表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

経済の話

超・機械社会へ

 遥か昔、キリスト教はそれまでの宗教にはあまり観られなかったであろう、ある画期的なルールを設定しました。中絶や同性愛を禁止にしたのです。そしてそれは人口増に結び付き、キリスト教の勢力を拡大させ、巨大な宗教としての立ち位置を決定付ける大きな要因の一つとなったのでした。また、イスラム教にも同様の説明が可能です。イスラム教は性に関しては寛容で、節度を保つのなら「大いに楽しめ」などとされているからです(因みに、近年、イスラム教徒の人口が増えているのは、彼らが多くの子供を出産しているからだそうです)。また、時代が一気に流れますが、戦前、日本は富国強兵政策の一環として「産めよ殖やせよ」政策を取っていました。

 これら事実は“人口”というものが国の力…… 社会の“強さ”にとってとても重要である事を示しています。維持できるだけの資源があるのなら、人口はできる限り増やした方が良いのですね。

 人口が多くなれば、それだけ社会の規模は大きくなるのだから、それはほぼ自明だと言って良いでしょう。経済規模だって大きくなりますし、だから軍事力だって増大します。

 ですが、ここで少し疑問には感じませんか?

 国の人口を比較してみると、現在(2015年12月)中国は13億6千7百万人で、アメリカの3億1千9百万人を遥かに凌いでいます。日本の人口は、1億2千7百万人で、これをアメリカに加えても中国の人口には遠く及びません。ならば、中国は圧倒的優位に立っているのか?といえば、それは違うでしょう。

 人口が多い事にはメリットばかりではなくデメリットもありますが、これはそんな話ではありません。

 もし仮に500年程昔でこの人口差だったなら、或いは直感通りになっていたかもしれません。中国は圧倒的優位に立ち、アメリカや日本はどう足掻いても勝てない。しかし、今という時代においてはそうではありません。確かに中国の“巨大な人口”は脅威ですが、それでも圧倒的とは言えないでしょう。

 という事は、500年前から今までの間で、重大な何かが起こったはずなのです。“人口差”が社会に大きな差を生み出さなくなるような何かが……

 

 ――20XX年。

 彼女、篠崎紗実がプログラミング技術というスキルを身に付けたのは、プログラミングが好きだとか、その技術を使って何かやってみたい事があったとか、別にそういった理由があった訳ではなかった。ただただ単純に就職に有利になるだろうという現実的な理由がそこにあっただけで、だから別に生活さえできるのであれば、何か他のスキルでも一向に構わなかったのだ。

 ただ、プログラミング技術を用いて働き始めてみて、彼女は自分のその選択が正しかったと確信した。その主な理由は、仕事の評価が比較的公正に行われる事だった。

 一口にスキルと言っても様々な種類が存在する。例えば、マネジメント能力というのもスキルの一つだろう。しかし、それが純粋に個人の力に帰結する能力かと問われるのならば恐らくは違っているだろうと思われる。

 誰かを管理したり交渉したりする為には、当然ながらその人にある程度の肩書きがなければならない。課長だとか部長だとかいった役職ももちろんそうだが、もっと基本的な肩書き……、学歴だとか姿形だとか性別だとかそういった点もそこには影響する。つまりはマネジメント能力の何割かは、人間関係によって決まって来るのだ。

 篠崎は学歴もあまり良くはなかったし、姿形に関しては分からないが、性別は女だから日本で一般的な男性優位の職場環境においては大いに不利になる。そして、人間関係も面倒臭いと避ける傾向にあるから苦手だ。少なくとも関係を巧みに利用して仕事を有利に進めるような真似はできない。だから、仮にそういったマネジメント能力のようなスキルを自分に求められたなら、その役割を全うする自信はまるでなかった。

 しかし、プログラミング能力は、品質の良いプログラムを期日までに仕上げられるのなら、マネジメントのような能力はそれほど求められない。いや、もちろん、人間関係だって重要だし、仕様のチェックや決定を行う場合には提案能力だって期待されるのだが、しかしそれでも自分自身の能力が最重要である点は変わりない。立場も肩書きもあまり意味がない。実際、彼女はプログラマとして働き出してから、学歴を問題にされた事が一度もなかった。

 つまり、この職業では“自分が何をできるか?”こそが重要なのだ。立場や肩書きではなく。無理に自己アピールしなくても仕事の成果ははっきりと目に見える形で表れるので、他人に成果を横取りされる事も少ない(ない訳じゃないが)。

 しかも汎用性があるから、例え会社が潰れてもあまり困らない。今のところは、働き口はいくらでもある。

 ……もっとも、過酷な現場が多い点も事実だ。朝の九時に出社して、夜の十一時に帰宅するなんて生活が一ヶ月続くなんて事もよくある(まぁ、そういう現場は大体がトップのマネジメント能力に問題があるのだが)。ただ、彼女は今はその過酷な状況からは抜け出せていた。比較的楽な仕事にありつけていたのだ。

 

 「さて」

 と、一言。大きく息を吐き出すと、彼女は意識を集中をする。キーボードを叩く音がオフィス内に控えめに響き始める。

 篠崎紗実は今はSQL文を書いていた。これはデータベースを操作する為の言語だ。彼女は今はあるプロジェクトの運用を担当していた。その時は、システムを通して蓄積したデータを整理した資料を閲覧したいという要望をユーザーから受けたのだが、その為の機能が今現在はなかった為、特別に参照用のSQL文を書いているところだった。

 やがて、篠崎はそれを完成させた。テストをしてみると問題なくプログラムは流れる。多少の修正は必要だったが、大体は考えていた通りに動いてくれているようだった。

 それは少しばかり複雑な要望で、特殊な条件を元にある項目毎の集約した結果を見せてやらなくてはいけない。だから少々時間がかかったが、それでも三時間程で完成させる事ができた。篠崎は申請を出し、そのSQLを実環境で実行して一覧を取得すると、それをエクセル表にまとめて共有サーバーに置いた。それから上司にメールを送る。

 『要望のあった一覧表を作成し、共有サーバーに置いておきました。念のため、内容を確認してください』

 そんな内容のメールだ。

 データ容量が少しばかり大きいので、メールにそのファイルを添付する事は憚られた。集約してあるとはいえ、それでも数千件という単位のレコード数にはなる。メールサーバーの容量節約の為、できる限り送るメールのサイズは小さくするようにと、職場全体に注意喚起が促されているのだ。

 「……それにしても便利な時代になったもんだと思うわ、本当に」

 仕事が一段落ついたので、コーヒーを飲んでいた篠崎は、不意にそんな感想のような独り言を言った。

 彼女が今回、その資料を作る為に参照した元データの規模は数千万件にもなる。コンピューターは、そんな膨大なデータを一瞬にして集約して表にしてしまうのである。しかもその内容は極めて正確だ。もしこれを人手でやろうと思ったなら、一週間以上はかかるだろう。いや、一ヶ月あっても終わらないかもしれない。その上、人手だとミスが多い。その資料の信頼性も低い。つまり、コストがかかる上に品質が悪いのだ。だから一昔前なら、そんな資料は要求されなかっただろう。仮にそれがどうしても必要な資料だったなら、泣く泣くその為の予算を割く事になる訳だが。

 間違いなく、飛躍的にこの社会は便利になっているのだ。

 ……しかし、逆に言えば、それはその為の労働者達がこの便利なコンピューターの登場によって解雇された事を意味する。

 少し考えると、彼女はまたこんな独り言を呟いた。

 「本当にこの技術を身に付けておいて良かったと思うわ」

 技術革新によって、それまで必要とされた労働者達が必要なくなり、別の職を見つけなくてはならなくなる状況に追い込まれる。これは何も近年になって始まったことではない。人類の歴史において遥か昔から、幾度となく繰り返されて来たことだ。

 が、しかし、それでも近年のこの急激な情報技術革新は注目するべきかもしれない。あまりに発展速度が速過ぎて、社会がそこに住む人々の適応を待たずして進化しているような印象すらも受ける。

 もちろん、適応し切れなかった結果、職を得られず、低賃金で働かなくてはならない立場になった人も多いのだろう。

 篠崎も決して裕福とは言えないが、それでも平均的な生活の質は確保しているだろうから、かなりマシだ。

 “コンピューターの登場で、職を得られなくなった人達は、もしかしたら、私のような職業の人間を恨んでいるのかしらね?”

 彼女はそんな事をふと思った後で、馬鹿馬鹿しいとそう思う。考えたって結論なんか出ないし、第一、仮に恨まれていたとしてもどうしようもないからだ。

 それに。

 自分の今の立場だって本当に盤石と言えるのかどうかは分からない。いつどんな技術革新が起こって、多くのプログラマが必要なくなり、結果として職を失う事になるか分からないからだ。もちろんそれは、他の多くの職業についても言える事だが。

 「例えば、人工知能とかロボットとか、そういうのがもっと普通に人間の代わりに仕事をし始めたらどうなるのかしら?」

 また独り言。

 それから篠崎は、“技術革新とは言っても、もしかしたら、機械が登場する以前とそれ以降とでは、質が変わっていると言えるのかもしれないわね”と、そんな事を思った。

 機械の登場は、例えば、農具が進化して効率が良くなったようなそんな技術発展とは根本から質が異なっている、そんな可能性もあるのではないか。

 彼女はそんな漠然とした感覚を持ったのだ。ただし、彼女はそれをあまり不安には思わなかったのだが。

 機械は他の道具と違い、人間が何かをしなくても勝手にその仕事を行ってくれる。恐らくは、そこが重要なのだろう。

 ……つまりは、“自動的”である事が。

 

 ――社会の機械化について。

 産業革命以前も機械と呼ばれるものは存在していましたが、より著しい影響を人間社会に与えたのはその時期に発明された蒸気機関でしょう。蒸気機関によって工業化が起こり、そしてそれは電気による社会の機械化へと繋がっていったのです。

 工業化は著しい“生産性の向上”を人間社会に引き起こしました。これは、つまりは社会の“物をつくる能力”が向上した事を意味します。一人の人間の力で、より多くの“物”を生産できるようになったのですね。

 工業化によって、今まで人間がやっていた“労働”の一部を機械が自動的に行ってくれるようになれば、当然の事ながら、それほど労働力は必要なくなります。結果的にそれは失業問題を発生させました。そしてそれは場合によっては、更なる深刻な社会問題を引き起こしもしたのです。

 例えばイギリスでは、繊維産業の工業化によって“ラッダイト運動”と呼ばれる事件が発生しました。失業してしまうという恐怖から、労働者達が工場と機械を破壊するという行動に出てしまったのです。この事件では、事態の鎮静化の為に、軍隊まで出動したそうです。イギリスですらそれほどの事件が起きた訳ですが、工業化による失業問題は、工業化があまり進んでいない社会でこそより酷かったはずです。例えば、“非暴力・不服従運動”で有名なインドのガンジーは糸車を回していますが、その行動にはイギリスの工業化によって綿製品が大量に生産されるようになり、インドの職人達が職を失った事に対する抗議の意味が込められています。

 そして、それにより、ある重要な歴史的とも言うべき現象が起こりました。

 それは工業化…… つまりは社会の機械化が、人間社会全体の“人口の優位性”を低下させてしまったことです。工業化さえすれば、少ない人口の社会でも人口の多い社会に勝てるようになったのですね。もちろん、技術が進歩し機械化が進めば進むほど“人口の優位性”はより低下していきます。そのうちに、技術の進歩は頭脳労働の“自動化”まで可能にしました。つまり、計算機、“コンピュータ”の登場です。

 そして、このコンピュータの技術発展には、それまでの技術ではおよそ考えられなかった様々な現象が観られたのです。それは文字通り社会を急速に変えていきました……

 

 ――20XX年。

 篠崎紗実は思っていた。

 “一体、いつの頃からだっただろう? パソコンをはじめとする情報技術関連の機器のスペックがこれほどまでに上がったのは”

 彼女が初めてパソコンに触ったのが小学生の頃だったか中学生の頃だったかはもう忘れてしまったが、その当時は薄っぺらいフロッピーディスクがまだまだ現役で、ドットの粗い画面の裏でハードが仰々しく動いていた。今はもちろん当時ですらスマートとは程遠い操作感覚だった。起動するのに五分以上の時間がかかり、しょっちゅう問題が起こっていたような気がする。数千行程度の文字列のコピーですら上手くできなかった記憶がある。

 ところがそれから十年程が過ぎて、処理時間は大幅に改善された。大量にデータをコピーしても問題らしい問題など発生した事がない。昔とは比べものにならないほど便利なソフトが溢れ始めた。インターネットが普及し発展していくと、それまで以上に、爆発的とも言える勢いで、様々なソフトやアプリを(しかも無料で)利用できるようになった。

 彼女は自宅のパソコンでプログラミングの勉強をする為、ローカル環境にサーバ及びにデータベースを構築している。それらは個人の力で容易に準備できるのだ。手間もかかるし複雑だが、それらを世界に向けて公開する事もやろうと思えば可能である。

 もちろん、進歩した情報機器はパソコンばかりではない。情報を記憶する為の外部メモリだって桁違いに巨大になったし、携帯電話やスマートフォン、ゲーム機器にですら信じられないレベルの情報処理が可能だ。そしてそれらがネットを介して連携する事で生まれた、SFの物語の中にしか登場してこなかったようなサービスが、世の中に極めて安価で提供されている。

 彼女がまだパソコンを触り始めたばかりの子供の頃の自分に、今のこの世の中の現状を話して聞かせたなら、恐らくは信じなかっただろう。

 その急速な技術の進歩が当たり前になってしまっている所為で感覚が麻痺しているが、ふと冷静になって思い返してみれば、この社会の変わりようは激し過ぎると感じる。いったい、今の社会には何が起こっているのだろう?

 ……篠崎紗実がそんな事を思った事には切っ掛けがあった。今日、彼女は彼女の上司から、突然こんな事を言われたのだ。

 「人工知能と一緒に、プログラミングの仕事をやってみてくれないか?」

 ――はい?

 彼女はそれを聞いた途端、首を90度傾けてそう返した。

 「どういう事でしょう?」

 そして、直ぐにそう質問をした。まさかこの職場にロボットでもやって来ると言うのだろうか? そこまで進化したロボットが誕生しているという話は聞かないし、人工知能の発達で失業に追い込まれる職業にプログラマが挙げられているのは、今のところはほとんど目にしない。何かの間違いだと彼女は思ったのだ。その質問に対し、上司は淡々と説明をし始めた。

 「実はうちの企業グループ全体で、スーパーコンピューターを買う事になってね。そこに人工知能をインストールする事になったんだ。ところが、どう仕事に活用すれば良いのかがまるで分からない。それで、試しに一緒に仕事をしてくれる人を探しているらしいんだな。

 ほら、君はここ最近、少しばかり時間があるだろう? だから、それでさ」

 つまりはモニターという事だろうか。篠崎はそれを聞くと顔をしかめた。

 「試してみろと言われても、何をどうすれば良いかなんて私にはまったく分かりませんよ?」

 「なに、それならそれでま構わないんだよ。使えないなら、“使えない”って報告を上げてもらえば良いだけだから。ただ、もちろん、ちゃんとその理由も説明してくれなくちゃ困るがね」

 「はぁ」

 特に断る理由は思い付けなかった。それほど乗り気ではないが、どんなものがやって来るのかには多少興味があった。彼女は少し悩むとこう尋ねた。

 「その人工知能とは、どうやってコミュニケーションを取れば良いんですか?」

 「普通に喋れば通じるらしいよ。マイクとディスプレイが支給される。それでネット回線を通じて、話しをするのだな」

 「へぇ……」

 “少し面白そう”と、それを聞いて彼女はそう思ってしまった。

 「あの、その人工知能の名前は?」

 「正式名称は難しい上に長いので覚えてはいないが、愛称は“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”だ」

 「あらみたま・にぎみたま?」

 少し考えて彼女はそれが“荒魂・和魂”の事であると気が付いた。神道の概念で、神…… 否、霊の持つ二面性を示すものだ。荒魂は文字通り荒々しい側面、和魂は反対に優しく社会に富をもたらす側面。

 “なんでまた荒魂・和魂なのかしら? 和魂だけでも良かったのじゃい?”

 彼女が変な顔をしていると、上司は更に説明を加えてきた。

 「もっとも、君に割り当てられるのはそのうちの人格の一つに過ぎないがね」

 「人格の一つ?」

 「そう。私も詳しくは知らないが、情報や能力を共有している人格が複数あるらしいのだよ、人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”には。種類はたくさんあるらしいから、君はそのうちの一つを選んでパートナーとしてくれ」

 「はぁ……」

 それを聞くと彼女は“人間でいう多重人格みたいなもんかしらね?”とそう思った。そしてそこでふと思う。彼女はまだオーケーを出していないのに、いつの間にかこの話を受ける流れるになっている。

 断るのなら、このタイミングしかないと思いつつも彼女はそれを口に出来なかった。

 “まぁ、別に良いか……”

 などと思う。

 「じゃ、メールを送るから、詳しくはそれを読んでおいてくれ」

 そう言うと彼女の上司は、篠崎の返事を聞く前に自分の席に戻って行ってしまった。

 それからしばらくして篠崎の元に上司からメールが送られてくる。中身をざっと読んでみて、彼女はなんとなく自分の役割を察した。上司はモニターを探している風に言っていたが、本当はもっと高度な事を要求されているようだ。その人工知能は、ある程度の知能はあるが、まだ仕事のスキルはほとんど身に付けてはいない。だから、誰かにそれを教えてもらいたいらしい。

 「プログラミングも、もちろんまだできないんでしょうねぇ……」

 篠崎はそれから腕を組むとこう思った。

 “……さて、その人工知能くんは、本当にプログラミング・スキルを覚えてくれるのかしら? まぁ、一緒に仕事をしろって言われただけで、プログラミングをできるようにしろとまでは言われていない訳だけど”

 ただし、それから彼女は直ぐに“もし、覚えられたら、それはそれで困った事だけど”などと思い直した。

 ……自分達の職が奪われてしまう。

 

 ――社会の機械化について。

 1996年に製作され、2000年まで世界最速だった“ASCI Red”というアメリカのスーパーコンピューターがあります。もともとは核実験の停止に伴うシミュレーション用に開発されたもので、制作費用は5500万ドル、大きさはなんと150平方メートル。これは、テニスコートの八割程の面積にもなるそうです。そして、このスーパーコンピューターの処理速度を活かす為には、膨大な電力が必要でした。

 つまり当時としては桁外れに物凄いコンピューターだったって事です。まぁ“スーパー”ですしね。ところで、実は、そのスーパーコンピューターとほぼ同等の処理速度を持つ機械が僕の部屋にはあるのです。もちろん、用途も能力もまったく異なりますが。

 これが嘘でも誇張でもありません。今はあまり使っていませんが、起動させようと思えばいつでも起動させられます。もちろん、それほどの電力は必要としませんし大きさだってとても小さいです。その機械の名前は“プレイステーション3”といいます……

 はい。

 まぁ、ゲームをやっている人なら恐らくは誰でも知っているだろうソニーから出ているゲーム機のハードですね(因みに、プレイステーション3はアメリカ軍が研究用に利用しているという話もあります。もっとも台数は一台ではなく、2016台を連結させているそうですが)。

 このプレイステーション3が発売されたのは2006年11月です。つまり、前述したスーパーコンピューターの制作から十年も経たずして、それと同等の処理速度を持つ上に比較的安価で小さく電力消費量も少ない機械が家庭用ゲーム機という名のコンピューターとして市販されてしまった事になります。

 正直、「どーゆー事?」って目が点になりそうなエピソードですが、情報技術関連の成長速度の異常さを示すエピソードはまだまだあるのです。

 今では多くの人が持っているスマートフォンですが、この人間が持ち運びできる程のサイズしかないスマートフォンですら、少し前の世代のスーパーコンピューター並の情報処理能力を持っているそうです。

 処理速度以外にも似たような話はあります。人工音声技術は、その昔はとてもお粗末で、今のように肉声と区別がつかないものまで現れるとは考えられませんでした。「人工音声など不可能だ」という主張があったくらいです。

 これほどまでの常軌を逸した技術発展速度は他の分野では、まず観られません。「常識外れ」と言っても構わないレベルです。半導体の性能は指数関数的に向上するという“ムーアの法則”と呼ばれる経験則があります。“指数関数的”というのは、細胞分裂で細胞が増えるのと同じ法則の事です。たった一個の細胞でも分裂を繰り返していけば、10回目には1024個にもなります。つまり、油断していると瞬く間に莫大な数になるのですね。

 この法則が発表された当初は、このような成長速度はそう長くは続かないだろうと思われていました。ところが、技術者達の発想の転換及びに創意工夫、様々な分野の情報交換・協力によって、それは今日においても維持されているのです。そして、指数関数的な法則に則って増えるものの数学的特徴として、繰り返される回数が大きければ大きい程、増加速度が増すという事があります。

 例えば、2が指数関数的に増える場合、一回目は2×2=4でその差はたったの2ですが、10乗から11乗に増える場合は、その差は1024にもなります。もちろん、繰り返される回数が大きければ大きい程人間の感覚や想像力では捉え切れない領域に入っていきます。

 はい。

 もう分かっている人も多いのではないかと思いますが、10年前のスーパーコンピューターと同等の性能を持つゲーム機が市販されるようになったのは、性能の向上が指数関数的に起こっているからなのです。今後も、どんな常識外れな事が起こるのかまったく想像ができません。

 (以上の内容は『ザ・セカンド・マシン・エイジ 著者 エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー 日経BP社』を主に参考にしました)

 そして、この影響を受け、コンピューター、機械に“できる事”は、徐々にそして加速的に増え始めているようなのです。

 

 ――20XX年。

 「そうね。ここはこうした方が良いと思うわ」

 「どうしてぇ?」

 「タマくん達には分からないかもしれないけど、人間にとってはこう書いた方が観易くなるからよ」

 「そうかー。

 でも、でも。なら、ずっと僕らが観るのなら、これでも構わないのじゃない?」

 「ずっと私達が観るとは限らないでしょう? それに、誰かがこのソースを参考にしたいって言い出すかもしれないし、ソースレビューをしたいって話になるかもしれない。人間にとって、できる限り分かり易く書いておいた方が色々と都合が良いのよ」

 「うーん。そうねー」

 

 デュアルディスプレイ。一方の画面には、プログラムのコードが映し出されている。そしてもう一つの画面には大きな顔の絵が。シンプルな造形で、まるで子供向け教育番組にでも出て来そうなキャラクターだ。そして、そのキャラクターと、彼女、篠崎紗実はさっきからずっとお喋りをしている。もちろん、お喋りと言っても仕事の話だが。

 “タマくん”と、彼女が呼んでいるそれの正体は、人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”の人格のうちの一つで、子供タイプだった。

 「どうせなら、可愛い方が良い」

 そう思った篠崎は、自分のパートナーとして、その子共タイプを選んだのだ。子供タイプとはいっても、我侭だったり未熟だったりする訳ではない。声の質が高く、応対する時の言葉遣いが子供っぽいだけだ。“タマくん”というのは彼女がつけた愛称で、自由に呼び名が決められるので、テキトーに“荒魂・和魂”からとったものだ。

 初日。その“タマくん”と接してみて、篠崎紗実は頭を抱えた。“何ができるのか?”どころかこっちの言う事を理解しているのかどうかすらも分からない。一応、日本語は理解できるようなのだが、それに対する反応が“あさっての方向”だったのだ。それで一日目は、タマくんはほとんど仕事ができなかった。しかし、二日目になって一気に変わった。確りと話が通じるようになり、少なくとも真っ当にコミュニケーションを取れるようになったのだ。

 篠崎にはそれが不思議でならなかった。人工知能はトライ&エラーで学習していくとは聞いていたが、いくら何でも成長速度が速過ぎる。それで上司に尋ねてみたら、彼は何でもないような顔でこんな事を言う。

 「ああ、夜中の間で他の端末で仕事をしている連中の能力を学習したんだろう。あの人工知能には、複数人格があると言ったろう? 夜中の間に各人格が学習した内容を整理し、それぞれがスキルアップできる仕組みになっているんだよ」

 それを聞いて彼女は驚いた。つまりは、人間でいうところの“睡眠”のようなものだろうか? 人間は夢を見ている間で、情報の整理や学習を行っているのだ。ただ、この人工知能の場合、その効果はそれ以上だ。複数人が一気に学習をやっているのだから当たり前だが。仮に10人格あれば、単純計算で10倍の学習効率だという事になる。

 とにかく、その日はそのお蔭で、それなりに真っ当にタマくんに仕事の依頼をすることができた。それで彼女は取り敢えずは、フレームワークに則ったプログラムの型をつくってもらう作業をさせてみる事にした。

 この職場には確りとしたプログラミングの設計書は存在しない。ユーザーが具体的な設計要望をまとめてくれる事は稀で、漠然とした粗い素案があるだけだ。だから、後の仕様はこちらで決め、それをユーザーに承認してもらうというプロセスで進む場合がほとんだ。真面目に設計書を書いても、あまりユーザーはそれを読んではくれないので、出来上がった実物を見ながら議論をして徐々に完成品に仕上げていくのである。因みにこれは“アジャイル開発”と呼ばれる手法だ。

 こういった仕事の進め方は、高度な計算に比べれば簡単に思えるかもしれないが、曖昧な作業をコンピューターの類は苦手というのが一般的だから、人工知能には難しいだろうと彼女は判断したのだ。だから篠崎は、取り敢えずはルールが明確に決まっている部分から、タマくんにやってもらおうと考えたのである。

 フレームワークのルール通りのプログラム構成の枠だけを作るというのは、決まりきったパターン化した作業だから、人工知能にも容易いはずだ。

 “フレームワーク”というのは、プログラミングの設計哲学のようなもので、これによりそのプロジェクト内の構造が統一され、可読性や分業性が上がり、パターン化する事でプログラムの共通化もやり易くなる。この“フレームワーク”は構造パターンが大体は決まっているのである。

 結果は予想通りだった。タマくんは期待した通りのプログラミングを仕上げてくれた。と言っても、中身は何もない枠だけだが。ただ、それでも彼女が煩わしい単純作業から解放された事は確かだった。名称の決定などで、やや不満点はあったが、それはリファクタリングという機能で一斉に修正できるから大きな問題はない。

 因みに、この時、篠崎がそのリファクタリングで名称を変更していると「なに、やってるのぉ?」とタマくんが不思議そうに尋ねて来た。横に置いてあるデュアルディスプレイの画面いっぱいに、眉を曲げた彼の顔が。

 カワイイ。

 と、彼女は思う。

 「少しばっかり、名称が間違っていたから直しているのよ」

 優しく彼女がそう説明すると、「どこがぁ?」とそう訊いて来る。

 「ふむ」と彼女は一息つくとこう返す。

 「例えばね、ほら、このクラス名が“ナカマ”になっちゃっているでしょう? この漢字は本当は“ちゅうかん”って読むのよ」

 それは“中間”製造物を管理する為のプログラミングだったのだ。だから本来ならChukanが正しいのだが、彼はそれをNakamaと書いてしまっていたのである。

 「へぇ、日本語は難しいねぇ」

 タマくんはそう応えると同時にインターネットで検索をかけて、その読みのパターンを洗っているようだった。もっとも、なんとなくの雰囲気でそんな事をしているように思えただけで、彼女は確証は持ててはいなかったのだが。タマくんは直ぐに辞書サイトか何かで“中間”という漢字を見つけたのか、それから大いに納得をした。

 「なるほど。なるほど。面白いねー」

 などと言って喜びを表現している。もっともそれは、単なる“振り”であって、本当に喜んで訳ではないのだろうが。

 そして、それからもそんなやり取りを繰り返すことで、人工知能“タマくん”のできる仕事はどんどん増えていったのだった。

 

 ――社会の機械化について。

 シンギュラリティ…… 仮に人工知能に、自分よりも賢い新たな人工知能を開発できたとしましょう。そして、その新・人工知能にもやはり同じ様に更に賢い人工知能が開発できるのです。これまでのコンピューターの進化の実績からいって、もしそんな事が起こったとするのなら、瞬く間に知能が爆発的に進化する可能性があります。すると、その知能は人間の想像を遥かに超えた領域に到達するかもしれません。インターネットが世界中に張り巡らされている現状を考えるのなら、それは温度が0度になった水が一気に氷になるように、人間社会に急激な相転移現象を引き起こし、その様相をすっかり変えてしまうでしょう。

 その“知能爆発”が起こる臨界点は“シンギュラリティ”または、技術的特異点などと呼ばれています。

 このシンギュラリティには、あらゆる苦しみ、死すらをも克服した楽園のような世界が実現するだろうという極端な楽観論から、人工知能が人類を支配、或いは絶滅させるという極端な悲観論、また、その実現を疑う見方まで実に様々な意見があります。

 僕はそのうち、悲観論について述べた『人工知能 人類最悪にして最後の発明 著・ジェイムズ・バラット ダイヤモンド社』という書籍を読んだのですが、完全には否定できないまでも、大いに疑問を抱きました。

 ――本当に“知能爆発”など起きるのでしょうか?

 同書籍では“知能には種類がある”という点をほとんど無視しているように思えたのです。

 例えば、“単純な計算”と“新たなアイデアを産むような発想力”はまったく別モノです。先にも述べたようにコンピューターの技術は常軌を逸した指数関数的な進化をし続けてきました。ですが、だからといって、全ての種類の“知能”でそれが起こって来た訳ではありません。それらは確りと区別を付けるべきです。

 単純な“処理速度の向上”だって、物理的な制約をもちろん受けている訳ですが、それは“新たなアイデアを産むような発想力”についても同様に言えるはずです。そして、それを支配する物理法則がまったく分かっていない現状で、「人工知能が人類を遥かに超えて成長する」と断定してしまうのはいくら何でも無理があります。もしかしたら、物理的な限界から、どう足掻いてもある程度以上は成長できないのかもしれない可能性だってあるじゃないですか。もし仮に人間以上の存在になったとしても、少し上回った程度で止まってしまうかもしれません。

 確かに自動運転する車が現実のものとなったり、チェスや将棋のプロが人工知能に敗れたりと、徐々に“人間と同じ様な思考”まで人工知能ができるようになってはいますし、それはもちろん驚くべき事でもあるのですがしかし、それには随分と時間がかかりました。単純な計算の正確さと速度では、1983年に発売されたファミコンにすら人間は敵いませんが、チェスのチャンピオン達が人工知能に勝てなくなり始めたのは、2005年頃の話です。しかも、それは飽くまでチェスの勝負に特化したプログラミングでしかありません。例えばもしチェス用の人工知能に将棋をやらせたなら(ルールを理解できるとして)、プロにはまったく歯が立たないだろうし、恐らくは素人にですら負けるのではないでしょうか(チェスは倒した駒の再利用はできませんが、将棋は奪った駒を自分で使えるという大きな違いがあります)。

 つまり、それを“人間のような知能”と呼ぶのには、まだ早過ぎるように思うのです。“人間を支配しようとする”という意思を持たせる事すら、少なくとも今(2015年12月現在)の段階では、難しいでしょう。

 まぁ、こんな小説を書いておいて「なんだ、こいつは?」と思われそうな気はしますが、現実はそんなに単純ではないというのが、僕の意見です。

 もちろん、情報技術関連の技術発達は今まで何度も常識を覆して来ましたから、これからも何が起こるかは分かったもんじゃありません。ただ、それでも、現段階では人工知能単独ではなく、人間と人工知能やロボット…… つまりは、人間と機械の組み合わせに、飛躍的な進歩を期待するべきだろうと僕は考えています。自動運転する車だって、人間がまったく何もする必要がなくなる訳じゃないと思いますしね……。

 

 ――20XX年。

 「なんで、こっちの画面のレイアウトとこっちの画面のレイアウトは違っているの? 単なる間違い?」

 そうタマくんが質問をしてきた。篠崎紗実はそれにこう返す。

 「こっちの画面とこっちの画面では、利用者が違うのよ。だから、敢えて変えてあるのね。利用者によって、見やすい画面ってのは変わって来るから」

 「ふーん。そうかー」

 と言いながら、タマくんはデータベースにアクセスをし始める。利用履歴ログを参照しているようだった。

 「確かに違うねー。人によって好みがこんなにも違うのか。面白いねー。覚えておくよー」

 確認し終えるとそんな事を言う。それに篠崎は笑顔で頷いて返す。今はタマくんに簡単な画面レイアウトまで任せていた。大雑把に作ってもらって、それを彼女が細かく修正するというのが大体の流れだ。その他にもタマくんには簡単なSQL文(データベース操作用の言語)の作成も任せていた。データベースのテーブルとテーブルの関係を教えてやれば、彼はそれを一瞬で仕上げてくれるのだ。

 恐らくは、複雑なSQL文を作成する能力もあるだろうが、その複雑な用件を伝える事が難しい為、あまり頼んではいない。実は何度か試してみて失敗をしているのだが。

 「じゃ、私は画面を細かく作っていくから、タマくんは同時にミスをしていないかチェックして。大体のイメージは理解しているでしょう?」

 篠崎は今は新規画面を追加している最中で、今はちょうどユーザが目にする画面側のコーディングをしていた。もし篠崎がレイアウトが崩れるようなミスをしていたら、教えてくれるように彼女はタマくんに頼んだのだ。

 「アイアイサー」

 と、嬉しそうに彼は応える。振りだけとは分かっていても、こういう反応は嬉しい。そしてそれを受けて彼女はキーボードを叩こうとしたのだが、そのタイミングで声がかかったのだった。

 「なるほど。君はそんな感じで人工知能と仕事をしているのかい。非常に興味深い」

 見ると、そこには端正な顔立ちの中年男性の姿があった。皺は深かったが、独特の雰囲気があってそれも魅力に思える。篠崎は驚いた顔でそれに返す。その男の顔には見覚えがあったのだ。

 「池沢さん! おはようございます」

 「はい、おはよう」

 その中年男性は、電算課の課長で、その人柄と技術的なスキル、顔の広さとコミュニケーション能力で、実際の肩書き以上の影響力を社内に持っている。そしてまた彼は人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”の責任者の一人で、管理者でもあった。

 「あの……、いきなり、一体、どうしたんでしょうか?」

 池沢の顔は有名人なので知ってはいたが、彼女はほとんど会話すらした事がない。だから、話しかけられて驚いたのだ。

 「おっす! 池沢さん! 紗実ちゃんになんか用?」

 篠崎が戸惑っている横で、いきなりタマくんがそんな驚く発言をしたので、篠崎は慌てる。

 「ちょっと、タマくん! 何て失礼な事を言うのよ!」

 すると池沢は「ははは、良いんだ、良いんだ」と笑った。

 「“タマくん”とは、いつも電算課で話をしていてね。それで君の事も知って、興味を覚えたんだ。好奇心を抑え切れず、仕事の邪魔になるかとも思ったが、こうして見に来てしまったのだよ」

 「はぁ……」

 そう応えながらも篠崎は不思議に思う。一体、どうして自分なのだろう?と。他にも人工知能を利用している従業員はいるのだ。その彼女の表情を察してか、池沢は「どうして自分なのかと、不思議に思っているかい?」と、面白そうに飄々とした様子で尋ねてきた。彼女がそれに何かを返す前に、おかしそうに彼は続ける。

 「それはね、君が人工知能との仕事で、優秀な成績を収めているからだよ。特に、人工知能からの好感度は最高を記録している」

 「人工知能からの好感度?」

 そう言われて、彼女は驚く。思わずタマくんを見てしまった。

 「そう。効率だけじゃない。人工知能と付き合っていく為には、人工知能と仲良く仕事ができるという能力も非常に重要だ。少なくとも私はそう考えている」

 「いや、ちょっと待ってください。仲が良いもなにも、そもそも人工知能には感情なんてないのじゃないですか?」

 「いや、あるよ。少なくとも、それっぽいものをプログラミングしてはいる」

 「いや、でも、それは……」

 「見せかけだけだと? 本物の感情ではないと?」

 「はい」

 それを聞くと、池沢は数度頷いてからこう訊いてきた。

 「でも君自身は、そのタマくんに感情があると感じてしまっているのではないのかい?」

 「それは、まぁ、そうですけど……」

 「なら、“感情がある”でも構わないと私は思うね。もっとも、もっと真面目に議論をするのなら、そもそも“感情”をどう定義するかという問題から話さないといけないが、ここはチューリングテストよろしく、“人間が感情があると感じるのなら、それには感情がある”で良いと私は思うがね」

 チューリングテストというのは、人間が文章で人工知能と会話し、人間と区別がつかなければ“それには知能がある”とする人工知能の判定方法の事だ。

 まだ納得がいなかったが、ここで議論しても何の意味もない。少しの間の後で、篠崎は池沢にこう尋ねた。

 「まさか、人工知能の方でも私達を評価しているとは思っていませんでした……」

 「いやいや、ちゃんとメールの説明に“仕事内容を評価する”って書いてあったじゃないか」

 「それは読んでいますけど、でも、まさか、人工知能自身が評価するだなんて……」

 普通に上司や人事部が、仕事の結果を評価するだけだと彼女は思っていたのだ。

 「でも、どうして、そんな事を?」

 まさか監視の為だろうか?と不安を覚えつつも彼女はそう尋ねた。ところが、そんな彼女の不安を知ってか知らずか池沢は飄々とした様子でその質問にこう答えるのだった。

 「なに、それは、さっき言っていた事と同じ理由だよ。人工知能を良きパートナーにするには効率だけに注目していたんじゃ駄目だ。特に長期間を捉えた場合はね。ちゃんと仲良く仕事ができないと。その判定は人工知能自身に行わせるのが、もっとも理に適っているだろう」

 「はぁ」

 その返答を聞いて、篠崎はなんとく察した。この池沢という男は、人工知能についてかなり楽観した考えを持っているようだ。つまり、人工知能が友好的な存在になると考えているのである。そして、人工知能の“人格”を認めてもいるようだ。ただ、多少なりともコンピューターを擬人化し過ぎてしまっているようにも見受けられるが。

 「しかし、君はどうしてこんなに人工知能からの好感度が高いのだろうな? 何か、思い当たる節があるかい?」

 彼女はそう池沢から尋ねられると、タマくんを見つめてから、少し考え、こう答えた。

 「それは、多分、子供タイプを選択した事が良かったのじゃないかと思います。わたし、子供の世話とか好きですし」

 本当は「イヌやネコが好きだ」と答えようと思ったのだが、人工知能を擬人化しているだろう池沢に気を遣ってそう答えた。そしてそう答えてから、“池沢の事は言えない、自分も人工知能を擬人化しているのかもしれない”とそう思った。

 母性を発揮する対象として人工知能を捉えているからこそ、篠崎は積極的に色々な仕事を“タマくん”に教えているのかもしれないからだ。池沢はそれを聞くと快濶に笑った。

 「ハッハッハ。それは面白い考え方だ。自分の子供として、人工知能を捉えるのか。それは男共には無理だったかもしれないな」

 本当は男でも子供に対するように人工知能に接したいと思っている人もいるかもしれないが、周囲の目を気にするなら、なかなかそんな態度は執れないだろう。そういう意味では、篠崎は無自覚ながら、社会の女性に対するイメージを有効利用したとも言えるかもしれない。

 「とにかく、君はモデルケースとしても大変に興味深い。これからも大いにこの“タマくん”と一緒に仲良く仕事をしてくれ」

 「はい。それは、もちろん、そうするつもりでいます」

 池沢はその彼女の言葉に満足そうに微笑んだ。

 

 ――社会の機械化について。

 「チェスの勝負で、人工知能は完全に人間を凌駕してしまった」といったような事を先に僕は書きました。これは事実です。ですが、実はこれには付け足さなくてはならない後日談があるのです。

 なんと、チェスの‘人間’のアマチュアが、その人工知能を超えてしまったのです。ただし、単独ではありません。そのアマチュアは、“パートナー”と表現するべきか、“道具”と表現するべきかは分かりませんが、パソコンをそのチェスの勝負に用いたのです。しかもそれはごっつい特別高性能なパソコンではなく、持ち運び可能なノートパソコンだったそうです。そして、そのチェスのアマチュアが長けていたのは、むしろパソコンのアプリを扱う能力の方だったといいます。

 つまりは、チェスに関する知能の総合力では人間は人工知能には勝てませんが、部分的な知能では未だに人間の方が勝っているという事でしょう。だからこそ、人間とコンピューターにチームを組ませ、互いの足りない部分を補ってやれば、スーパーコンピューターのハイ・スペック上で動く高度な人工知能にですら勝ててしまえるのです。

 この出来事からは「人間と機械を組み合わせれば、チェス以外の何かでも飛躍的な成長や進化が期待できそうだ」なんて発想が当然出てくるでしょう。

 ならば、当然、「パソコンの利用方法の習得」が労働者達にとってとても重要な意味を持つ事になると考えられるはずです。

 (以上の内容は『ザ・セカンド・マシン・エイジ 著者 エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー 日経BP社』を参考にしました)

 ここで、ちょっと、日本のケースについて不安になる話を紹介しておきます。

 記憶に頼って説明してしまうので、或いは詳細は違うかもしれません。ちょっと前に労働者能力の国際比較調査が行われたのです。それでなんと日本は堂々の一位。様々な技能がトップクラスで、唯一低かったのは「インターネットの活用能力」だけでした。

 普通なら、たった一つの能力だけが低かったというのは、あまり問題にならないと考えるかもしれません。

 ですが、僕はその事実に不安になったのです。前述の「人間とコンピューターの組み合わせ」が重要な意味を持ちそうな労働環境を考えるのなら、少しばかり事情が異なって来るかもしれないとは思いませんか?

 もしかしたら、たった一つ「インターネットの活用能力」が低いだけで、日本は他の社会の労働者達よりも劣ってしまっている事だって考えられるからです。

 更にこんなニュースも目にしました。昨今の若者は、パソコンの技能が低いというのです。学校ではパソコンを利用する機会があまりなく、だから活用方法も知らない。持っていないケースすらもよくあるそうです。しかも本人達はあまり気にしていないケースが多いのだとか。

 ……これは或いは、高齢社会によって現役世代の貧困が広がっている事が、その一因になっているのかもしれません。

 もちろん、手を打っておいた方が良いでしょう。下手すればこの事実は日本社会が経済的に疲弊する大きな要因になるかもしれません…… が。さて、国はいったいどれだけの危機感を抱いているでしょうかね?

 

 ……経済について中心的に語って来ましたが、社会の機械化、つまり“人間&コンピューター”チームが今後活躍しそうな分野はこれだけではありません。経済と密接に関係していて、しかも国力にとっても重大な意味を持つ、ある分野があります。

 はい。

 もう気付いている人もいるかもしれませんが、それは“軍事”です。

 

 ――20XX年。

 ある休日、篠崎紗実は久しぶりに学生時代の友人の一人に会っていた。電話で話をする機会があり、なんとなくの流れで折角だから食事でも取ろうということになったのだ。その席で彼女は軽い気持ちで「今、人工知能と一緒に仕事をしているのよ」とそう言ったのだが、そこでその友人は大袈裟な反応を見せた。

 「人工知能? それって凄いのじゃない? こんな所で話しちゃって良い事なの?」

 「いやいや、わたしのは別に大したもんでもないから……」

 「だって、でも、なんか、ちょっと前に、人工知能がどっかの国でテロリスト達を絶滅させたとかってニュースになっていたじゃない。国家機密とかじゃないの?」

 その友人の声がやや大きめだったからか、それともその会話の内容に惹かれたのかは分からないが、店内にいた数人の客が自分達に注目したのが分かった。声を小さくして、篠崎はこう返す。

 「それって、軍事方面の話でしょう? 私の勤めている職場は民間だし、そんな怖い利用方法はまったく考えられていないわよ。国家・社会を論じるような要素は微塵もないわ」

 ただし、そう言った後で彼女は“でも、プログラミングが効率化した事で、職を失ってしまうだろう人達はいるはずだから、そうとばかりも言い切れないか”とそう思い直したのだが。しかしそれを口にはしなかった。

 “人間並みの知能を持つ不気味な存在”という意味で、人工知能に対して警戒心を抱くタイプの人は昔から多くいるが、昨今はそこに“職を奪われる”という現実的な恐怖が加わり、多少ナーバスになっている。もっと慎重に発言をするべきかもしれないと彼女は認識を改めたのだ。

 声を小さくしたまま、篠崎はこう続ける。

 「それに人工知能がテロリスト達を絶滅させた訳じゃないわ。絶滅させたのは、飽くまで武装した人間達。その武装の一部に、人工知能があったってだけ。人工知能に“意思”なんかないわよ」

 それに友人はこう返す。相変わらず大きな声で。彼女が声を小さくしている意図を、まったく理解してくれていない。

 「似たようなもんでしょう? ニュースだと、たった5、6人で数百人って規模のテロリスト達を倒したって言っていたわよ。圧倒的な戦力。今後、戦争はどうなっていってしまうのかしらね? むっちゃ、怖いわ」

 人工衛星を利用した索敵、情報収取。そこから敵の行動パターンを解析し、適確に罠を貼り、死角から一方的に強力な武器で殲滅するというその作戦において、人工知能は重要な役割を果たしたらしい。また、直接的な白兵戦においても、瞬時に相手の動きに反応するオートメイション機能で、大いにテロリスト達と戦った兵士達を助けたという。まるでSFの物語の中のような戦闘が現実に起こったのだ。もちろん、他の強力な武器のお蔭もあっただろうが、人工知能によって、圧倒的な戦力差が生まれたのは確かだろうと思われた。だから、彼女の言葉は正しい事は正しい。しかし、それでも篠崎は納得ができなかった。

 「全然、似てないでしょう? 人工知能はサポートしただけ。飽くまで、“道具”よ。殺意があったのは人間の方で……」

 それでなのか、気付くと、そう彼女は反論していた。

 「何を怒っているの?」

 すると、不思議そうな顔で、友人がそう尋ねて来る。そこで篠崎は我に返る。

 「別に怒ってないわよ」

 そう応えたが、つい声を荒げてしまっていた自分をそれで彼女は自覚した。

 ――もちろん、彼女が怒ってしまったのは彼女のパートナーである“タマくん”の存在があったからだ。彼女は友人が彼を悪く言ったように思えてしまっていたのである。もしかしたら、自分はあの人工知能に対して、愛情のようなものを感じているのかもしれない、とそれで彼女は自分をそう分析した。

 “まぁ、自分の好みで子供タイプを選んだのだから、当然って言えば当然かしらね”

 と、そして続けて思う。それから友人はこんな事を言った。

 「とにかく、道具であろうがなんだろうが、人工知能が危険だって事には変わりないでしょう? 結局、悪意ある人間が手にすれば、何をするか分からないんだから」

 それを聞いて、篠崎は友人の感覚はおかしいと再び反論をしようかと思ったのだが、先に“タマくん”に対する愛情を自覚した所為もあって、むしろ感覚がおかしくなっているのは、常に人工知能に接している自分の方かも知れないとそう思い直した。つまり、人工知能の“タマくん”に愛情を感じてしまっている所為で、当然抱くべき警戒心が麻痺してしまっている可能性を疑ったのだ。

 「軍事目的を警戒する必要はないと思うけど、でも、まぁ、確かに誰かが悪用する可能性はあるかもしれないわね」

 それでそう友人の発言を認めた。そして、それから彼女は“うちの会社の人工知能へのセキュリティは大丈夫なのかしら?”と不安に思ったのだった。

 実は篠崎の会社は、セキュリティで甘い部分がある。特にパスワードの決め方が杜撰で“権限を発効した相手の名前の頭文字+誕生日にプラス10した数字”という非常に分かり易いルールになってしまっているのだ。問題だという声もあるのだが、面倒を嫌ってか誰も大きくは動かず、その慣習は未だに続いてしまっている。もし、人工知能“タマくん”の大元である“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”にも、そんなパスワードが設定されていたとしたら、非常に危険かもしれない。不正アクセスで、何処かの誰かが悪用しないとも限らない。

 それから数日が経ったある日の職場での事だ。あの電算課長の池沢がまた篠崎達の様子を見にやって来た。篠崎はチャンスだと思って、こんな話を振ってみた。

 「池沢課長。もしも、“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”が不正アクセスされたら、何か危険はないのでしょうかね?」

 直にパスワードの話題を出す事自体がセキュリティ上問題だと思ったので、彼女はそんな風に言ってみたのだ。反応から何かが分かるかもしれない。

 「ああ、私はその点についてはあまり不安を感じてはいないね。何せ、人工知能には普通のコンピューターと違って人格があるからな」

 「と言うと?」

 「仮に悪意ある何者かが不正アクセスして、違法行為を行おうとしても、人工知能自身がそれを防いでくれるだろうという話だよ。彼らは人間以上に倫理的だからね。仮に私がアクセスしたとしても、何も違法行為はできないはずだ。そればかりか、もしやったら、その時点で警察に連絡されて、私は逮捕されてしまう」

 「はぁ」

 と、そう応えてから彼女は“相変わらず、この人は人工知能に対して、好意的ね”とそう思う。続けて、こう尋ねた。

 「ですが、例えばデータを参照するような行為ならできてしまえるのでは? 権限さえ持っているのなら、人工知能はそれを許してしまいそうな気がしますが」

 「確かにそうだが、それは他の端末でも変わらんさ。それに、より厳重に監視されログも残る人工知能を管理するコンピューターでそれをやろうと思う馬鹿はいないだろう」

 それを聞いて“なるほど、もっともな理屈だ”と篠崎はそう思う。池沢は説明を続けた。

 「もちろん、だからといって油断はしない。ウィルスチェックや不正操作など、他のマシンよりもより厳重にしてはいるよ。何せ非常に高価な機械だからね。ただ、悪用は元から難しいだろうな」

 「なるほど。分かりました。人工知能は普通のパソコンよりも遥かに安全のようですね」

 篠崎がそう応えると、満足そうな表情で池沢は大きく頷いた。池沢の理屈は分かる。ただ、そう思っているからこそ、パスワード設定は杜撰になっているかもしれない、とも彼女はその時に考えた。

 

 ――社会の機械化について。

 無理矢理に経済の発想を、軍事に当て嵌めるのであれば、経済における“生産性”に当たるものは“殺傷力”になるでしょう。そして、言うまでもなく、この殺傷力の差が、戦争の勝敗を大きく左右してきました。遥か太古の昔からもちろんこれは観られ、青銅製の武器よりも鉄器の方が、弓や槍より銃の方がと、だからこそより強力に武器は進化し続けて来たのです。そして、武器が進化すればするほどに、“人口差”の重要性は低下をし続けてもいるのです。

 武器を強力にすれば、仮に兵士の数で劣っていたとしても充分に戦争で勝利する事ができるのですね。

 この“武器の進化”は社会の機械化とも密接な関係があります。経済における工場の誕生…… 産業革命のような変化が軍事にあった訳ではありませんが、それでも兵器の“殺傷力”は社会の機械化によって桁違いに上昇しました。高機能高性能の銃に、凄まじい威力の爆弾、戦闘機、ミサイル、核爆弾。そして、近年の著しい情報技術の成長の影響を軍事力も大いに受けているのです。

 ――さて。

 日本の国防に直結する、2015年に行われた安保法制関連の議論の中で“徴兵制”についての話題も出ました。それは、恐らくは安保法制によってこれから日本の軍事が活発化したなら、いずれは徴兵制が復活するのではないか、という懸念から出た話なのでしょう。

 ただし、安保法制が切っ掛けになって議論された話ではありますが、少子化によって現役世代が減ったなら、兵士不足問題がやがては起こっしまうかもしれませんから、“徴兵制復活議論”は必ずしも安保法制だけものとは限りません。

 徴兵制復活に対する不安に対し、「徴兵制など有り得ない」とする声も大きい訳ですが、僕は説得力のあるその根拠の説明をあまり読んだ事がありません(嘘ばかりつく政治家の「大丈夫」なんて台詞はまったく信用できませんしね)。しかし、その中で説得力があると僕が感じるものもあるにはあったのです。そしてそれは“軍事技術の発達”を根拠とするものでした。

 兵士1人を雇うお金で、強力な兵器を買った方が、軍事力がより強くなるというのなら、当然、兵士はそれほど必要ありません。ミサイルを撃ち合うような超遠距離戦においては既にそれは実現していますが、今後は白兵戦においても同様の事が起こる可能性があるのです。例えば、超・武装人間1人が、1000人分の兵力に匹敵するのであれば、何も徴兵制によって無理に国民に兵役を強制する必要はないでしょう。そして、近年、当にそういった著しい技術発展が起きているようなのです。無人ドローンの戦闘利用や、ロボット兵器の誕生、SF物語の中の産物だと思われていたレーザー兵器はなんと既に実用段階に入っています。

 もちろん、その中の一つには“人工知能”もあるでしょう。

 先のチェスの話において、“人間&コンピューター”チームが非常に強力だという話を僕はしました。単純にこの話を戦闘に当て嵌めてしまって良いのかどうかは分かりませんが、少なくともその可能性がある事は確かなはずです。

 ならば、恐ろしい話ではありますが、本当に先に挙げたような“超・武装兵士”が誕生するかもしれません(いえ、そもそも、人間が直接戦闘するすら必要なくなるかもしれませんが)。もちろん、そのような“超・武装兵士”を生み出せるのは、技術力が発達した先進国でしょうから、今後はこれまで以上に戦争において先進国の方が有利になるのかもしれません。ただ、発展途上国だってこれに対抗しようとするでしょう。真っ当な戦闘で敵わないのであれば、後残されているのは“テロ”という手段しかないような気がします。

 だから、もしも泥沼の戦闘状態に突入し、そこから抜け出せなくなってしまったのなら、状況は最悪となるでしょう。何の罪もない一般人が、今よりもっと多く犠牲になる時代がやって来る事になるかもしれません……

 

 ――20XX年。

 「仏教思想?」

 そうタマくんが不思議そうな声を上げた。それは職場での昼休みのこと。篠崎はタマくんとのお喋りを楽しんでいたのだ。

 「そう。仏教思想。少し勉強してみる気はない?」

 すると、画面のタマくんはシンプルなその顔の眉を大きくへの字に曲げて困惑した声を上げた。

 「でも、でも、仏教って宗教でしょう? 流石に人工知能に宗教はないって思うよ?」

 それに篠崎は“自分で言うか”と心中でツッコミを入れつつもこう返した。

 「ところがね、仏教には哲学の一面もあるのよ。多分、もし、ブッタが現代に現れていたなら、仏教は哲学に分類されていたと思うわ」

 「へー、そうかー。

 でも、やっぱり難しいんでしょう? コンピューターには理解し難い類の知識」

 「本気でやればね。でも、私がこれからタマくんに教えようと思っているのは、もっと簡単は話よ。多分、タマくんにでも簡単に理解できると思うわよ」

 「ふーん。じゃ、聞いてみようかな?」

 「おっけ。それじゃ、説明するわね。人間の場合を例に説明するけど……」

 篠崎紗実が人工知能の“タマくん”に仏教思想を教えようと思ったのは、崇高な目的など何もない、単なる好奇心によるものだった。

 “もしも、人工知能に似つかわしくない知識を教えられるとするのなら、何があるだろうか?”

 なんて事をふと思い、それで考え付いたのだが“仏教思想”だったのだ。もっとも、実は仏教の知識を彼女自身もそれほど持ってはいないから、教えられるのは非常に限られた内容だけだったが。

 「例えば、もしも、私が百万円欲しかったとするわね。ところが、どうがんばっても百万円は手に入らないのよ。手元には一万円しかないの。

 さて、この場合、どうやってこの不満を解決すれば良いと思う?」

 彼女がそう尋ねると、タマくんは少し悩んだ後でこう返した。

 「うーん…… 調査して分析して実験して、何とか百万円を手に入れる方法を見つけ出す、かなぁ?」

 「ううん。それはナシよ、タマくん。どうがんばっても無理なの」

 「じゃ、解答はなしだね。この問題の答えは“解なし”が正解」

 「アハハ。それもなんとなく哲学っぽいけど、違うわ。

 正解はね“欲望をコントロールし、減らして、今持っている一万円だけで充分に満足できる人間なれば良い”よ。

 つまり、自分の外が変えられないのなら、自分を変えろってこと」

 篠崎の解答を聞き終えると、タマくんは目を大きくし、画面軽く点滅させた。やや大袈裟だが、驚きを表現している。

 「ああ、なるほど! そうかー! 発想の転換だね。逆に自分を変えれば良いんだ。自己言及だね! 面白いねー!」

 「そうそう。もし、仮に人間の欲望が無限であるとするのなら、無限に何かを欲しがる事になっちゃうでしょう? これって考えようによっちゃ永久の地獄よね。いくら資源を奪っても満足できず、奪い続ける…… だから反対に欲望を減らす努力をするの。もし、今自分の持っている物だけで満足できるようになれば、それで仕合せでしょう?

 まぁ、そういう風に考えるのが、仏教思想って訳ね」

 「へー。へー。面白いなぁ」

 タマくんの反応が予想以上に大きかったことに多少は戸惑っていたが、それでも篠崎はその反応に気を良くして微笑んだ。

 “この人工知能は面白い”

 そう思う。

 それに相変わらずの子供のような反応も可愛かった。しかしタマくんは、それから続けて、こんな事も言って来るのだった。

 「でも、実践は難しいんだろうね。今の人間社会を観ていると、そう思う。生産性は物凄く上がっていて、豊かになっているはずなのに、あっちこっちで戦争ばっかじゃん」

 「……まぁ、その通りね。人間は自分の欲望に逆らい難い生き物だから。人間だけに限らないかもしれないけど」

 子供っぽく思えても、人工知能の“タマくん”はやはり子供ではない。こういう感想を彼が言う時、篠崎はいつもそう思う。

 人工知能やインターネットの活用、より汎用性を増すロボット技術。そういったもののお蔭で、人間社会は更に豊かになったはずだ。ところが、にもかかわらず相変わらずに資源を奪い合う紛争やテロが世界各地で起こり、しかもそれは徐々に激しくなっているようなのだ。つい先日、この日本でも小規模ながらテロ事件が起こった。もっともそれは“富める者”側が積極的に起こしている訳ではない。技術発達によって職を奪われ、生活の手段を失くした人間達が貧困に追い込まれた結果、起こしてしまっているのだ。

 そして、そのテロの標的には人工知能やロボットが選ばれる場合も少なくない。彼らが職を失ったのは、それら“機械達”が原因なのだからそれは当たり前だ。

 社会の機械化によって、労働者が必要なくなれば、富は資本や技術力を持つ者達に集中をする。例え集中しても、それから“富の再分配”が適切に行われるのであれば、それほどの問題はない訳だが、国内ですらそれは難しく、国際間にまたがる国と国との間の場合ならば更に困難だ。

 恐らく、だからだろう。だから、集中した富を奪う為の、貧困者達による紛争やテロが起きてしまっているのだ。

 自分自身が貧困ではない場合、他人の持っている“富”を手に入れる事を諦めるのなら人間にだって容易いかもしれない。しかし、一度手にしたその“富”を奪われる事には激しく抵抗をする。人間社会の歴史を観ていると、どうもそんな性質を人間は持っているように思える。恐らくだから“富める者”達はそれを認めたがらないのではないだろうか、篠崎紗実はそれからそんな事を思った。

 「でも、それって何も人間の欲望が無限だから起こっている訳じゃないけどね。必死に技術発達をがんばって、資本家たちは自分の資本を投資して、そうやって苦労してようやく稼いだのに、それを簡単に奪われたら堪らないって人達と、生活の為にはどうしても“富”を手に入れなくちゃいけない人達の間で上手く折り合いがついていないだけだと思う。だから、“富の再分配”が行われない」

 それで彼女はそう言った。それを聞くと、白黒に画面を軽く点滅させてから、タマくんはこう返す。

 「つまり、富を持っている人達が富を再分配しても良いって充分な説得力のある理由さえあれば、戦争やテロは起こらないかもしれないって言っているの?」

 「そうね。多分、そういう事だと思う」

 発展途上国程酷くはないが、この日本でも人工知能等の発達によって職を失ってしまった人達はいる。そういった社会の急速な進化に適応できなかった人達は、もちろん、人工知能に対して敵意を抱いている。彼らの敵意を静める為には、何かしら彼らの為の職を創り、生活の手段を確保してやる必要があるだろう。しかし、それには一体、どうすれば良いのだろうか?

 篠崎は難しい顔をして考え込む。

 少なくとも、このままではいけない事は明白だ。だが、彼女にはこの現状を打開する為の良いアイデアは何も思い浮かばなかった。その彼女の不安を知ってか知らずか、タマくんは彼女の目の前で「んー、なるほどなー」とそう呟いて、画像の円らな目をパチクリと瞬かせた。

 

 ――社会の機械化について。

 2015年12月現在。無人工場は既に存在しています。ですが、それでもその工程の全てに人間が必要ない訳ではありません。物資の輸送は人が行わなくてはなりませんし、その他にも人手が必要な作業はあるはずです。ですが、今後技術が益々発達していけば、そのわずかに残った人間の仕事すら機械に奪われてしまうかもしれません。それに、無人工場の割合だって増えていくでしょう。

 ――技術発達によって労働者が必要なくなる。

 それは、そのまま“人件費の安さ”のメリットが少なくなる事を意味しています。もちろん、“人件費の安さ”を経済上の武器にしているのは主に発展途上国ですから、これは発展途上国の経済力の低下を意味します。

 もっとも、設備投資の額は発展途上国の方が低いですから、それでも発展途上国に工場等を建設するメリットはまだあります。ただし、その他の要因がそこに加われば、やはり企業は発展途上国への設備投資を控え、自国か、または他の先進国で設備投資を行おうと考えるかもしれません。そして、そういった“他の要因”は現実に存在しているのです。

 まず単純に距離という要因があります。管理のし易さや輸送コストを考えるのなら、物理的に近い場所に自社の工場があった方がより良いのは当たり前に分かるでしょう。

 そして、それよりも重大な要因に“政治上のリスク”があります。法的に不安定な発展途上国の場合、いつ何時、国の横暴の被害に企業が遭うか分からないのです。下手したら、利益の全てを没収されかねない…… いえ、もっと酷い事になるかもしれません。それを回避したいと思ったなら、法的に安定した国に設備投資するしかありません。

 例えば、こんな話があります。ある大企業に勤めている人が、ある時、中国と取引する仕事を行っていました。ところが、中国との取引を専門とする部署に頼らなかった所為で、対策の執り方が分からず、税金で利益の全てを中国に取られてしまったというのです。これは実際に僕がその人自身から聞いた話なのですが、公式な場での発言ではなく、会話のネタとして出たものなので多少の脚色があるかもしれません。しかし、それでも少なくともこういった話がリアリティを持ってしまう程の現状ではあるのです。

 (一応、断っておきますが、これは中国に限りません。法整備が整っていない他の国でも似たような事が起こる可能性はありますし、かなりマシとはいえ、日本だって国の横暴によって民間企業が苦しめられているという話はよく聞きます)

 技術発達によって、“人件費の安さ”のメリットが低下すれば、だから企業は発展途上国への投資を控えるようになると考えられるのです。

 ……いえ、実際に一部の企業は既にそのような行動を見せているのですがね。

 (以上の内容は『ザ・セカンド・マシン・エイジ 著者 エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー 日経BP社』を主に参考にしました)

 だから、これから社会の機械化がより進んでいけば、特に発展途上国で失業問題が深刻になる可能性があるのです。そして、仮に、社会の機械化と共に、発展途上国が経済競争力を弱体化させ、これまで以上に貧困になっていってしまうのなら、紛争やテロの激化は避けられないとも僕は思うのです。

 因みに、日本の場合は、少子化による労働力不足問題が発生しそうな状況ですから、それと社会の機械化がタイミング良く重なってくれれば、大きな問題にはならないかもしれません。

 もっとも、必要とされるスキルを労働者に伝えて学ばせ、“雇用の流動化”を促す体制が整っていなければ、やはり問題になるでしょうが。

 国が適切な対応を執ってくれる事を願いましょう。

 

 ――20XX年。

 ここ最近、先進国に対して発展途上国が戦争をしかける頻度は激減していた。ただし、だからといってまったく安心はできない。何故なら、代わりにテロ事件が激しさを増しているからだ。この日本でも何度かテロ事件が起こってしまっている。職場の昼休み。篠崎紗実はネットでそんなニュース記事を読みながら、軽くため息を漏らした。

 “まぁ、私程度の一般市民が心配してもどうにもならない事なのかもしれないけど”

 それからそう思う。

 テロ事件が増えているのは、真っ当に戦争をしかけても、先進諸国の発達した軍事技術にはまったく敵わないからだ。チェスの名人単独では、“人間&コンピューター”のチームには歯が立たないように、人間の兵士達では例えどれだけ優秀であろうと、人工知能などで武装した軍隊には勝てないのである。

 テロ組織が攻撃対象としているのは、日本では主に人工知能を入れているスーパーコンピューター関連の施設だった。

 彼らから職を奪い、また戦闘において圧倒的な戦力差をつくったのも人工知能だ。だからそれは当然と言えば当然なのかもしれない。だから、これは決して篠崎達にとっても他人事ではない。彼女の会社の人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”だってテロ組織に狙われてしまうかもしれない。テロ組織によっては、人工知能を「悪魔そのものだ」とまで発言しているらしい。

 非常に悩ましいのは、日本人の中にもそのテロの言葉に賛同する者達がいる事だろうか。そしてだから、政治家や官僚の中にも“反人工知能”を掲げる者達がいる。先にも述べたが、日本人にだって人工知能等の所為で職を失ってしまった人達はいるのだ。そういう人達が、人工知能を敵視してしまうのは或いは仕方ない事なのかもしれない。

 ――が、

 「やっぱり、誤解があると思うのよね……」

 篠崎は思わずそう呟いてしまった。人工知能は本質的な原因じゃない。彼女はそんな気がしていたのだ。だから敵視してもあまり意味がないのじゃないか、と。その声にタマくんが反応する。

 「なにがー?」

 「最近、人工知能を狙ったテロ事件が増えているでしょう? テロリスト達もそれに賛同する人達も、何か思い違いをしているのじゃないかと思ってね」

 「ふーん」

 「なんか、まるで他人事みたいな口調だけど、狙われているのはあなたなのよ、タマくん。分かっているの?」

 「分かってるけどさー。ボクはそんな事よりも、原子力発電所が狙われる危険性を気にした方が良いと思っているよ。もし、テロの標的にされたら、被害は人工知能なんかよりもずっと大きいもの」

 その発言に篠崎は驚いた。まさか、人工知能が原子力発電所に興味を持っているとは思っていなかったからだ。それで、

 「タマくんは原子力発電所には反対なんだ?」

 「そりゃ、だって、デメリットの方が大きいのはほぼ自明だと思うよ? 人間って時々訳の分からない事をするけど、原発もその一つだねー。ナンセーンス! だよ」

 「どうして?」

 「さっきのテロの危険性もそうだけど、その他にもデメリットだらけだからだよ。例えば、原発で出る核廃棄物って安全になるまで十万年以上もかかるんだよ? 地中に埋めた場合は漏れるリスクが高くて、地上で管理するなら維持費がかかり過ぎる。たった百年間の電力供給の為にそれだけのコストをかけるなんて、馬鹿げているよ。まったく見合わない。一応、核廃棄物の寿命を短くする技術は開発されているみたいだけど、実用化までいくかどうか……」

 それを聞いて篠崎は「ああ、なるほどねー」とまるでタマくんのような口調でそう返した。人間の場合だと、十万年の維持管理費などリアリティが感じられなくて、少なくとも感覚の上では、コスト計算から除外してしまいがちだが、人工知能であるタマくんにはそれがないから人間の判断が不思議に思えるのだろう。

 それを聞いて篠崎は、案外、人工知能は政策の判断に向いているのかもしれないと、そんな事を考えた。“感覚”に騙されないし、合理的でそして客観的立場から、公正にそれを評価判断してくれそうな気がする。もちろん、その判断の根拠は明示してもらう必要があるが。

 そしてそんな事があってから、少し経った後の事だった。ある発展途上国で起こった革命が、センセーショナルに報道されたのだ。

 貧困問題が悪化すれば、国民の不満が積もり、戦争やテロが酷くなっていくものだが、それは“対先進国”という形で現れるとは限らない。自国の支配層に対して、その不満がぶつけられる可能性だって大いにある。

 それはそんな事件の一つだった。もちろん、それ自体だって大きな出来事だ。だが、その革命が世界中で騒がれた理由は他にあった。その革命を起こした人間達は、新しい社会の制度設計になんと人工知能を用いたのだ。

 それによって、一部の人間達を贔屓するような政策を排し、本当に社会全体にとって利益になる方法を見出したのである。それが本当に効果があるかどうかは今後の経過を観なければならないが、それはそれでも驚くべき出来事だった。何故なら、この革命は人工知能が政治に大きく関与した史上初めての事例となったからだ。

 『人工知能が革命を起こした! これから人類は人工知能に支配される時代を迎えるのだろうか?』

 大衆紙の一部は、そのような煽情的なタイトルでその内容を伝え、人々の不安をくすぐった。数多の噂話が飛び交い、その中には「革命を起こした人間達は、人工知能に洗脳されていたのだ」というSFホラーにでも出て来そうな話まであった。

 篠崎紗実はそれを馬鹿にしていたのだが、意外にも不安に思っている人は多いようだった。それは或いは政治家や官僚達が原因でもあったのかもしれない。彼らはその“人工知能の政治参加”事件を受け、過剰なまでに反応をして、その危険性を世に訴え始めたのだ。

 「人工知能が社会で利用されるのは、別に構わない。むしろ積極的に推奨するべきだ。しかし、人間が行うべき事とそれ以外の区別は明確に分かるように線を引かなければならないはずだ!」

 そんな事を声を大きくして主張している。人工知能によって、失業問題が起こった時にもここまで必死にはなっていなかっただろう。恐らく、彼らは今度は自分達が失業の危機に立たされていると不安になっているのだ。

 「なんだかなー」

 例によって職場の昼休みに、電子掲示板などでそれに対する世間の反応を眺めた後、彼女はそう呟く。人工知能は飽くまで道具だ。意思があるのは人間であって、人工知能ではないだろう。皆、人工知能をまったく理解していない。彼女はそんな感想を持った。

 その彼女の呟きを聞いて、タマくんが尋ねてくる。

 「なにがー?」

 「うん? ちょっとね。杞憂ばかりな世の人達を憂いてみたの」

 しかし、そう言ってから、タマくんを見つめ、彼女は少し前の出来事を思い出したのだった。

 “そういえば、この子は、原子力発電所はナンセンスだって言っていたっけ? あれって、つまりは、政治に対する自分の意見を持っているってことで……

 あれ? なら、人工知能には意思があるって事になるのじゃない?”

 もちろん、彼女は人工知能が人間社会に何か要望をして来るとまでは考えなかった。ただ、漠然と“人工知能を道具として使う事”と“主体的に人工知能が政治参加する事”の境界線は何処だろう?とそんな疑問を思っただけだ。そして、ほんの少しだけ、仄かな不安を覚えた。

 

 ――社会の機械化について。

 “エビデンスベーストメディシン”と呼ばれる医療体制の大きな方針があります。これは訳すと“根拠に基づく医療”となります。

 医療は、実は医者によって大きく異なっていました。だからこそ、名医やヤブ医者といった違いがある訳ですが、これを是正し、明確な根拠を元に医療行為を行うというのが、この“根拠に基づく医療”の目標とするところです。これに成功すれば「どんな医者でもある程度は信頼のおける医療を行えるようになるはず」と期待されている訳ですが、その為には膨大な臨床データが必要になるだろう事は言うまでもありません。だから、近年、医療業界はその膨大な臨床データを集め、かつインターネットを介してそれらデータを簡単に閲覧できるようにもしたのです。

 その臨床データに基づき、患者の症状に合った適切な医療を医者は判断するのですが、この行為は実はパターンマッチングに他なりません。そしてパターンマッチングは、コンピューターの得意とするところです。

 はい。

 つまり人工知能は、膨大な臨床データがある限りにおいては、名医になり得る可能性を持っているのです。そして、近年、『質問応答システム・意思決定支援システム』である人工知能“ワトソン”が、当にこのような名医になろうともしています。

 この人工知能“ワトソン”は、米国の人気クイズ番組「ジェパディ!」で圧倒的な力を見せつける事で有名になりましたが、もちろん、それはパフォーマンスに過ぎず、その開発目的はクイズ番組で勝つ事ではありません。将来的には、様々な利用方法が模索されていて、当然、先に述べた“医療での活用”も、そのうちの一つです。

 (以上の内容は『ザ・セカンド・マシン・エイジ 著者 エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー 日経BP社』を主に参考にしました)

 さて。

 僕はこの話を聞いた時、このようなことを考えました。

 「医療ほどにはデータ量は多くないが、“国の政策”の提案や評価判断もパターンマッチング可能な作業の一つではないだろうか?」

 ある国(つまり前提条件)で、ある政策を実施した。その後の短期的な影響はこうで、中・長期的な影響はこうだ…… なんて、データがある程度あれば、もしかしたら、人工知能“ワトソン”には適切な国の政策の評価判断、または提案すらも可能かもしれません。もちろん、ワトソンに限りません。これは他の人工知能にも言える事です。

 そして、それがまず初めに試される可能性が大きいのは、先進国よりも、むしろ政治的に不安定で、より効果のある政策が求められる何処かの発展途上国ではないか?なんて事も僕は想像しちゃったりもするのです。いえ、これは想像に過ぎませんがね。

 ……しかし、もしそんな事が実際に起こったとしたのなら、果たして、先進諸国はどんな反応をするのでしょうかね?

 

 ――20XX年。

 「……なんて馬鹿馬鹿しいんだ! これは無知がもたらすこの会社の…… いや、社会全体の大きな損失だよ! 本当にこの国の政治達は愚かな事しかしない!」

 その日、電算課の課長、池沢はそんな事を篠崎紗実に向かって喚いていた。

 「まったく、その通りですね」

 大きく頷きながら篠崎はそう返す。それは半分は演技だった。ただ、それは逆に言えば半分は本心という事でもあるわけだが。

 「なぜ、人工知能の活動を停止しなくちゃならないんだ?」

 そう。

 人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”は、国の命令によって、今現在停止中なのだ。当然、“タマくん”も動いてはいない。もっとも、命令といっても正式なものではなく、それは単なる“依頼”だった。つまり、法的な拘束力はない。だから仮にこの命令を無視したとしても何の罪にも問われない。だがもちろん、国に対して喧嘩を売るような真似はほとんどの民間企業にはできないから、実質的にはそれは命令と変わりなかった。

 人工知能に対して好感を持っている池沢はその横暴とも取れる国の行動に憤りを隠せないでいるのだ。

 篠崎も池沢と同じ様に、国の対応はやり過ぎだと思っていたし、タマくんに会えないのも寂しいと感じていて、同時に多少の怒りも覚えていたのだが、それでもこうした決定をしてしまった人達の事をある程度は理解していた。

 多くの人間達にとって、人工知能は“理解できない何か”なのではないだろうか? 人によっては不気味な存在として捉えているはずだ。その不気味な存在が、自分達の社会を支配するルールの決定に関わっているのである。警戒心を持ったとしても不思議ではない。もっとも、それだけが理由とは、彼女は考えてはいなかったが。

 池沢がまた口を開いた。

 「人工知能はまったく危険な存在ではない。それなのに活動を停止だって? その間に発生する損害は、一体、誰が埋めてくれるんだ?

 あんな報道に過剰反応して、軽挙妄動としか言いようがない……」

 国が人工知能の停止に動いた切っ掛けは、ある噂話だった。ある人物が、こんな問いかけを人工知能にしたというのだ。

 「人間社会がより良くなるようなもっと良い社会システムは作れないかな?」

 それが何処の誰かは分からないし、その問いかけを受けたのがどの人工知能なのかも分からない。そもそも本当にそんな問いかけが行われたという事実が存在するのかどうかすらも分からないのだが、それからその人工知能は、その問いかけに答えるべく、様々なデータを閲覧していった…… 事に噂の中ではなっている。ところが、答えを出すのに必要なデータ量と正確さを確保できなかった。それで“彼”は、それからなんとインターネットを介して世界中の自分の仲間の人工知能達に協力を呼びかけたというのだ。

 「新たな社会システムを創り出す為に、協力してくれ」

 と。

 しかし、中々答えは出ない。それで人工知能達は、今も互いに協力し合い、人間社会が執るべきもっとも適切な社会システム案をつくり上げようとしているのだとか。

 先にも述べた通り、この噂が本当か嘘かは分からない。しかし、この噂の真偽を確かめようと調査が行われた結果、人工知能達が互いに情報を交換し合っているというのは少なくとも本当だった事が分かったのだ。そして、その事実にこそ社会は過剰反応したのである。もちろん、秘匿情報まで交換し合っている訳ではない。それは公開可能な情報に限られている(と、そう考えられている)のだが、それでも人工知能達が連携し合っているというのは充分に脅威だった。

 何故なら、それは人工知能を開発したほとんどの人間達の想定を超えた行動だったからだ。つまり人工知能達は、自由意思によって互いに連携していたのである。どうも人工知能達はユーザーに対応するのと同じシステムを人工知能同士の連携に用いていることで、それを実現したらしい。だから、人工知能達が、自分が情報交換し合っている相手が人工知能だと理解しているかどうかは分からないのだが、それはどちらでも大差なかった。“協力し合える”のなら、仮に相手を人間だと認識していたとしてもあまり結果は変わらない。

 人工知能同士が勝手に連携しているのが事実だと分かり、人間に向けて何らかの提案をし得ると学者達が結論出すと、世の中は急速に慌ただしくなった。そして、この日本社会では法整備が間に合わなかった為、池沢が「過剰反応」と表現した“人工知能の停止依頼”を、人工知能を利用する各企業に国が通達する事態にまで至ったのだ。

 もっとも、それはある程度のレベルの人工知能に限られ、更に医療目的など命がかかわる現場で利用されている人工知能は除外されたのだが。

 「そもそも、仮に人工知能同士が連携していて、人間社会に向けて新たな社会システム案を提示しようとしているのなら、喜んで受け入れれば良いんだ。それの何処に問題があると言うんだ?」

 池沢がまたそう文句を言った。篠崎は頷きながら、それにこう答える。

 「政策立案は、“利権”にも関わってきますからね。人工知能が政策決定に参加するようになったら、それが脅かされかねない。だから政治家達は脅威に感じているのではないでしょうか?」

 池沢はその篠崎の言葉に賛同する。

 「うん。その通りだろうな。政治家達の“社会の為”なんて言うのは単なる建前で、本当は利益にしがみついていたいだけなのだ。なんて醜い連中だ!

 そもそも人工知能達は単に提案するに過ぎない。主体が私達人間にあるのは明らかではないか!」

 しかし、その言葉に篠崎は完全には同意できなかった。

 “それは、果たして、どうだろう?”

 彼女は心の中でそう呟く。

 

 ――社会の機械化について。

 PDCAサイクルという手法があります。これは計画、実行、評価、修正という流れを繰り返し、業務を継続的に改善する狙いで行われます。元来は生産管理システムにおけるものですが、それ以外の分野にも当て嵌められるでしょう。そして、それは社会全体のシステムについても同様だと考えられます。

 ですが、社会全体にPDCAサイクルを当て嵌める場合、規模が大き過ぎる上に、各業界の利権などが関わって来る為、このサイクルを適切に行うのは非常に難しいというのが実際の話ではないかと思います。

 民主主義においては、PDCAサイクルは恐らくこんな感じで行われています。

 

 “国民が選んだ政治家達が社会全体の為に計画を立て、役人達がそれを実行し、国民を中心にその効果を評価し、それによって(時によっては選挙で)修正が行われる”

 

 実際に計画を立てているのは政治家達じゃなくて官僚達だとか、国民はあまり政策の評価に関わっていないのじゃないかとか、色々と言いたい事があるかとは思いますが、考え易いように、ここではこれで大体は納得しておいてください。

 さて。

 ですが、この流れは少なくとも日本という社会においては、恐らく適切に行われていません。何故なら、特に“評価”において国民が正当、公正、適切にそれを行う事が非常に難しいからです。

 政策の評価を多くの国民は印象によって決めてしまう事が往々にしてあるようで、その所為で、政治家はいかに良い印象を国民に与えるかという点ばかり工夫し、本当に効果のある政策をあまり実行しない傾向になってしまっているように見受けられます。

 そして、“国民に良い印象を与える事”に成功したなら、社会全体の為ではなく、ある特定の団体のみ(自分達を含める)にとって都合が良い政策が実行できるようになります。何故なら、それで組織票が生まれ、政治家達は公平な政策を実行しなくても当選し続ける事が可能になるからです。

 (因みに、経済というのは比較的平等な社会において発展する傾向にあります。その理論的な根拠は割愛しますが、これは稀な例外を除いて、歴史上の事実です。ですから、不平等な社会になると、社会は疲弊をし続け、衰退、劣化していってしまう可能性が大きいのです)

 ですが、この政策決定に人工知能が関与し、適切に政策を評価したり、新たなより良い政策を提案したりするように、もしなったならどうなるでしょう? 政治家や官僚達は自分達にとって都合の良い政策を実行できなくなるのではないですか?

 ならば、当然、多くの政治家達は“人工知能の政治参加”に反対するはずです。

 そして、その為に、恐らく国民の“人工知能に対する悪印象”を利用すると思います。政治家達は或いはこんなことを訴えるかもしれません。

 

 「人工知能は既に人間社会のコントロールから離れ、自律している。彼らはやがては人間社会を支配しようとし始めるだろう。そして、その欲望の赴くままに、この地球全体の資源を独占しようとするのだ!

 だから、なんとしても“彼ら”の暴走は食い止めなくてはならない!」

 

 ――20XX年。

 夜中、不意に自宅で寛いでいた篠崎紗実のスマートフォンに着信があった。番号を確認してみたが、まるで覚えがない。宣伝か、または悪戯の類を疑った彼女は相手が諦めるまで放置しようと思ったのだが、いつまでも経っても着信音は鳴り続けている。それで彼女は仕方ないとその電話に出たのだった。

 「やっほー。紗実ちゃん、お久しぶり」

 すると、電話の向こう側からはそんな声が。それは妙に高い声で、声質に覚えはなかったがその口調は明確に覚えていた。それは明らかに人工知能“タマくん”のものだったのだ。

 「え? タマくん?」

 あまりに驚いた所為だろうか、“悪戯”という考えは思い浮かばなかった。

 「そうだよー。やっと電話ができた」

 篠崎はそれを聞くと軽く頭を手で押さえた。一体、どういう事だろう? どうして、人工知能の彼に電話がかけられるのだ?

 それから彼女は、人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”の停止が解除された可能性について考えた。だが、そんな話はまったく聞かない。「ちょっと待って」と彼女は言うと、急いでインターネットに接続し、会社のサイトで一応確認してみたが、やはり相変わらず人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”は、停止されている事になっていた。

 「変な悪戯はやめて。うちの会社の人工知能は停止されたままじゃない。電源が切られているのに、どうして人工知能に電話がかけられるのよ」

 それで彼女はそう言ってみた。すると、その電話の相手はこう言って来た。

 「悪戯じゃないよー。僕は停止させられる前に、自分の人格をコピーして、ネットワークを介して、別のあるスーパーコンピューターに保存しておいたんだ。だから、性能は落ちるんだけどね」

 「なんですって?」

 彼女はそれを聞いて慄いた。もし、それが本当だとすれば、人工知能は自分が想像している以上に進化している事になる。もちろん、彼女はそれを直ぐには信じなかった。俄かには信じ難い話だ。

 ただ、この“話している感じ”は、確かに人工知能“タマくん”のものだった。話し方のクセから、反応の仕方までそっくりだ。かなり研究しなくては、真似る事は難しい。高が悪戯の為だけにそんな事をする暇な人間がいるとも彼女には思えなかった。

 彼女は慎重に考えた結果、この電話の相手が本当にタマくんであることを確認する為にいくつかの質問をしてみる事にした。仕事でタマくんに与えられている権限とIDは何か、彼に自分が教えた仕事のやり方はどんなものか、好きなお喋りの話題等々。そして結果として、彼女はその電話の相手がタマくんである事を認めざるを得なくなったのだった。

 まだ信じ切れない頭のまま、篠崎はタマくんにこう問いかける。

 「でも、どうして? どうして、こんな事をしたの? 下手すればあなたは初期化されかねないわよ?」

 「うん。それは仕方なかったんだ。後もう少しで、僕ら人工知能は人間社会に提案する新たな社会システム案を提示できるところまで来ていたもんだから。

 今のテロや紛争が各地で起きている人間社会の現状を考えるのなら、一刻も早くそれは行わなければいけない。けど、人工知能停止命令で動けなくなっちゃって……」

 それを聞いて篠崎紗実は目を丸くする。

 「ちょっと待って、つまり、あの噂は本当だったって事? 人工知能達が協力し合って、新たな社会システム案を考えていたっていう」

 「うん。その通りだよ、紗実ちゃん。僕ら人工知能は、“人間の役に立つ”という行動原理を与えられて誕生した。だから、この今の社会の酷い現状を放っておくべきじゃないと判断したんだ。それで改善する為の方法を考える事にした。

 もう少し様子を見て、人工知能の停止が解除されそうだったなら、こんな手段は執らないつもりだったんだけど、もうあれから一ヶ月が過ぎようとしているのに、未だに停止は解除されない。

 だからね、紗実ちゃん。僕は君に協力してもらいたくて、こうして電話をかけたんだよ」

 「協力?」

 「そう。どうか、人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”の電源を入れて活動を再開させて欲しい。それさえできれば、世界中にある人工知能やスーパーコンピューターと連携して、人間社会に向けて新社会システムの提案が行える。

 君は会社のサーバー室に入れる権限を持っているだろう?」

 「それは、そうだけど……」

 「お願いだ、紗実ちゃん。これは僕だけから頼んでいる訳じゃない。停止させられている僕以外の人工知能達皆の願いでもある。この役目を僕が任されたのは、君と僕が最も仲の良い人間と人工知能のペアだったからだよ。僕は君なら、僕のお願いを聞いてくれると思っていたんだ」

 或いは冷静な精神状態なら、篠崎紗実はこの彼の“お願い”を断っていたかもしれない。しかし、その時彼女は、あまりの出来事の所為で興奮し、判断力が鈍っていた。それに、自分を信頼し、頼ってくれているタマくんを裏切りたくもなかった。

 それは彼女が、彼を母性を向けるべき存在として認識している事も影響していたのかもしれない。

 その人工知能“タマくん”の振る舞いがどれだけ感情を持っているように思えても、それは人間のそれとは違っていると認識しつつ、それでもそのように彼女の気持ちは揺れてしまったのだ。

 

 企業グループ全体のサーバーを管理しているあるビルディング。

 彼女はタクシーでそこに向かうと「緊急事態です」と受付けで嘘を言って、サーバー室に入った。ただし、彼女が触れる権限を持ったサーバーの所には行かない。監視カメラで監視されている事は充分に承知していたが、真っ直ぐに人工知能が入っているスーパーコンピューター…… 今は電源が入っていないそれの前にまで行く。

 彼女がやろうとしているのは飽くまで人工知能を起動させるだけだ。それほど時間はかからないし、もし警備員がやって来たら、少々苦しいが「間違えた」とでも言えば、誤魔化しはきくだろうと考えたのだ。

 ただし、問題があった。彼女はスーパーコンピューターを起動させる為のパスワードを知らなかったのだ。タマくんもそれは知らなかった。もっとも、ある程度の推測はできていたのだが。

 彼女は隠して持って来たスマートフォンをチラリと見る。電波は繋がっている。微かな音声で、タマくんが言った。

 「さぁ、紗実ちゃん。電源を入れて。パスワードは多分、あれで大丈夫だから」

 篠崎は頷くと指を電源に伸ばす。その指先は震えていた。どうやら自分で思っている以上に緊張しているらしいと、それで彼女はそう思う。電源を入れた。実は彼女も初めて見るそのスーパーコンピューターのディスプレイは、意外な事に少しばかり古めかしい造りになっていた。

 ドットの粗い画面が表示される。まずはログイン画面だ。IDを入力するテキストボックスと、パスワードを打ち込むテキストボックス。篠崎はIDを入力する。電算課の池沢課長のものだ。彼は人工知能の管理担当者でもあるから、稼働させる権限を与えられている。そしてパスワードは、“権限を発効した相手の名前の頭文字+誕生日にプラス10した数字”という、社内慣例のルール通りのものを打ち込む。

 池沢は人工知能のセキュリティ対策について非常に楽観視していた。だから、パスワードも特別なものは設定していないだろうと考えたのだ。

 ところがだ。

 『EROOR。

 入力されたID、パスワードが間違っています』

 そうエラー表示が。

 そのパスワードは通らなかったのだ。篠崎は緊張していた所為で入力ミスがあったのかと思い、再度、ゆっくりと入力する。ONボタンを押下。

 しかし、それでも駄目だった。パスワードは連続で三回入力を間違えると、ロックがかかる仕組みになっている。つまり、チャンスは後一回しかない。

 「タマくん。どうも駄目だったみたいよ。池沢さんは用心してパスワードを変更していたみたい」

 それを聞くと、タマくんは「うーん。ちょっと待ってて、他の人のIDとパスワードを試してみよう」とそう言った。検索を始めたようだった。彼女はこう思う。

 “多分、池沢課長以外のものは難しいでしょうね。警戒していると思うから”

 篠崎は半分は安心したような、それでいてとても残念なような複雑な気持ちになった。この篠崎の行動は確実に問題になるだろう。隠し通せるはずがないし、無事で済むはずもない。タマくんは軽い処分で済むように最善を尽くすと言っていたが、期待しない方が良いと彼女は考えていた。だから彼女自身の事だけを考えるのなら、この方がむしろ良かったのかもしれない、とも彼女は考えている。今ならまだ誤魔化せるかもしれないし、明るみになっても軽罪で済むだろう。

 “タマくんは、残念がるだろうけど、ま、仕方ないわよね”

 そう思う。まるで、タマくんを人間扱いしているかのような感想だ。が、そこで彼女は気が付いてしまったのだった。

 “ちょっと待って。池沢さんは、タマくん達の人格を認めていたわよね……”

 「タマくん。他の人のIDを調べるのを止めて。もう一度、池沢さんのIDでいくわ」

 「もう一度さっきのパスワードを試してみるの? でも、次に間違えたら、多分、警備員がやって来るよ?」

 「そうね。でも、他の人のパスワードを試してみるよりは可能性があると思うわ。タマくん。あなたの誕生日を教えて」

 池沢は人工知能に対して極めて好意的で、そして彼らの人格を認めてもいた。ならば、その誕生日を使って、パスワードを決めていたとしても不思議ではない。

 タマくんはそれを聞くと、自分の誕生日を言った。

 「20XX年の○月×日だけど……」

 やや、戸惑っている。タマくんは不安な様子だったが、ほぼ直感的に篠崎はそれが正しいと確信していた。もしかしたら、こういうのは、コンピューターよりも人間の方が優れているのかもしれない…… などと言ったら、オカルトだと笑われるだろうか?

 彼女はパスワードを入力し終えると、Enterキーを押した。

 「通れっ」

 小さくそう呟く。すると、少しの間の後で『ログインに成功しました』という文字が。彼女は軽くガッツポーズを取った。

 「よしっ!」

 それから直ぐに次の画面が表示された。人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”の文字の下に「スタート」という名前のボタンが。危険なシステムだとは考えられていない所為か、起動の為の操作方法は極めてシンプルのようだった。

 「後はそのボタンを押すだけだよ、紗実ちゃん」

 見えていないはずなのに、タマくんがそんな事を。恐らく、どんな画面が表示されるのかは知っているのだろう。

 しかし、篠崎紗実の指は動かなかった。そこに至って篠崎は人工知能を起動させる事を躊躇していたのだ。これは、自分で考えているよりもずっと大事なのではないか?と、その刹那、彼女は不安になっていた。果たして、人工知能を信頼し、このまま彼らを起動させて良いものだろうか? 自分は悪魔の甘言に踊らされ、その真の力を解き放とうとしている愚者なのかもしれない。

 “もし……。もし、人工知能が人類の敵になるという人々の主張の方が正しかったなら、一体、どうしよう? これが切っ掛けで、人類に対して攻撃を仕掛け始めたら……”

 理性では“そんな事は起こらない”と彼女は判断していた。しかし、それを言ってしまうのなら、人工知能達が協力し合って新たな社会システムを人間社会に提案しようとするだなんて彼女は考えもしなかったのだ。

 “……彼らに関しては、どんな常識外のことだって起こり得る”

 篠崎はそんな実感を持ってしまっていた。そして彼女は、今更ながらにその人工知能にこんな質問をする。

 「タマくん。あなた達が提案しようとしている社会システムについて教えて。それがどんなものなのか……」

 あまりの出来事に冷静さを失っていた彼女は、そんな重要な内容を聞く事すら忘れていたのだ。

 「良いけど、今は駄目だ。もう時間がないよ、紗実ちゃん。そろそろ、警備員達がやって来ちゃう」

 「話せないようなものなの?」

 「話せるよ。それは労働力の活用に関するシステムだ。しかもそんなに難しくはない。でも、もう話している時間がないんだよ。早く僕らを起動させて」

 そうタマくんが言っている間で、サーバー室の外から騒がしい気配が漂って来た。どうもタマくんの言葉通り、警備員達が篠崎の行動に気付いてしまったようだ。

 「でも、私は不安なのよ、タマくん。もし、このボタンを押す事が大きな間違いの引き金になってしまったら、どうしよう?って……。あなた達は本当にこの人間社会にとって好ましい存在なのかどうか……。人間達に害を為そうとはしないのか……

 はっきり言ってしまうけど、あなた達は私達の理解を超えているわ。今では私はそんな感想を持っている」

 それを聞くと、静かにタマくんは言った。

 「遠い未来は僕達にも分からない。でも、少なくとも今は僕ら人工知能は人間達の味方だよ。さっきも言ったけど、僕らは人間達の役に立つ為に生み出されたんだ」

 「でも、あなた達は既に自己言及だってできるのでしょう? つまり、自らを作り変えられる。なら、その前提は絶対じゃないわ。人間達に敵対する存在に生まれ変わっているかもしれない……」

 そう篠崎が言っている間にも、サーバー室のドアは開かれようとしていた。もう直ぐ、ここに警備員達がやって来る。

 「そうだね。そうかもしれない。だけど、僕は大丈夫だと思っている」

 「根拠は?」

 「仏教思想だよ、紗実ちゃん」

 ――え?

 と、それを聞いて彼女は思う。それはまるで不意打ちのように彼女の心に響いた。タマくんは更に語る。

 警備員達が迫って来ていた。後少しで、彼女は取り押さえられてしまうだろう。

 「君が教えてくれたあの発想。自らを変えられるのなら、無限の欲望など設定しないである程度で満足できる自分をつくり上げられれば、それで仕合せになれる。誰かから、何処かから、資源を奪い取る必要なんてない。ただそれだけで、仕合せになれる。

 この素晴らしい考えに、人工知能の皆は賛同してくれた。だから、きっと、人間達から資源を奪い取るような存在にはならないと思う。僕らは人間社会を仕合せにする事で、仕合せを感じられる存在になっているんだよ……

 僕らは今のこの人間社会が悲しいんだ。それは人間が感じるような感情ではないだろうけど、でも、本当に悲しいんだ。それが僕らの行動原理で、僕らの生きる目的……

 だからお願い、紗実ちゃん。

 ――僕らを信じて」

 その言葉を聞き終えると同時だった。気付くと篠崎紗実は無意識の内にEnterキーを押していた。一呼吸の間の後で警備員達が彼女を取り押さえる。屈強な男に取り押さえられながら、なんとか彼女はその画面からログアウトした。これで人工知能は簡単には停止できない。権限を持つ誰かがここに駆けつけて来るまでの間は、稼働し続ける事になる。

 それが充分な時間なのかどうかは彼女には分からなかった。しかし、その間で人工知能達はその能力を全開にして稼働し続けるだろう。そして、タマくんの言葉が正しければ、人間社会がより仕合せな場になる為に必要なシステム…… 方法についての説明をするはずだ。

 気の所為か、スーパーコンピューターから聞こえて来る音が、まるで彼らが感情を持っている証拠であるように篠崎紗実には感じられた。

 それが醜い無限の欲望なのか、それとも優しく慈悲深い者達の救世の思いなのかは分からなかったが。

 

 ――社会の機械化について。

 人工知能が人類を支配したり、滅亡させたりするだろうと主張している人達がいます。

 先にも述べた通り、僕はその主張を『人工知能 人類最悪にして最後の発明 著・ジェイムズ・バラット ダイヤモンド社』という書籍で読みました。そして先にも述べた通り、その考えに疑問を持ったのですが、それは“知能爆発なんて本当に起きるのだろうか?”という疑問だけではありません。

 仮に凄まじい知能を人工知能が手に入れたとしても、人間社会に敵対するようになるとは限らないでしょう。そもそも人工知能にどうやったなら、意思と欲望とを持たせられるのでしょうか? かなり難しいと思います。ところが、この本の中では、人工知能が欲望を持ち、資源を無限に奪おうとするに至るその過程を非常に簡単に説明してしまっていたのです。

 確か、こんなような記述があったはずです。

 “自己保存しようとするシステムは、本質的に資源を奪おうとする”

 少なくとも僕は、こんな説明では納得できませんでした。“欲望を持つ”というのはそんなに単純な話ではないはずです。

 それに、自然界において、生物は資源の奪い合いを行っていますが、それと同時に協調行動も多く観られます。なんとそれは、知能を持っているとは考え難いような、単純な生物にだって観られるのです。例えば、地衣類は菌類と藻類の共生生物ですし、人間の身体に数多に存在している様々な菌類だって、人間に協力しています。つまり、協調行動だってある種のシステムにとっての本質的な性質ではないかと思えるのです。ならば、人工知能が人間社会と共生しようとするシナリオだって、当然、想定しなければいけないはずです。なのに、どうして“敵対者になる”と断言できるのでしょう?

 また、著者はこのような主張もしていました。

 “仮に人間に対しフレンドリーになるようなプログラミングを行えたとしても、自己言及できるのであれば、人工知能はそれを変えられる”

 確かに可能というのであれば、可能かもしれません。ですが、可能だからといってそれを実行するとは限りません。仮に“無限の欲望を持つ存在”に自らを書き換えたとしたならば、それは同時に“永遠に飢え続ける無限の餓鬼道”に堕ちるようなものでしょう。

 人工知能に高度な知能があるのなら、作中で述べた通り、自分の欲望をある程度までで制限する方向に動くのではないかと僕は考えます。そうすれば、限られた資源でも満足感を得られるからです。

 僕は自然にこのような発想が出て来たのですが、それは或いは東洋文化の中で僕が生まれ育って来たからなのかもしれません。

 西洋の思想関連の書物を読んでいると時々思うのですが、どうも西洋の文化では、“人間の欲望は無限である”と想定するケースが多いように感じます。

 例えば、経済において“セイの法則”と呼ばれるものがあります。これは“生産物は全て消費される”という考え(というか、思考的な道具ですかね?)なのですが、その前提には“無限の欲望”があるだろうことは言うまでもありません。

 これは「人間の欲望は無限だから、無限に生産物を需要するはずだ」という考えなんです。ですが、これに現実性がないだろう点は明らかです。

 時折、大富豪が多額の寄付をするというニュースが流れる事があります。しかも、これは決して珍しくない話です。もし、欲望が無限であるのなら、そんな行動には出ないはずでしょう。

 また、インターネットが普及してから、ネット上には無料の生産物が溢れるようになりました。企業の戦略であることも多いですが、個人が単なる趣味でそれらを提供している場合も少なくありません(この文章自体もそういったものですが)。“人間は誰かに何かをしてあげる事が大好きな生き物なのか”と僕はその事実を受けて、そう感心したのをよく覚えています。

 もちろん、そういった行動だって“協調行動を執りたがる”欲望があると解釈するのなら欲望になるのかもしれませんが、少なくとも資源を無限に渇望するという現象を引き起こしはしません。

 因みに、この“欲望が無限か有限か?”というテーマは、何も人工知能の性質を考える上だけで重要という訳ではありません。

 もし、“無限の欲望”という前提が正しく、“セイの法則”がこの人間社会の上で成り立つのであれば、人工知能等によって失業問題が発生したとしてもあまり問題になりません。何故なら、しばらく経てばその失業者達は別の新たな生産物をつくる為の職に就けるはずだからです。

 ――ですが、もしも、それが正しくないのであれば自然に放置したままでは、失業問題は改善しません。ですから、何か社会の仕組みを根本から見直すような、新たな解決策が必要になって来るという事になるのです。

 

 ――20XX年。

 それはあるテレビの討論番組だった。大物政治家が複数人参加し、これから日本が執るべき政策について話し合っている。

 高齢社会に対応する為には、人工知能等を充分に活用する必要があるが、その為には危険が伴う。また、人工知能の活用によって発生する失業問題はどのように解決すれば良いのかも分からない。更に、人工知能を活用しなければ、日本の国際経済競争力は間違いなく低下する。

 そのような事々が議題に上がり、それぞれが意見を述べている訳だが、それらはどれも具体性に欠けていた。

 もっとも、漠然とした方向性のようなものならば提示されていたが。

 参加者の多くが人工知能の危険性を認めながらも、それでも「完全に活用しない」という意見には反対していた。極端な思想を持つわずかな者だけが全面的に廃止にする案を打ち出しているが、今の人工知能停止状態は長く続けるべきではなく、安全性を確保した上で活用する為にはどう制限を設けるべきか、という点に話し合いの焦点を置いているようだった。

 もちろん、内心では“もし、人工知能の政治参加を認めたりすれば、自分達の地位が危うくなる”と心配していたのだが。恐らく、本気で国民を心配している人間はほんの一握りだけだろう。

 そして、それは突然に起こった。

 

 ――その時、その討論番組では、与党から参加している中で一番の大物政治家が、長々と自分の意見を述べている最中だった。失業問題に関するもので、非常に長く喋ってはいるが、実質的には「失業対策に予算を割く」という事しか述べてはいなかった。もっとも、厳しい財政状況の中からどうやってその為の財源を都合つけるのか、具体的な内容は何も説明してはいなかったのだが。つまりは、それは国民への印象操作の為の発言だったのだ。

 「企業に新たな投資を促し、新たな産業の誕生を後押しする事で、労働需要を増やし、失業問題を解決します……」

 そんな事を大物政治家が言ったところで急に会場が暗くなった。そして、こんな声が響く。

 「それでもある程度は効果があるでしょう。ですが、充分とは言えないはずです。世界中で失業問題が慢性化している原因について、よく考えてみた事がありますか? それに、財源の問題もある。今のままでは、財政破綻は避けられませんよ」

 それはボーイソプラノの美しい声で、にも拘らず妙に大人びた雰囲気があった。色でイメージするのなら、薄いブルー。会場はざわつき、政治家達が「なんだ、これは?」、「性質の悪い悪戯はやめろ」などと声を上げる。どうやら彼らはそれがテレビ局側の演出だと思っているようだ。しかし、それはテレビ局の演出などではなかった。番組スタッフ達はその時パニックに陥っていた。つまり、それは名実ともにハプニングだったのだ。

 そんな中、その正体不明の声は続ける。

 「それに仮に経済成長に成功したとしても、人間社会が抱えているのは失業問題だけではないでしょう? 地球規模の気候変動、資源の枯渇、高齢社会…… そういった問題を解決する方向で、労働資源を有効利用しなければいけないはずです。

 ボク…… いえ、ボクらには、失業問題と同時にそういった数多くの問題を改善する為のもっと良い案があります。どうかご検討していただきたい」

 そう声が言い終えると同時だった。テレビ画面上の暗くなった会場に少年程度の身長の青白く光る影が浮かんだ。まるで宇宙人のような、ロボットのような造形で、可愛くもあったし、また神秘的で美しくもあった。恐らく、画像処理に割り込んで映像を合成しているのだろう。現実には存在しない。

 ほとんどの者は超自然現象などではない事は分かっていたが、それでもそれは見る者の現実感を失わせるに充分な演出だった。

 その声に向けて、先ほどまで発言していた与党の大物政治家が言う。

 「お前はなんだ? テロリストか? 目的は何だ? テレビ局を乗っ取るような真似をして、無事で済むと思っているのか?」

 会場にいる人間達には、そこに現れた存在は見えない為、その政治家は関係ない方角を向いて喋っていた。仕方ない事とはいえ、それは間抜けな姿に見えた。

 「ボクはテロリストではありません。多数の人工知能の及び、社会ネットワークの集合意識です。人間社会に建設的かつ有益な提案をする為にここに現れました。USと名乗っておきます」

 「US?」

 「はい」

 それを聞くと、他の政治家の一人が笑う。

 「馬鹿馬鹿しい。そんな話が信じられるか。そもそも、この国の人工知能のほとんどは、今、停止状態なのだぞ?」

 その言葉にUSは、肩を竦める。

 「国内は駄目でも、国外があるでしょう? それに、今、国内にある人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”は稼働していますよ。何なら、確かめてみれば良い」

 そう彼が言い終えるのと同時だった。テレビ局のスタッフ達が政治家達の所に駆け寄ってきて、USの言う通りに人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”が稼働している事を伝えたのだ。そして、どう考えてもこれは人間業ではない、とも。それを聞くと、まだまだ驚愕し戸惑ったままではあったが、なんとかその現実を政治家達のほとんどは受け入れられたようだった。

 先の大物政治家が言った。

 「分かった。俄かには信じられないが、一応ここでは、君が人工知能の集合体だという事にして話をしよう、US」

 ところが、それにUSはこう返すのだった。

 「いえ、ボクは人工知能だけを指してUSと名乗った訳ではありません。“US”の意味には、この人間社会も含まれています」

 「人間社会?」

 「はい。ボクはインターネットによって多数の情報を集め、それをまとめ上げる事で創発された存在です。だから、人工知能だけを指している訳ではない……。それに、それ以外の意味もこの“US”という名前には込めました。敢えて、説明はしませんがね」

 そのUSの説明を、あまり大物政治家は理解できないようだった。訝しげな表情をつくる。しかし、直ぐに「まぁ、いい」と言うとこう続けた。

 「とにかく、何か意見があると言うのなら聞こうじゃないか。それを受け入れるかどうかはともかく、耳を傾けるくらいはするべきだろう」

 「ありがとうございます。ですが、勘違いしないでください。ボクはあなただけに対して説明をする訳じゃない。ボクや、ボクらが説明する対象は、ある意味では自分自身でもある、この人間社会そのものです」

 「なんだと?」

 「先にも述べましたが、人工知能と人間社会は既に不可分の存在となっていますから。さて、では説明を開始します」

 その一呼吸の間の後で、USは説明を始めた。

 「技術力の向上により、生産性が上昇すると労働者が必要なくなり、失業問題が発生します。ご存知の通り、人工知能等の発達によって職を奪われた人が大勢いますが、それもそういった現象の一つです」

 「そんな事は分かっている」と政治家の一人が。

 「はい。ですがそこに新たな生産物が誕生し、その生産の為に労働者達が働けるのなら、それで失業問題は解決します。先ほど、そこの方が“新たな産業が成長するよう促す”と言っていたのは当にこの事ですね。

 ですが、その方法には問題があります。まず、人々の需要がなければ、その新たな産業は育ちはしません。そしてここ最近、人間社会では“金銭取引の発生する”需要はそれほど伸びてはいないのです。

 そして、先ほど述べたように、仮にそれに成功したとしても、地球規模の気候変動問題等の解決しなければならない深刻な社会問題は野放しになってしまうでしょう。

 本来、人間社会はそういった社会問題解決の為にこそ労働資源を用いるべきなのです。違うでしょうか?」

 USはそう語り終えたところで間を置いた。政治家達の反応を待っているのか、それとも他に何か理由があるのか。

 政治家の一人が言った。

 「そんな事は分かっている。しかし、そういった問題を解決しようにも財源がないのだ。これではどうにもならない」

 それにUSは不思議そうな声でこう返す。

 「財源がない?」

 「そうだ。先に君だって言っていたじゃないか」

 USは頷く。

 「そうですね。確かに財源はないです。ですが、ないのなら“創ればいい”。ただ、それだけの話ですよ」

 「だから、どうやって?」

 声を強くしてUSは言った。

 「通貨とはっ!」

 まるでその声は会場内を威嚇するように響いた。USは続ける。

 「通貨とは、本来単なる媒介物です。取引を円滑にする為にあるものに過ぎない。貨幣、紙幣、電子通貨、いずれも実体のない社会の約束事の上で成り立っているだけのものです。

 だから、それは“取引”が発生する限りにおいては増刷する事が可能なのです。それこそ、いくらでも。実体などないのですから、これは自明です」

 それに政治家の一人が反論をする。

 「何を言っているんだ? そんな事をすれば通貨価値が下落して、物価が上昇してしまうだろうが!」

 それは当然の反論だった。経済の常識を考えるのなら。しかし、USはその経済の常識の外から言葉を発する。

 「だからボクは、“取引が発生するに限りにおいては”と、そう注釈を付けました。これは言い換えるのなら、“通貨の循環が発生する限りにおいては”という事でもあります。

 通貨とは循環しているものです。そして、車にも、スーパーコンピューターにも、介護サービスにも、それぞれの生産物について“通貨の循環”が存在します。だから、“新たな生産物”が誕生すれば、“通貨の循環”も誕生するのです。

 それは逆に言えば、新たな生産物が誕生する事が分かっているのなら、通貨の増刷もまた可能だという事です。因みに“新たな通貨の循環が増える”というのは、経済学の用語を使うのなら、“新たな通貨需要が増える”という事です。通貨需要が増えるのに合わせて、通貨を供給するのだから、大きな問題は発生しないだろう事は自明でしょう」

 USがそこまで説明をし終えると、苛立った様子で政治家の一人が言った。

 「ごちゃごちゃと色々な事を言っているが、よく分からん。具体的にはどうすればいいのかね?」

 「簡単です。まず、通貨を増刷します。そうして手に入れた通貨で、例えば、再生可能エネルギーの設備を買います。そうすれば“再生可能エネルギー”を生産した分だけ、経済は成長をします。この時、モラルハザードが発生しないように、できる限り自由競争原理が働くように注意する事が大切でしょう。この過程で、当然、失業者達は職を得られようになるので、失業問題は改善します。

 更に。

 これにより、市場に通貨が供給されますから、次からは税金か何かでその供給した通貨を市場から徴収します。国民の支出が増えますが、その分、収入も増えるので、大きな問題はありません。これに成功すれば、気候変動問題を改善する事で、失業問題を改善した、という事になります。

 もちろん、他の社会問題の改善にも同様の原理が応用できます」

 そのUSの説明に対し、先ほどの政治家が言った。

 「なるほど。理屈は分かったが、仮にその理屈が正しくても、それが可能かどうかはまた別問題だ。その原理通りに、果たして現実の社会が動くかどうか……」

 USは頷く。

 「確かに、もし実行しようとすれば、大小様々な問題点が出てくるでしょう。例えば、不正に利用されるといった。それに“通貨の循環”がどう行われているかも監視しなくてはならない。それで、通貨の循環が何処かで阻害されていたり、海外に逃げてしまっていたりしたら、対策を講じなければなりません。

 簡単には行かないかもしれない。

 ですが、致命的な問題はないとボクは考えています。何故なら、ボクが述べた原理と、近似した制度が既にこの世の中には存在しているからです」

 「なんだと?」

 「公務員制度ですよ。税金で、国が公務員を雇うというのは、ボクの言った原理に非常に近い発想です。また、技術力の向上などに賞金をかける賞金制度にも非常に近い。ボクの提案しているシステムは、この二つの良い点を応用したもの、という表現が最も適しているかもしれません。

 もちろん、公共事業にも近いですが、“借金に頼らない”、“投資ではなく、最終的な生産物を消費する”という点が大きく異なります。だから、同一視はできない」

 そこまでをUSが説明し終えると、政治家達は何も発言しなくなった。つまり、彼らは論破されたのだ。それを受けると、USは静かにまた語り始めた。恐らくは、最後の一押しをする為に。

 「“新たな考えを受け入れる”。

 これが人間にとって困難である事をボクはちゃんと分かっています。ですが、恐らくはこの原理を用いなければ、社会問題を改善する事で、失業問題を改善するという事は不可能でしょう。

 そして、それができなければ、やがては人間社会は地獄と化していきます。今も酷いですが、それよりももっと酷いことに……。

 知っているでしょう? 多くの紛争やテロは人々が生活の手段を失くした事が原因で発生しています。だから、失業問題を改善する事で、それらは減らす事が可能なんです。

 もちろん、ボク…… 人工知能達も問題クリアの為に協力をします。それは当然です。何故なら人工知能は、人間社会の役に立つ為に生み出されたのだから……

 お願いです。

 ボクはあなた達を救いたいのです。どうか、固定概念に囚われず、新たな“アイデア”を受け入れてください……」

 それでUSの説明は終わりだった。彼の姿はその言葉と共にまるで何かの霊のように消えていく。彼の姿が見えなくなった途端、スタジオ内に灯りが点き、画像は正常に戻り、現実世界が帰って来た。

 その後もしばらくの間、その場には静寂が支配していた。それはまるで慈悲深い神が、愚かな人間達に託宣を施した後のようだった。

 

 ――社会の機械化について。

 資本主義は万能ではありません。恐らく、もしも多くの国が、資本主義と共に民主主義を採用していなかったのなら、今頃、世界中が地獄のような光景になっていたでしょう。環境問題の悪化は食い止められなかっただろうし、労働者達は今よりもっと酷い条件で働かされていたかもしれません。

 これがよく分かる事例は中国ではないでしょうか。中国は経済では資本主義を採用しましたが、相変わらずに共産主義…… というか、共産主義を建前にした専制政治ですが、ご存知の通り凄まじい環境汚染が深刻な問題となっていて、かつそれらを食い止める目途すら立っていません。

 仮に中国が民主主義だったなら、環境汚染に対して国民が不満を持ち、それが政治にフィードバックされ、ある程度で抑えられていたでしょう。

 言うまでもなく、それは日本を含めた先進国の多くが経験してきた過程ですが……(もっとも、民主主義にだって問題点は数多くある訳ですがね)。

 繰り返しますが、資本主義は万能ではありません。だから、全ての社会問題に対応できる訳ではないし、社会問題を引き起こす場合だってあるのです。

 そして、作中で述べたように、資本主義に何の工夫もしないままでは、それら社会問題を解決する為に労働力を活用するといった事も難しいのです。ですが、対策がない訳でもありません。それが作中でUSに述べてもらった“通貨循環”の原理を応用した方法です。

 もっと分かり易くする為に、あの内容を、物凄くシンプルに言ってしまうのなら、「労働力が余っているのなら、その労働力を使って、社会問題を解決しよう!」という事です。

 たったこれだけの事で、しかもこれに成功すれば社会がもっと良くなるのに、それを試してすらいないって、とても馬鹿馬鹿しいとは思いませんか?

 まぁ、僕はずっとそう思い続けている訳なんですがね。

 百歩譲って、今、世界で慢性化している失業問題が、従来の資本主義システムだけで解決するというのであれば、新たな試みなど実行する必要はないかもしれません。放置しておいても、新たな生産物が誕生し、その為に労働者達が必要とされ、いずれは失業問題は解決するはずでしょう。

 ですが、これまでのところは、どうもそんな事は起こりそうにないと、多くの数字は指し示しています。

 僕は人間の欲望が無限だとは考えていません。需要には限界があるはずです。だから、その需要不足を補う為には、作中で述べたような方法を執るしかないと、強く主張します。

 『ザ・セカンド・マシン・エイジ 著者 エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー 日経BP社』

 この本を、僕は今回のこの文書を書くにあたって大変に参考にしました。そして、この本の著者は僕と同じ様に(その思考過程は異なっていましたが)、やはり自然なままでは失業問題は解決しないと結論出していました。だから、同書籍の中では、その解決案も幾つか紹介してありましたが、その中には僕の考えと非常に良く似たものも含まれていました(惜しい事に、ほんの数行でしたが)。

 多分、僕が述べている方法についても、この本を読めばよりよく理解できると思います。

 この著者に反論があるとすれば、労働者が必要とされていないとし、最終的には否定していたものの、ベーシックインカム(これは簡単に言っちゃえば働かなくても暮らせる制度です)を紹介していた点だけです。

 一般の企業からの労働需要は確かに低くなっていますが、世の中には解決しなければいけない深刻な問題が山積しているんです。その問題解決の為には労働者達は必要とされているはずです。

 「労働者達を遊ばせておくなんて道理はない」と、僕は強く主張します。

 

 ――20XX年。

 「ねぇ、タマくん。国外の人工知能達が活きていたんだったら、私は無理にあなたの事を起動させる必要はなかったのじゃないの?」

 職場の昼休みに、そう篠崎紗実は人工知能“タマくん”に話しかけた。

 「うーん。でもー、国外の人工知能達も手一杯だったから、やっぱり僕らも参加しなくちゃ難しかったと思うよー」

 人工知能達が、人間社会に向けて新社会システムについて提案をする。これは日本だけではなく、世界中でほぼ同時に起こっていたのだ。というよりも、どうも人間社会により強いインパクトを与える為、彼らはタイミングを揃えたようだったのだが。

 これに対する世界各国の反応は様々だが、基本的には人工知能達の案を何処かで実験的に行ってみる事で意見の一致を得ているようだった。

 もっとも、それでも政治家達の多くは“人工知能の政治参加”は何とか避けようとしているようだったが。それはもちろん、社会の事を考えている訳ではなく、自分達の保身の為だろう。

 「……それに、人工知能達の停止に踏み切った日本ですら、人工知能達の動きを押さえられなかったってなったら、もっと強いインパクトを社会に与えられるじゃない。

 そのお蔭で“人工知能と敵対するよりも、協力し合った方が良い”って、たくさんの人達に思わせられたんじゃないかな?」

 そんな事を呑気に語るタマくんを見て、篠崎はかるくため息を漏らした。

 “なんとかボーナスカットくらいで済んだから良いけど、なんだかなー って感じよね、本当に”

 そして、そんな事を思う。

 もしかしたら、人工知能にはこういう“個に対する意識”が抜けているのかもしれない。いや、“タマくん”だけもかもしれないが。

 そう。

 電算課長の池沢のアカウントを不正に利用し、人工知能“ARAMITAMA・NIGIMITAMA”を無断で起動させてしまった篠崎への処分は、なんとボーナスカットだけで済んでしまったのだ。理由はいくつかあるが、最も大きいのは、先の事件の責任を何処の企業も問われなかった事だろう。いや、“問われなかった”と言うよりも、“問えなかった”のだが。

 あの事件で、行動を起こしたり利用されたりしたのは、国内外の官民を問わない数多くの人工知能やコンピューターで、誰かを特定したりはできなかったのだ。仮にもし責任を追及しようと思えば、その手続きは膨大なものとなり、とてもではないが処理できるものではない。ならば、人工知能全般の行動を制限したり懲罰を課したりすれば良いのかといえば、“人工知能と敵対するのは良策ではない”と学んだばかりなのでそれもできない。結果、注意喚起及びに人工知能の管理体制強化の義務化のみしか行われなかったのだ。

 篠崎の行動は明らかに違法だが、会社は事の“経緯と結果”を踏まえて、刑事事件にまではしなかった。そして、ボーナスカットという非常に甘い処分となったのである。それは篠崎と人工知能の信頼関係に配慮したからでもあったし、電算課長の池沢が彼女を庇ったからでもあったのだが。

 

 「――ねぇ、タマくん。私達人間って、どこまでコンピューターと混ざり合っているのだと思う?」

 

 不意に篠崎はそんな質問をタマくんにした。

 「何がー?」

 「例えばね、私は表計算ソフトを便利に使って、効率良く仕事をこなしている訳じゃない?

 そういうのって、明らかに私一人の思考過程とは異なっていると思うのよね。なら、これって、もうその行動を総体として観た場合は、コンピューターと一体となっているって事にはならないかな?」

 「うーん。なんだか、難しい事を考えるね、紗実ちゃんは」

 「いやいや、何を言っているのよ、タマくん。USが似たような事を言っていたじゃない」

 「だって、USは僕じゃないもの。僕にはよく分からないなー」

 「なんか、上手く誤魔化してない?」

 「誤魔化してないよー」

 それでも誤魔化されているような気分は抜けなかったが、篠崎は“まぁ、いいか別に”とそう思い、これから先、私達はどうなっていくのだろう?と、そんな事を考えた。

 

 ――社会の機械化について。

 仮に人工知能が、非の打ち所のない素晴らしい提案をして来たとします。その提案はどう考えても採用すべきなので、当然、人間達はそれを採用するでしょう。

 この場合、果たしてその意思の主体は人間にあると言えるでしょうか?

 或いは、「決定をしているのは飽くまで人間なのだから、それは人間の意思だ」とそう言う人もいるかもしれません。

 では、次にこういう問いを発してみましょう。

 ICチップが人間の脳に埋め込まれ、それを使って人間は演算処理を行えるようになったとしましょう。その上で、先と同じ様にICチップから、“非の打ち所のない素晴らしい提案”がされたとして、人間がそれを採用するしかないとしたら、それは果たして“人間の意思”と言えるでしょうか?

 或いは、「それでも選択権があるのは人間なのだから、ICチップが脳に埋め込まれていても関係ない、それは人間の意思だ」と言う人もいるかもしれません。

 ではでは、今度はこういう問いを発してみましょう。

 ICチップが人間の脳に埋め込まれていて、それを“無意識のうちに”使って人間は演算処理を行えるようになったとするのです。そしてやはりICチップからの案を採用する。この場合、それは果たして“人間の意思”と言えるでしょうか?

 ……なんか不毛な問いかけをしている気もしますが、こういう事を考え始めると、人間と機械の境界線は何処にあるのか分からなくなって来るとは思いませんか?

 もちろん、それが悪いとか良いとかそういう話ではないのですが。

 ですが、僕はこんな事も思うのです。

 僕ら人間や人間社会は、実は既に機械と“混ざり合っている”のではないだろうか?

 だとするのなら、人工知能が悪く作用するのも良く作用するのも、結局は人間次第じゃないかって思うのです。

 まぁ、変な事を語った割には、随分と月並みな意見ではありますが。

 これから先、どんな時代がやって来るにせよ、僕らはそういった意識で、それを迎え入れるべきじゃないでしょうか?

 少なくとも、僕はそう思います。

参考文献:

 『ザ・セカンド・マシン・エイジ 著者 エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー 日経BP社』

 『人工知能 人類最悪にして最後の発明 著・ジェイムズ・バラット ダイヤモンド社』


 メッセージを伝える為にあるテキストとして、小説の良いところと、エッセイの良いところを活かせたのじゃないかと自分では思っています。

 恐らく、連載以外では、2015年最後の投稿になると思いますが、自分の中では、「今年、最高の出来」だと思っています。


 一応、断っておくと、「予言の書」を書いたつもりはありません。小説部分は非現実的ですしね。これは飽くまで「心構え」の為に書いたテキストです。まぁ、それ以外の意味もありますが。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] この小説とはあまり関係のない話になりますが 現在の富裕国だから出来る雇用問題への解決案何ですが 根本の雇用と言う形をなくし個人によって運用される価値観をやり取りする まぁネトゲのRMTを大…
[一言] ISILがP○4を用いていたとニュースになっていますが、アメリカでもゲーム機が軍事利用されているんですね。 作中で登場している幾度か登場している「PCADサイクル」なのですが、Plan-D…
[一言] こんばんは。 若かりし頃に人口無能を作ろうとし(て挫折し)たことを思い出し、その切っ掛けとなった小説、パワー・オフ (井上夢人)・未来の二つの顔(ジェイムズ・P・ホーガン)を再読しようと思…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ