第一幕 拾う神には目利きが必要
豊富な知識を持つ者には、ゴミ山とて宝の山に見える
夕方にもなると、福朗達は予定通り清掃作業を済ませていた。作業範囲は龍綱川に架かる五縄大橋西岸の河原およそ二キロメートル。可燃不燃合わせて十袋がいっぱいになったのは、少人数でも数時間かけたからか、或いはそれだけゴミが多かったからか。なんにしても大量である。
「お~い柿谷さん。コッチコッチ」
近くの土手に停まった軽トラへ向かって福朗が手を振っている。その呼び掛けに応じて現れたのは、小太りで作業着を着た年配の男だった。
「いやぁ~、助かったよ飛鳥君。最近じゃあただのゴミ拾いボランティアに人は集まらんからさ」
大声を出しながら階段を降りてくる柿谷と呼ばれた男は、福朗達の元へ辿り着いた時には汗だくで、しきりにハンカチで顔を拭っていた。
「世知辛い世の中ですが、それでコッチにお鉢が回ってくるなら俺としては助かりますけどね」
「いやぁ~、僕としては大変なのよ。少ない予算でやりくりしなきゃなんないんだから。人は来ないクセにゴミの苦情だけは多いもんで、いっつも頭いたいのよ」
「役所は大変ですね。上は国、下は国民のサンドイッチだ。そんな大きなものに挟まれちゃあ、俺なら一瞬で潰れる自信がありますよ。柿谷さんは凄いですね」
「いやぁ~、わかってくれる飛鳥君? 公務員は安定してるなんて言うけどさ、その為の苦労もバカになんないんだよねぇ~。ホッホッホッホ」
「ですよね~。はっはっはっは」
福朗と柿谷は、いわゆる下請けと取引先のようなもの。多少の持ち上げが必要となる大人の会話だ。そんな会話を猫宮はしかめっ面で見ながら明日香に耳打ちする。
「なによあのゴマすり。あのデブただの役人なんでしょ? あんなヘコヘコする必要あるの?」
「ちょっ、日向さん⁉ またそんな言い方して⁉」
「ちゃんと小声で話してるでしょ、アンタのリアクションの方が大きいわよ。それで? アイツはそんなに偉いヤツなの?」
「え~っと、確か環境課の部長さんだとかなんとからしいです」
「部長か……それなりの地位ね。ならフクさんの対応もしょうがないか……」
反骨精神にあふれた猫宮ではあるが、一応ファミレスでのバイトで役職におけるしがらみは理解してるつもりだ。しかし自分が評価している人間が、見知らぬ他人にへりくだっているのはどうも不服に思えて仕方がない。そんな猫宮の心中を察し、明日香は優しく微笑みかける。
「心配ないですよ日向さん。私も初めは思う所ありましたけど、アレは最初だけのポーズみたいなものですから」
「ポーズ?」
「はい。ですからそろそろ」
そう言って明日香が目線を福朗達に向ける。釣られて猫宮も福朗の方へ向くと、
「にしても、たった数時間でこの量とは思いませんでしたよ。いくら人が集まらんとは言え、さすがにこれは役所の怠慢じゃないんですかい?」
と、いつもの福朗らしい言動が聞こえてきた。ソレを受けた柿谷は苦々しい顔をしている。
「ね?」
「……みたいね。フクさんらしいけど、よくあんなんで仕事取って来れるわね」
溜息交じり言う猫宮から見れば、柿谷に対する福朗の態度が急に横柄なものに変わったと思えた。しかし猫宮は気づいていない。福朗に対する自分の態度が、それ以上に横柄である事に。
他人の事言えないだろうに……なんて思っても、明日香は口には出さない。ただ愛想笑いでやり過ごす。
「あ、あはは……まぁその、人徳って事にしておいて下さい」
「人徳ねぇ……」
呆れ顔の猫宮に対し、少し呆れる明日香。時に高月はと言うと、知らないオジサンが現れたので、先程から二人の後ろで縮こまっていた。
「いやぁ~、言ってくれるね飛鳥君。でも、こんなに集められちゃあぐぅの音も出ないよ」
「ま、この町は広いですからね。役所だけじゃあ手の届かん事も多いでしょう。他にもなにかあったら相談に乗りますんで、今後とも御贔屓に願いますよ柿谷さん」
「いやぁ~、商売上手だよね飛鳥君は。またいずれ連絡させてもらうよ、ホッホッホッホ」
苦笑うプレイスマンは汗が止まらないらしい。時として小五月蝿い下請けは、目の上のたん瘤となるのだ。
「とにかく、先に報酬を渡しておくよ。予算はあんまりないけど、一人五千って所でどうだい?」
「お? 意外と奮発してくれましたね? 俺は助かりますけど大丈夫なんですか?」
「いやぁ~、そう何度もは出せないけどね。初回をある程度高く見積もっておけば、今後業者を雇うにしても余裕ができるからさ」
「なるほど。そいじゃあ俺に文句はありませんよ。猫宮さんもそれでいいかい?」
「えっ、ちょっ⁉ なんであたしに振るのよ⁉」
突然話題を振られた猫宮は、驚きのあまり声が上ずってしまっている。お金についての大人の話に子供が駆り出されたのだから、誰だってそうなってしまうというもの。
「そりゃあ君が報酬についてうんぬんかんぬん言ってたから意見を聞こうと思ったまでさ」
「だからってその人の前で聞かなくてもいいでしょ⁉」
「いんや、交渉するなら今しかないだろ?」
「アンタ、自分が言い辛いからあたしに振ったんじゃないでしょうね⁉」
「まさかまさか、俺がそんな事する訳ないだろ? なぁ、明日香ちゃん?」
「ええっ⁉ ここで私です⁉」
相次ぐ福朗のムチャ振りに、猫宮と明日香はてんてこ舞いだ。今し方現れて普段の状況を知らない柿谷には、福朗が二人の手綱をしっかり握っているように映る。
「いやぁ~、元気のいいお嬢さん達だねぇ。こんな子達がいたんなら、僕も一緒にゴミ拾いすればよかったよ。ホッホッホッホ」
「いえいえ、元気過ぎるのも考え物ですよ? 五月蝿いだけですからね。はっはっはっは」
「ちょっと明日香! アレなんとかしてよ!」
「うえぇっ⁉ だから私に言われても困りますよっ!」
笑う大人と騒ぎ出す子供。同じ岸辺に居ながらも、高月はそれらを対岸の火事のように見つめていた。初対面の人と話をしようとしても、自分にはどうしたって小さな声しか出せない。そんな自分の言葉を、あの時の福朗は聞き洩らさなかった。会話によって人を見る福朗は、きっと地獄耳なのだ。おそらくはさっきの内緒話が聞こえていたのだろう。あの意地の悪い大人に対して内緒話をしたいなら、それこそ対岸にまで渡る必要がありそうだ。くわばらくわばら、自分も気を付けよう。そう高月が思っていると、
「高月さんも、五千円あれば画集が買えるかい?」
「⁉」
なんと自分にまで飛び火してきた。やはり火事を避けるには、対岸にまで逃げないといけないらしい。猫宮達のように咄嗟に声は出せないので、高月は赤くなって俯くしかなかった。
「いやぁ~、本当に羨ましいよ飛鳥君。さて、冗談はさておき――」
柿谷は一頻り笑い終えると、動かしていたハンカチを止めた。
「猫宮さん、だったかな? 今回の報酬は五千円になるんだけど、それでいいかい?」
真剣な表情で名前まで呼ばれてしまっては、もう白を切る事はできない。観念した猫宮は持ち前の度胸で柿谷に向き直る。
「……五千円だったら、時給に換算すれば約千円。それならあたしに文句はない、です」
発せられた声はいつもより小さかったが柿谷には届いたらしく、真剣な表情から打って変わって先程のように朗らかに笑う。
「ホッホッホッホ、それは良かった。納得頂けてなによりだよ」
「猫宮さん、君ちゃんと敬語使えたんだね」
「アンタホント……後で憶えときなさいよ」
猫宮が一瞬福朗を睨んだものの、何はともあれ報酬の件は片が付いた。猫宮の言うように、ただのゴミ拾いで時給千円とはなかなか破格だ。更に作業中監視の目はなく、キリキリやる必要もない。別にさぼったつもりはなかったが、柿谷に慣れ始めた猫宮には少し気になる事があった。
「あの……それだけ出せるならフクさんじゃなくて、もっと広く募集を出せば良かったんじゃないですか?」
「いやぁ~、それは無理だよ。言ったでしょ? 予算には限りがあるんだよ。今回の報酬だってかなり頑張って絞り出したけど、個人のお小遣い程度にしかならなかったんだからね。仮に専門業者に頼めたとしても、きっと向こうさんは今後の契約を持ちかけてくるだろう? そこで飛鳥君の登場さ」
「なるほど。人を集められるだけのまとまったお金はない。専業を雇えるほど継続した予算もない。その点フクさんならお金に五月蝿くないし、扱いやすいと」
「そういう事だね。飛鳥君なら少額でもそれなりの仕事をしてくれるし、『今後も御贔屓に』と言うだけだからね。いやぁ~、『何でも屋』ってのは実に便利で良い。ホッホッホッホ」
「そっか……フクさんの『何でも屋』は、要所の細々した仕事で成り立ってるってワケね」
「おんや? 気付いたかい猫宮さん。ウチも慈善じゃないから報酬は貰うけど、お察しの通り、人材も予算も豊富な所ばかりじゃないからね。ちょっと人手が欲しいってのは意外と良くある話なんだよ。ソコが俺の土俵なのさ」
「そうですね。主な依頼はちょっとした店番、ちょっとした修理、ちょっとした清掃ですから。あとポンちゃんの散歩ですね」
明日香は付け加えるように言った。実は柿谷の表現に少しだけモヤッとしていたが、『何でも屋』とはそういうものなのだ。依頼とはすなわち、誰かが他人に何かを頼むという事。頼むという事は、その誰かは困っているという事。ソコに手を貸すのが福朗の『何でも屋』であり、現在は自分でもある。体よく使われていると思ってはいけない。便利と思ってもらえるからこそ、次もまた依頼が来るのだから。
「うん。『何でも屋』を続けられてる秘密がなんとなくわかった気はする。じゃあ、あたしの依頼みたいなのは例外ってワケなのね。無報酬だったし」
「えっ⁉ 無報酬でもなにかやってくれるのかい⁉」
「ちょっとちょっと柿谷さん。そんなトコに反応しないで下さいよ。彼女も例外って言ったでしょう」
「例外でも前例があるんだろ?」
「いやいや、だからアレはですね――」
無報酬に食い込もうとする柿谷と、そうはさせまいとする福朗の話が始まってしまった。お金に関わる大人の話は、いつの時代も長くかかるものだ。引き金を引いてしまった猫宮は、先程ムチャ振りされた件を差し引いても少し罪悪感を覚える。
「あたし、余計な事言っちゃったかしら?」
「いいえ、そんな事ありませんよ。日向さん達の件は確かに例外かもしれませんが、アレも立派な『何でも屋』のお仕事ですから」
食い下がる柿谷に困窮する福朗をよそに、明日香は優しく微笑んで猫宮に返した。例外でレアな依頼かもしれない。だが、明日香にとってはあの依頼こそが、福朗が最も活きる依頼なのだと信じている。
「それに無報酬じゃないですよ。労働の対価としてはお金を頂きますが、あの依頼はそうじゃありませんから」
「なに言ってんのよ、結構動いてくれてたんでしょ? 時間拘束も立派な労働じゃないの?」
「そう、だね。私の事を、何日も駅前で、待ってたみたいだし」
久々に口を開いた高月も猫宮に賛同する。猫宮と高月の一件をただの仲直りと言ってしまえば軽く聞こえるが、当事者の二人にとっては大きな問題だ。その恩の大きさを本当に理解しているのも当人達だけ。油絵やウインドウサインを送りはしたものの、それらで帳消しになったとは思えなかったのだ。だからこそ今日、呼び掛けに応じてゴミ拾いに参加したのである。少しでもその恩に報いられる様にと。本当はゴミ拾いの報酬額なんて二人にはどうでもよかった。どうせ受け取るつもりはなかったのだから。
明日香とて福朗に救われた経験があるので二人の心境はなんとなく想像できる。しかし明日香は二人の一件で、救った福朗側の立ち位置も経験している。それ故に知っているのだ。報酬がお金だけでは無い事を。申し訳なさ気に顔を見合わせる二人に向けて、明日香は満面の笑みを浮かべる。
「時間拘束が労働と言うのなら、お二人にはもう同等の時間を割いて頂きました。二つの作品を作ってくれた時間です。そこに気持ちまで籠ってるんですから、それ以上の報酬なんてありませんよ」
「だからって……ねぇ?」
「うん。そう、言われても……」
明日香の笑顔を前にしても、猫宮と高月はまだ納得いっていない様子だ。そもそも報酬とは、報いる事であり酬いる事。端的に言えばお礼である。考えようによっては『ありがとう』の一言でさえも報酬となりうるが、お礼として送るならお金が妥当なのではないか。どうしてもそんなイメージが頭から離れない。
「作品にはそれなりの自負があるし、気持ちに価値がないなんて思ってないわ。もちろん気持ちがお金で伝わるともね。それでも――」
「私達の為に、割いてくれた時間で、本当なら別の仕事を、できたかもしれない。他人の時間を、お金で買えるとも、思わない。でもやっぱり、お金も大切だと、思うの」
「う~ん……それはそうかもしれませんが……」
確かに現代を生きる上でお金は大切である。だがその大切さとは、残念ながらなにをするにも必要になるから、という所から来ている。一つの感情に別の起源を求めると、その純度は下がってしまうと明日香は思っている。厳密に考えればほとんどの場合で起源はみつかるだろう。それでも好きだから好き、悲しいから悲しい、楽しいから楽しい。そんな純度の高い感情は存在するのだ。
例えば猫宮と高月。彼女達は同じ年に近くで生まれ、幼馴染として仲良く連れ添ってきた。共に過ごした時間は情と絆を深めるものだが、その時間を遡った時、そこにあるのはなんなのか? それはきっと、出会った時に感じた相手を好きだと思う純粋な気持ちなのだ。
卵が先かニワトリが先かと言う言い回しがある。言葉そのままの真相は知る由もないが、単純に考えれば卵が先に決まっているだろうと明日香は思う。因果と言う言葉があるように、原因があってこその結果で、種子があってこそ植物は芽吹くのだから。始めにあった好きだと思う純粋な気持ち。それが今日の猫宮と高月を生み出したのだ。だから猫宮と高月は、今もこうしてここに居る。二人で一緒にここに居る。
必要だから大切なお金、価値を決めるお金。そんなものに惑わされてはいけない。大切なモノはいつだって、お金に代える事はできないのだから。『ありがとう』という純粋な感謝の気持ちが込められた作品。お礼として貰うのに、それ以上のモノがあるなんて明日香には思えない。
「私が……いいえ、私とフクさんが好きだと思えるモノ、大切だと思えるモノはもう頂いてます。私が思うに一番の報酬って、やって良かったと、報われたと思える事なんです。あの絵と窓は私達にそう思わせてくれるんですから、無報酬だなんて言わないで下さい」
「けど……」
「でも……」
猫宮と高月はまだ逡巡している。すぐ隣で、もの凄く近くで、顔を見合わせて逡巡している。その姿を見て明日香はまた笑う。笑って力強く言い切る。
「それに、なによりの報酬は仲良くしているお二人なんです。お金も大切だとは思いますが、それ以上に大切なモノが目の前にあるなら、お金の出る幕なんてありませんよ」
そう言った明日香の向こう側では、福朗と柿谷がまだお金について話している。お金より大切なモノがあるなんて、そんな殊勝な事をあの男が考えるだろうか? とはいえ、福朗は絵を嬉しそうに受け取ってくれた。ウインドウサインが完成した時喜んでくれた。ならば明日香の言うように、自分達はもう十分な報酬を送れているのだろうか? いや――
「わかったわよ。明日香がそこまで言うんなら、もうお金の話はしない」
「そう、だね。代わりに――」
高月の言葉の途中で、二人はもう一度顔を見合わせてから手をつないだ。
「私達は、仲良しで、い続けなきゃ、ね」
「そうね。精々見せつけるとするわ。まぁそんなに気負わなくても、またケンカしちゃったらその時は、また助けてくれるわよ。でしょ?」
「はい、もちろんです! 『何でも屋』にお任せ下さい!」
自信に満ちた明日香の言葉に、猫宮と高月は一瞬驚いてから困ったように笑う。童顔な猫宮と、眼鏡のせいで地味に見えるが綺麗系の高月。二人の顔は全く違うのに、その時の明日香には同じ笑顔に見えた。
↓柿谷の説得終了後↓
福朗は柿谷を説得するのに約十分も要した。時間だけを見れば短いと思えるかもしれないが、福朗にとってはその労力たるや筆舌に尽くし難い。無用な心労に辟易しながらも、福朗は依頼完了に向けて話を進める。
「後はこのゴミの処理なんですが、どうすりゃいいんです?」
「ああ、後はコッチでやっておくから軽トラに積んでくれるかい」
「はいよ。んじゃささっと積んでしまいましょうか」
そう言ってゴミ袋を掴み始めた福朗に、高月がそろそろと近づいて来た。手伝ってくれるのかと思ったが、どうも違うらしい。
「本当に全部、捨てるんですか?」
「え? だってそりゃゴミだもの、その為に集めたんじゃないか」
「それは、そうですけど、一つ気になる物が、あって」
「気になるって……まさか金目のモノでも落ちてたっての?」
福朗は冗談めかして言ったつもりだったが、高月は考える間もなく首を縦に振った。
「はい。明日香ちゃんが、拾ったバッグ、たぶんアレ、もの凄く高い、物です」
「何だって⁉」
高月は言葉少なだが、彼女は彼女なりのユーモアを持っているので冗談や皮肉を言う事もある。しかし、どうでもいい場面で下らない冗談を言う人間ではない。また、勝算の少ない場面でわざわざ言葉を発する人間でもない。ともすれば、それなりの確信を持って話しかけてきたのだろう。そう直感した福朗は目の色を変えた。
「どれ⁉ どれの事⁉」
「えっと確か、この袋に……」
「コレだね⁉ よしっ、見てみよう!」
運ぶ為にゴミ袋を手にしたというのに、なぜか開いて漁り出した福朗。訝った残りの面々もそれぞれ集まっていく。
「ちょっとなにしてんのよ? 運ぶんじゃないの?」
「いやぁ~、飛鳥君。僕はまだこれから処理場に行かなきゃなんないんだよ。だから早くして欲しいんだけど」
「ちょい待ち柿谷さん! この中にお宝があるらしいんだよ!」
「お宝……です?」
「うん。ブランド物の、バッグが――」
「あった‼」
そう言って福朗が取り出したのは、明日香が初めの方に拾っていたバッグだった。確かに造りは良さそうなものの、河原に捨てられて雨風に晒されたソレは随分と痛んでいる。
「高月さん、ちょっと見てくれるかい?」
コクンと一つ頷いてから、高月はバッグを受け取ってしげしげと眺め始めた。薄汚れているが上質な生地、野晒しに耐えうるしっかりした縫製、錆止めの施された精巧な金具、そしてブランド物の命であるロゴ。それらを静かに鑑定し終え、高月は小さく息を吐いた。
「コレ、『テイルムーン』の、ブランドバッグですね。たぶん、本物です」
「たぶんってのは?」
「有名ブランドは、フェイクも多く、出回るものですが、私にはコレが、本物に見えます」
「なにか見分けるポイントでもあるんです?」
「うん。元々、偽物っていうのは、安く作って、高く売るもの。似せる必要は、あるけど、全く同じじゃ、採算が合わない。偽物ならもっと、痛んでるはず。だからたぶん、本物だと思う」
「ふ~ん、良く知ってるわね。望深ってこういうの好きだっけ?」
高月がブランド物に興味を示している。長く一緒にいるがそんな記憶はないので、猫宮は不思議そうに首を傾げる。そんな猫宮を前にして、高月は恥ずかしそうに頬を染めた。
「別に、自分で持とうとは、思わない。ただ、ロゴとデザインが、好きなの。私と、ヒナちゃんを、見てるみたいだから」
そう言って高月が指さしたロゴは、猫が長い尻尾をくるりと回して円を描いている。ソレはまるで――
「あっ、ホントです! 日向さんの描いた絵みたいです!」
「うん。だから、好きなの」
「……そ」
猫宮は一言だけ、一文字だけ言って顔を逸らす。その頬は高月と同じように赤く染まっていた。
福朗的にももちろん仲睦まじいのは結構な事だが、残念ながら今気にしているのはバッグの価値について。
「あのさ、水を差すようで悪いんだけど、結局そのバッグは高い物なの?」
水を差すとはつまり熱を冷ます事。紅潮していた猫宮と高月の頬は、福朗の一言で一気に冷めていく。
「ねぇ明日香? さっきの話と違くない?」
「あ、あはは……それはまぁ、アレですよ。お金が落ちてるなら誰だって拾おうとしますよね? それと同じですよ……たぶん……」
今さっき講釈をたれた明日香としては、お金に目が眩んでいる福朗が恥ずかしくて仕方ない。一応フォローはしたものの、心持ちは複雑だ。
高月も少し呆れはしたが、自分から持ちかけた話なので福朗の質問を無下にはできない。最後にもう一度バッグを確認し、雑誌の記憶と照合しながら回答する。
「最新モデルでは、ありませんが、今年の頭に、出たものですね。注目すべきは、このロゴです」
「ロゴ? それで価値が変わったりするの?」
「はい。『テイルムーン』という、ブランドは、商品の質も、さる事ながら、ロゴに変化を持たせる、変わった特徴も、あります。尻尾の描く月が、『クレセント』『ハーフ』『フル』の、三種類あって、月が満ちる程に、希少価値が、上がります」
「とすれば、このロゴはフルムーンって事です?」
「そう。フルムーンタイプは、生産量の、一割しかない。私の記憶が、正しければ、このバッグは、新品でおよそ――」
「およそ……?」
福朗はゴクリと唾を飲みつつ促す。しかし福朗とて過度な期待はしていない。いくら普段出しゃばらない高月がここまで話したとはいえ、さすがにそんな高価な物が落っこちていたなんて――
「百万円、ですね」
「百まっ……⁉ えっ⁉」
「うそぉっ⁉」
どこからを大金と言うのか、それは人によって意見の分かれるところだろう。だがさすがに百万ともなると、極少数の富豪以外は大金と表現するはずだ。薄い財布しか持った事のない福朗はもちろん、ブランド感覚のない一般家庭育ちの猫宮も心底驚いていた。そんな中明日香の反応はと言うと、
「はぁ~~、バッグ一つで凄いですねぇ~」
と、幾分暢気な有様だった。
「ちょっ、明日香⁉ なんでそんな反応なのよ! 百万よ、百万‼」
「そうだぞ明日香ちゃん! 大先生が何人になると思ってるんだ⁉」
「そりゃあ百万だったら百人になるんでしょうけど……」
「だったらなんでそんな落ち着いていられるのよ!」
「そうだぞ明日香ちゃん! 百人もいるなんて逆に怖いよ!」
「なんですそれ……」
取り乱している福朗と猫宮はなかなかの剣幕で明日香に迫る。しかし倹約家である明日香はお金に対して冷静だ。人差し指を立てて惑わされた二人に向かう。
「いいですかお二人共。確かに望深さんは百万円と言いましたが、その前の言葉をよく思い出して下さい。あくまで新品なら、です。捨てられてそんな状態のバッグに、新品と同等の価値があると思います?」
「あ~……そりゃそうか」
明日香の静かな口調によって、この時点で猫宮は目を覚ました。だが福朗はまだ諦めきれないといった風にバッグを睨み付けている。
「いやぁ~、飛鳥君。いい加減僕帰りたいんだけど」
しばらく成り行きを見守っていた柿谷は、ここでついに声を上げた。実は柿谷も高価と言う文句に惑わされていたが、明日香の言葉で自分の仕事を思い出したのだ。世の中にそんなうまい話は転がっていない。だからこそ自分は、日々少ない予算に頭を悩ませているのだ、と。
「結局ゴミはゴミなんだよ、早く袋に戻して積んでくれないかい?」
「くっ……しかし……」
「そんなに未練があるんなら、ソレは君にあげるよ」
「本当か柿谷さん⁉ 貰ってもいいの⁉」
ゴミとして拾ったバッグを、福朗はまるでプレゼントを貰った子供のように目を輝かせながら抱えている。大人としてどうかと思う光景だが、もうなにも言うまいと柿谷は溜息をつく。
「僕の言えた義理じゃないけど、一度捨てられたものなら今更持ち主も現れないだろうからね。とにかくだ、僕にはまだ仕事が残ってるから、さっさと袋を積んじゃってちょうだい」
「よし来た! 任せろ柿谷さん!」
バッグの所有権を得られたので、福朗は意気揚々と軽トラにゴミ袋を積み始めた。その姿はまるで、お小遣い欲しさに手伝いを頑張る子供のようだ。
「いやぁ~、ホッホッホッホ。まったく、飛鳥君はしょうのない人だねぇ」
「うぅ……なんかすみません……」
取引先にまで呆れられるとは、明日香はいよいよもって恥ずかしくて仕方がない。今の福朗は明日香から見ても守銭奴甚だしい。フォローの言葉は浮かばず、ただ謝罪するしかできなかった。
「いやぁ~、でもまぁアレだねぇ、自分に正直なのは良い事だよ。含みのない飛鳥君だからこそ、後腐れなく仕事できるってもんさ」
「柿谷さん……そう言って頂けるなら幸いです」
「うんうん。飛鳥君はしょうのない面もあるけど、真面目なのも知ってるからね。ホッホッホッホ」
柿谷の独特な笑い声に合わせ、明日香は内心ホッと胸を撫で下ろした。安堵した矢先、突然柿谷の声色が変わる。
「時に高梨さん。今回の報酬はあのバッグという事に――」
「あ、それはまた別の話です」
柿谷を遮って放たれた明日香の切り返しには、先程の恐縮は微塵も感じられなかった。その見事なまでにスンとした反応を見て、さすがは福朗の元で助手をやっているだけはあるな、と柿谷は思う。ゆるゆるに見えて一筋縄ではいかぬ福朗。助手である明日香もまた、簡単に言い包められるわけがないのだ。
「……だよねぇ~、ホッホッホッホ」
「です~、あはははは」
いそいそと荷運びする福朗を見守りながら、明日香と柿谷が笑い合っている。金は天下の回り物と言うが、大抵の人間はいずれ回って来るのを待つよりも、ソレを追いかけている事の方が多い。また、一度持った者は手放すまいと策を弄するものだ。結局人は貰える物は貰うし、貰った物は返さない。つまるところどう言い繕ったところで、どいつもこいつも守銭奴である事に変わりはない。
↓柿谷は帰りました↓
集めたゴミの多さは清掃作業の成果にはなるが、それがそのままゴミ問題の解消とは言えない。それでも柿谷は満足そうに軽トラを駆って帰って行った。そしてここにもう一人、満足そうに笑う男がいる。
「いやぁ~、まさか本当にゴミ拾いでお宝が見つかるとはね。ノブさんの言ってた事に間違いはなかったなぁ、はっはっはっは」
柿谷からうつった口調と汚れたバッグをお宝扱いする点は脇に置いて、明日香は一番気になった点を質問する。
「ノブさんってドチラさんです?」
「ああ、ノブさんはね、ここよりもうちょい川上の、今はたぶん一縄橋の下に住んでる先住民の方さ」
「先住民って……それ大丈夫なの? 要はホームレスでしょ?」
「ダメダメ猫宮さん。それ言ったらノブさんに怒られるよ? 場所がどこであれ、先に住むという行為を行った者が先住民の称号を得るのさ」
よしんば先住民の称号に目を瞑ったとしても、ホームレスに変わりはないだろうに。そうは思ったが福朗の事だ、どうせなにを言っても言い返してくる可能性が高い。猫宮は諦めてお宝の件に話を戻す。
「そのノブさんって人がなんて言ったかは知らないけどね、こんなのは奇跡中の奇跡よ。そうそうある話じゃないわ」
「いんや、そうでもないさ。捨てる神あれば拾う神ありって言うだろ?」
「そのことわざって、いろんな人がいるから捨てる人もいれば拾う人もいるって意味ですよね? だからって価値のある物を捨てる人は多くないんじゃないです?」
「だろうね。だから俺が言いたいのはそこじゃなくて、知識さえあれば拾う神に成れるって事なんだよ」
「知識、ですか……確かに、私に知識が、なければ、その鞄は、処分されて、ましたね」
「そうそう、そういう事。ノブさんが言ってたのはそういう事なんだよ。一見ただのゴミだとしても、利用できる知識や価値を見抜く目があればなんだってお宝に変わり得るのさ。例えばコレとかね」
福朗はそう言ってポケットからガチャガチャのカプセルを取り出した。さっき拾ったアレである。
「なんですソレ? 中に、USBメモリー?」
「コレも拾ったんだよ、柿谷さんに言うの忘れてたな。ま、鞄をくれたんだ、コレだって無理に取り上げはしなかったろう」
「今更ネコババを咎めるつもりはないけど、結局ソレがなんなのよ? ソレもお宝だって言うつもり?」
「そうさ! 俺のお眼鏡にかなったんだ、きっとコレもお宝に違いない! いやぁ~、たまにはゴミ拾いも良いもんだね。はっはっはっは」
福朗は自信有り気に笑っているが明日香は知っている、福朗に観察眼などありはしない事を。曇ったお眼鏡から一体なにが見えると言うのか、ほとほと呆れて言葉も出ない。
「さぁ、そろそろ俺達も帰ろう、トレジャーハンターの凱旋だ! はっはっはっは!」
福朗が軽快に歩き出したので、三人も距離をとって歩き出す。
「ったく、いい気なもんね。なにがトレジャーハンターよ」
「ですです。フクさんの目は節穴なんですから、どうせアレだってゴミに決まってます」
「でしょうね。あたしを子供と勘違いしたくらいなんだし」
「でも、さ。フクさんがハガキを、拾ってくれたから、私達は仲直り、できたんだよ? ソレを考えると、ちょっとは信じても、いいんじゃない?」
「う~ん、そうなんでしょうか……見方によっては私も拾われたと表現できますけど……」
「え? そうなの? 明日香は自分からバイトしたいって言ったんじゃないの?」
「バイトの件はそうですが、出会ったのはその少し前なんです。私が傷心しているところに声を掛けてくれたのが始まりなので」
明日香は声のトーンを落としながら恥ずかし気に言って下を向いた。詳しい経緯はまだ聞いていないものの、猫宮と高月にはなんとなく想像できた。困っている明日香に声を掛ける福朗の姿が。
「なるほどね、そうして今の明日香があるワケだ」
「うん。そしてソレが、あったから、私達の今が、あるんだね」
「ですね。だとしたら、私達は皆フクさんに拾われたのかもしれません」
捨てる神がどういった者かはわからないが、拾う神には知識と目があるらしい。福朗の考えもあながち間違いではないのだろうが、明日香はそこに優しさも付け加えたいと思った。拾う為に手を伸ばす行為こそが、優しさの表れだと思うから。
「欠点も多いけどさ、やっぱりなんだかんだでいい人よね、フクさんって」
「うん。私も、そう思う」
「はい! フクさんはとってもいい人なんです!」
人の株価は往々にして本人の知らないところで上下している。だが変動の根拠となるのは、それまでの人と成りと言動だ。困っている人に手を伸ばす、困っている事象に手を貸す。そういった行いは株を上げる要素となるだろう。情けは人の為ならず。良い行いをすれば、それは巡り巡ってその人を信頼できるいい人だと喧伝してくれる。一面を見て時に守銭奴だと思われようと、積み重ねてきたものは消えない。明日香も猫宮も高月も、福朗の行為を以て好意を持っている。
と、そんな感じで株価が上がったまま終われば良かったのだが、今目の前を歩いているのは、薄汚れた女物のバッグを振り回して闊歩するオッサンだ。
「でもさ、アレはさすがに……」
「うん。私も、ちょっと……」
「うぅ……ですよね……」
十分な距離を空けて後ろを歩く現役女子大生三人組は、最終的に同じ事を思っていた。『アレはキツい……』と。