第八幕 川と河戦争
文字が違うのは意味が違うからであり、優劣をつける為ではない
一早く事務所に向かいたかった福朗は、葛藤の末タクシーに乗る事を選んだ。運転手はポンちゃんの同乗に渋い顔を見せたが、断りはしなかった。損得勘定からくる優しさとて、蝕まれた福朗には温かく思える。
広告塔にジョブチェンジできる装備品は、精神汚染のデバフはあっても着脱は自由。現在は役目を終えて折り畳まれ、福朗の小脇に納まっている。
色々と悲惨な目に会わされたので、本当ならボコボコにぶっ壊したいところだ。しかし、コレも美大生達による一つの作品。そう考えると、恨みに任せて手をかけるには忍びない。
畳めばスペースを取らないので、福朗は律儀に持ち帰る。今度ノブさんにでもあげようか。寒空で使う分には、防寒具になりそうだし。
そんなわけで、二人と一匹を乗せたタクシーは、事務所を目指して大通りへ向かう。
幸いな事に、落とし主と思われる青年も犬派閥らしい。古森程ではないにしろ、車内では優しい手つきでポンちゃんを撫でていた。
「とりあえず、名前を聞いてもいいかい?」
移動を優先していた福朗は、この時ようやく声をかけた。タクシーならばすぐ着くが、無言のままってのも居心地が悪かろう。会話を弾ませるとまではいかなくとも、名乗り合うくらいは必要だと思って。
「あっ、そッスね。俺は川上って言います。兄さんは?」
「俺は飛鳥福朗ってモンだ。大通りに出ればすぐだから、そんなに時間は取らせないよ」
「ウス。ところで、USBの中って見ました?」
「ああ、悪いとは思ったけど、一応確認させてもらったよ。心配しなさんな。コピーだとか、ネットに晒したりはしてないからさ」
川上と名乗る男はそこまで聞くと、安心したように表情を緩めた。無表情に見えたのは、緊張で強張っていたからかもしれない。
「そッスか、それは助かります。因みに中のソフト、使ったりはしたんスか?」
「ちょっとだけ触らせてもらったよ。アレ、良くできてるよね」
「おっ、わかってもらえたッスか⁉ 嬉しいッスねぇ~!」
『指神』を褒められた川上は、そう言って嬉しそうに笑った。ポンちゃんを撫でる速度も、心なしか上がったように見える。しかし、その反応は数秒後には消え失せ、少し俯いてからもう一つの問いを発した。
「それで……感想はそれだけッスか?」
創るという行為は、なにも人間だけの特権ではない。遺伝子に刻まれた記憶から、あらゆる生き物は巣を創る。特定の種に至っては、食料を創る事もあるらしい。
しかし、それら生き物の行為は、必然性からくる事務的なものだ。不必要なものを新たに創造する事など、ほぼないと言っていいだろう。ましてや、創ったものに対する情や、責任を感じるなんて事は絶対にない。
創造物に対するあらゆる想い。それこそが、感情を持つ人間にのみ許された特権である。
作品を褒められて喜ぶのも、作品の影響を懸念するのも。
「まぁ、そうだねぇ……若干危険、だとは思うかな」
「やっぱ、そッスよね……」
その後、川上が口を開く事はなかった。福朗も察して、話を振る事はなかった。自分の創ったものが、他人に悪影響を及ぼす恐怖。それはクリエイターではない福朗には、まだ予測演算できない事だった。
↓その頃の事務所↓
浄化された猫宮は、高月の隣で静々と紅茶を飲んでいた。福朗が帰ってきたら、なんと言って謝ろうかと考えながら。
許してくれなかったらどうしよう。出禁になったらどうしよう。そんな不安が、猫宮の頭をグルグルと回っていた。
どうでもいい人間の言葉なら、門前の強風で吹き飛ばせる。しかし、既に迎え入れた福朗から責められるのは、猫宮の本丸もダメージ避けられない。その防御力は、あの段ボールよりも薄っぺらく、紙に等しいのだ。あ~あ、面白がって悪ノリするんじゃなかった……
こんな萎らしい猫宮を見るのは、依頼の時以来で久しぶりだ。でも、あの時とは状況が違うので、明日香は余裕を持って可愛いなぁと思っていた。
ともあれ、そろそろフォローを入れた方が良さそうだ。高月もチラチラと窺っている様子だが、先程責めた手前話しかけ辛いのだろう。それに、前を走っていたのが猫宮とはいえ、自分だって高月と共に片棒を担いだようなもの。
福朗が怒るというのなら、同罪として一緒に怒られよう。しかし、明日香の中の福朗は、この程度で怒ったりはしない。
「日向さん、大丈夫ですよ。フクさんは怒ったりしませんから」
「でも……」
「本当に嫌なら、始めから断ってますよ。無駄だと思うなら、始めから持っていったりしませんよ。日向さんも言ったように、フクさんは『何でも屋』です。でも、強制されたからってなんでもする人じゃありません」
『何でも屋』だからといって、なんでもするわけではない。自分の力量と信条の元に、嫌な事なら、いくら金を積まれてもやらない。反対に、手を貸したいと思うなら、たとえタダ働きでも全力を尽くす。それが明日香の中の福朗像なのだ。
「フクさんはいつだって、自分の意思で進まれますからね。その道でなにが起こったとしても、誰かを責めたりはしないでしょう。選択に責任を持つのは、とても大変な事だと思います。大変ですが、とても大切な事です。『指神』を危険と評したのは、それを知っているから。そんなフクさんなんですから、絶対に怒ったりはしませんってば」
明日香の柔らかい微笑み。その顔を見ていると、なんだか猫宮は本当に大丈夫な気がしてきた。
「そう……なのかな……」
「はい、そうですよ!」
更に力強く肯定された事で、猫宮の背筋が伸びてゆく。それを明日香は、良かった良かったと笑顔で見守っていた。
だが、丸まっていた背筋は伸びきったところで止まらず、今度は後ろに反っていく。借りて来た猫が自分のポジションを獲得すると、一体どうなるのか。それは――
「そう……そうよね。あたしは提案しただけで、実行したのはフクさんだものね。だったらあたしは悪くない。あたしのせいじゃないのよね!」
「は……え? あれ?」
残念ながら、明日香の想いは上手く伝わらなかったようだ。反省モードだった猫宮が、どんどん我儘モードに戻っていく。元気になったのはいいけれど、そんなつもりで言ったんじゃないのに……
先程の静けさはどこへやら、猫宮は音を立てて紅茶を啜り始めた。その隣から身を乗り出し、高月が耳打ちしてくる。
「もう、ダメじゃない、明日香ちゃん」
「へ?」
「ちゃんと誘導、しないとね、ヒナちゃんは反省、してくれないんだよ」
「えぇ~~~」
高月がチラチラ窺っていたのは、誘導の方向性を見定めていたから。明日香が先走った事により、更生計画が狂ってしまったようだ。
一緒に過ごして、仲良くなって、明日香は忘れてしまっていたのだ。猫宮の特性、気難しさを。それは扱い辛いからこその表現なわけで、未熟な明日香が手を出してはいけなかった。
猫宮にテコ入れしたいなら、長く連れ添ってきた高月に任せなければならない。
「ここからまた、反省させるのは、難しいよ? あの顔はたぶん、フクさんの反応を、楽しみにしちゃってる」
「そんなぁ……」
真実とは、各々の中に宿るらしい。明日香の伝えたかった真実は、猫宮の真実へと取って代わった。
自分は悪くない。それが猫宮にとっての真実。今更ソレを覆すのは、確かに難しいだろう。
「明日香ちゃんの言葉は、良かったけど、ちょっとフォロー、し過ぎたね。あの場合は、一緒に怒られるから、安心してって言うのが、正解かな?」
惜しい。それは考えの一つとして持っていた。そこで止めておけば良かったのに、自分の福朗像を押し付けてしまったのが明日香の敗因である。
「あぅ……出過ぎたマネをしてすみませんでした……」
反省させたかったのは猫宮なのに、明日香を反省させてしまった。明日香も感情の起伏が激しいので、ちょっとした事ですぐに沈んでしまう。
元の位置に戻った高月は、困ったように笑うしかなかった。コッチはコッチで難しいなぁ……
問題の猫宮はと言うと、気落ちしている明日香に気付き、紅茶を置いてあっけらかんと言う。
「どうしたのよ明日香。フクさんは怒らないんでしょ? だったらそんな顔してんじゃないわよ」
どの口がソレを言うのだと、呆れかえってしまう明日香と高月。
高月の目が、難しいでしょ? と訴えている。明日香はそれに、そうですね、と瞬きで返した。
猫宮の更生が失敗に終わり、事務所内には微妙な空気が流れていた。
一方事務所の外では、晴れ渡る空の下、ビルの前で一人の男が立ち止まる。眼鏡の奥から見つめているのは、USBの貼紙だ。
「コレは……もしかして……」
福朗はまだ移動中。ともすれば、川上もまだ到着していない。貼紙の前で呟いたのは、一体誰なのだろうか。
↓福朗サイド、ではなく、再び事務所へ↓
猫宮の具合に耐えかねた二人は、溜息交じりに紅茶を含む。別に悪者にしようとは思わないが、このまま悪びれないのもよろしくない。
そんな二人の想いなど露知らず、猫宮はスマホへと手を伸ばす。時間的にもうすぐ帰ってくるだろう。どんな顔をしているか楽しみだ。
猫宮の浮かべる悪い笑み。それはまるで、沙和が時折見せるような笑顔だった。その笑顔に共鳴してか、猫宮のスマホにメールが届く。
「ん? 七熊さんからだ。なんだろ――プッッ……あははははははは!」
突然猫宮が笑い出すので、紅茶を飲む二人は吹き出しそうになった。何事かと顔を見合わせてから視線を送ると、スマホを見て大笑いしている様子。さっきまであんなにおとなしかったのに、元気になり過ぎた猫はソファから転げ落ちそうな勢いだ。
「ヒナちゃん、どうしたの?」
「あはは! 見てみなさいよコレ! もうあたし、可笑しくって可笑しくって!」
そう言った猫宮が画面を見せる。そこには、福朗を捉えた写真が表示されていた。あの段ボールを装着し、二人の婦警に向かう福朗の姿が。
「え……ウソ……これって……」
「ああっ、フクさん⁉」
高月と明日香は心配そうな声を上げるが、猫宮は尚も高らかに笑う。
そういうネタでありフィクションであれば、高月だって笑っていたかもしれない。しかし写し出されているのは、猫宮が生み出したノンフィクションの一部である。ソレをもって笑うとは、さすがの高月も我慢の限界だ。
「ねぇヒナちゃん? そんなに可笑しい?」
「だって望深、見てよコレ! こんなカッコしてたら、そりゃ警察に――」
猫宮は笑い過ぎで出た涙を拭いつつ、ソファに横転していた体を起こす。すると、またも高月の顔が眼前に迫っていた。口許は笑っている、と思う。けれど、光の加減なのか、眼鏡の向こうにあるはずの目元が見えない。
昨年末にケンカして、ついこの間仲直りした。抜けていた時間を取り戻すように、最近はずっと一緒だった。特に努めていなくとも、自然と笑い合って過ごす毎日。そんな日々が続いていたから、猫宮も忘れていたのだ。高月は怒ると、とても怖い事を。
それは、猫宮だけが知る高月の一面。それは、猫宮だけに見せる高月の一面。
「あ、違っ……違うのよ望深」
「違うって、なにが違うの?」
静かな問い返しに、猫宮の額には脂汗が浮かぶ。最後にコレを見たのはいつだっただろうか。
あれは確か、大学に入って間もない頃、小学生に絵を教えるイベントに参加した時だった。あまり乗り気じゃなかったから、ついつい言い方が悪くなって、女の子を一人泣かせてしまったのだ。あの時もこんな風に、眼鏡が光って見えたっけ……
「なにも違わないよね? 凄く楽しそうに笑ってたよね? フクさんがこうなってるのは、ヒナちゃんが押し付けたからなのに」
「う……それは……」
「そうだ。今度ヒナちゃんも同じ事やってみてよ。そうしたら私も笑ってあげるね」
「ひぃっ……‼」
なにかに憤りを覚えた時、高月は詰まらずに言葉を紡ぐ。普段の口調が弱々しい分、ギャップの効果は絶大だ。なにより高月の指示が、猫宮にはとても怖ろしく思えた。
あの段ボールは、福朗の身長だから鎧として機能するのだ。猫宮が装着すれば、いよいよ段ボール自体が歩いて見える。通報まではされないだろうが、その恥ずかしさときたら、きっと箱に隠れて動けなくなる程だろう。
「ご……ごめんなさい!」
あまりの恐怖に、猫宮は思いっ切り頭を下げた。だが、高月の両手が頬に添えられ、猫宮の頭を引き上げる。そうしてまた、無理矢理に対面させられる。
「謝る相手が違うよね? 私じゃなくて、フクさんに謝らないと」
「は……はい……」
「フクさんなら許してくれるよ。でもね――」
高月の顔が一層近付く。輝く眼鏡からは、今にもビームが出てきそうだ。
「私はヒナちゃんのそういうトコロ、許さないよ」
高月の隠れた刃。それはいつだって猫宮に向けられる。八つ当たりではない切っ先は、相手を想って向けられるのだ。されど、人間は尖りものに怯えるので、猫宮の顔からは血の気が引いていく。そして――
「い……いやぁ~~~!」
猫のように翻り、猫宮はトイレへと駆け込んでいった。
残された高月は暫く固まっていたが、一つ小さな溜息をついて呟く。
「ま、こんなもの、かな」
更生は失敗だったが、粛正は成功のようだ。そんな高月を見て、明日香は手に汗握っていた。自分は怒らせないようにしよう。横から見えた瞳は、吸い込まれそうなくらい瞳孔が開いていたから。アレを向けられてしまえば、魂を抜かれるかもしれない……
猫宮がトイレに立て籠もり、落ち着いた高月が紅茶を飲む。明日香も震えを止めたかったので、同じように紅茶へと手を伸ばした。その時、
「あの~、すみません。少しお伺いしたい事があるのですが」
と、ノックと共に、事務所の扉から男の声が聞こえてきた。
突然の来訪者に驚きはしたが、有能な助手である明日香はすぐに返答する。
「は~い、今開けますね~」
ソファを立った明日香は、パタパタと小走りで扉に向かう。取っ手に手をかけて開こうとしたが、背後に風を感じたので一瞬待つ事にした。どうやら、高月が見知らぬ来訪者に怯えて走り抜けたらしい。
ガチャ!
「えっ⁉ ちょっ、のぞっ――」
バタンッ!
籠城中のトイレには、鍵がかかっていなかったようだ。動揺する猫宮の声と一緒に、高月もトイレの中へと消えていった。
このままではトイレが使えないけれど、来訪者の対応くらいなら問題ないだろう。そう思った明日香は、苦笑から営業スマイルに切り替えて扉を開く。
「お待たせ致しました。どちら様でしょうか?」
女子大生二人がトイレに潜む事務所。この表現だけを聞けば、なんだかいかがわしい印象を受ける響きだ。さりとて、そんな事を知らない来訪者からしても、福朗の事務所は怪しく思えるらしい。
「下の貼紙を見て来たんですけど、『何でも屋』ってなん――」
だが、訝し気な顔をしていた男は、明日香を見た瞬間目の色を変える。
「おおっ、これ程麗しい女性に出迎えて頂けるとは、なんたる幸運!」
「ひゃいっ⁉」
「USBについてお伺いするつもりでしたが、貴女の事も是非お聞かせ下さい! 中に入っても⁉」
捲し立てる来訪者にダジタジの明日香。USB関連なら喜んで受け入れたいが、こうグイグイ来られるのはハッキリ言って気持ち悪い。見た目か中身、どちらかでもパーリーしているなら、明日香にとって苦手な対象と成り得る。
「あ、えと、その……」
本音を言うと入れたくない明日香は、どう返答しようか迷っている。福朗なしで対峙するには、大変メンドくさそうな相手……そうだ! ここは一旦出直してもらって、フクさんが帰って来てから――
「お邪魔します‼」
「ええっ⁉ そんなっ!」
悩める明日香を待たずに押し入った男は、見つけたソファにドッカリと腰を下ろしてしまった。
しかし、来客側に座ったのがせめてもの救いだ。客とはいえ、福朗側に座っていたら、さすがの明日香も怒っていたかもしれない。いや、すでに――
「さぁ、お話しましょうお嬢さん! 僕は河下と言って――」
「あの!」
河下と名乗った男を、明日香は大声で遮った。その顔はもう営業スマイルではなく、なんとか口角を上げている状態。こんなグイグイ系の不躾男なんかは、ギリギリの愛想笑いで十分なのだろう。
「河下さん、ですね? お話をお伺いする前に、コーヒーを用意してきますので少々お待ち下さい」
「そうですか、それは嬉しいですね! 貴女の淹れるコーヒーなら、さぞ美味しい事でしょう!」
「ええ、どうも……」
不必要な世辞に鳥肌を立てながらも、なんとか明日香はティーカップを回収する。そのスピードは、中身が少ないのもさることながら、給湯室に引っ込みたい一心で尋常ではない早さだ。
「では、暫くお待ち下さいね」
「はい、喜んで!」
鬱陶しい河下に見送られ、明日香は滑るように移動する。給湯室の暖簾を潜る直前、
「ちょっと明日香、大丈夫なの?」
と、少しだけ開かれたトイレから小声が聞こえた。
猫宮の声だ。河下の声は無駄に通るから、心配してくれたのだろう。ドアの開き方により、顔を出すくらいなら河下からは見えないはず。
体を給湯室へ完全に入れ、明日香は暖簾をズラして返答する。
「ええ、大丈夫ですよ。ご心配ありがとうございます」
しかし、その顔はまだ愛想笑いのままだった。河下は気付かなかったようだが、猫宮と、その上から顔を覗かせる高月には一目でわかる。笑っているのは顔だけで、全身から立ち上る苛立ちが。
「あ……明日香ちゃん……?」
「ほ……本当に、大丈夫なのよね?」
二人の反応を見た明日香は、一度暖簾を戻してお盆を置く。気持ちを切り替える為に頭を振ってから、再び暖簾をズラして猫宮達に向かう。
「本当に大丈夫ですから、お二人はそのまま隠れていて下さいね」
そう言った明日香の顔は、二人の良く知る穏やかな表情だった。
猫宮と高月は上下で目を合わせ、声を出さずに考える。明日香はこの事務所のバイトなので、接客も役目の一つだ。本人が大丈夫と言うのなら、部外者は黙っておこう。とは言っても――
「わかったわ。でも、なにかあったらすぐ呼びなさいよ」
「私達は、ここに、居るからね」
二人の頼もしい言葉が明日香に沁みていく。そうだ。たとえ福朗が居なくとも、今は攻撃的なお姉さんと、その懐刀が近くに居てくれる。相手がどんなに苦手な部類でも、この支えがあれば耐えられるのだ。
「はいっ」
いつもの笑顔を取り戻し、明日香は河下に届かないギリギリの小声で返答した。
猫宮と高月も、同じように笑い返してからトイレに戻っていく。ソコに隠れる必要はあるのか? なんて突っ込む者は誰も居ない。
「さて、とりあえず時間を稼ごう」
頬をパンパンと叩いてから、明日香はやかんに火をかけた。気持ちの切り替えは済んだけれど、気が重いのは変わらない。ゆっくり準備したとして、稼げるのは十分が限度だろう。勇気は貰ったけど、やっぱり嫌だなぁ……
「フクさん、早く帰って来て下さいね」
祈るように呟いた明日香は、さっきまでの楽しい一時を洗い流すようにティーカップを洗い始めた。
一方、トイレの中はと言うと。
「本当に、大丈夫、かな?」
「ま、大丈夫なんじゃない? あの娘はあんなでも、意外とちゃんとした助手なんだから」
「……うん、そうだね」
「ま、フクさんが早く帰ってくるに越した事はないけどね」
「……うん、そう――言えばヒナちゃん」
「ん? なによ?」
「あのお客さんが帰ったら、ちゃんとフクさんに謝ろうね」
「う……そう、ね」
「ちゃんと謝るまで見てるからね」
「……はい」
懐刀とは言い得て妙だが、高月は余所様への攻撃力を有していない。猫宮にしか刺さらないソレは、戦力とするには不十分だ。この後なにかが起こったとしても、成れるのは影法師が関の山だろう。
さりとて、明日香はそんな風に思っていないし、味方は多い方が安心できるというもの。とろ火にかけたお湯が沸くまでの間を、明日香は洗い終えた三つのティーカップを眺めて過ごすのだった。
↓福朗到着↓
タクシーを降りる際にも、福朗は川上に声を掛けなかった。ビルの階段を前にして、コッチだよ、とだけは言ったが。
階段を上りつつ思うのは、これで無事にUSB問題が解決する、という事。一週間で解決を見るのなら、想定したよりも早くて助かる。むしろ、持ち主が見つからない可能性の方が高かったので、成果としては上々だ。
碧の愚痴や沙和の策略で精神的ダメージは負ったものの、結果が良ければ気にはすまい。遺失物係でもないのだし、パパッと渡して終わらせてしまおう。その後川上がどのように扱うかは、自分の管轄ではないのだから。
「お~い、戻ったよ~」
明日香が居るだろうと思ったので、福朗は声を上げながら扉を開けた。だが、その目に映ったのは、ソファに座る見知らぬ男。昨日の予測は人数を外したが、まさか性別を外すとは……
福朗は一瞬面食らったものの、留守の間に依頼人が来たのだろうと思った。誰ぞの彼氏説も考えられるが、ここに入り浸っている女子大生達は恋バナ一つしない。なので、そちらの線は除外したのだ。
今は客を連れているけれど、依頼人ならば相応の応対が必要となる。扉から離した手を後頭部へ持っていき、口を開こうとした時、
「フクさん、お帰りなさい!」
と、普段より大きな明日香の出迎えが轟いた。
ティーカップを眺めていた明日香は、とろ火にかけた水が沸きそうになって焦っていたトコロだった。そこへちょうど福朗が戻ってきたので、給湯室からすっ飛んできたのである。
「お客様が来られてますので、応対をお願いします!」
そう言った明日香の剣幕は、福朗にとっては謎のものだ。困惑気味に頭を掻くが、福朗にも言いたい事がある。
「あ、ああ……でもさ、俺もお客さんを連れてきたんだよね。USBの件でさ」
「え? そちらの方も、USBの件でお見えになったそうなんですけど……」
「え?」
「え?」
今度は二人して困惑し始めたようだ。朗報を報告したつもりが、相手も同じ内容だったのだから。
状況はよくわからないものの、返却できるならなんでもいい。そう考えた福朗は、とりあえず事務所に踏み入った。自分が連れてきた客である、川上を迎え入れる為に。
福朗が移動した事により、広告塔に釣られた男と、貼紙に釣られた男が対面する。
一つのUSBについて集まったのだから、知り合いである可能性は高いのだろう。しかし、互いを認識した川上と河下は、明らかな敵意を剥き出しにして睨み合った。
「河下……なんでテメェがココに居る」
「そう言う貴様こそ、どうしてココへ来たのだ」
「別になんでもいいだろうが。上流の意向を、下流風情が気にするじゃねぇよ」
「またそれか……貴様こそ、三本線の分際で、サンズイの僕に逆らわないでくれないか」
「なんだと⁉」
「なんだ、やるのか⁉」
困惑の最中、唐突に客同士の言い合いが始まってしまった。福朗と明日香は、顔を見合わせて首を捻るばかりだ。USB問題が解決するはずだったのに、どうしてこうなった?
「まさかテメェ、USBを!」
「ほざけ! 貴様も同じではないのか!」
二人は増々ヒートアップしていく。座っていた河下は立ち上がり、川上は拳を強く握っている。
関係は依然として不明だが、このままでは乱闘になってしまいそうだ。事務所内でそれはごめんなので、渋々福朗は仲裁に乗り出そうとする。すると、
「もういい、表ぇ出ろ河下! ナシつけてやる!」
「望むところだ川上! 後悔するがいい!」
と、二人はズカズカと出て行ってしまった。
事務所が一気に静まり返り、残された福朗達はポカンと口を開けている。ココで暴れられなくて良かったが、結局なんだったのだろう?
「ねぇ明日香ちゃん。彼、河下君も、USBの件で来たんだよね?」
「はい……そう伺ってますけど……」
「まぁ、碧さんは開発者が二人って言ってたからね。取りに来たのが二人でも、おかしくはない、か」
「そう……ですね」
折角見つけた持ち主? だというのに、USB返却はもう少し後になりそうだ。あの状態では、二人で戻ってくる可能性は低いかもしれない。
「それにしてもあのお二人、仲悪いですねぇ。三本線とサンズイって、漢字の事でしょうか?」
「だろうね。川上と河下。流れと大きさでマウントを取り合ってるんじゃないかな」
「はぁ~~~、下らないです~」
嘆息混じりでそう言った明日香に、福朗は少々唖然としてしまう。普段は素直で慎ましいのに、時折こういったバッサリ発言をするのだから、やはり女性の口は怖いものだ。
「まぁまぁ明日香ちゃん、そう言ってやるなよ。無用な意地の張り合いなんて、どこにでもあるだろ?」
「だからって、名字で張り合うなんてします? ホント、男の人ってバカですよね~」
冷え切った明日香の言葉は、福朗の心まで凍てつかせる。今日はもう、精神的ダメージを受けたくないのに……
「と、とにかくだ。彼らが戻って来た時の為に、一応コーヒーを準備してくれるかい?」
「あ~、はいはい。そうですね。じゃあ、用意してきま~す」
これ見よがしな生返事を残し、明日香は給湯室へ入っていった。ここまで乗り気じゃないのも珍しいので、福朗は少し心配に思う。ともあれ、フォローするのは客が帰ってからにしようと、福朗は一旦ソファに座った。
やかんの前についた明日香は、既に沸いているお湯を使い、コーヒーを淹れにかかる。福朗が心配する必要もなく、一連のバッサリ発言は、さっきまでのイライラが残っていたからだ。
そうして、ブラック明日香がブラックコーヒーを淹れ始める。その渋く苦々しい表情は、もしかしたら味に反映されるかもしれない。