第1話:世界は幾つもあるらしい
海に、来ていたはずだった。
お母さんと二つ下の妹と家族三人、仲睦まじく夏休みを使って珍しく遠出した。お父さん?そんなものは物心ついた時からすでにいない。
飛行機で約二時間。都会から離れ着いたところはゆっくりと時間が流れる田舎の県。静かな並木道をレンタカーを借りて移動し、時々妹とお弁当を分け合ったりなんかしながら目的地である海へ到着したのだ。 それは高校三年生である私にとっては最後の夏休み。それはとてもとても貴重で、誰にも侵す権利はないはず。なのに。
「苦し、い」
ざばーんざばーんという規則正しい波の音が耳に入る。胸が苦しくて苦しくて何度も咳き込んだ。私の口からとめどなく吐き出される液体が真っ白な砂にじわじわと染み込んでいった。
胃の中に侵入していた海水を全て吐き出した頃、ようやく静まった胸の苦しみを抑えて顔を上げれば、視界いっぱいに広がる青い空。加えて椰子の木、ジャングル、大きな流木。まさにそこは、南国だった。
砂浜に両手と腰をついたまま、私はただただ目の前の有り得ない現実に愕然とする。立ち上がることすらできず、また少しだけ咳をした。
「……何で」
全く意味が分からない。何がどうなってこうなったのか。
混乱する頭を無理矢理冷静になるよう持っていき、順序よく今日あった出来事を追った。 そう確か車の中で水着に着替えて、砂浜には私たち三人しかいなくて、お母さんは木陰で座ってて、私は妹とどっちが遠くの沖まで泳げるか競争してて……それで。
「……あ、溺れたんだっけ」
そうかそうか、私は溺れたのか。それできっと気を失ってぶくぶくと波に呑まれていつの間にかこの島に打ち上げられたんだな、うん。だからこんなに海水いっぱい飲んじゃってたんだ。あー良かった良かった、これで全部話の辻褄が……って。
「ダメじゃん……」
なに安心してんの私。何も解決してないよ。海水飲んだよ、だから何だよ。
(もしかして、死んだ?)
一瞬そんな考えが頭をよぎった。
そういえばこの緑豊かな島だって、天国という名の楽園に見えなくもない。きっと私は死んで天国に来ちゃったんだな、多分。そう自己完結するもすぐに違う違うと首を振って否定した。そもそも私は天国というものを見たことがないのだ。ここを天国だと決めつけるにはまだ早い。それに、本当にビキニで隠す必要があるのかどうか疑わしいこの貧相な胸も手足も間違いなく私のものだ。どこも透けてない。だから私はまだ死んでない、はず。いや、やっぱ自信ない。
首をうなだれ、心の中であれやこれやと試行錯誤を繰り返す私。
すると突然、頭上で声がした。
「誰だ、テメェ」
その言葉を聞き、反射的に後ろを振り向いた。
乱暴な物言いで私を見下ろしていたのは、一人の少年。それもべらぼうに格好いい美少年だ。年は十代後半くらいだろうか。いかにも気だるく眠そうな印象を与える垂れ気味の目がより魅力的に思えた。それに何より最も目を引くのは少し癖があり触れると柔らかそうな濃い灰色の髪の毛。
これはもしや、
「原住民……」
思わず呟けば彼は怪訝そうに眉をひそめて「あぁ?」と、田舎のヤンキー並に凄んできた。端正な顔立ちに似合わず若干よろしくない口の効き方。いやむしろ悪い、何という口の悪さだろう。性格の悪さが滲み出ているようだ。私はこういう奴が、大嫌い。
彼は濡れた前髪をかき上げ再度私を見下ろした。一連の仕草のそれはそれは色っぽいこと。
「テメェこんな所で何してやがる」
「えーと、あのですね」
「早く答えねぇとぶっ殺すぞ」
「……」
この言葉に、決して広くない私の心はイラっときた。誰だって初対面の相手にぶっ殺すなんて暴言吐かれたら腹が立つだろう。
気付けば私は立ち上がり、美少年相手にメンチを切っていた。
「ちょっと何、アンタ。いたいけな少女が困ってるのにその言い方」
「あぁん?テメェその貧相な胸で女を語るとはいい度胸してやがるな」
「うわ、何こいつ。最低だよ。セクハラだよ。訴えるよ」
いつの間にか両者譲らぬ言い争いに発展していた。馬鹿だのマヌケだの、貧乳だの癖毛だの、レベルの低い言葉が容赦なく飛び交う。太陽が爆発しようが地球が滅びようが関係なく永遠に続くかと思われたその争いは第三者の登場によって呆気なく遮られた。
「なーにしてんだよ、こんな所で」
何とも気の抜けた声が聞こえたと思いきや、その声の主はいつの間にか私の隣に立っていた。癖毛の少年は「よう」と慣れた様子で私の隣の青年に片手を挙げる。
私よりも少し年上であろう背の高い青年は長めの黒髪を後ろでちょこんと結んでいた。癖毛の少年とは対象的な、少しつり上がった大きな瞳が私を捉える。
「誰だい、アンタ」
青年の質問に答えようと口を開くがすぐに癖毛が割って入ってきた。そして私のことをただの頭のおかしい馬鹿女だと説明すると意地悪くニヤリと笑う。 わざと聞こえるように舌打ちしてやったが空振りさんしーん、見事にスルーされた。
「どっから来たんだい」
優しい、落ち着いた声で青年が聞く。人当たりの良さそうな笑顔を見るとなぜか胸の奥がほっとした。
とにかく思いつく限り全てのことを二人に話した。自分のこと、家族のこと、今は夏休みで旅行にきていること、溺れたこと、気付いたらこの島に着いていたこと。二人はただ黙って私の話に耳を傾け、時折不思議そうな表情で首を傾げる。
全て話し終わった時、いつの間にか辺りは夕陽でオレンジ色に染まっていた。波は相変わらず規則正しく行ったり来たりを繰り返している。
「それで、私が流れついたこの島は一体なに?」
その質問に対して、二人は困ったように顔を見合わせた。さっきまで馬鹿だ馬鹿だと罵り合っていた癖毛の少年まで、哀れむような視線を私に送ってくる。
少しの沈黙を見送ったあと、口を開いたのはつり目の青年だった。
「残酷なことを言うようだけど」
「……なに」
「多分、こことアンタの住んでる世界は違う」
へ?と思わず気の抜けた声が出た。いきなり住んでる世界が違うなんて言われても何と返せばいいのか分からない。はいそうですか、失礼しました。と言って去るべきなのか、だけどそれなら一体どうやって私の住む世界とやらに帰ればいいのだ。そもそも世界って何?世界は世界、ひとつでしょう。世界なんていう大それたもんがそんなに幾つもあるはずがないのだ。
「意味が、分からないんだけど……」
混乱した頭でやっと出た言葉がそれだった。 立っているのがしんどくて、その場にペタリと座り込んで砂を掴んだ。ぎゅっと握ったその砂は紛れもなく本物で、私の知っている世界と何も変わらないのだ。なのに目の前の男は違う世界だと言う。それなら決定な証拠を見せやがれと叫ぶ気力も失った私はただただこみ上げてくる涙を必死で抑えるのだった。
「海にな、あるんだよ。小さく渦巻いてる所が」
「……」
「そこは時空の歪みってやつが原因でできた渦でな、ごく稀にお前みたいな何もしらない奴がこの島に紛れ込んでくるんだ」
「なにそれ……」
時空の歪み?渦?そんな下手な映画みたいな話聞いたことがない。益々眉をしかめる私に対して癖毛の少年が言った。
「そんな顔したって仕方ねぇだろ」
「……それって、帰れるの?」
「さぁな」
あまりに大きな絶望を前にして、寸前まで押し寄せてきていた私の涙は引っ込んだ。浮かんでくるのは先ほどまで一緒にいた家族の顔、それに学校の友達や先生。今頃私のことを心配して捜してるんだろうな。あぁどうしよう、すごく帰りたい。
「とにかく、ここにいられちゃ困る。ここは俺たちのアジトだからな」
「アジト……って何の?」
「拠点みたいなもんだ」
「だから何の?」
癖毛の少年は少し考えるように頭を掻いたあと、「仕事、かな」と言葉を濁した。そんな言い方されちゃ余計に気になる。何の仕事なのか更に問い詰めれば、うるせぇと怒鳴られた。しかしそんなことでへこたれる私じゃない。しつこく問いただしていると、つり目の青年が呆れたように口を開いた。
「殺し屋だよ」
さらりと言ったその一言に驚いた私はあんぐりと口を開けたまま、まばたきひとつせずに二人を見る。
殺し屋、この二人が。とてもじゃないけどそんな風に見えない。 口を割ったことが気に入らなかったのか、癖毛の少年は不機嫌そうに舌打ちをしたあと「俺は知らねえぞ」と青年を睨む。
そりゃそうだ。
職業は殺し屋です、なんてあまり大きな声で言えることじゃない。
そもそも殺し屋なんて初めて見た。
二人共まだ若いのに随分苦労してるんだなとなぜか感心する。ここは別世界だと言われた私の頭は、二人が殺し屋なのだという事実を驚く程すんなりと受け入れてしまった。もうこれ以上何を言われても大して驚かないだろう。別世界だろうが殺し屋だろうがもうどうにでもなれと若干自暴自棄に陥っていた。
「赤の他人にあっさり教えやがって馬鹿が。あとでボスにどやされても知らねえぞ」
「大丈夫だって、要は赤の他人じゃなけりゃいいんだろ?」
「テメェ、まさか……」
会話を進める二人の傍らで私は一人、ジャングルの向こうに沈んでいく夕陽を追っていた。 するといきなり手を握られ、体をびくりと反応させれば目の前のつり目がニヤリと笑った。何事かと思っていると、彼はとんでもないことを口にする。
「お前も俺たちのアジトに来いよ」
「……え」
瞳を輝かせ、笑顔でそう言う青年の隣りで癖毛の少年は深い深い溜め息をついた。
「い、や……だよ」
どもりながら答える私。その瞬間、つり目の青年はおもちゃをとられた子供のように悲しそうな表情になった。騙されるな私、こんな可愛い顔でも殺し屋なんだ。そのアジトに行くなんて命が幾つあっても足りない。
「楽しいぞ、メンバー全員個性的で」
「余計不安だよ」
「でも行く所ないんだろ?それにこの島は俺たち組織が作った人工島だ。仲間にならないなら追い出すしかなくなるんだけど」
「まじかよ」
それは困る。物凄く困る。 迷っている私に手を差し伸べ、一緒に行こうと笑う青年。どうやら私にはこの手をとるしか選択肢が残されていないらしい。癖毛の少年が若干不機嫌なのは置いといて。
「どうするんだよ、貧乳女。お前ずっとこんな所にいるつもりか」
「貧乳は余計だよ」
「いいからさっさと決めろ」
「……」
睨むように私を見る癖毛と、穏やかに微笑むつり目。悩んだ挙げ句、私は立ち上がった。癖毛の少年の言う通りずっとこんな誰もいない砂浜で座っているわけにはいかないのだ。身体についた砂を払い、二人のあとに着いて行く。
「そうこなくちゃ」
青年が笑った。
「まぁ、何とかなるだろ」
そう言って癖毛の少年も少しだけ微笑んだ。
初めて見るその笑顔が予想以上に魅力的で、危うく私の胸キュンスイッチがオンになるところだった。危ない。