episode.3
相川研究所に侵入者が現れる数ヶ月前....
とあるジャングルの奥地。
龍一は鬱蒼と生い茂る木々の中を進んでいた。
「まずいな....完全に迷った」
思わず口から独り言が出る。
俺は調査チームを結成し、ジャングルに昆虫の採取に来ていた。
所属する研究所の存続のためだ。
偉大な研究者の所長が失踪してしまい、研究員は次々と引き抜きにあって居なくなってしまった。
このままでは、研究所の運営がままならない。
今回の探索で特別な新種を発見出来れば、何とかなるかもしれない。
そんな焦りや期待が良くなかったのだろう。
俺は今、たった一人で危険なジャングルの奥深くまで来てしまっている。
しかも、ベースキャンプの位置を見失い迷ってしまった。
それというのも原因は、あの猿だ。
最初は朝の散歩がてらキャンプの近場を見るだけの筈が奇妙な猿を見つけたのだ。
ポケットからカメラを取り出し写真を確認して見る。
そこにはブレているが腰の部分に妙なものを巻き付けた大型の猿が写っていた。
今朝の事を思い出す。
その猿はいつのまにか木の影に佇んでいた。
俺は一目見ておかしな事に気付いた。
猿の腰に奇妙なベルトの様なものが巻き付いている。
人工物としか思えないその物体は、黒く滑らかな光沢を放っていた。
その不思議な猿を観察していると、木の上に登り木の実を食べ始めた。
ある程度食べると、いくつかの実をお腹の部分に持っていく。
すると腰に巻きつけたベルトに異変が起きた。
蠢いている。
なんだあれは?
いや、昆虫学者たる自分にはすぐ分かった。
ムカデ。
あれは巨大なムカデだ。
猿の掌から木の実を食べている。
ベルトに擬態していたのか?
猿の腰に巻き付いてベルトのような物に擬態するムカデなどあり得ない。
すぐさま写真を撮ろうとしたが、警戒させたのか逃げられてしまう。
しかし完全に姿をくらますわけではなく、一定の距離を保ちながらこちらの様子を伺っていた。
あのムカデを捕獲できれば、研究所の救いとなるかもしれない。
捕獲出来なくとも、せめてもっとハッキリした写真だけでも撮ろうと後をつけているうちに、いつの間にか森の奥深くまで来てしまったのだ。
俺は時計を確認した。
すでに迷い始めてから半日以上が経過している。
もう写真どころじゃない、日が暮れる前に一刻も早くベースキャンプに戻らなければ....
生い茂る草木をかき分け進むと少し開けた場所に出た。
木々の間から木漏れ日が差し込んでいる。
その中に、黒い影が佇んでいた。
あの猿だ。
間違いない。
腰にベルトに擬態したムカデを巻きつけている。
写真を撮ろうとポケットに手を入れると、不意に妙な気配を感じた。
地面が揺れている。
猿もその揺れを感じ、警戒しているようだった。
木々の向こうから大きな影が近づいてくる。
バキバキと枝をへし折る音が聞こえる。
程なくして猿の正面の木々の間から巨大な灰色の影が姿を表した。
足が地面を踏みしめるたび大地が震えている。
それは一頭の象だった。
俺は緊張した。
ここが象の縄張りならば、非常に危険だ。
穏やかで優しい動物のイメージがある象だが、実際は違う。
野生の象は縄張りを犯すものや、自分の子供に危害を加えるものに容赦はしない。
象は興奮していて縄張りへの侵入者である我々に対して怒っているようだった。
あの巨体で襲い掛かられたら、ひとたまりもないだろう。
すぐに逃げなければ殺される。
それはあの猿も同じはずだった。
しかし、猿は逃げずに象に向かって歯を剥き出し激しく威嚇している。
「シャァァアッ!!!」
それに呼応するように象も巨体をわななかせ咆哮をあげる。
「パオォォアアァァオァアォォァ!!!」
ビリビリと空気が振動する。
凄まじい威圧感に思わず身をすくめてしまう。
睨み合う2頭。
両者の間にはピリピリとした張り詰めた空気が漂っている。
2頭がお互いに気を取られている隙に逃げ出そう。
そう思ったそのとき、異変が起きた。
猿の腰に巻き付いたムカデが擬態を解いて動き始める。
真っ赤な頭にツヤがかった黒い胴体を持つムカデが猿の背中に沿って這い上ってゆく。
そして、猿の首筋を大きな牙で一噛した。
「キャアォォォア!!」
猿が悲鳴にも似た叫びをあげる。
ムカデはそのまま頭頂部まで這い上り、真っ赤な頭が猿の顔面に覆い被さる。
すると背中に取り付いたムカデの体から夥しい数の黒い糸のようなものが生えてきて猿の全身に絡みついていく。
そして、ムカデの頭がバカッと割れて開いたと思うと、中から無数の赤い触角が飛び出して猿の顔面に張り付いた。
「ヴォォォオオオオォオォ!!」
ビリビリと空気を震わせる咆哮を放つその姿。
悪魔...。
黒い影のような体に、顔にはまるで血濡れたような赤い仮面。
猿は悪魔のような異形の姿へと変貌を遂げた。
そして、異形の猿と象の激しい争いが始まった。
象が牙を振るい猿に叩き込む。
猿は寸前の所でかわし、木々の間を目にも止まらぬスピードで飛び回り殴りかかる。
俺は呆然とその光景を見ていた。
普通であれば猿の腕力では巨大な体をもつ象に敵うはずはない。
しかし、猿に拳を打ち付けられた象の皮膚は血が滲み、確実にダメージを受けているようだった。
だが象も負けておらず、何度か猿を蹴り付けたり牙を叩き込んでいる。
象の巨大な質量から繰り出される蹴りや牙など一撃でも受ければ致命傷のはず。
しかし、猿は意に介さず、勢いを衰えさせることなく何度も飛びかかる。
両者の力は互角。
激しい戦いは永遠に続くかと思われた。
どれほどの時が過ぎただろう。
不意に決着の時が訪れた。
踏み台にした大木がへし折れるほどの勢いで飛びかかった猿の拳の一撃が、象の脳天に叩き込こまれる。
ミシッッ!!
何かが軋むような音と共に象の脳天が凹むのが見えた。
「プアァオォォォォオアァァァ!!」
象は悲痛な鳴き声を上げ、地面に倒れ伏した。
衝撃で埃や枯葉が舞い、視界を遮る。
その中に佇む真紅の仮面を付けた黒い影。
悪魔のようなその影はブルブルと身を震わせた直後、糸が切れた人形のように倒れた。
舞い散っていた埃や枯葉が地面に落ち視界が開けてくる。
先程の激しい争いが嘘のように辺りには静寂が漂っていた。
俺は恐る恐る倒れた猿に近づいてみた。
すると猿が纏っていた黒い衣が背中のムカデに吸い込まれるように消えていく。
猿はピクピクと痙攣し泡を吹いている。
やはり、象の攻撃を受けて無事ではなかったようだ。
しばらくすると完全に動かなくなり、死んでしまった。
一方、ムカデはというとギチギチと頭をもたげ、こちらの方を睨むような姿勢を取っている。
俺は蛇に睨まれた蛙のように動く事が出来ず、ムカデを凝視していた。
するとこちらを向いていたムカデの頭がバカッと開き、中から無数の赤い触角が出てくる。
そして、その剥き出しの触角を蠢めかせ何かを探るような動きを始めた。
恐怖に駆られながらも、ただ見ている事しかできない。
ムカデはひとしきりこちらを伺うような素振りを見せた後、ゆっくりと割れた頭を閉じていき次の瞬間、素早く足を這い上り腰に巻き付いた。
突然の出来事になすすべもなかった。
腰に巻き付いたムカデは、まさにベルトのような姿となった。
バックル部分が赤くなっており少し奇抜なデザインだが、一見するとビジネススーツ用の黒いベルトにしか見えない。
恐る恐る手を伸ばすとと赤いバックル部分が頭をもたげ、手を甘噛みしてきた。
その甘えるような仕草から見て、どうやら敵意があるわけではないようだ。
にわかには信じられないが、このムカデはもしかしたら、他の生き物と一種の共生関係を結ぶ性質があるのかもしれない。
もとの共生者である猿が死んだ事で、近くにいた、猿に似た生き物である俺を次の共生者に選んだのだ。
まあ、あの猿の変身といい、そもそもこの昆虫はムカデでは無いかも知れないが....。
どちらにせよ、これまでの常識を覆す新種である事は間違いない。
生態を研究して発表すれば、学会を揺るがす偉大な発見になる。
何としてでもベースキャンプに持ち帰らなければ....