第二幕 神様の言う通り
たとえ神が道を示そうとも、従うか否かでまた選択が生じる
清掃作業を終えた日の夜、福朗と明日香は二十時頃に事務所へと帰り着いた。道中立ち寄ったファミレスにて夕飯を済ませ、そこで猫宮達と別れたのである。ゴミ拾いに勤しんだ各々の服装は汚れていた為、店員の引き攣った笑顔や周囲の疎ましそうな目に晒されてしまったが、集団真理とは怖いもので四人は誰一人として気にしなかった。因みに代金は福朗分の報酬から支払われ、数時間の労働が数分で消えた形になったものの、お宝を拾ったと疑わないトレジャーハンターは実に気前の良いものだった。
鑑定済みである汚らしいバッグを事務机の脇に置き、福朗はもう一つのお宝を確認しようと早速パソコンを立ち上げる。手をすり合わせながら待つ福朗に、明日香は怪訝そうな視線を送っていた。
「あれ? まだこれからお仕事されるんです?」
「いんや、USBメモリーの中身を確認しようと思ってね。さてさて、なにが入っているのやら」
「えっ、ちょっと待って下さい! 考えなしにつなげちゃダメですよ、 ウイルスだったらどうするんです!」
「ダ~イジョブだって、パソコンウイルスってのは大抵ネットワーク経由だろ? わざわざ記憶媒体に入れて持ち歩きゃしないよ」
「ダメです! そのパソコンには私の課題データも入ってるんですから、消えちゃったらどうしてくれるんです!」
「え、なんでさ? どうしてそんなデータが入ってんの?」
「うえっ、と……それは……」
福朗の疑問はもっともなものだ。助手である明日香には伝票処理やメールの確認、予定表作成にパソコンを使わせていたものの、そもそもの仕事量が少ないので事務仕事だって多くはない。今思い返してみれば、その割に明日香はパソコンに向かっている事が多かった。どうせネットサーフィンでもしているのだろうと思っていたが、まさかバイト先で自分の課題をやっていようとは。さすがはちゃっかり明日香である。
一方、口籠った明日香はなぜ事務所で課題をやっていたのか。それは自由な独り暮らしの中で自分を律して課題に打ち込むのが難しいから、と言う面ももちろんある。しかし理由の大部分は、福朗を見ていた方が捗るからなのだ。
福朗は仕事がなければ昼日中からゴロダラしている事が多い。元々飲まない福朗は酒を持ち出す事こそないが、ソファに寝そべり欠伸を噛み殺しながらテレビを見る姿は自堕落な大人そのものだ。反面教師としての力量は申し分ない。そんな福朗を見ていると、『ああはなるまい』という感情が込み上げてきて課題に身が入る。だから明日香は自室のデスクトップではなく、事務所のパソコンで課題をやっていたのである。
ともあれ明日香は福朗を尊敬しているし、良い所だって知っているからその辺の思惑を率直に伝えるのは気が引ける。イイ感じの言い逃れはないものかと少しの間考えたが、以前失敗して逆に傷つけたのを思い出したので強引に押し切る方向で行く。
「とにかく、です! 私のデータを先に移させて下さい! 拾ったデータはその後です!」
「お、おお、わかったよ。そんな怒んなくてもいいじゃないか」
たじろいだ福朗が席を譲ったので、明日香はすかさず自前のUSBメモリーにデータを移し始めた。明日香の操作を追っていくと、出現させた自分専用の隠しフォルダにパスワードを入力してデータを取り出している。もう一度言うがこのパソコンは、事務所のパソコンであり福朗のパソコンだ。明日香にとってはバイト先のパソコンであるはずなのにどこまでも私的利用しているらしい。これではもはやパーソナルコンピューターではなくパブリックコンピューターだ。福朗の知らないところで事務所のパソコンはパブコンに成り下がっていた。
「はい、終わりました。後は好きにして下さい」
「……ああ、好きにさせて頂きます」
昨今の若者はなんと強かな事か。福朗は頭を掻きながら空けられた席に再び座る。自分の時はもうちょっとこう……なんて考え始めるのは年寄りの悪い癖かもしれない。福朗はもう一度頭を掻いてから、気を取り直してUSBを繋げた。
ポートに挿すだけで起動するような悪質なウイルスはないようで、UBSは問題なくパソコンに認識された。ストレージを開く前に更新していないウイルス検出ソフトにもかけてみたが、こちらも特に反応はない様子。日進月歩のウイルスに対して初期装備の守護神では太刀打ちできないのだろうが、一応確認は済ませたという事でいざご開帳。はたして福朗のお眼鏡に適ったUSBには相応のデータが入っているのか。
「ん~……なんだろうコレ? 全体的に容量が少ないな、テキストデータか?」
開かれたストレージにはいくつかのフォルダ入っていた。フォルダ名に統一感は見られず、『義務』『深層』『欲求』などの二字熟語や、『Explorer』『Pioneer』『Searcher』などの英単語もある。それらの名前から中身を想像するのは難しいけれど、そのどれもが大した容量ではない。福朗が望んだような画像データはなさそうだ。
「ほらやっぱり、だから言ったじゃないですか。コレもきっと誰かの課題データなんですよ」
「いやいや、まだわからんよ。一個だけソフトっぽいのがあるし」
名前順で並んだフォルダの間には、福朗が言うように一つだけソフトのようなものがあった。名称は『指神』となっている。
「コレ、なんて読むんでしょう? 『ゆびがみ』?」
「いんや、『ししん』じゃない? まぁ名前なんてどうでもいいさ、とにかくクリックしてみよう」
「本気で言ってます? ソレこそがウイルスかもしれませんよ?」
「その時はその時さ。明日香ちゃんはもうデータを移したんだから問題ないだろ?」
「それはそうですけど……」
「んじゃレッツトラ~イ」
「もう……どうなっても知りませんからね……」
大きな溜息が背後から聞こえる中、福朗は間抜けな掛け声と共にソフトをダブルクリックした。すると複数のウインドウが現れては消えるを繰り返し始める。
「うわぁ~~、やっぱりウイルスだったんですよ……」
「ま、まさかぁ~。起動準備だろ? ……たぶん」
それ見た事かと訴える視線に、福朗も段々自信がなくなってきた。漏出して困るようなデータはないが、パソコンが使えなくなるのはそこそこ痛い。後悔が今にも福朗の背中を叩こうという時、忙しそうだった画面が落ち着いて一つのウインドウだけが残った。福朗は後悔を振り解くように声を上げる。
「ほ、ほら、やっぱソフトが起動してただけなんだよ。え~っと、なになに――」
そして福朗はウインドウに表示された文字を読み始めた。
「『道に迷わば頼られよ、我は指神也』。なんだコレ?」
福朗の読み上げた文言は、黒い背景色に白文字で表示されていた。そしてその下には『スタート』と書かれたボタンも表示されている。それらのフォントは普通のゴシック体なのだが、拾い物のソフトという事で怪しさが物凄い。
「なんか、怖くないです? コレ」
「ん~~、どうなんだろ? とりあえずスタートしてみん事にはなぁ……」
「まだ続けるんです? もう十分じゃないですか。ソフトの名前はわかったんですから、ソレを元に持ち主を探すなり――」
「レッツトラ~イ」
「あっ! もうっ、人の話聞いて下さいよ!」
明日香の忠言などどこ吹く風で、福朗はスタートボタンをクリックする。一体なにが始まるのかと期待していたが、次に表示されたのは『男性』『女性』と書かれた隣に一つずつラジオボタンのある画面。要するに性別選択の画面である。
「う~ん、なにがどうなるのか知らんけど、性別入力が必要らしいね」
「も~、ホントに止めましょうよ~。個人情報を盗むソフトだったらどうす――」
「『男性』、っと」
依然明日香の警告を無視する福朗は、性別を選択し終えて『次へ』のボタンを押していた。いよいよ明日香の怒りも頂点だ。後悔を振り切った福朗の背中を明日香の張り手が襲う。
「も~~っ、フクさんのバカッ‼」
「イッタ、イタタタタ。そんな叩かないでよ明日香ちゃん」
「フンッ、フクさんなんか個人情報盗まれて全財産引ん剥かれちゃえばいいんですよっ!」
「おいおい、あんま酷い事言わないでくれる? 実現したらどうすんのさ」
「知りませんっ‼」
最後に一際強く腕を振り、ご立腹の明日香は怒れる足取りで福朗から離れて行く。そのまま帰るのかと思われたが、ソファにドスンと腰を下ろしてテレビをつけたところをみるとどうも違うらしい。
「おんや? まだ帰らないのかい明日香ちゃん」
「見たい番組があるだけです! 終わるまでココに居ますから、フクさんはさっさとソフトを進めて下さい!」
明日香は大声で捲し立てるように言った。つまりは待っているつもりのようだ。福朗はやれやれと頭を掻いてから再びパソコンに向かう。
「そんならさっさと済ませますよ」
そう言った福朗の声に明日香はもう返事をしなかった。テレビに集中しているので聞こえていない、という体である。しかし落ち着きのない視線はテレビよりも福朗を捉える頻度が多く、その体も随分とグダグダだ。
テレビに集中できないでいる明日香に、福朗の方もなんだか集中を乱されてしまう。かと言って時間がかかってしまえば明日香の帰りも遅くなるので、福朗はもう一度強く頭を掻いてからパソコンを睨み付けた。そこに表示されていたのは――
「なになに? 『好きな食べ物を入力して下さい』だって? 本当になんのソフトなんだろうな、コレ……」
ブツクサ言いながらも入力を続ける福朗。拾った事はいいとして、ソフトの起動も構わないが、長くなりそうなこのアンケートは福朗の背中に後悔を追い付かせた。
↓アンケート終了後↓
福朗がアンケートを終えた頃には二十時台の番組もエンディングに差し掛かろうとしていた。拾ったUSBに入っていた謎のソフトが要求するよくわからないアンケート。そんなものに小一時間も消費した福朗は、今や後悔に覆い被さられていた。
「はぁ~あ、やぁ~っと終わった。真面目に答えるとアンケートもしんどいもんだ」
溜息交じりに呟きつつ、福朗は背もたれに寄り掛かる。長くかかり過ぎて総計何項目あったかは憶えてないが、それらは全て趣味趣向を探り出すような内容だった。本当にコレが個人情報を盗み出すソフトだとしたら……そんな事は想像するだけで恐ろしい。現在のウインドウには『託宣準備中』と表示されなにやらローディングしているようだが、次現れる画面に脅迫されやしないかと肝が冷える思いだ。
「終わりましたか? どうなりました?」
「それがさ、アンケートは終わったんだけど、まだどうなるかわかんなくて……」
福朗の声にやや不安が混じっているのを察し、今度は明日香がやれやれと立ち上がる。テレビを消してから歩き出した頃には、福朗はなにやら遠い目をしていた。
「だから言ったのに……」
そう小さく呟きつつ、明日香は福朗の後ろへと回り込んでいく。その間も画面から目を逸らし続けている福朗は、ちょうど正面に飾られた猫宮の絵を見つめているようだ。
「『準備中』、ですか……なんの準備なんでしょうね?」
「さぁ、なんだろうねぇ……」
「今からでも『閉じる』で消せばいいんじゃないです?」
「お、おおっ、そうか! その手があったか!」
妙案を受けた福朗は、現実逃避から帰還してすぐさまマウスを握り締める。しかし残念ながら、ポインタを『×』に移動させていく途中で『準備中』の画面は切り替わってしまった。
「あ~~、準備が終わっちゃいましたねぇ」
「みたいだね。でも、コレは……」
謎のソフト『指神』。起動直後にアンケートが始まり、その後数十秒かけて準備をする。準備が終わった今、画面に表示されているのは――
「『登録完了。迷い事を入力せよ』だってさ」
福朗が読み上げた文字の下には、『テーマ』と書かれた下にテキストボックスが一つ。その更に下には『選択肢』と書かれており、テキストボックスが六つ用意されていた。そして一番下には起動時と同じような『スタート』のボタンがある。脅迫云々とは無関係そうな画面に福朗はホッと一安心だ。
「良かった、悪いソフトじゃなさそうだね」
「そうなんです? 私にはまだなんのソフトかわかりませんけど……」
今だ不安そうな明日香の反応に、大方の予測がついた福朗は実際に動かしてみようとキーボードに手を添える。
「たぶん、このソフトは――」
福朗は『テーマ』のテキストボックスに『明日の晩飯』、『選択肢』に『ラーメン』『そば』『うどん』『スパゲッティ』と入力してスタートボタンを押した。すると画面が切り替わり、『ラーメン』の文字がデカデカと表示される。
「やっぱりね。『指神』とはよく言ったもんだ」
「え? どういう事です?」
「つまりはこのソフト、『指神』は、迷っている事柄について方向性を示してくれるソフトなんだろう」
「あ~なるほど。選択肢を入力したらランダムで決めてくれるんですね」
「いんや、おそらくランダムじゃないよ。最初にアンケートがあった事を考えると、使う人によってなんらかのカスタマイズがなされるんだと思う」
「カスタマイズ? そんな必要があるんです?」
「『指神』と銘打たれるくらいだからね。ソコがこのソフトのウリなんだろうさ。興味深いからもうちょっと弄ってみよう」
「まだやるんですか……ホント懲りない人ですね、フクさんって……」
ウイルスではないとわかった途端、また喜々として操作を始めた福朗。そんな福朗に呆れながらも、明日香は給湯室の方へと向かった。一応結果が気になるところではあるし、コーヒーでも淹れて待とうとの判断である。インスタントなら湯沸かし込みで十分とかからないだろう。それまでに福朗が満足していれば、コーヒー片手に話を聞こう。そう思いつつ、明日香はコンロに火を点けた。
↓十分程経過して↓
明日香がコーヒー入りのマグカップを二つ携えて給湯室から顔を出した頃には、福朗は事務机から離れてソファに座っていた。明日香も対面のソファに座り、福朗用のマグカップを手渡す。
「それで、なにかわかりました?」
「ん? ああ。プログラミングに詳しくはないけど、あのソフト、結構良い出来なんだと思うよ」
福朗は差し出されたマグカップを受け取りながら言い、そのまま一口コーヒーを飲む。飲み下した後、一息吐いてから福朗は続ける。
「さっき明日香ちゃんが言ったカスタマイズの必要性なんだけどさ、例えば明日香ちゃんが選択肢に迷った時はどうやって決める?」
「迷った時ですか。う~ん、そうですねぇ……」
返答に悩む明日香はコーヒーを口に含みながら考えている。二口三口口をつけたが、眉間の皺は消えそうにない。
「改まって聞かれると、答えるのが難しい質問ですね。場合によりますから一概にコレといった方法は思いつかないです」
「ふむ、まぁそうなんだろうね。じゃあさ、アレはやった事あるだろ? ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な♪ ってヤツ」
「あっ、それならあります。今でもたまに」
成人してもまだやってるんだ……という点は置いといて、こういった風習には地方性や世代差が出るので通じるならば話が早い。元より地方性に関しては二人とも境戸市近郊で生まれ育ったので問題にならないが、ジェネレーションギャップが発生しなくて良かったと福朗は考える。昨今肉体的な衰えをひしひしと実感しているので、これ以上若者との差を痛感するのは避けたい。今日とてただのゴミ拾いだったが、数時間歩き回ったのでどうせ明日は筋肉痛だろう。
「そういう方法で良いんでしたら、他にもコイントスやサイコロで決める、という手もありますね」
「そうだね。人は選択肢に迷った時、そういったランダム性に身を委ねる傾向がある。でもさ、迷っていたはずなのに、なぜかその結果に満足できずにやり直した経験ってないかい?」
「あ~~、言われてみればあるかもですけど、ソレが関係あるんです?」
「関係もなにも、ソレこそが『指神』の凄いところであり、カスタマイズの成果だと思うんだよ」
「??」
福朗の言っている意味がつかめず、明日香は首を傾げている。『指神』に触れていない者からすれば、その反応は当然なのかもしれない。実際に触れた福朗としては、その素晴らしさをどうしたら伝えられるのか悩みどころである。頭を掻き、一度コーヒーを飲んでから口を開く。
「いいかい明日香ちゃん。選択肢が複数あって迷っていると思っていても、人ってのは大抵の場合、どれかの選択肢に天秤が傾いているものなんだよ」
「そうなんです? でも、それならその選択肢に決めちゃいません?」
「ところがどっこい。実は自分でも気付かない傾きってのはあるもんなんだよ。どれでもいいからサイコロを振ったのになぜかやり直したくなる。その理由の根源は、きっとそういう些細な傾きからくるんだろうね」
「ん~……そう言われてしまえばそんな気がしてきます。もしかして『指神』のカスタマイズは、その微妙な好みを反映するものなんです?」
「まだちょこっと触った程度だけど、たぶんそうなんだと思う。どういう処理がなされているのかはわからないけど、アンケートを真面目にこなす程、やり直す気が起きない納得のいく選択を瞬時にしてくれるみたいだ。まさに神様の言う通り、ってね」
「へ~、パソコンソフトに神様ですか。便利な時代になりましたねぇ」
福朗が拾ったUSBには、どうやら神様が宿っていたらしい。八百万の神という言葉があるように、古来よりこの国では様々なモノに神が宿るとされてきたが、近年では電脳世界にまで進出しているようだ。案外神様も節操がないな、と冗談交じりに考えたけれど、罰が当たっても困るので、明日香は一応心の中で神様に謝罪しておく。特定の宗教を持たずとも、平時神の存在を信じていなくとも、神を恐れるのが人間という生き物だ。都合の良い時だけ祈る人間の方が、余程節操がないだろうに。
「さて、どうしたもんか……」
明日香が勝手に神を貶め勝手に謝罪していると、福朗の思案気な呟きが聞こえてきた。頭を掻いている素振りからすると、おそらくは――
「落とし主を探すんです?」
「そうみたいだね」
「あれ? なんで他人事なんです?」
「いやね、最後に『指神』にきいてみたんだよ。そしたら『探す』が選ばれた」
「それはそれは。なら、神様の言う通りにしないといけませんね」
「だね。ま、結局はソレが俺の本心って事なんだろうさ」
「ですね。それでこそフクさんです」
そう言って明日香は、頭を掻く困り顔の福朗に対して嬉しそうに笑った。
本日の拾い物は高級バッグとカプセル入りのUSBメモリーだった。どちらかと言えば、バッグの持ち主を探そうとするのが普通ではないか? しかし件のバッグは中身が綺麗になくなっていた事から、故意に捨てられた物だと思われる。そんな物を持ち主に突き返しても煙たがられるだけだろう。ひったくりにあったとも考えられるが、それならば犯人には絶望的に見る目がない。拾う神に目利きが必要と言うのなら、捨てる神には見る目がないのかもしれない。
なんにせよ、バッグについてはなにも言わない事から、福朗は持ち主を探すつもりはないのだろう。ネコババと言われてしまえば聞こえが悪いし、警察に届け出ないのもどうかと思うが、ゴミとして拾ったものなので、その処遇は今や福朗に一任されている。だからバッグについてはどうでもいい。ブランド物だろうが高級だろうが、明日香は元々そんな物に大して興味がないのだから。ならば今、明日香はなにに興味を示しているのか。それはもちろんUSBメモリー。ではなく、そのUSBメモリーを巡って福朗がどう動くのか、である。
「探すって言っても、どうやって持ち主を見つけます?」
「そうだなぁ……高月さんのハガキには落とし主じゃないにせよ名前が書かれていたからとっかかりがあったし、奇跡的に明日香ちゃんが猫宮さんを知ってたから簡単だったんだが、今回はそうもいかないし」
「ですね。わかったのはソフトの名前だけです。とりあえず貼紙でもします?」
「ん~、どうしようか。動き出しとして貼紙は悪くないと思うんだけど、その前にもうちょっとソフトを調べたいな」
明日香の貼紙案は採用らしいが、福朗はなにか気になる事でもあるかのように虚空を見つめる。そのままボーっと考え事を始めたので、ほったらかしの明日香は声を上げるしかない。だって明日香は福朗の助手なのだから、なにかしら思惑があるなら知っておきたいと思うのが当然である。
「まだなにか調べる必要があるんです? いつ落とされたのかわからない以上、動くなら早い方が良くありません?」
「そう、いつ落とされたのかわからない。でも、本当に落としたのかもわからないんだよ」
「んえ? それってつまり」
「うん。捨てられた可能性もあるって事だね」
先程も考察したように、バッグについてはおそらく捨てられた物だとして間違いないだろう。しかし、USBメモリーまで捨てられたと語る福朗は、どうしてその考えに至ったのか。
「どうしてそう思うんです? 良い出来のソフトなんですよね? だったらどこかの、え~っとプログラマーさん? が落としてしまったと考えるのが普通じゃないです?」
「それはそうなんだけどさ、良く出来てるからこそ、その、なんだ。あんまり良くないって言うかなんて言うか……」
なぜだか言い淀む福朗に、明日香はまたも首を傾げる。福朗より若い明日香は技術の進歩に肯定的なので、良いモノは良いとして受け入れる事に抵抗がない。良過ぎて良くないという事なんてあるのだろうか?
一方、中途半端な回答をした福朗はと言うと、いろいろ考えはあるものの、どれも予測に過ぎないので話す気にもなれない。目の前の明日香は首を傾げているが、思惑を語ったところで角度が増すだけだろう。ここはその辺を言及せずに、次の手を語った方がスムーズだ。
「ま、どっちにしても持ち主探しを始めはするよ。先達ては明日にでも、プログラムに詳しい知り合いを呼んで見てもらうとするさ」
「そう、ですか。なにかわかるといいですね」
一先ずの目先の方針を語った事により、明日香の首が元に戻った。時に手強い明日香ではあるが、基本的には素直な助手だ。ちゃんと方針さえ伝えていれば、文句を言わずに従ってくれる。思考する事は人間の美徳ではあるが、妙な勘繰りや変に悩む事は悪徳にもなる。今はまだ、特に考える事なく持ち主探しをすればいい。考える必要があるのだとすれば、それはきっと持ち主を見つけた後だろう。前回もそうだったのだから。
そんな考えを持って明日香の思考を止めた福朗だが、その後の明日香が妙にニヤつきながらマグカップに口をつけているのがひっかかる。今必要のない思考については止められたのかもしれないが、元より人間とは考える生き物だ。他人の思考を止め続けるなんてできはしない。まぁ仕事とは別の、なにか楽しい予定でも考え始めたんだろうと思い、福朗もカップを口に運んだ。
さて、ニヤつき明日香の頭の中はと言うと、今後の予定なんて考えもしていなかった。今考えているのは、福朗が持ち主探しを始めたという事だけ。福朗は捨てられた物かもと思いつつも、手掛かりの全くない落とし物を持ち主に返そうとしている。余人なら徒労と笑うだろうが、明日香は決して笑わない。いや、実際にはニヤついているのだが、明日香のソレは嘲笑ではなく、嬉し笑い? である。コレは依頼でもなければお金も絡まない。それでも動き出す福朗が、明日香の理想通り過ぎて嬉しくてたまらないのだ。
そうして思い思いに思いつつ、暫し静寂のコーヒータイムが訪れた。その間も明日香のニヤニヤは治まらないので、対面の福朗は複雑な表情でコーヒーを啜り続けている。そして、二人がほぼ同時に飲み終えたところで、本日はお開きの方向となった。
「んじゃ、そろそろ明日香ちゃんはお帰りよ。送っていくからさ」
「いいんです? すぐそこなんですから大丈夫ですよ?」
「いんや、帰りにちょっとコンビニ行こうと思ってね。さっき指神様がラーメンと言ってから小腹が空いちゃって」
ほんの二時間前に食べたのに文字を見ただけでお腹が空くとは、と明日香が呆れるのも無理はない。『指神』の件では失敗したが、ここは助手としてちゃんと福朗を律さねばならない。しっかり明日香の腕の見せ所である。
「晩御飯食べたじゃないですか。それに指神様が仰ったのは明日の話なんですから我慢して下さい。そんなついでみたいな理由で送ってもらっても嬉しくありませんよ」
「わかったわかった、今日ところは我慢するから、明日の晩飯はよしなに頼むよ」
「良いでしょう。じゃあ明日はラーメンにしますね。味はどうします?」
「そうだねぇ……それは後で指神様に伺っておくよ。どうせとんこつになるだろうけど」
「フクさんとんこつ好きですもんね。でも、そうなると『指神』って本当に良く出来たソフトなんですね。私もやってみようかなぁ」
福朗が興味を示し評価したとあっては、懐疑的な印象が薄れて明日香も使ってみたいと思ってしまう。選ぶという手間が省けるのであれば、なにかと時間短縮になりそうであるし。だが、
「いんや、明日香ちゃんはやめときな」
と、福朗はそう言って立ち上がり、扉の方へ歩き出した。
意外な制止に驚きつつも、慌てて鞄を掴み追いかけながら明日香は背中に問いかける。
「どうしてダメなんです? 便利なソフトじゃないですか」
「ダメとまでは言わないけど、選択肢ってのは自分で選ぶ事にこそ価値があるのさ」
福朗は背中越しに言いながら扉を開け、そのまま出て行ってしまった。もっともな意見かもしれないけれど、自分はあれだけ弄っておいてなにを今更、と事務所に残された明日香は思う。ともあれ、明日香の前に『指神』を使うか使わないかという選択肢があるとすれば――
「まぁ、フクさんがやめておけと言うのなら……」
『指神』という大変便利そうなソフトがあろうとも、それ以前に明日香の指針は福朗に依るところが大きい。少し釈然としない気持ちはあっても、明日香は福朗の意向に従う呟きを漏らして後を追うのだった。