第7話:はじめまして、ボスさん
誰もいない居間は相変わらずしんとしていた。喉が渇いたわけじゃないのに水を一杯飲み、息をつく。どうせやることもないのだから一眠りして起きたら夕飯でも作ってみようかなと思い、ごろんとソファーに寝転んだ。
目を瞑り、静かな空間の中で呼吸を整える。寒くもなく、暑くもない丁度良い気温が私を心地よい眠りへと導いてくれた。
次第に意識が離れていく。眠りに落ちようとするまさにその瞬間、どこかで聞いたことのある男の声がして意識を戻した。おい、と呼ぶその声は低く怒っている。
驚いて目を開けた。その瞬間頬に生温い液体がぼたぼたと落ちてきた。悲鳴をあげるより先に目に飛び込んできたのは、私が生まれて初めて殺したあの男。首からとめどなく流れ落ちる血も怒りに満ちた敵意ある男の表情も全てがあの時と同じ。目の前の男と記憶がぴったりと一致し、音もなく涙が零れた。全身から汗が吹き出し触れられているわけでもないのに身体がピクリともしない。
「あ……」
血に濡れた男の手が首元へと伸びてくる。振り払うこともできず、思わず目を瞑った。夢だ夢だと呪文のように唱えながら男が消えてくれるのをじっと待つ。
「おい、女」
首元へと伸びてきていた手は予想外に頬に触れた。声も先ほどのようなかすれたものとは違うはっきりした声。
不思議に思いながらも、閉じていた目をゆっくり開ければそこには私が殺した男ではなく、全く知らない男がいた。もちろん、落ちてきていたはずの血も消えている。
夢か幻覚か、しばらく停止した私の思考を余所に知らない男はいきなり私の上に馬乗りになった。
「あの、」
「ん?」
「なにしてるの……ですか」
「いや、とりあえずキスでもと」
いやいやいやいやおかしいよね、何言ってんのこの人。っていうかあの男は?……やっぱり、夢?
男のサラサラした真っ黒な髪の毛が頬にかかる。瞳まで深い深い黒色をしている、その目を見ているとつい引き込まれそうになった。
男の顔が近づく。何とか死守しようと必死で唇を手で隠したが呆気なく押さえつけられた。
「ちょ、あの、やめて」
「大丈夫大丈夫」
「いやいや、あの、」
「いいからいいから」
「いや何ひとつ良くないよ。まじで退いて下さいお願いします。ちょーミラクルスーパーダイナマイト素敵なお兄さん」
「……無表情で言う台詞ではないよね」
男がひるんだその瞬間、私はカッと目を見開きグーで思いっきり男の大事な部分を殴ってやった。
声にならない声をあげながら男は私から床へ転がり落ちる。股間を押さえてのた打ち回るその姿は哀れで仕方ない。写真にでもおさめたい気分だったが生憎カメラなど持ち合わせていなかった。 それにしてもこの間抜けなクソ野郎はどこのどいつだ。
「もう一発入れとこうかな」
「やめ……許し……死ぬ!」
「許して欲しかったら切腹のひとつでもしてみろよ」
「それ許す気ないよね、確実に」
男が痛みに耐えている間、私はソファーに座ってその様子をじっと見ていた。
初対面に馬乗りになられて挙げ句キスまで奪われることなんてそうない。当然ながら初対面の男の股間を潰したのも初めてだ。我ながらよくやったな、としみじみ思う。
「……まだじんじんするんだけど」
「そのまま使い物にならなくなればいいのに」
「……」
だいぶ痛みが収まったのか、男はふいに立ち上がった。
さてと、と私の目の前に仁王立ちになると懐から素早く取り出した光り物の刃先を私の額にピタリと合わせた。
「え、」
「お前は誰だ」
「……」
まさかの形勢逆転。鋭い刃は私の額にピタリと合わせられていて、微動だにしない。そして先ほどまで床を転げ回っていた男とは思えない程余裕たっぷりの表情。何て言うか……目が本気だ。
真っ黒な背広姿の男にナイフを突きつけられている私。気の利いた言葉なんてひとつも思い浮かばず金魚のように口をパクパクさせていると、ご、よん、さん、にぃ、と男の口が秒数を刻み始めた。ヤバい、私の命あと2秒弱。
「いや、あの、怪しい者じゃないんだよ!確かに股間殴ったのは悪かったけど。ほんと私居候みたいなもんで……っていうかあんたこそ誰?」
「俺か?」
少し考えるように男の視線が私からそらされた。けれども向けられた刃が緩むことはない。ゴクリと生唾を飲み込む。
「俺はアレだ」
「アレ?」
「ボス。殺し屋の」
「……」
あぁ、アンタが噂の……。部下からの信用が全くないボス様でしたか。
その瞬間私の中の何かが崩れた。殺し屋組織のボスなんてもっとゴツくてデカくて坊主で、何より寡黙な男を想像していたのだ。だけど目の前の男はいかにもちゃらんぽらんな風貌。ビシッと着こなした真っ黒なスーツが泣いている。同じく真っ黒な髪の毛は無造作に立てられ、何より若い。どこにでもいそうなただの若造だ。それでもグンゼやアルよりは大人なんだろうけど。
「ボス……」
「うん、そう」
「この人がエロ本大量に隠し持ってて尚且つ部下になめられまくってる殺し屋組織のボスかぁ……」
「おいコラ、考えてることがそのままストレートに口に出てるぞ」
「すんません……」
男の刃が更に額を押した。いててて、血出るよ、血。嫁入り前の娘の額に傷つけるつもりだよコイツ。
「まぁいい」
そこで男はやっとナイフを懐にしまった。ふぅ、と私も息を吐き冷や汗を拭う。 男は頭を押さえながら私の隣に腰を降ろした。何だか随分お疲れの様子だ。
目頭を抑えたまま男は言った。
「居候ってどういうこと? 俺、アイツらから何も聞いてないけど」
「あの、実はですね……」
私は大まかないきさつを話した。
渦に呑まれてこの島についたこと、実は違う世界の人間だと言うこと。グンゼとアルに拾われてこのアジトにお世話になっていること。
ボスは驚くこともなく、さほど興味があるわけでも無さそうな返事をして私を見た。
「その話、俺が信じれる証拠はある?」
「証拠……は、ない」
「……」
「でも本当だよ!みんなが帰ってくれば分かるから……」
必死でそう訴えた。てっきりまたナイフを向けられるかと思っていたけど、ボスは「あ、そう」と一言頷く。
「俺がいない間にえらいもん拾ってきたんだな、アイツら」
「人を捨て犬みたいに言わないでよ」
「あ、もしかしてもう誰かとやっちゃったとか」
「死ねよ、セクハラだよ」
「……狂犬だね、こりゃ」
苦笑いしたあと、再びこめかみを押さえた。私の方を見ないまま、「もう大丈夫?」とよく分からないことを聞く。
何が、と問えば眉間を押さえていた手を私の頭に乗せ、何を考えているか分からない無表情で私を見据えた。
「うなされてたよ」
「あ……」
そういえば夢見てたんだっけ。血まみれのあの男の、夢。
「嫌な夢、見ちゃって」
「ふぅん、どんな」
「……」
黙っていると、ボスは全てを見透かしたかのような言い方で「殺した奴でも出てきた?」と呟いた。
「何で分かったの……」
「分かるよ、殺し屋だし。人を殺した事のある人間くらいすぐ分かる」
「……そっか」
「怖いよね、そういう夢」
そう言ったボスの表情は、何とも言えず少し寂しそうだった。哀れむように私の頭をポンポンと撫でる。何故かひどく安心した。
「夢に出るのは君が罪の意識を感じてるからだろうね。でも大丈夫だよ、死人は何も語らないし君を呪い殺すこともしない。もし呪いなんてものあるなら俺はとっくに死んでるよ」
「……」
黙り込んでいると、ボスは更に口を開いた。そして言ったのだ。克服する方法を教えてやると。
「人殺しを、繰り返す」
「え……」
「そしたら怖くなくなるよ」
「……無理だよ」
あんな思いをするのはもう嫌だった。確かに繰り返していけば、ここにいるみんなのように……目の前の男のように恐怖を感じなくなるのかもしれない。だけど心をなくしてまで恐怖から逃れようとは思わない。
そう言うと、ボスはにこりと微笑んだ。いい子だね、と言って笑ったその表情は殺し屋とは思えない程柔らかいものだった。
しかしその笑顔もすぐに引っ込み、再びソファーに首をもたげる。腹減った、というので何か作ってあげることにした。いつの間にか夕方近くなっていたし、夕飯を作るとミナミに約束してしまったのだ。
「よし、頑張れ私」
「奥さん奥さん、言ってるそばから包丁こっち向いてるよ。何? 材料は俺?」
「やだなぁ、冗談だよ……」
気を取り直して台所へ向かう。鬼大が買い置きしてるおかげで材料はたくさんあった。
とりあえずカレーくらいなら作れるかな、と自信満々で冷蔵庫から材料を引っ張り出した。
陽もすっかり落ち、辺りが真っ暗になった頃続々とメンバー達が帰ってきた。みんなくたびれた表情で居間へ入ってきたが、漂うカレーの匂いと意外な人物を見て目を見開いた。
そう、意外な人物とはもちろんボス。背広とネクタイをそこらへんに脱ぎ、ソファーに横たわっているボス、意識はない。そしてその側に寄り添うようにして座る私。
「帰ってたのかよ、ボス!」
最初に声を上げたのはアル。続いて他のメンバーも近づいてくる。しかし寝ているため、ボスから返事はない。
お帰り、と私も引きつった笑顔で出迎えた。やば、冷や汗出てきた。
「ボボボボスがね、昼間帰ってきたんですけどね、ななななんか疲れちゃってたみたいでね、寝ているのですよ」
「うん。とりあえず落ち着け」
飛翔はそう言うとボスの寝顔を覗き込んだ。異変に気付いた彼は、アレ?と首をひねる。
「泡吹いてね、コレ。何か白目向いてね?」
「そんな事ないよ! デタラメ言わないでよ! いらないならその目ン玉くり抜くよ!」
「何さり気なく恐ろしいこと言ってんだよ、お前」
「つーか何か隠してるだろ」
「隠してないよ! 癖毛は黙れよ!」
「んだとコラァ! 癖毛差別かぁ?」
「もう相手するのも疲れるよ……」
「うわ、すげえ殺したい」
グンゼといつものように言い合っていると、いつの間にか鬼大が台所へと移動していた。鍋に入ったカレーを発見したようだ。似合わないくらい甲高い声で「レンさんが作ったんですか」と無駄に興奮しながら鍋を持ってきた。
ミナミも感心したように、ほぅ、と息を漏らす。「カレーか。やるな、小娘」と珍しくお褒めの言葉を頂いた。
「ちょ、駄目だってそれ……」
何故ならボスが泡を吹いて白目を向いているのはそのカレーを食べたからなのだ。ちなみに私は食べていない。目の前で人が気絶したのを見て食べるバカはいない。
私が止めるのも聞かず、鬼大は嬉しそうにメンバーの数だけ皿を用意した。慣れた様子で取り分けていく。くそ、家政婦め余計なことを。
もういいやと半ば諦め浮かれ気味のメンバー達をただぼーっと見ていた。これから地獄に落ちるとも知らずにバカな奴らだよ。
「うまそうじゃん」
一番最初に手をつけたのはアル。その無邪気さが仇になった。スプーンを口に入れたその瞬間、カッと開かれるアルの瞳孔。
「うわ、アルが白目向いてんぞ!」
水だ水だと叫ぶグンゼに素早く動く鬼大。ミナミはあと一歩で口の中に入る予定だったスプーンを静かに皿に戻し、飛翔はソファーで寝転んでいるボスをチラリと見て苦笑いを零した。
私はというと既に土下座の態勢に入っている。
「毒殺する気かレン……」
「すみませんでした」
グンゼと鬼大の迅速な処置のおかげで何とか一命を取り留めたアル。
優しい彼はさほど怒らず許してくれた。食べたのが短気なグンゼやネチネチしつこいミナミじゃなくて本当に良かった。
「ボスが倒れてるのもカレーのせいですか」
「左様でございます」
「まぁ、それは良いとして……夕飯どうします?」
あ、いいんだ。軽く流されちゃったよボス。夕飯に負けたよボス。
するとグンゼとミナミが無言で立ち上がり、倒れているボスに近付く。何をするかと思えば何の迷いもなくボスの懐を探り始めた。
「あったか?グンゼ」
「ねーなぁ……そっちは?」
「いや、あ……」
ミナミが何かを見つけた。取り出したのはボスの財布。なんて部下だよ、こいつら。
「これでみんなが飢え死にしなくて済むな」
「そんな真っ直ぐした瞳で言われても……」
やっぱり鬼だよ、ミナミ。
「いいんだよレン、こいつ俺らの給料ろくに払わねえくせに金持ちだから」
「……ふぅん」
散々言われてますよ、ボスさん。しかもあのバカの代名詞、飛翔に。
ミナミはどこから取り出したのか銀色に光る流線型の物体を手でに持つ。どうやらこの世界にも携帯電話はあるらしい。
何をするかと思えば、彼は出前を取り始めた。
するとソファーから低い声が。やっとボスが目を覚ましたのだ。
「あれ……帰ってたのか、お前ら」
目をこすりながら体を起こしてメンバーを見る。「よう」やら「おう」やら軽く挨拶が飛び交う中、私も何事もなかったかのように笑顔でボスを見た。
ボス自身自分が何故意識を失っていたのか思い出せないようだ、バカで良かったよ。
あ、とボスが何かに気付く。まさかカレーのこと思い出したのかと一瞬どきりとするがそうじゃなかった。
「何でお前ら仕事帰りなのに私服なんだよ!仕事の時は黒スーツが絶対だろ!守ってるの飛翔だけじゃん!少しは俺の言うこと聞けよ!」
「うるせーな、暑苦しいんだよ黒スーツなんて。すぐシワになるしよぉ」
「服装くらい自由にさせろ」
「そーだ、給料払え」
うわぁ、悲惨だよボス。
何でそんなに黒スーツにこだわるか聞けば、何か格好いいからという頭の悪い答えを頂いた。
言うことを聞かないメンバーに、ボスはソファーから飛び起きるといかに黒スーツが素晴らしいかを熱弁し始めた。
「黒スーツの美男子達が揃ってたら目立つだろ! 何か渋いだろ! モテるだろ! あとアレだ、何かアレだ」
「何ひとつ分かんねえよバカ」
「はいボス、鬼大は美男子ではありません。前言撤回を要求します」
「本人目の前にして何てこと言うんですか、ミナミさん」
「よぉし俺が悪かった! 鬼大は例外だぁ!」
「……もう辞めたいんですけど、この組織」
うん……私もそれがいいと思うよ、鬼大。