6 蘇りの条件
來山が斬風によって惨殺された翌日、結垣は栗栖洋治が塾に出かけるのを見計らい、家のすぐそばのわき道に連れ込んだ。
「な、なんですか新垣さん。いきなり僕を引き留めるなんて強引では」
「死神はどこにいるの!」
栗栖の言葉に耳を貸さず、結垣の頬の皺という皺が克明に寄るほどに鬼気迫る。表通りには人の気配はないがさすがに住宅街ともあれ、大声を上げてしまえば住人が聞きつけて栗栖洋治に聞く機会を逃してしまう。何より時間がなかった。
「あ、あのことですか。あれはほんのジョークで」
「はぐらかすな。あんたが本当に首をつって死んでいたのをこっちは知っているんだから。二度言わせるな」
栗栖の肩のあたりで拳が飛んだ。その勢いは、壁際のコンクリートにひびをいかせるほどだった。
來山が殺された後、遺体をコートで包みながら事務所に連れて帰った。
死神に來山を生き返らせる。狂人の所業であるとわかっている。だが同じ友人を失い、自ら危険に飛び込んでしまった友人をまた失いたくなかった。自分の及んでいないところで人が死ぬ悲劇を繰り返したくない、なら死神の力を借りてまでも回避していやる。
斬風を殺すことなんていつでもできるだから。
日が沈んで夕暮れ時の寒さが肌寒さが染みわたる時期なのに、結垣の額にはいくつもの汗が噴き出ている。尋常でないとようやく察したのか栗栖はようやく口を開いた。
「死神は……どこにいるのかわかりません。あれは幽霊や背後霊のようなものですから」
「情報持っているのだろ。それをこっちに寄こせよ」
声を抑えながらも、感情が抑えきれずにいる。いつの間にか結垣の手は自分より背の高い栗栖の胸ぐらをつかんで引き寄せていた。栗栖は希薄に押され負けて、下からアッパーカットを喰らう寸前のボクサーのように一寸恐怖していた。
「例え知っていても、僕の記憶が消されてしまう。そういう取引だったので」
「はぁ!?」
女性の声とは思えないようなドスの利いた低い声で睨むと、栗栖はたじろぐ。二人はもう二日前のような提供者と依頼者の関係でない、食うか食われるかの上下の関係に変貌している。
もしこのまま口を割らなければ、持っている水で耳を凍傷させて吐かせてやろうかとペットボトルに手を伸ばしかけた。
「もしかして、誰かを生き返らせようと考えているなら……できないですよ」
「え?」
恐怖で塾のバッグをアスファルトに落として割れた答えが、求めていたものの前提を打ち壊す言葉に小さく声を漏らす。次の時にはバッグから口を開けたペットボトルを栗栖の首元をナイフのように当てた。
恐怖ですくみ上った栗栖は、首元に当たっているのがペットボトルだとも分からず歯を震わせて目が虚ろになりかけている。最も、結垣にとってそれはナイフよりも凶悪な武器であるのだが。
「し、死神は、人に憑りついて死を回避するのであり。すでに死んだ人間に対しては効果はないと本人から」
ペットボトルが弾んだ。蓋が開いていたペットボトルは中の水が止め度目なくこぼれアスファルトに染みをつくる。そしてそれを持っていた結垣も崩れるように膝が落ち、同じようにアスファルトの染みを目からこぼしていく。
「來山さんが、來山さんが帰って……こない」
一抹の希望はなぜこうもあざ笑うのだろうか。知り合い一人守れることもできず、生き返らせる唯一の方法も手遅れ。いっそ死んでしまいたい、けど唯一犯人を知っている情報源の私が死んでしまっては斬風を追えない。また生きるのが苦しくなる。
膝をついて動けなくなった隙を見て、栗栖はバッグを拾うとゆっくりと気取られないように後ずさりしながら距離を取ると、捨て台詞のように結垣に声をかけた。
「來山さんなら大丈夫ですよ。では」
「どういう意味よ。待ちなさい!!」
栗栖が目の前にいないことにようやく気付いたときには、栗栖は住宅街の角を曲がって逃走を開始していた。膝を立てた時に昨日から履いていたままのストッキングがアスファルトから飛び出た小石に引っ掛かってピリリと伝線するが、黒糸を引きちぎった。
逃げた栗栖の跡を追い、角を曲がり、もう一つ角を曲がったところで大通りに出てしまった。もう帰宅時間ともあり人通りが多く、街灯の灯りが点き始めて空の遠くからは夜が迫っている。もう栗栖を追うことは困難であること示唆していた。
「くそっ!」
苦渋に満ちた顔で毒を吐いた結垣に、行き交う人々が避けてゆく。いつの間にか彼女の周りには空間ができていた。
事務所に帰ってくると結垣は電気を点けずにソファーの隣に腰を下ろした。事務所に誰かいることを斬風に悟らせないためにしないためだ。そしてソファーに寝かせている來山を斬風の手に触れさせないのもある。
斬風がギリーナイフ事件の模倣犯を行ったかわからないが、事件にかかわっている結垣や來山を放置するはずはない。結垣が出ていったあと、事務所の窓やドアを能力で氷結させて外からでは相当な力では開けられないように施しておいた。幸いにも帰ってくるまでの間両方とも開けられた様子はなく來山には指一本触れられていない。ただすでに無事の体ではないのであるが。
「ごめんね來山さん、あなたを生き返らせれなくて」
ソファーの上で眠っている來山は赤ん坊のように毛布で包まれている。だが、閉じられたまぶたはもう二度と自分の力では開くことはない。傷も治癒することもない。ただの傷がついた肉塊なのだ。
結垣が赤くにじんだ頬に触れると氷のようにひんやりとした感触が伝わった。
「氷より冷たい。氷使いの能力者なのに死体のほうが冷たいってよくわかんない」
自虐気味に呟くと、携帯にメールが一通届いた。送り主はこの前斬風が來山の友人を殺した事件の調書を送ってくれた組織の人間からだ。來山が握り締めたガラス片の一部に血の跡が残されていた。最初は來山の血ではないかと思ったが、他にも血が付着しているはずのものをわざわざ一つだけ取るのは奇妙だと思い組織の内部に調査を依頼していた。
『依頼内容の返答:結垣殿、先のガラス片に被害者のものとは別の血液が付着していたことが判明しました。以前の事件現場も再調査を行い、斬風S市監察部統轄区長の指紋などがないか調査いたします。追って昨日指定した現場を組織が独自に調査します。協力感謝します』
――協力? ちがう、嫌がらせだ。
斬風はあたしが殺す。けど、それだけじゃ済ませない。殺した後もあいつが今まで築いていた地位や信頼を失墜させるためだ。今まで信頼していたはずの人間に鞭打つと後ろ指をさされるだろうが、捜査の邪魔をされおまけにその人に知り合いを殺されその憎しみはどこで消費すればいいのか!
来海が殺された後も、それを消費するのにどれだけ苦痛だったか――
結垣は自分のデスクの隣でぽっかりと空いたスペースに目をやった。かつて沖がいたデスクに……
沖がいなくなった後、結垣は外に出ることすら億劫になるほど生きるという行動を放棄するまで堕ちていた。裏組織であるため大々的なものはできず簡単な葬式を済ませて、事務所にあった沖のものは完全に引き払われていた。ついさっきまで生きていた沖のデスクは、小物からデスクまで最初からいなかったようにぽっかりと結垣の隣が開いてしまった。
隣のデスクにいつも涎の洪水を起こしていた友人がいない。いつも毎週入れていた五百円貯金箱もあの金音も聞くこともない。いつもいたはずの人間が突然いなくなる虚しさ。電話をかけても『おかけになった電話番号は現在使われておりません』と友人がいなくなったことを無情にも伝えるアナウンスが流れてくる。
体に力が入らない。二人三脚で歩いてきたのに、突然結んでいた紐が千切れてしまった。ようやく独りで歩けるまで重く、辛いひびが続いていた。
だから生きるという歩くことぐらい普通なことをするには、相当の精神が摩耗されていく。死ぬのはあっさりだというのに。
過去の苦い記憶が呼び戻されて、体が重くなってくる。いつの間にか結垣は半分眠っていた。なんとか眠気を払うが、頭に眠気という魔物がしがみついて結垣を床にひれ伏せようとする。
「來、山さんの、仇を……絶対に……」
來山の隣で結垣は静かに夢の中へと落ちていく。すると、どこからか詩が聞こえた。夢にしては鮮明に聞き取れる詩だ。
『誰が駒鳥 殺したの
それは私 とスズメが言った
私の弓で 私の矢羽で
私が殺した 駒鳥を』
これは、『クックロビン』。そうだ、死神はクックロビンの詩と共に現れる。今更来ても遅いのに……
寝ぼける結垣をしり目に、クックロビンの詩は歌詞を変えて謡い続ける。
『誰が來山笙実 殺したか
それは俺さ と斬風が言った
俺の風で 俺のガラスで
俺が殺した 來山を
だけど來山は 蘇る』
最後の一節で不意に結垣は目を覚ました。來山の首筋に手を当てるが先ほどと変わない温度だった。そして触った手にはすでに乾ききった血が墨のようについた。
ありえないか。來山さんがいきなり蘇ってくるなんて。死神が蘇らせてくれる条件に叶っていない。ましてや、この部屋に死神自体いないのだから。
すると唐突に、携帯がバイブレーションを鳴らした。ほかに結垣宛に来るはずはないのだが、その着信音に聞き覚えはあった。携帯の電源を開くと『斬風収二郎』のトークルームからメッセージが送られていた。
『下記の公園で待つ』
相手自ら呼び寄せるなんて随分と肝が据わっている。罠かもしれないが、どうせ死んでも構わなかった。
握力でスマホの画面を割らん勢いで握りしめ、ハンガーに掛かっていたコートに袖を通す。 斬風……待ってろ。絶対に殺してやる。取り逃がしてもあんたの居場所はもうないんだから。
そして扉に手をかけると一寸、ソファーで横になっている來山の亡骸に告げた。
「待っててね來山さん。友達とあなたの敵をとって。そして……あなたにごめんなさいって言いに行くから」