとオモチャのように小さなミルクのピッチャーを置いた。ソーサーの上にはカップと一緒にシルバーのティースプーンが載せられ、砂糖はスティックタイプのものがカウンターに備えつけられている。
今さらながら、カフェオレにすればよかったと後悔した。星乃は大の甘党である。今日みたいに寒い日は特に、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーが恋しくなる。
右斜め上のメニューボードを改めて見てみると、カフェオレもきちんとラインナップされていた。よく考えずに注文してしまった自分がいけないし、店主はこの中から選ぶようしっかり言い添えてくれていたのだから文句のつけようもない。潔くあきらめて、スティックシュガーを二本使うことにした。
メニューボードから視線をはずしかけた時、ふと、ボードの下端の文字に目が行った。
左側にドリンクメニュー、右側にフード・デザートメニューと横書きで書き並べられているのだが、右隅、デザートメニューの下に『謎解き』という不可思議なメニューがあった。
デザートの名前なのかと思いきや、値段は『Free』と表示されている。つまり、0円。失礼ながら、狭い上に空席もあるこの店が、タダで食べられるデザートを提供できるほど儲かっているとは思えなかった。
好奇心をくすぐられる。『シャーロック・ホームズ』シリーズをはじめとする探偵小説には明るくないが、知らないことを知りたいと思う気持ちは人並みに持ち合わせていた。