息子
僕の目の前で、二人が正座している。
それも、リビングのそこそこ硬い床の上だ。居心地は、かなり悪いだろう。念のために言っておくけど、僕が正座するよう二人に要求したわけではない。
この二人が、自ら床に正座したのだ。
今日、僕はとあるイベントに参加するつもりであった。
高校の授業が終わり次第、直ちに会場へと向かう。その後、イベントにて僕の描いた漫画を紹介してもらう……はずだった。そうなると、帰宅する時間は午後七時半から八時になるだろう。その辺りの事情は、周囲の人間には既に伝えてあった。
ところが、直前になってイベント中止が発表される。どうやら、昨今の様々な事情を鑑みたらしい。そうなると、高校から真っすぐ帰宅するしかないのである。悲しいが仕方ない。
てなわけで、僕はいつもと同じ午後四時半に家に到着したのだ。
ところが、扉を開けた瞬間に愕然となる。玄関には、男物の靴があったのだ。かなりサイズの大きく、しかも見覚えのあるものだ。とはいっても、家族の中にこんな靴を履いている者はいない。
さらにリビングの方からは、悩ましげな声が聞こえる。何が起きているかは、バカでもわかるだろう。しかも、声は二種類。
片方は、僕の母・大東恵子のものに間違いない。息子としては、母親のこんな声は聞きたくなかったね……。
そして、もう片方の声にも聞き覚えがある。こちらも、僕の知っている人間のようなのだ。
思わず頭を抱える。見なかったこと、聞かなかったことにして引き上げよう、という思いが頭を掠めた。だが、もう片方の人物が僕の予想と同じ人物なのか、それだけは確かめなくてはならない。
音を立てずに忍び寄り、そっと覗いてみた。
飛び込んできたのは……僕の通う高校の制服を着た大柄な男が、母さんを抱きしめている光景である。母さんは、甘えるような声を出しながら胸に頬を埋めている。本人は幸せなのだろうが、息子としてはあんまり見たくないシーンだね。
しかも、その大柄な男は……僕の友人・鈴本龍平だったりするのだ。うわあああ、としか言いようがない。まあ、母さんは独身だから不倫ではないが、ちょっと困ってしまう関係なのは間違いないよね。
さて、これで確認は出来た。あとは明日、学校にて龍平を問い詰めるだけだ。今は消えるとしよう……などと思った瞬間、龍平と目が合ってしまった。
その瞬間、龍平の動きが止まった。
「けけ健一! お前、なんで!?」
言ったきり、口をポカンと開けて呆然と突っ立っている。母さんはというと、龍平からパッと離れた。こちらを向き、きまり悪そうに下を向いている。
僕はというと、どうすればいいのかわからなかった。とりあえず、上を向いて頭をポリポリ掻いてみた。こんな場面に遭遇した時、どうするのがベストだろう。ネットに載っていただろうか。後でスマホで調べてみよう。もう二度と遭遇したくはないけど。
三人とも、無言のまま見つめあっていた。とてつもなく重苦しい空気が、リビングを包む。このままだと、窒息してしまうかもしれない……などとバカなことを考えていた時、二人が同時に動いた。申し合わせていたわけでもないだろうに、同時に床に正座したのだ。
正座の状態から、二人が同時に頭を下げる──
「すまん!」
「健一、黙っていてごめん!」
いや、謝られても困るんだけど。そんなことより、息ピッタリじゃん。どうゆうことよ。もう、そんな深い仲なのかい。
そんなわけで、僕の目の前では母さんと龍平が並んで正座しているのだ。どちらも、叱られている時の子供のように下を向いている。
とはいうものの、正直言えば僕も困っていた。聞きたいことは山ほどあるが、それ以上に僕が二人の時間を邪魔してしまったようで、妙な居心地の悪さを感じていた。同時に、ちょっと罪悪感も覚えている。
ややあって、母が媚びるような上目遣いで僕を見上げた。
「あのう、健ちゃんはもしかして、御立腹なのかなあ、なんて……」
言った後、首を傾げた。さらに、はにかむような笑顔を見せた。息子の僕がいうのもなんだが、可愛い。この笑顔なら、まだ二十代でも通じるだろう。もっとも、実際の年齢は三十二歳だったりする。
そう、僕は母さんが十六歳の時の子なのだ。
「御立腹ってほどでもないけどさ、せめて現場を押さえられる前に、二人の口から聞きたかったなあ。あーあ、知らなかったのは僕だけなのか。悲しい話だね、母親と友人に裏切られるとは」
厭味たらしく言うと、母さんは笑顔でごまかそうとする。だが、僕はわざと目を逸らした。自分でも意地が悪いとは思うけど、たまにはいいよね。
すると、今度は龍平が顔を上げる。真剣な表情で、口を開いた。
「俺は、お前に何度も打ち明けようとした。だが、その度に心がくじけた。俺は、本当に臆病で情けない男だ」
言われてみれば、龍平が僕に対し何かを言いかけるが何も出て来ない……というようなやり取りが、最近になり何回かあった気はする。だが、この男のおかしな言動は今に始まったことではない。そのため、気にも留めていなかった。
「本当に、君の口から言って欲しかったよ。あーあ、僕のいない時にこっそり来るなんて、確かに情けないよね」
厭味たっぷりに言った途端、龍平が立ち上がった。僕を睨み、のしのしと近づいて来る。
まずい、キレさせてしまったのだろうか。この男は百八十センチ百キロのマッチョな体で、空手の黒帯も持っている。僕など、素手で簡単に殺せるのだ。
しかし、その心配は杞憂に終わる。龍平は僕の前で仁王立ちになり、目をつぶる。
そして吠えた──
「さあ、殴ってくれ! 情けない俺を、気が済むまで殴ってくれ!」
「ま、待ってよ。今のは冗談、謝るから。ちょっと落ち着こうよ」
言いながら、思わず後ずさりする。だが、龍平は止まらない。目をつぶり胸を張った状態で、ずんずん接近して来る。
想像して欲しい。ゴリラみたいな大男が、目をつぶったまま迫って来るのだ。これは、下手なヤンキーに絡まれるよりよっぽど怖い。
「いや、それでは俺の気が済まない! さあ、殴ってくれ! 蹴ってくれ! 心の友であるお前を裏切った俺を、たっぷり痛め付けてくれ!」
ボディービルダーが筋肉を見せびらかす時のようなポーズを作り、龍平は吠えた。いや、君を殴ったら、こっちの手を痛めるだけだから。だいたい、そのポーズは何なんだよ……などと思っていたら、母さんが動いた。すっと立ち上がり、龍平の頭をパチンと叩く。
「いい加減にしなさい。健一が困ってるでしょ」
その声に、龍平は目を開ける。慌てた表情で、母さんの方を向いた。
「す、すいません」
ペコペコ頭を下げる龍平と、呆れた目で見ている母さん。うんうん、わかるよ。僕も、龍平の天然ぶりには苦労させられてるから。
もっとも、母さんの目の奥には優しさがあった。同時に、深い愛情も。龍平の天然ぶりに呆れつつも、愛情を持って優しく見守る母さん……二人とも、ラブラブなんじゃないかよう。なんだかなあ、もう。息子の前で、何してんだよ。恥ずかしくないのか。
とはいえ、幸せそうな二人を見ていたら、自然と笑みがこぼれてきた。これこそが、ニヤニヤが止まらないという状態なのだろう。もういいや、そろそろ二人だけにしてあげよう。僕は、軽い気持ちで口を開いた。
「ところで龍平、母さんの昔の写真を──」
言った直後、しまったと思った。母さんの過去を、龍平はまだ知らないかもしれないのだ。いつかは、知ることになる。知らなくてはならないことでもある。だが、僕の口から言うべきことではない。
それは、母さんが直接告げることだ──
「はあ? 昔の写真? 何のことだ?」
龍平は、きょとんとしている。やはり、この男はまだ知らないのだ。
脂汗が流れるのを感じた。謝らなくてはならないのは、僕だ。震えながら、母さんの方を向く。
「か、母さんごめん……まだ、言ってなかったんだね──」
「言ったよ! とっくの昔に!」
やや食い気味に、母さんが怒鳴った。直後、龍平の方を向く。
「あたしが昔、男だったって言ったでしょ! あんた、まさか忘れたとか言わないよね!?」
実は、母さんの昔の名は大東恵司なのである。
あまり多くは語らないし、僕も聞かないけど……幼い頃から、自身の性に違和感を抱いていたらしい。成長するにつれ、違和感はどんどん大きくなる。その気持ちをごまかすため、喧嘩やバイクの暴走に明け暮れていたみたいなんだよね。
絵に描いたような不良少年だった母さん……いや、恵司。しかし、当時つきあっていた彼女の妊娠を知り、生活態度を一変させた。高校を中退し、叔父さんの経営する解体屋で真面目に働き始める。
やがて僕が産まれ、家族三人のつましい生活が始まった。が、長くは続かない。数年後、僕を産んだ女は蒸発してしまったのだ。何が理由かは知らないし、知りたいとも思わない。さらに言うと、今さら顔も見たくない。
と同時に、男を演じることに限界を感じた恵司は、大東恵子へと生まれ変わる。ゲイバーで働き始め、手術も受けた。
それは、僕にとって地獄の日々の幕開けでもあったのだが──
「えっ? ああ、はいはい、そのことですか。もちろん覚えてますよ。忘れるわけないじゃないですかあ、はっはっは!」
事もなげに答えた後、胸を張って豪快に笑う龍平。いやいや、騙されてはいけない。こいつなら、本当に忘れていた可能性もあるのだ。実際、三ヶ月に一回くらいは学校に来るのを忘れてしまう男なのだから。休んだ日の翌日、真顔で「いやあ、昨日は学校行くの忘れてたよ。ぐはははは」と言われた時には、本当に頭を診てもらった方がいいのではないかと不安になったものだ。
それにしても、改めて龍平の大物ぶりには感心してしまった。龍平にとっては、母さんが昔は男だったという事実は、気に留めるほどのことではないのだろう。ひょっとして、母さんが人造人間だと言われても気にせず付き合うのではないか。
まあ、いい。いい加減、二人だけにしてあげよう。母さんも、今日は店が休みなのだ。せっかくの休みくらい、若い彼氏と水入らずで過ごしたいだろう。
ならば、邪魔者は消え去るのみである。
「えっと、そろそろ邪魔者は消えるね。だけど、八時になったら帰ってくるよ。何をしていようと帰るからね」
「じゃ、邪魔者だなんて──」
「いいから、いいから。でも八時には、ちゃんと帰って来るからね。だから、あんまり変なことしてないでよ」
母さんの言葉を遮り、僕は言った。直後、玄関へと急ぐ。龍平が何か言っていたようだが、よく聞こえなかった。無視して靴を履き扉を開ける。
さて、八時まで何をして暇つぶそうか……などと思いつつ、僕はゆっくり歩き出した。