第31話:彼の背中に見えたもの
もう、どれくらいの時間がたったのだろう――
無我夢中で走った先にあった大きな岩場に身を隠した。
相変わらず止まない雪。だけど寒さなんて感じる余裕もなく、静まり返った辺りに耳を済ましてじっとしていた。
「飛翔、大丈夫かな……」
あれから随分時間が過ぎたような気がする。
ていうか、何なのあの男。何で私、あんな奴らに狙われなきゃいけないんだろう。しかも、こんなところにまで追いかけてきて。
どうしよう、私のせいで飛翔が。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった私は、意を決して立ち上がった。
そうだ、こんなところで怯えてる場合じゃない!
自分が走ってきた道を引き返す。
大丈夫、飛翔は絶対生きてる。そう言い聞かせないと、とてもじゃないけど動けなかった。
私が行ってどうにかなるわけじゃないけど……でも、とにかく確かめないと!
いつも馬鹿を言ってみんなを呆れさせた飛翔の笑顔が頭に浮かんで涙が出た。
それを腕で拭い、一歩一歩前へ進む――
「飛翔!」
先程と同じ場所に、飛翔がいた。
背中を向けて立っているので、表情が分からない。雪の中に浮かんだ金髪は随分不自然だ。
そして、面の男の姿はない。
良かった!とりあえず無事みたいだ。
しかし、私の呼び掛けに振り返らない飛翔。近寄ろうとして、思わず立止まった。
そうか、もしかして、戦闘モードなのかも……
そういうときの飛翔の怖さは身をもって感じている。
理性が飛んだ彼は、誰が相手でも容易く傷付けるだろう。
「飛翔……ねぇ?」
「……」
こちらを振り返った彼は、その顔にどんな表情も浮かべてはいなかった。
私は怖くなって、口をつぐむ。
やがて、飛翔の口が動いた。レン、と。
「私のこと、分かる……?」
恐る恐る尋ねると、彼は少しだけ視線をずらし、あァ、と呟いた。本当に分かってんのかこいつ。
「だ、大丈夫?」
「……」
「……」
「…………」
何か言うのを待っていると、彼はいきなりその場に倒れた。
雪の上に大の字になったまま、柔らかくなった表情で空を仰ぐ。
「あー、疲れた。休憩」
私もホッとして、その場にぺたりと座り込んだ。すると今度は安心感からか、また涙が出そうになる。
「お前、大丈夫だったか」
「こっちの台詞だよ!っていうか、血いっぱいついてるし……」
飛翔の体を指して言う。
「あァ、これ。全部返り血」
寝転んだままの飛翔が、笑いながら言った。
あの面の男は逃げていったらしい。
空が次第に晴れだした。
厚くかかっていた雲の間から、太陽が見える。
「いやァ、さすがにしんどいわ」
「……お疲れ」
「おう」
じっと目を瞑る飛翔。その傍らでそれを見る私。
「飛翔、ありがとね……怪我してない?」
「片腕以外はな」
「覚醒しなかったの?」
「……初めてなんだ」
「え?」
「ちゃんと、自分の意識で戦ったの」
「すごいじゃん!何で?」
「それは多分、お前がいたからだろ。誰かの為に命かけたの、初めてだったからよォ」
そこまで言って飛翔は言葉を区切った。
「……」
私も何も言えずに彼の横顔を見つめる。
私の為に戦ったという飛翔。それが、彼の意識を繋いだのだろうか。
自慢の金色の前髪をかき上げた飛翔が、真っ直ぐ上を向いたままふいに言葉を発した。
「レン、俺に聞いたよな」
「え?なに」
「『何で女の子を取っ替えひっかえするの』って、」
「あ、うん……」
いきなり何でそんなことを?
顔にまでかかっている返り血が、浅黒く変色している。
何故かそれは、彼にとても似合うと思った。
「俺、駄目なんだ」
「どうせ、ひとりの女じゃ満たされないとか言うんでしょ」
「はは、おしいな」
「じゃあなによ」
彼は言った。いつもと変わらない表情、トーンで。
「俺……」
「おおーい!やっと見つけたぞ、お前ら!」
遠くから声がした。
雪の上を猛スピードで走ってくる二台のバイク。
その先頭にはアル。後ろからはグンゼも来ている。
捜しにきてくれたんだ……。
二台のバイクが私達の前で急停止した。その弾みで顔に雪がかかったが、そんなのどうでも良かった。
私達を見て、アルが呆れたように言う。
「お前らいい年して迷子になってんなよ!このバイク、ホテルの人に借りたんだ。雪山用だって」
「へー、いいなァ」
「飛翔には運転させねーからな!」
「したくてもできねェよ」
ほら、と飛翔は折れた左腕を見せた。
アルとグンゼが同時に顔をしかめる。
「いやァ、崖から落ちてよォ。参ったわ」
「阿呆だな」
「つーか、お前その血どうした?」
グンゼが何かを察したのか、真剣な表情で尋ねてきた。
飛翔は横目で私を見たあと、すぐに二人に視線を戻す。
「熊が出たから毛皮剥いでやろうと思って」
「……阿呆だな」
ぎゃーぎゃーと騒ぐ三人。変わらず笑う飛翔を見ながら、私は感謝の気持ちでいっぱいだった。
飛翔は言わないでくれたのだ。
私を襲ってきた男のこと。
言ったらみんなは気にするだろう。それを私が嫌がるって分かって……。
「ありがと」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で言うと、飛翔はこちらを振り向いた。
「レンちゃん、惚れた?」
飛翔も小声でそう返してくる。
馬鹿、と私は飛翔の背中を叩きみんなと一緒にホテルへ向かった。
飛翔はアルの後ろへ。
私はグンゼの後ろに乗って雪山を走った。
どうやらそう遠くはない場所にホテルはあるらしい。
「しっかしどんくさいな、お前も飛翔も」
運転するグンゼが呆れながら言った。今回ばかりは言い返せない。
「ごめん」
「素直なのも気持ちわりー」
雪雲と同じ色をしたグンゼのグレーの髪の毛が揺れる。
「お前……何かあったのか?」
黙っていると、グンゼが少し心配そうに尋ねた。
私は何にもないよとすぐに返事をする。
「なら、いいけど」
機体はスピードを上げた。
本当は、とても怖いことがあった。
でも、それよりも私は―――
‘俺、駄目なんだ’
‘どうせ、ひとりの女じゃ満たされないとか言うんでしょ’
‘はは、おしいな’
‘じゃあなによ’
‘俺……’
少しだけ、ほんの少しだけ、温度を下げた、彼の言葉。
目には見えない、何かに怯えているような、瞳。
あの一言が、頭にこびりついて離れない。
‘俺……ひとりの女じゃ、生きてる気がしねェんだ’
「飛翔……」
私は、アルと言い合いをしながら乗っている飛翔の背中を見詰めた。
生きてる気がしない。
そう言った彼の科白。
殺し屋としても平気そうに毎日を暮らす飛翔だけど、彼のなかにある恐怖の記憶が、体に、心に、染み着いて離れないのか。
一体今までどんな生き方をしてきたのだろう。
それを知る術はない。
‘飛翔、’
‘んー……って、ちょ、え、レン?’
あのとき私は、抱き締めずにはいられなかった。