遠のく平凡生活
「こ、この手紙は、テラ家夫人フィネルリア様っ」
怪しさ満載の無地の手紙の主は、テラ家当主フラインツの妻、フィネルリアからだった。
「だ、旦那様、これは一体っ?」
「まぁ、まずは手紙をしっかり読んでみなさい」
「え、ええ……」
俺は言われた通り、手紙にしっかりと目を通す。
内容を簡単にまとめると以下の通りだった。
俺のおかげで、相続争いに一段落がついたと……。
(そうか、この問題はそこにもつながるのかっ)
コーツはフラインツから溺愛されていて、今後の当主の選定の禍根となる存在。
これは俺自身も指摘したことだ。
しかし、件のコーツがクエイク家へと養子に出たので、テラ家から相続争いの懸念が薄まったのだ。
(やっばっ、そこまで考えが回らなかったっ!)
己の考えの足らなさを激しく呪う。
手紙を読み終え、俺は無言でマッチを取り、三通の手紙と封筒に火をつけて銀の皿の上に置いた。
相続争いに言及した手紙と、俺が関わっていたという証拠となる手紙。
この件に、下賤な奉公人が関わったとなれば、絶対に表に出せない話。
だからこそ、このように証拠は消さねばならない。
証拠を消す……この言葉には非常に危険な意味がある。
「旦那様、他に俺のことを知っているのは?」
「いない」
「どうして、フィネルリア様に?」
「それは……コーツ君とアリサ君に、君のことを話しているの聞かれてしまってね……私の責任だ」
「なるほど、先に謝っておくとは、この件だったのですね」
非常に不味いことになっている気がする。
いや、気がすると思いたいだけで、不味いことになっている。
俺はコーツがテラ家で、どの程度の立ち位置いたのかは詳しくは知らない。
しかし、旦那様が聡明だと評するほどの人物。必ず、後押ししていた連中がいるはず。
これは……ヤバい。
(くそ、俺はなんて浅はかだったんだっ!)
旦那様への恩返しのつもりだったとはいえ、余計なアイデアを口にしてしまったことを悔やんでも悔やみきれない。
しかし、悔やんでばかりでいても仕方ない。とりあえず、今は現在の状況を把握することが優先だ。
「旦那様。俺は今、どういった立場で?」
「今のところ、特に波立った様子はない。コーツ君、アリサ君、そしてフィネルリア夫人が君に感謝しているのは嘘偽りのない気持ちだ。彼らが今回の件を漏らすことはないだろう」
「フィネルリア様も?」
これは少々意外だった。愛に盲目と酔いしれた二人はともかく、貴族の夫人ともあろうお方が、俺に感謝するなんて。
「フィネルリア様ほどのお方が、俺に……どうして?」
「……どうやら、私が考えていた以上に、テラ家の家督争いは根が深かったようだ」
「だから、フィネルリア様がわざわざ……」
つまりそれは、とびっきりヤバいことに首を突っ込んだということ。
もし、フィネルリアが俺を危険と見なしたら……。
「あの、旦那様。今後、俺にはどういった処遇を……個人的にはお暇をいただいて、誰も知らない場所に旅立ちたいのですが」
「はは、気持ちはわからないでないが……君にはある仕事を任せたい」
「仕事? 今の話の流れからして、いや~な予感しかしないんですが……?」
「ふぅ……君にはクエイク家に出向いて、コーツ君とアリサ君の傍にいて貰いたい」
「はっ?」
「二人の傍について、彼らに近づく者を監視し報告してほしい。テラ家では、まだコーツ君を利用しようとする勢力が残っているらしい」
「利用もなにも、コーツ様はすでにクエイク家の人間でしょう。テラ家とは無関係のはず」
「そうでもない。状況によっては出戻りという可能性がある。僅かであるがコーツ君には家督を継ぐ可能性が残っている」
「そんな馬鹿な話ってっ」
「ああ、馬鹿な話だ。だが、細糸のような可能性に縋る者が残っている。他にもあわよくば、コーツ君、アリサ君を使い、三家に何らかの害意を示そうとする者も……」
「そ、そんなっ」
なんて話だっ! 首を突っ込むとかという次元を超えている。虎の穴の中に突っ込んでいくようなものじゃないかっ!
ここは何が何でも断らないと!
「旦那様、いくらなんでも俺には荷が重すぎます。絶対に拒否させてもらいますよっ」
「私だって、このようなことを君には頼みたくない。しかし、これは……フィネルリア夫人たっての頼みだ。切れ者で、信頼できる人物である、君にお願いしたいと」
「フィネルリア様が……」
一見、俺を評価するような言葉。しかし、この言葉の意味は最悪だった。
これは踏絵のようなもの。
フィネルリアが自分側につけ……いや、命惜しくば従えと言っているのも同義。
これを、断れば……。
「わ、わかりました……っ」
声を振り絞り、苦々しく返事をする。
言葉には、後悔と世に対する理不尽への怒りが混じる
平凡で安全に、無為な日々を過ごしたかったはずなのに。
どうしてこんなことに……。
俺は無言で頭を下げ、踵を返すと、ドアへと向かった。
しかし、足早に立ち去ろうとする俺を旦那様が呼び止める。
「ヨシト、待ちたまえ」
「まだ、何か?」
言葉に怒気が籠る。
現在、俺が危険な立場に立たされている要因は二つ。
一つは、俺の浅はかなアイデア。
そして、もう一つは、旦那様の不用意な発言。
故に、恩があるとはいえ、彼に対しても少なからず嫌悪を抱いていた。
しかし旦那様は、俺の言葉に宿る怒りなど意にも介さず、会話を進める。
「君には、もう一つ仕事を頼みたい。これは私からの頼みだ」
「なんでしょう?」
「アスル家は資金繰りが苦しくて、クエイク家と懇意になりたかった話は覚えているな」
「ええ。元はアスル家は金が欲しくて、クエイク家は家柄を上げたい。そういった政略結婚の話でしたし」
「ああ、その通りだ。クエイク家が台所事情の芳しくないアスル家へ資金提供を行う……だが、資金の出どころが少々……」
「うん? と、いうと?」
「ここ数年のクエイク家は、妙に羽振りがいい。表向き貿易で財を成していると言っているが……しかし、貿易だけでは……」
「なるほど、何か良からぬ収入源があるかもしれないから探れと。だけど、俺はただの奉公人で間諜のような才能ないですよ」
「わかっている。できればの話だ」
「はぁ……まぁ、自分の身に危険が及ばない程度に気に掛けますよ」
「ああ、十分だ……だが、これは君にとって話が良い方向に転ぶかもしれないよ」
「いや、どう考えても、厄介事が増える気しかないんですが……」
俺は呆れた様子で声を出す。
しかし、旦那様は飄々とした声で、とんでもないことを口にした。
「うまくいけば、クエイク家は大きな痛手を負うことになる。そうなれば、同じ家に連なるコーツ君も責任を取らざる得まい」
「だ、旦那様っ?」
「彼は養子であり、クエイク家の当主ではない。だが、少なからず責を負うことになる。斯くの如き人物にテラ家の跡を継がせるなど、ありえない。万が一、継げば、クエイク家の責から逃れた卑怯者として名が広まるだろう」
「それは、そうかもしれないけど……」
「そうなれば、後継ぎの話でどうこうはなくなるから、君の身に危険が及ぶことはなくなるよ」
(こ、この人は……)
恐ろしいことをスラスラと流れるように口にする。
どこまで本気で言っているのかすら分からない。
しかし、旦那様の言うとおり、跡継ぎ問題が完全に立ち消えしてしまえば、俺の身の安全が多少なりとも改善されるのは事実だ。
だが、立ち消えたと同時に、別の心配事が湧き出てくる。
クエイク家潰しの件に俺が関わっていることが漏れれば、要因の一つとして命を……。
(くそ、詰んでるじゃねぇか)
結局のところ、余計なことに関わってしまった以上、どうあっても逃れないらしい。
そうであれば、少しでも状況を知り得ることのできる位置に立つことが妥当か?
「わかりました。旦那様の話も含め、コーツ、アリサ両人の周り及びクエイク家に目を配らせてもらいます」
「無理はしなくていいからね」
「ええ……」
(でも、なんで今さら?)
一応、返事をしたものの、ふとある疑問が浮かび、そちらに気を取られる。
それは迂闊にも態度に出てしまい、不審を感じた旦那様が尋ねてきた。
「ヨシト?」
「あ、いえ。ええ、はい」
「どうしたのかね?」
この時、この質問を適当に受け流しておけばよかったのに……どうしても脇の甘い凡人は、素直に答えてしまった。
「あの、どうして、今さらクエイク家を潰そうと? なら、はじめから戦争でもさせて疲弊させた方がよかったのでは?」
「意外に君は怖いことをさらりと言うな……私はね、民が傷つく姿を見たくはないのだよ」
「ん?」
「つまりだね、どんな形であれ、民が何かしらの不利益を被っているのであれば、私は見逃せない。と、いうわけだよ」
シフォルト伯爵はなんだかんだで人の良い方。
民を思いやる気持ちは、ある程度本物だろう。
しかし、あくまである程度。本当の気持ちは別にあるような気がする。
需要なキーワードは、羽振りのいいクエイク家。
頭に浮かんだ疑問と、疑問に対する予想できる答え。
俺はつい、聞いてはならない問いを口にしてしまった。
「本当に、それだけですか?」
「ん、どういう意味かね?」
旦那様が鋭い眼光を見せる。
鳥肌を浮き立たせる目を見て、余計なことを口走っていることにようやく気付いた。
「あ……えっと、その、何でもないです」
(俺の馬鹿!)
頭に浮かんだ余計な考えを忘れようと、首を軽く左右に振る。
しかし、旦那様は俺の言いたいことを見抜いていたらしく、口に出す必要のない言葉を出した。
「君の思っている通り、近年、金銭的に好調なクエイク家の影響は大きい。だから、それを取り除きたいという意味はあるよ。なるべく、穏便な形でね」
「あ~あ……」
俺はがっくりと肩を落として、大きなため息を吐いた。
派手に落ち込む姿を見て、旦那様は愉快そうに笑い声を上げる。
「ははは、余計なことに聞きたくない、巻き込まれたくないって感じだね」
「ええ、ですから途中で言い淀んだのにっ」
「それはすまなかったね……しかし」
「しかし、なんです?」
この問いに、旦那様は表情を厳めしいものに変えて、重圧の籠る言葉を返してきた。
「ヨシト、君とは楽しい会話ができそうだ」
「っ!?」
これは旦那様が俺を、ある種特別な意味で評価しているという表し。
普通ならば、自分を評価してもらえることは大変喜ばしい……が、しかし、この評価は大きな危険を孕むことになる。
ただ、平凡な日々を送りたい俺にとっては、余計な評価。
「やめて下さい、俺はつまんない男ですよ」
「ああ、わかっているとも。でも、愚痴を聞いてもらえるくらいの相手ではあるな」
ニヤリと笑みを浮かべる旦那様。
一体、どこまで俺というものを見ているのか分からない。
旦那様の目の奥には、底知れぬ何かが存在している。
普通の人には、決して宿ることのない遠望の瞳……とても良い人に見えても、やはり彼は、支配階級という立ち位置にいる人だなと感じさせられる。
そんな人に拾われたのが運のつきなのか、柄にもなく恩返しをしたいなど思い、余計な口を挟んだからなのか……。
どうであれ、しばらくは安全な暮らしからは縁遠いものになりそうだ。
なんとか、踏み外したレールへ戻れるように努力しないと……。
平凡で普通の生活のために。