5 斬風
夜はとっくに八時を回ってどこの会社も残業する時間であったが、結垣は事務所に籠り電気スタンドを灯しながらファイルを開いていた。
この光景を見れば斬風はなんというだろうか。明日は大雪だとか言われるだろうか。
來山と別れた後、優先順位が低くなり棚の奥にしまわれていたギリーナイフの事件を調べていた。ファイルには殺された被害者の遺体の写真や生々しい殺され方の記述に何度目を背けていたが、來山のことを思いながら資料に目を通した。ギリーナイフの動きや犯行現場の特徴、いづれも栗栖が独自に調べていたのとほぼ相似していた。動機もさることながら暗い現場、被害者には深い刺し傷と実は彼が犯人ではないかと疑ってしまった。だがあの時間、栗栖は塾におり犯行は不可能である。遠隔で殺せる能力を持たなければの話であるが……ただ、そうそう組織に知られていない能力者が次々と現れることはない。
ピロンとメッセージが届くアラームが鳴った。メールの添付ファイルを開くと、結垣が頼んでいた資料があった。來山の友人の事件についての調書だ。警察内部の組織の人に斬風の命令であると嘘をつき、送ってもらっていた。画面に顔を近づけながら、開いた調書の遺体の状況に目をやる。
「やっぱり、他の被害者はショック死や深い刺し傷による失血死なのに、この子だけは大量の切り傷によるもの。それに、この子だけはあれが……」
「よう結垣、珍しいな」
急に無精ひげが生えた斬風の顔が覗くように肩から出てきた。入ってきた音が聞こえなかったため、ギリーナイフの資料を慌ててファイルのカバーを閉じた。
「とっくに帰っていると思ったが、熱心に働いているじゃないか。明日は傘を持っていった方が身のためだな」
「あ、あたしだってたまには残業の一つぐらいはしますから」
背中でパソコンを隠しながら、なんとか取り繕う結垣。一見すれば普段やる気のない捜査官が珍しく事件にやる気を出した刑事ドラマのワンシーンのようであるが、内容を見れば斬風の怒髪天を貫くのは目に見えている。
必死に資料を取らせないように左右に体を振って斬風が資料の山に手を伸ばすをのを防ぐ。
「ほれ、アメやるぞ」
右のポケットから放出されたアメに一瞬気取られて防御を崩されると、斬風は資料の山の一つのファイルを奪い取った。始めは期待して喜色を浮かべていたが、ファイルの中身を開いていくと顔色がだんだん悪く、眉をひそめていく。
「おい結垣、これは優先度は低い事件のはずだ。興味本位か? それとも暇つぶしなのか?」
ファイルで顔を隠しながら諭すように訊くが、ファイルを握っている皮手袋を被った手はプラスチックのカバーを変形させるほど握力がこもっている。明らかな怒りの怨嗟が狭い事務所の中立ち込め、結垣は恐れるが口は開かなかった。
ついにしびれを切らせた斬風が、溜まった鬱憤を晴らすように怒声が響き渡った。
「結垣!!」
「斬風さん。どうしてこの事件が優先度が低いものなんですか! 数日前まで事件が起きたのに、模倣犯だから取り締まらない? おかしい!」
「俺たちは警察じゃない。能力者に関する事件だけを扱う。普通の人間の犯罪なんて捨て置け、上からにらまれるぞ」
「ではどうしてこれが普通の人間が起こしたものだと断定できるんですか! ギリーナイフの犯行と寸分同じ、けど殺し方が違う能力者である線を疑うべきじゃない。なのに、実質実害がない死神事件を追えなんて優先順位がおかしい!」
斬風の声に押し負けないほどの声量で反論するが、斬風は一部たりとも表情を変えず、結垣のデスクを拳で叩きつけた。反動で資料の山が一部崩れ落ちる。
「結垣この組織に生き残りたければ――上の命令には従え。でないと死ぬぞ」
今まで結垣に対して穏健に接していた斬風が初めて冷たく突き放った。組織がなければ身寄りのないアウトローの能力者は排除されるか、組織に組するしかないという現実。それは結垣には重々知っていたうえで組織に加入していた。死神捜索もギリーナイフ事件の打ち切りも組織の命令である、だから従わなければならない。
納得がいかない。このまま放置して被害が拡大してもいいって言うの。
「さっさと片づけろ」
斬風が机の資料の山を崩し始める。
「返し……痛っ」
斬風が片づけるのを止めようと左手を握ると、手に何か刺さりすぐに手をひっこめた。
……血?
手のひらにはいつの間にか小さな傷ができ、赤い筋が川の字にできていた。手袋を握っただけなのに、なぜ?
すると斬風の手が突然止まり、ファイルを床に投げ捨てた。
「今日は帰れ。上司命令だ」
そういい捨てて、斬風が事務所の電気をすべて落として帰ってゆく。今日一日だけで喜怒哀楽の感情を使い切って疲れ果てていた結垣は、斬風をもう追える体力が残ってなく後姿を黙ってみていた。
斬風との一波乱から数日後、。栗栖が予想していた裏通りは、繁華街と比べると非常に寒々しく人通りも夜になると歩く人もいない。
結垣はいつもの水のペットボトルを満載したトートバッグを肩に下げているが、服は結垣の生涯で着るはずがなかったセーラー服なるものを着ている。ギリーナイフの被害者は学生という共通点がある以上、模倣犯も同じく学生を狙う。だから近くのサンタ帽子を被ったペンギンマークのディスカウントストアでセーラー服のコスプレ服を購入していた。
ただ、結垣の見た目が明らかに高校生であるため、店員の目が何度も服と結垣にいったり来たりしていたのが気に食わなかった。
「組織に入ったら、セーラー服なんてもの着ることはないんだなと思ってたのに」
夜の色に良く溶け込む紺のセーラー服の襟を弄りながら自虐気味に述べた。組織に加入すると義務教育段階で終え、高校に入ることはできない。普通の人間なら高校に入って、その半数が大学にもしくは表を歩ける会社に入っていく。普通の生活を送ることはできないが、路頭に迷うことも異能力をひた隠す生活を送ることもない、生きる分には安全だ。その代わりに組織の命令を聞く。ギブアンドテイクだ。
斬風の言うように組織に従わなければ死ぬ。身寄りのない自分には比喩でもなんでもない、組織に逆らって追放されれば死ぬ。自分の生活を考えれば、放置したほうが身のためだ。だけど來山さんみたいな子を出し続けたまま生活を守るなんてできない。なにより、来海が命を落としてまでただの人を守ってまでしたのに自分はしないのはあの子に申し訳が立たない。
携帯の時計が深夜の時間に入る。だが犯人はまだ来ない。
「今日は外れかな……」
もしかしたら栗栖の予想が外れたのかもと思った瞬間。
「ぎゃぁあ!」
断末魔が裏通りに伸びる一本のわき道から上がった。結垣は街灯一つもないわき道を駆け抜けた。建物の影で月明かりが見えない中を結垣は目を凝らしながら足元を注意深く走る合間、胸の奥が嫌に高鳴った。今まで無風だったはずなのにつむじ風が闇の奥から流れ込む。すると建物の合間から差し込む月光が斬風が着ていたのと似たコートを照らした。
「風? 吹く感じはなかったのに。それにあのコート……まさか」
ある人の顔が浮かび上がると、いっそう鼓動が早くなる。すると、足元に柔らかいものが当たった。膝を少し折ってそれを覗くと鼓動が制止した。
「來山さん!!」
転がっていたのは、全身血まみれになっていた來山の無残な姿だった。服は彼女の学校の制服で、それで標的になったのだろう。だがいつくもの裂け目が刻まれて、朱に染まって元の色が把握できない。
彼女を抱えると流れたばかりの血のぬくもりが手に伝わると沖を抱えた状況を思い出してしまった。
來山さんが……死ぬ。
それが頭によぎると、結垣は無我夢中で來山の出血を抑える。しかし、結垣の努力をあざ笑うかのように血は止まらず白い手が來山の赤に染め上げられていく。
「來山さんしっかりして。まだ助かるから!」
「新垣……さん、これ……」
來山が握り締めていた手が弱々しく上げていく。手の中は血の色に染められていたハンカチが握り締められている。來山の指を一本ずつ剥がすと、それは結垣が來山に渡したハンカチだった。
ハンカチの中には一片のガラス片が包まれていた。ガラスには、小さな肉片が引っ掛かっていた。
「少しでも……役に立てる……かな」
この子は敵を討つためにわざと囮に……
結垣は唇を噛みしめると口の中で鉄の味がした。來山のとは比べようにないほどの少量の血が。
「こんな危ないことして、言ったでしょ! 大人のすることだからって。ねえなんか言ってよ。喋ってよ、あたしの前でまた人が死んじゃいや」
何度怒っても、何度嘆いても來山は目を伏せて喋ろうともしない。心臓に手を当てると、鼓動もない。
結垣が静かに來山の骸を地面に寝かせ、ガラス片を包んでいたハンカチを受け取る。
模倣犯の凶器はこのガラス片。おそらくここらあたりにもまだ残っているはず。これらのガラスを人工的飛ばせるほどの風をに起こせる人物。そして今さっき見えたコートの持ち主…………一人しかいない。
目がしぱしぱすると天を仰いで怨嗟を込めて吼えた。
知り合いを殺し、事件を動かさないように仕向けた人物の名を。
今まで読んでいた名とは異なる呼び方で。
「斬風えぇぇぇ!!!! 絶対に殺しやる!!!!」