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ラルフのうわごと

作者:

初めて書いた小説です。形になっているかどうかも怪しいですが、どんなものであれ感想を頂けると非常に嬉しいです。

「お前なんか生きてたって死んでたってどうでもいいよ。ほんとどうでもいい。」


 消えない言葉。消したいあの日の言葉。僕もあいつも小学生だったが、喉から出てくる音の組み合わせがひとの心を傷つけてしまうことはもうわかっていた。痛んだ心。一人称が、罠を張る。

「僕は涼介のことをどうでもいいなんて思わないよ」

 頭のなかで、声がした。幻聴なんじゃないかとか、自分がおかしくなってしまったんじゃないかとか、そんな疑問も特別持たずに、僕は頭のなかで問いかけた。

「君は、誰?」

「それこそどうでもいいことだよ。ただ僕は君の頭のなかで君に話しかけることができる誰かってことさ」

あの日、僕のなかにラルフが生まれた。




 「りょうすけ」という名前は、小さな頃から余り好きではなかった。どこにでもあるような平凡な名前だから、名前を呼ばれると自分の存在の薄さを指摘されているような気がして、妙な後ろめたさを感じることがあった。中学生の頃に一度「りょうちょむ」なんて変な仇名を付けられたことがあったが、それは二週間ともたなかった。大学生になってからも、やはり僕は仇名で呼ばれることなどなかった。


「そういえば佐々木教授が涼介のこと探してたぞ。」

大学で知り合いになった青葉は、いつだったか正確には忘れたがかなり早い段階から僕のことを下の名前で呼ぶようになった。青葉には、心の壁を感じさせるようなものがまるで無い。だからといって青葉が単に誰にでも気さくだという訳でもなく、僕は青葉にある種の安堵感を感じていて、新しい人間関係を築くのが苦手な僕も青葉とはすんなりと仲良くなれた。髪は長髪で、いかにも女の子からもてはやされそうな見た目をしているが、ものごとの考え方や雰囲気なんかは僕に近いものがあった。僕はといえば、誰かを下の名前で呼ぶことに抵抗があるのでなかなかそれができない。気恥ずかしさからくるものなのか、他人の領域に近づきすぎる気がして怖いからなのかはよく分からないが、気心の知れた青葉のことも僕は苗字で「青葉」と呼んだ。

「教授が?何の用だろう。」

「さあ。留年宣告でもされるんじゃないか。」

 青葉は、よく本気とも冗談ともつかないことを真顔で言う。僕は敢えて無表情を見せつけて、佐々木教授の研究室へ向かうことにした。


 大学構内には樹齢何年なのか想像もつかないような木々がそこらに聳え立っている。大学にこんな立派な樹木がたくさんあっても仕様がないという大学事務員たちの意見から、余分な木を切り倒そうとする計画があったらしいが、それが実行されることはなかった。日焼けしすぎてがさがさな茶色い肌みたいな木の下には銀杏の実が無造作にこぼれ落ちていて、とんでもなく臭い。僕は構内に大木があるのは雰囲気としては好きなのだが、この銀杏だけは勘弁してほしい。何十年にもわたって様々な人間を見てきたであろう木々の間を、冷えた九月の風が彷徨っている。自分が幼い頃からどの季節よりも秋が好きだったことを思いだし、いままさに秋が始まろうとしていることに静かに喜びを感じながら、それとは全く関係の無い事を想像した。

「『鍵の要らない、暗証番号を入力することでドアが開く形式の部屋が連なったマンションがあったとする。自分はそのマンションの入居者で、ある夜酔って帰ってきたため隣の部屋のドアを開けようとした。いつも通りの暗証番号を入力したところ、偶然にも番号が同じだったため鍵が開いてしまう。ドアを開ける。部屋に入る。部屋のなかにある物も自分の部屋と何ら変わりが無く、結局部屋を間違えたことに気づかずじまいだった。』なんてことがあるだろうか。あったとしたら、それこそ天文学的な確率になるに違いない。」

 佐々木教授の研究室のドアまで辿り着いたところで、くだらない妄想は消えた。

「失礼します」

「ああ、水科君、ちょうどよかった。君に訊ねたいことがあるんだ。そこにかけてくれ。」

「はい。」

 書物、ソファ、机など、部屋全体が茶色のトーンで統一されている研究室だ。以前奇人で有名な物理学の野田教授の研究室に入ったことがあり、机の上の余りの乱雑さに驚いたことがあったが、それとは正反対にすべての物が整然とそこにあった。佐々木教授は異常なほど几帳面で、以前レポートを提出した時に左上に留めたホッチキスの位置が歪んでいるから次からは注意してくれ、と言われたこともあった。教授の人柄が部屋にそのまま表れているのがなんとなく可笑しかった。

「先の、学内で起こった試験の集団不正行為疑惑については知っているかね。」

「集団不正・・・ですか。いえ、知りません。」

「経済学部に木田君というのがいるだろう。彼を筆頭に、私の講義である西洋思想論の試験において集団カンニングが発覚した、というかその疑いが浮上したんだ。試験中に不正を発見した訳ではないんだが、数人の答案を見てみたらどうも彼を中心に相関関係がある気がしてね。携帯電話でこう・・・私は持っていないからよく分からないんだが・・・メールか何かで複数人とやり取りをしたとしか思えない箇所があってね。」

「はあ。」

「とにかく偶然起こったとは思えないことなんだ。水科君、君はたしか木田君と仲が良いんだったね。」

「仲が良い・・・というか同じサークルの部員ですが。」

「単刀直入に訊くが君はこの件について何か知っていることはないかね?いや、君があの試験でその不正に加わったとは勿論思っていないんだが、何か情報があればと思ってね。仲の良い友人のことを密告するのは心苦しいだろうが、私も学生間で公正を欠くようなことはしたくないのでな。正直に答えてほしいんだ。」

 教授の話の端々に違和感を感じた。息をつく間も無く話されるから、それを消化することもなく相槌だけをこぼしたのだが、それにしても唐突な話だ。木田がカンニング?そんなことをする類の人間とは思えないし、何より集団の先頭に立っていたというそのニュアンスが木田にはいかにもそぐわない。そもそも教授は何故僕にこんな話をするのだろう。相関関係のありそうな答案が手元にあるのなら、それが充分な証拠になると思うのだが。試験中の不正行為だって、机間巡視さえしていれば、ましてや携帯電話を使ったカンニングなどすぐにわかりそうなものなのに。正直に答えてほしい、と教授は言ったが、僕に何かを尋ねようとしているのではなくて吐かせようとしているのだということははっきりと分かった。

「いえ、僕は何も知りません。木田はそういうことをするやつではないと思いますが」

「そうか。それならいいんだ。いや、手間を取らせてすまなかったね。」

「いえ。失礼します。」

 教授の問いに否と答えた瞬間に、白髪が少しだけ覆った彼の左の瞼がごく僅かに痙攣したのを僕は見逃さなかった。その目に疑念の色が強く浮かんでいたことも。僕は本当に何も知らなかったし、知っていたとしても誰かの秘密を密告することに興味が無いのできっと同じ返事をしただろう。佐々木教授を個人的によく知っていたわけではないが、大学の教授というのはもっと理路整然としているものだというイメージがあったのに、さっきの会話はそのイメージの皮をあっけなく剥いでしまった。

  

 木田は僕が所属するスキーサークルの部員で、僕が四月の新入生勧誘で強引な先輩に誘われて何となく入部した時に初めて会話をした同級生だ。

「新入生の皆さん、是非我が野球部に入部してください!やりがいは保証します」

「ただ酒でお迎えします、ワンダーフォーゲル部です!」

「演劇部!演劇部!演劇部!」

大学に合格してから初めてキャンパスの門をくぐった時、そこでは怒号の飛び交う勧誘劇が繰り広げられていた。百人はいただろうか。声をかける者すべてに君はいい脚をしているね、絶対に陸上部に向いている、と話しかける先輩もいたし、まるで品定めをするかのようにまじまじと見つめて何か思いつめたような表情で軽く頷いてから放送部が如何に素晴らしいかを力説する先輩もいた。本来の目的である講義履修説明会に間に合うかどうか不安になってきたころ、一人の先輩が話しかけてきた。

「君、スキーに興味あるよね?」

「・・・断定口調で言われても。すいません、余りありません。」

「無いんだよ。それはわかってる。でもうちはほとんど初心者が入部してるんだ。仮入部してみたらきっと好きになるよ、大丈夫。」

「いえ、あの・・・ 時間をかけて考えたいので少し待ってほしいんですけど」

「待つさ!そりゃあ待つよ。いや、良かった。あ、部室はあの南舘の二階にあるから。十二時から新入生歓迎会をするからさ、遅れないで来てくれよ。じゃ」

 余りの強引さに僕が呆気に取られているのを尻目に、先輩は次の獲物を見つけて、さっきと全く同じやりとりをしていた。大学生のサークル勧誘はこういうものなんだろうか。僕に言っていたことを別の新入生に轟々と語りかけるさっきの先輩を見ていると、不思議と不快感より先に親しみのような気持ちが生まれた。初対面の人間にあれだけの勢いで何かを話すことができるなんて、僕にとっては職人芸だ。腕時計を見ると、九時五十五分になっていた。僕は説明会のホールへ急いだ。


「というわけで、履修科目の申請については機械処理をしますのでコード番号の記入ミスには十分気を付けてください」

 ホールの中へ入ると、説明会は既に始まっていた。まだ開始時刻から五分も経っていなかったし、説明会用のレジュメと資料は手元にあったので僕はとりあえずできるだけ後ろの空いている席を探し、座った。大学のホールというとコンサートホールのような大きな場所なんだろうと勝手に思っていたのだが、それほど広くはなかった。あまり大規模な大学ではないし、そもそも田舎出身の僕のイメージが大げさなのだろう。とはいえ、ホール内の座席は新入生でほとんど埋まっていて、空いている席を探すのに二、三分かかってしまった。マイクを通して、説明会担当者の声がホールじゅうによく響く。単調な説明がひとしきり終わると、学生が挙手をして担当者がその質問に答えるという時間になった。数名の学生が手を挙げる。一回生の時点での最低履修単位数はいくつなのかとか、アルバイトの斡旋のことだとか、学食のことだとか、色々な質問が出てきて、自分では絶対に挙手する気の無い僕はそのやりとりを為になるな、などと思いながら興味深く聞いていた。

学生と説明会担当者のやりとりが続くなか、視界に青白い光がちらと入ってきた。斜め前の座席の学生が携帯電話を操作している。画面を凝視して指を動かしているのでメールを読むか作るかしているのだろう。口元で僅かに微笑しているのが見えた。メールか。好きじゃない。絵文字の入った愛想のいい返事が返ってきたところで、どうせ画面の向こうでは仏頂面をしている。僕が高校生のころにPHSというものが発売されて、周りは皆一様にそれを欲しがった。その数年前にはポケットベルというものが発売されていた。周りの反応は似たようなものだった。場所を問わずに目の前にはいない相手に文字を送ったり声を届けたりすることができたこれらの機械は、物理的な距離を断った新しいコミュニケーションの誕生という意味では確かに革命的だった。それを所有することで自分のなかに格好良い、ステイタス的なものを取り入れることができたというのもあっただろう。ただ僕にはまるで興味が無かった。何かを所有することで安心感を得ようとする類の人間は嫌いだったし、彼らが執拗に求めていたコミュニケーションは、僕にとっては偽のものだった。液晶に表示される電子の文字は、そもそも文字ではないと思う。ただの記号だ。手紙の文字にはそれを書いた者の魂が宿っている。文字の形や大きさ、色を目に写し心に何かを感じてはじめて、その人の意識が自分に溶けてコミュニケーションをとったといえる気がする。電話はメールに比べたらずっと自然なコミュニケーションの様にも思えるが、それでもやはり顔は見えない。相手と向き合って、表情や声や目には見えない空気を感じることが本当のコミュニケーションなのだ。そんなことを考えた。でもそれなら本はどうなる?小説を読んで感動することだってあるじゃないか。それに、僕は頭のなかで偉そうな持論を巡らせながらも、先日小学校のころからずっと仲良くしている女友達の日野辺に「大学入って携帯持たないとかまじありえないから」と言われてあっさり携帯電話を買ってしまったのを思い出した。僕は自分のこういういい加減さが嫌いだ。自分で自分に呆れているうちに、青白い光は消えていた。

説明会が終わり、さっきの強引な勧誘の先輩のことをふと思い出した。大学に入ったら何かサークルに入ろうと決めていたので、先輩の言っていた歓迎会になんとなく行くことにした。歓迎会というのは、サークルの雰囲気を見せるために先輩部員たちが共同で出費して新入生に部室にてただで飲み食いさせ、勧誘しようというものだ。強引な先輩が言っていた歓迎会のある南館へ足を運ぶ。道の途中で学食や購買部のある場所を確認しながら、入り口のところまで辿り着いた。そこにはおそらくスキー部の先輩部員であろう人達がたくさん待ち構えていて、あの強引な先輩はひときわ大きな声で「ようこそ!いやいやようこそ!」と新入生に笑顔を振りまいていた。


「お、君はさっきの。やっぱり来てくれたな。俺は石田っていうんだ、よろしく。君は?」

「あ、水科です。よろしくお願いします。あの、とりあえず雰囲気を見たいので来たんですけど、そういうのでもいいんですか?」

「もちろん。いろんな部の歓迎会にだけ出て一切入部はしないっていう新入生もたくさんいるし問題ないよ。ただ水科君は入部することになるな。絶対。」

「はは・・・」

面白い人だ。先輩部員の一人に部室へ案内された。部室の中は意外と広く、既に十人前後の新入生がそこにいた。男子学生も女子学生も、みんな服装や髪型が今時の若者という感じで、お洒落に見えた。下が特に気を使っているわけでもないジーンズで上はいつどこで買ったのか自分でさえわからない微妙な柄のシャツを着ていた自分が少し恥ずかしくなって、一瞬ここへ来たことを後悔したが、それを振り払って思い切って空いていた場所へ座ってみた。


「や、俺木田っていうんだ。よろしく。あの強引な先輩に勧誘されたん?」

「あ、水科です、よろしく。うん、あの先輩に。」

「そっか、ほんとありえなくね?あの人。いい人そうだけど。」

「うん、自分もそう思った。面白い人。」

「俺スキーにそんなに興味無いんだけどな。なんとなく来ちゃった。水科君はスキーに興味あんの?」

「いや・・・ あんまり無いんだけど何かサークルには入ろうと思ってて。ここはよさそうな感じだと思うし。」

「そっか。俺は入るかどうかわからんけどまあよろしくな。」

この会話が木田との最初の会話だった。会話が途切れないように必死に受け答えしたつもりだったが、木田が上手く話しかけてくれて助かった、と感じていた。そこから先輩部員と新入生の自己紹介や、スキー部の説明があって、二時間ほどいろんな人が入り乱れて会話をし、歓迎会は終わった。

歓迎会の帰り道で、僕はなんとなくスキー部に入部することを決めていた。そして木田も結局スキー部に入ることになった。




新入生だった頃の歓迎会のことを思い出しながら、僕は木田の家へ向かっていた。佐々木教授の話を伝えるために。電話をかけようかとも思ったが、木田にとっては深刻な話だろうと思ったので直接会って伝えることにした。道の途中で、子汚い野良犬を見かけた。とても可愛い。犬はなんとなくこちらの目を見つめているので、近づいて撫でようとしたら、僕に悪い霊でも憑依しているかのように勢いよく吠えて拒絶した。僕は動物が好きだが、動物は僕が嫌いらしい。犬や猫は人間のどんな部分を見ているのだろう。人間の思考を理解する能力は彼らにあるのだろうか。たまに近づいても拒絶せず、すんなりと触らせてくれる犬や猫に会うと、彼らに許されたような気持ちになってとても嬉しくなる。まだ吠えている犬を尻目に、木田が一人暮らしをしているマンションへ辿り着いた。銀色の、それぞれにシリンダー錠がついている郵便受けが二十個ほどあって、そのなかに「303号・木田」と書かれたものがあったので、エレベーターへ向かった。昇降ボタンの3を押すつもりが何故か2を押してしまった。エレベーターが二階で止まってドアを開閉し、三階へ上る。わずかに無駄な時間が流れた間、僕は木田に発する第一声をどうしようかと考えていた。303号室に着き、インターホンを鳴らす。ドアは何の前触れもなくすぐに開いた。


「あれ、水科。どうした?」

「いきなりごめん。ちょっと話があるんだけどいいかな?」

「おう。じゃ汚いけど上がってくれ。」

木田の部屋は文字通り汚かった。雑誌が散乱していて、板間の床には巨大な埃が散らばっていた。男の一人暮らしならこんなものか。僕は適当にあぐらをかいて座った。

「で、話って?」

「うん。佐々木教授から聞いたことなんだけど・・・ 木田は前期試験のことで何か思い当たることはない?」

我ながらいやらしい尋ね方だ。教授からカンニングの疑いをかけられているが勿論それは濡れ衣だよな、とでも聞けばいいものを。結局僕は木田のことを疑っていたのだ。自分の内側のことなのに今それがわかった。罪悪感のような嫌悪感のような気持ちを抱いた僕に、木田は笑って答えた。

「ああ、カンニングのこと?ならやったけど?思想論のやつだったかな、連れと共同で。先輩から監視のぬるい教授を教えてもらって、それで携帯のメールを使えば大丈夫だろうって話になったわけよ。試験後に特に何もなかったから大丈夫だと思うんだけどなあ。あれ、でも何で水科がそのこと知ってんの?佐々木教授が?」

「うん。確信してる感じではなかったけど、そのことで何か知ってることがあれば教えてくれって言われて。同じスキー部員だから。実際何も知らなかったから特に何も言ってないけど。」

「そうかあ。教授も感づいてはいたんだな。意外だな。まあ共同でやったことだから密告する奴なんかいないし現場でばれたわけでもないから大丈夫だよ。」

木田は何故か僕のほうを励ますような言い方をして、あっさりと話は終わった。近くに美味いラーメン屋があるから一緒に行かないかと誘われたが、この後用事があるからということで僕は帰ることにした。用事など特に無かったが。どんな会話を続ければいいのか分からずなんとなく居心地が悪かったので、その場を早く離れたかった。

帰路には茜がさしていた。木田のことを信じて損をした?違う。僕のなかには疑いの気持ちがあった。そもそも木田が驚くほどあっさりとカンニングを認めたことやその前後の僕の気持ちはどうでもよくて、一番ショックを受けたのは僕が持っていた木田のイメージと実際の木田がかけ離れていたというのがわかったことだ。青葉ほどではないが、木田は僕の交友関係のなかでも親密度は高いほうだと思っていた。同じサークルに所属し、会話に気を使うわけでもなく、なんとなく意思の疎通においては相性が合う人間だと思っていた。今となっては勝手な思い込みだが、少なくとも彼がカンニングなどという姑息な真似をするような人間だとは思っていなかった。発覚した後の全責任を負う覚悟を持って、というか何がしかの信念を持って行うカンニングなら(それも妙な話だが)否定する気もしないのだが、さっきの会話からして彼にそんな気概は無いような気がする。だからといって彼を姑息な奴だと決め付けるつもりはないのだが、とにかくショックだった。「そんな軽い気持ちでカンニングをするだなんて調子のいい奴だな」と笑い飛ばすでもなくまともにショックを受ける理由自体もよく分からないが、どこかで似たようなことがあった気がする。そうだ、佐々木教授の研究室へ行った時も同じような感覚になったのだ。僕は教授に理路整然としたイメージを持っていたが、教授との会話が終わったあとには彼に歯切れの悪さを感じていた。人間の印象なんて勝手なものだ。独りよがりなイメージを抱いて、それが壊されるとまた独りよがりな違和感を覚える。その人はその人として在るだけなのに。それだけで終わるならまだしも、ショックまで受けている僕はどうかしている。逆にはじめから悪い印象を持っている人が居たとして、その人が偶々親切なことをしてくれたとしたら、それだけで僕は「良い人だ」と有り難味の無い評価を押し付けてしまうのだろう。急に、自分は周りからどう思われているのだろう、と考えてみた。いや、それは常日頃から考えていることで、周りの目を気にしすぎて疲れてしまうことが多々あるのだけども、改めてひとの目には自分はどう映っているのだろうと考えてみた。家族、友人、好きな人、同僚、友人ではないが知ってはいる人、嫌いな人、通りすがるだけで二度とは会わないであろう人。この子は神経質だなあ。あの人かっこいい。私をもっと見て。仕事ができるあなたをとても尊敬しています!(使えない野郎だ)この人何処かで見たことあるけど思い出せない。俺を見るなよ、鬱陶しい。(無反応)。色々なひとの意識が、色々なひとに向かって流れていく。とりわけ僕は、誰かと視線が合ったとき、無意識に、しかも素早くその人の評価を想像することに意識を集中させる。「良い」と評価されている可能性が高ければ安堵。「駄目だ」なら失望。とてもとても無意味な行為。何時からこんな習性が身についたのだろう。評価が欲しいのなら、自分で評価すればいい。でも自分のことを考えてみても、何が自分なのかよく分からない。誰かに自分の価値を見つけてもらわないと余りに不安定で、ふわふわと浮かんでしまいそうになる。そんなことを考えた。考え込みながら下を向いて歩いていたら、さっきの子汚い犬が視界に入ってきた。僕は触れようとした。犬はまた吠えた。




大学が前期休暇期間に入ったので、二ヶ月近い休みを持て余すわけにもいかず、僕は短期のアルバイトをしようと決めた。ちょうど最近青葉とアルバイトの話をしたのを思い出して、二人で情報交換をしようという話になり、大学の近くにある喫茶店で待ち合わせることになった。

「しゃいあせー」

としか聞こえない店員の挨拶に迎えられて、奥のほうの席に座った。店内は木目調の壁に囲まれていて、森のような匂いやコーヒーのとても良い香りが充満している。安らぐ雰囲気の店なのだが、店員の愛想が致命的に悪い。鈴の音が鳴るドアを開けて店員の顔が見えると青葉はさっそく笑いを堪えていた。もともと青葉が気に入っていた店で、僕も連れられてよく来るようになった。僕も青葉も、店員の愛想の悪さも含めてこの店が好きだった。

「で、涼介はもうアルバイトは決めたのか?」

「いや、まだ。良さそうなのはいくつかあるんだけど。青葉はどうするつもり?」

「俺は塾の非常勤講師の良さそうなやつがあったからそれにしようかなと思ってる。数学だけでいいみたいだし。」

「塾かあ・・・時給はやっぱり高いんだろうな。」

「うん。試用期間でも1700円だったかな。いいだろ」

青葉は嬉しそうな笑顔でお冷の氷をガリガリ噛んだ。

「塾とか家庭教師方面も考えようかな。あんまり迷ってる時間も無いし。」

「まあ二ヶ月のバイトだし気楽に考えれば?そうだ、涼介この後時間あるか?」

「うん、なんで?」

「試験やっと終わったしボーリングにでも行こうぜ。」

「ああ、そっか。うん、じゃこれ飲み終わったら行こうか。」

注文したコーヒーはやっぱり美味しかった。二人とも飲み終えると、僕たちはボーリング場へ向かった。


「いらっしゃいませ、お二人様ですか?」

「はい。まだ空いてますか?」

青葉が訊ねた。

「はい、いまのお時間でしたらすぐにプレーなされますよ。只今会員キャンペーンを実施させて頂いてるんですけど、よろしかったら会員カードをお作りになりませんか?もちろん無料で、いろんな特典がつくので是非お勧めします。」

「あ、じゃあお願いします。」

青葉に入会用の用紙が渡された。名前だとか住所を記入するタイプのもので、青葉がそれを記入している間に僕はレーンの方を何となく見ていた。

「悪い涼介、やっぱこれお前が書いてくれる?」

「え?ああ、別にいいよ。」

書きかけの用紙とボールペンを青葉から受け取って、僕は名前と住所を記入していった。一瞬なんでだろうと思ったが、書き終わった頃には忘れていた。


久々のボーリングということもあって、僕のスコアはひどいものだった。青葉はストライクを取る度に、子供のような笑顔で笑った。3ゲームを終えたあと、どこかで食事でもして帰ろうかということになった。

「いやあ、涼介は全然駄目でしたなあ」

「うるさい。あー、お腹空いた。」

「どこで食べる?」

「そういえば青葉の部屋って行ったことないしコンビニで何か買って青葉のとこで食わない?」

「俺ん家?あー、ちょっと今かなり汚れてるからパス。あっちに定食家あるから行こうぜ」

「そっか、了解。」

少し歩いて、道路の向こう側の定食屋へ行くことになった。店の前には「みとや」という暖簾が掛かっている。サラリーマン達が談笑しながら店の中へ入っていくのが見えた。

「涼介何頼む?」

「えーと・・・日替わり定食にする。」

「俺もそうしようかな。すいません、日替わり2つ!」

笑顔を絶やさない主婦のような店員が、早速小さいガラスのコップに入った水を二つくれた。

「ところでさあ、涼介は卒業してからどうしようとか考えてんの?」

「卒業して?そうだなあ・・・やっぱり就職はするかな。どんな仕事したいかっていうのもまだよくわからないけど。青葉は?」

「俺もどっかの会社に就職しなきゃって思ってはいるけどな。サラリーマンとか見ててもさ、周りが言うほど嫌なものでもなさそうだろ?会社帰りのサラリーマンなんか見てると楽しそうにしてる人も多いし。でも自分がなってみたら現実はそんな甘くないんだろうな。」

「うーん。少なくとも自分の時間はかなり制限されるんだよな。あーあ、長い休みも今のうちか。考えてみれば二ヶ月も休みっていうのも凄いことだよな。働き出したら毎日のメインが仕事になるのかあ・・・まあ職業なんてそんなものか。」

「仕事にやりがい見つければ幸せなんだよ多分。」

青葉は割りと真剣な表情でそう言った。

「ほお、格好よろしい事を言いますなあ」

僕が茶化すと青葉は無言で笑った。その時ちょうど二人分の定食が出された。小皿に乗っている漬物が美味しそうだった。

「まあ俺会社員になる以外にもやりたいことはあるんだけどな。」

青葉が言った。

「へえ。何そ」

「あのさ、りょ」

言葉が重なった。

「ん、先いいよ。何て?」

僕は青葉に譲った。

「うん・・・ いや、いいや。何でもない。」

「変なやつ。」

「そう言う涼介だって変な奴だぞ。自分のなかにラルフ君が居るんだから。」

「はは、確かに。人のこと言えないや」

僕は大学に入って青葉と仲良くなり、しばらくしてからラルフのことを話したことがあった。こんなに仲の良い奴なら言えると思ったから話したのか、話したからもっと仲良くなれたのか、そのどちらだったかはもう忘れたが、とにかく僕は裏表なしに接してくれる青葉に感謝していた。僕にとって大事な存在だと感じていた。

「ああ、美味しかった。涼介が食べ終わったら行こうか。」

二人とも定食を食べ終わると、僕たちは店を出て帰宅することにした。店に入るときに見たサラリーマンの三人組がひどく酔いながら道路を歩いている。真ん中の一人がなぜか泣いていた。一人はそれをしかめ面で慰め、もう一人は爆笑していた。




ラルフのことを誰かに話すのは、青葉が二人目だった。僕は、中学生の頃に、一番仲の良かった女友達の日野辺に思い切ってラルフのことで相談したことがあった。

「頭のなかで、声がするんだ。何て言うんだろう・・・声なんだけど、耳で聞いてるわけじゃないっていうか。小学生の頃に突然頭のなかで話しかけてきて、自分でも不思議なんだけど余り驚くこともなくて、こっちから問いかけてみたんだ。そしたら返事をくれた。だけどいつでも会話ができるって訳でもないんだ。話しかけてもそこにはいなくて何の反応も無いときも多いし。だけどラルフはやっぱり自分のなかに居るんだ。冷静に考えたら脳の病気か何かなのかなとも思ったんだけど、こんなことを話すの自体が変だからなかなか誰にも言えなくて。ただの妄想だって言われればそうかもしれないんだけど、上手く言えないけど絶対そうじゃない気がするんだ。でも自分でそう思ってるだけで、人から見ればやっぱりおかしいことなのかなと思って。・・・気持ち悪いかな」

話をしているうちに、僕はだんだん後悔していた。やっぱり変だ。頭のなかで声がする?現実味が無さ過ぎる。まるで「自分はこんな特殊な人間なんです、珍しいでしょう?もっと見てください、何なら崇めてください」と主張しているみたいじゃないか。やっぱり気持ち悪い。言うんじゃなかった。

「いいじゃない、あたしそういうの好きよ。」

日野辺の返事は驚くほどあっさりしていた。救われた、と思った。

「よかった・・・頭がおかしいって言われるかと思った。」

「あたしは別にそういうことがあってもいいと思うけど。何かの事象が有り得ないって言うのは無理だと思うし。ガロンだったかな・・・どっかの物理学者の人も『人間が想像できることのすべては実現可能な現実である』って言ってたみたいだし。」

「へえ・・・よく分からないけど日野辺は頭いいんだな。」

「ね、そのラルフが話しかけてきた時ってどんな時だったの?」

「小学校がもうすぐ卒業って時ぐらいだったかな・・・ちょっと嫌なことがあった時に。」

「へえ。なんで『ラルフ』なわけ?」

「小さい頃に好きだった絵本があったんだ。タイトルもどんな話だったかもあんまり覚えてないんだけど、主人公がラルフっていう名前だったのは覚えてて。で、初めて話しかけられた時に、顔も見えないし理由もよくわからないんだけど『こいつはラルフなんだ』って直感的にそう思った。それまでその絵本のことなんかすっかり忘れてたのに。」

「面白い!いいなー、あたしにもそういうのが頭のなかに降りてこねーかな」

日野辺は無邪気な笑顔ではしゃいでいた。話してよかった。こんなことを変な目で見ずにまともに聞いてくれる人もいるんだ。もともと仲は良かったけど、日野辺とはこれからもずっと仲良くやっていければいいなと、思った。

「今度ラルフ君と会話できたらまたあたしに教えてよ!約束な。」

それから何年か経って、僕と日野辺は別々の大学に進学した。中学生の頃の僕の希望通り、日野辺とは全く会わない時期が続いたりしたこともあったけれど、その後も僕たちの関係が途切れることはなかった。




大学が休暇期間に入って一週間が過ぎた。僕の大学は学園祭を休暇期間中に開催する。以前から日野辺が僕の大学の学園祭を見に来たいと言っていたので、その日スキー部の飲み会がある夕方まで特に用事の無かった僕は日野辺を学園祭に招待していた。

「おっす。すごい賑わってるね。」

「あ、来た来た。・・・今日の日野辺は何となく雰囲気が違うなあ。まさか気合入ってる?」

ワンピースというのだろうか、名前がよく分からないのだが日野辺はどちらかというと少女が着るような真っ白い服を着て、いつもは両耳につけている毒々しいピアスを外していた。時間が逆戻りして中学生の頃の日野辺を見ているような気がして、少し変な気分になった。

「失礼だな君は。あたしはただ気分を変えたかっただけなのだよ。ところで涼介は今日はどんな予定なの?」

「スキー部では屋台とかイベントとか特に催し物が無いんだ。だから色々見回って夕方からの部の飲み会に参加して帰るかな。場所がややこしいかもしれないから夕方までは日野辺に付き合うよ。案内する。」

「そ、ありがと。まずは屋台に行きたいな。お腹空いちゃって」

構内の割と広いスペースがある場所に、色々な屋台が出店されていた。お好み焼き、ホットドッグ、かき氷、酒。そういえば去年の学園祭のサッカー部の屋台で千円札を出して二百円のたこ焼きを買った時にお釣りが三百円しか渡されなかったのに何も言えずにそのまましぶしぶ受け取ったことがあったっけ。我ながら情けない。日野辺はどの店にしようか迷っているみたいだった。

「うーん、どれにしようかな。あ、ホットドッグ屋なんかもあるんだ。あれにしよ。」

日野辺が屋台の学生に代金を払うのを待っている間、後ろから声をかけられた。

「よ、涼介。楽しんでるか?」

「あれ、青葉。いま友達がホットドッグ買うの待ってるとこ。青葉は何してた?」

「俺、今年の学園祭実行委員でさ、仕事終わっていまから休憩に入るとこ。しかしこんな時期なのに今日は暑いなー」

その時日野辺が戻ってきた。

「お待たせ。あれ、涼介のお友達?」

「ああ、うん。大学の同級生の青葉っていうんだ。」

「おわ、かっこいい!」

日野辺は何の屈託もなくそう言った。日野辺は、こう言えば相手はこう思うだろうという空気を読む能力に著しく欠けていて、思ったことを全く包み隠さず発言することを得意としている。

「はは・・・、どうも。涼介の恋人さんかな?」

「まさか。昔からのただの友達。名前は日野辺。」

僕が日野辺に先立って答えた。

「おいおい涼介はほんとに失礼だな。何だまさかって」

日野辺が笑いながらそう言うと僕も青葉もつられて何となく笑った。

「そうだ涼介、俺いまからバンド部のライブを見に行くんだけどさ、お前も来ないか?えーと・・・」

「日野辺です。」

青葉の目を直視しながら日野辺が満面の笑みで答える。

「ごめん、日野辺さんも。どう?」

「ライブかあ、面白そうだな。日野辺はど」

「行く。」

僕が言い終わる前に、わざと眉をしかめて真剣な表情で日野辺は即答した。僕達はまた笑った。


バンド部のライブ会場は履修説明会のあったホールで行われていた。入場は無料だったので、中に入って三人で座れるところを探した。三人とも座れた後少しして、舞台に三人組のバンドが出てきた。定位置について、ギターとベースとドラムのセットをしている。ギターの女の子が右腕を下ろす度ぎゅわーんという音が響く。照明が落とされて、周りが静かになった。

「どうも、来てくれてありがとうございます。ピーメイルゴリラというバンドです。早速ですが一曲目、聞いてください。『モスキート』。」

ピーメイルゴリラか、変な名前だ。曲のなかでモスキートという単語が聴き取れた。羽がどうのと歌っている。聞いているうちに、三人がとても楽しそうに演奏しているのを見て、いい曲だなと思えてきた。曲を聴いている間、別のことを考えてみる。演奏が終わったらしく、次の曲に入るとき、また演奏に集中する。それを繰り返していたら、周りから大きな拍手が起こり次のバンドが舞台に上がった。うなる轟音、舞台に降りる色んな光、マイクに通されたボーカルの両耳に飛び込んでくる声、曲の合間に聞こえる観客の談笑。気が付くと、最後のバンドの演奏が終わっていた。腕時計を見る。そろそろスキー部の飲み会が始まる時間になっていたので、僕達はホールを出ることにした。

「いやー、面白かった。三時間ぐらいはあったのかな?あたしはピーメイルゴリラっていう最初のバンドが好きかな」

楽しそうに日野辺が言った。何故か僕も嬉しくなった。

「それはよかった。じゃ俺実行委員の仕事に戻るけど涼介はどうする?」

「ああ、今からスキー部の飲み会があるんだ。そうだ、日野辺はこの後どうする?」

「あたしはもう少し構内を見て回ったら帰ろうかな。じゃ三人ともここで解散だね。涼介も青葉君も今日はどうもありがとう。んじゃまたね」

「うん、お疲れ。青葉は仕事頑張ってな」

「おう。じゃまた」

三人はここで別れた。僕は飲み会のある場所へ向かった。少し歩いたところで、木田がこちらに向かってくるのが見えたので足を止めた。

「お、涼介。どこ向かってんの?」

「今からスキー部の飲み会に。木田は?」

「飲み会か、羨ましいな。俺はずっと仕事だったんだけど今から休憩。実行委員だから。」

「あれ、木田もそうなんだ。青葉はさっき仕事に戻っていったけど。」

「青葉、青葉・・・。えーと、ああ、あのロン毛の?お前と仲が良い奴だよな。あんまり面識無いんだけど話しかけてみっかな。そうだ、こないだお前が俺ん家に来たときの話だけど、あれ絶対内緒な。誰かに話したら絶交だぜ。じゃ、俺行くわ」

木田はわざと小学生のようにそう言った。

「はは、わかってる。じゃ。」

絶交、か。僕は自然と小学生の頃の、あの日のことを思い出していた。




教室は飽きもせずドタバタと走り回る男子のせいで騒がしかった。一瞬たりとも気が抜けない授業をする6年2組担任の鳥江先生の授業。チャイムが鳴った瞬間の、四十人の音にならないため息のかたまり。貴重な十分間で落ち着いて羽を休めたい女子達は、男子の休憩時間の過ごし方に眉をひそめていた。

「ほらほら、ちゃんと追いついてみろよ!」

「ひゃひゃひゃ、あ、次ケンジが鬼!」

狭い教室での体力消耗型の鬼ごっこ。僕は一番後ろの席でさも興味が無さそうに本を読む振りをしながらそれをちらちらと眺めていた。別に鬼ごっこ自体に興味は無い。でもこれはちょっとまずい。だって、何人かの男子は、鬼ごっこに夢中になっているくせにたまに冷静な目で一瞬だけこちらを見てくるのだ。きっと心のなかで、休み時間に本を読むなんて、女子みたいなやつだ、ださい、と言っている。粘性の高い本物の油みたいな汗が額からじゅわっと噴き出してくる。駄目だ駄目だ。こんな姿を休み時間ごとに見られていたら、僕の名前は「本読み君」になってしまう。次の休み時間で僕もあの中に入らなくては。ただ、誘われるのを今か今かと待っているような雰囲気を出す奴には、「楽しそうにはしゃいでいるのをきちんと周りに見せつけることができる奴が『いい』奴だ」という美意識を持つ男子達は決して声をかけないのを僕は知っていた。異論は絶対に認められない。とても勇気が要るけれど、やるしかない。それに女子達も、男子の鬼ごっこをいかにも疎ましげな顔で眺めながらも、実は冷静にクラスの男子の相関関係を分析している。格好悪いやり方は避けなければ。チャイムが鳴った。姿勢、礼。張り詰めた空気。鳥江先生の声・視線。その行き先。終わりのチャイム。姿勢、礼。ため息のかたまり。至福の時間。僕にとっての、戦いの時間。

さっきの道徳の授業中、重そうなバッグを抱えているおばあさんが道端でおろおろしているのを見たときにあなたはどうしますかということを考えさせられていた時、僕は綿密な作戦を練っていた。休み時間が始まったら、男子はすぐに鬼ごっこを始めるだろう。彼らはすぐにのめり込んでしまうから、時間が経ってから仲間に入れてもらうのは難しい。勝負はチャイムが鳴ったすぐ後だ。誰に声をかけよう?そうだ、高橋がいる。高橋ならあの中で一番話をしているし、僕が明るく声をかけたらきっと受け入れてくれる。よし、ケンジがみんなを追い掛け回す前に高橋に声をかけよう。

「さっきはケンジが鬼で終わったからまたケンジが鬼な!」

「あの、高橋、」

鼓動が急激に高まる。大丈夫だ。やるしかないんだ。

「僕も鬼ごっこに入りたいんだけど、いいかな?」

「ええ?水科が?なんか嫌だなー、みんなどうする?」

「なんだよお、嫌だなんて言ってたら絶交しちゃうぞ!」

他の男子の冷静な判断が下る前に、必死で虚勢の笑顔を作って言い返した。何が何でもあの輪の中に入って、学校生活を安泰なものにしたいという卑屈な精神で。「絶交」と口走った引きつる唇の右端の、下卑た角度。次の言葉を待つ僕は、きっと得体の知れない気持ち悪さに包まれた餓鬼の様な顔をしていただろう。

「・・・ハッ。お前に絶交とか言われても別にどうでもいいんですけど?ていうか俺、お前なんか生きてたって死んでたってどうでもいいよ。ほんとどうでもいい。」

ギャハハ、という笑い声が教室中に響き渡った。




思い出すと今でも少しだけ胸に針が刺さる。もう十年近くも前のことなのに、こんなに鮮やかに思い出せてしまう自分の脳細胞が笑える。気付くと、飲み会の会場まで辿り着いていた。


「かんぱーい」

二十人ほどのスキー部員が集まっている。十畳ほどの畳部屋に、長机が二つ、その上に山盛りのお菓子とつまみ、数え切れないビール缶。長机を十人ずつで囲み、二つのグループが出来上がる。石田先輩の乾杯の合図で鳴り出したビール缶の開くプシュッという音が心地いい。早速みんなが口々にいろんなことを話しだす。本当は、飲み会なんて大嫌いだから来たくはなかった。だけど、いつもの調子で石田先輩と

「水科は当然参加だよな?」

「ええと・・・ 僕は飲み会はできれば参加したくないんですけど・・・」

「そうか、よし。夕方六時に南館な。会費は二千円。」

というやりとりをしてしまったので、来ざるを得なくなった。不覚にも石田先輩の返事に笑ってしまったのがいけなかった。

「ちょっとユウコ、まじでー?超ウザいんですけど。でも酔っちゃってるからもう許す!」

「バンちゃんほらもっと飲めって!もっと!ちゃんと!よしよしいい子だ」

笑い声やら、罵声やら、合唱やら。いろんな音が聞こえてくる。ビールを片手に先輩や同期たちの話の聞き役に徹している僕は、こういう時間は嫌いじゃない。話が面白ければ素直に笑えるし、少し無理をして話に割り込んだりもする。会話の端々に表れるいろんな人の笑顔が見られるのは、それだけで幸せなことだ。だけど、不穏な時間は必ずやってくる。ほんとうの自分を少しずつ殺して、周りに同調しなくてはいけないあの不穏な時間。

「やだ石田先輩、テンション上がりすぎじゃないですかあー」

「まだまだお前らが飲み足りないんだよ。ほらもっと飲め!」

「はい!自分が飲みます!石田先輩の分まで!ある酒全部飲み干すであります!」

図ったように笑い声が重なる。僕の正面にいる先輩は、一気飲みをする後輩を見て歯を見せてまで大笑いしている。でも、目が笑っていない。他の人たちも似たような反応をする。鼻から下は会心の笑み、鼻から上は弁護士のように冷静な、顔面のこのアンビバレンス。この場が無言になってはいけない、周りをしらけさせてはいけないという意識がじわじわと全員を襲って、妙な連帯感が生まれていく。

「ほら水科君全然飲んでないじゃない、若いんだから飲みなさい」

「あ・・・すいません。どうも。」

「水科君ちゃんと楽しんでる?」

「ああ、はい。大丈夫です」

気遣われると萎縮してしまう。特に気を遣って周りを盛り上げようとするでもない僕は、掃除当番をさぼる奴のような感じだろうか。楽しむために開かれたこの場はもう何かの罰ゲームのように緊迫している。だから飲み会なんていう場は嫌いなんだ。話すことがなければ黙っていればいい。だけど、ほとんどの人が無言でいることは罪だと思っているから、自分のなかのほんとうの自分を、心を、声を、潰しながら言葉を搾り出す。言葉は心を伝えるためのただの道具なのに。それでも、そんなことを考えているくせに愛想笑いをしている僕なんかより、敢えて虚飾を引き受けている彼らの方がずっと正常なのはわかっている。

大人になりたい。欠落だらけの自分から抜け出して、ほんとうの大人になりたい。でも、大人になるというのはどういうことだろう。自分を自由に押さえ付ける能力を身につけることだろうか。きっと、違う。




大学が後期課程に入った。前期過程で履修していた科目は一応全て単位が習得できていたので、僕はほっとしていた。後期課程初日のこの日は、構内がいつもより学生で一杯だった。初日ということもあって、講義をさぼる学生が少ないせいだろう。新しいノートを買ったとき、はじめの一文字をやたらと丁寧に書きたくなってしまうあの感覚を思い出す。長い休み明けに久々に来た構内では「久しぶり」という声がたくさん飛び交っていた。笑顔でしばらくぶりの友達との会話を楽しむ彼らを見て、僕もつられて何となく嬉しい気持ちになる。休み前に地面に散らばってひどい悪臭を放っていた銀杏はほとんど取り除かれていて、秋の涼しい良いにおいのする風が吹いている。そんな些細なことすら僕を幸せな気持ちにさせた。

もうすぐ一限目の講義が始まる時間だ。一限目は佐々木教授の西洋思想論か。僕は講義室へ向かった。

「今日から後期課程ですが、早速講義を始めます。まずヘレニズムにおいてのアレクサンドロス帝が起こした事象の意義についてのレジュメを・・・」

僕の席の斜め右前あたりに違和感を感じる。そうだ、いつもあの辺に座っている木田がいない。木田は講義に集中的に出席して集中的にさぼるタイプの奴だから、いまは休むほうの周期なんだろう。ひさびさの講義だったので、九十分はすぐに過ぎた。

講義が終わりトイレがあるほうの別館へ向かっていると、木田がこっちに向かって歩いてきた。何だ、近くにいたのか。気のせいか険しい顔をしている。

「おい、ちょっと来いよ」

「え、何?」

「来い」

理由はさっぱり分からないが怒っているということだけは分かった。釈然としないが、木田の背中を追ってトイレから少し離れたところにある場所へ行った。

「人を蹴落としといて自分は何事もなく講義に出席か?いい趣味してんなお前」

「・・・え?何、何のこと言ってるわけ?」

「・・・ハッ。密告野郎は演技が上手だな、ほんと」

「密告・・・?」

「西洋思想論の単位、お前のお陰で無事落とした。これで留年の可能性もあるってよ。佐々木教授はどんなご褒美くれるって?」

「落としたって・・・カンニングのこと?僕は何も言ってない」

「うぜえ。何それ。お前にしかそんな話してねえんだけど?」

「いや、ほんとに・・・」

「死ね。」

そう言って木田はどこかへ去った。瞬きが止まる。あらぬ方向を見ていると、嫌な記憶がよみがえってきた。苦しい。

ラルフ、僕はこんなときどうしたらいい?

「涼介はやっぱり弱いんだなあ。別に悲しいことではないさ」

弱い、か。確かにそうだ。年を重ねてきただけで、僕は少しも成長していない。久々に聞こえたラルフの声も、ついさっき起こったことを消化しきれないまま宙に消えた。




三度目の目覚まし時計の耳障りな音。過眠症を患った僕は、時計の頭を叩いて黙らせる。目をやると、午後四時をまわっていた。一昨日からずっとこうだ。一日で十四時間は眠っているだろうか。眠りたくもないのに、布団に入って必死に意識を落とそうとする。眠っている間は、頭の中に何も無いから、少しの間だけ許される現実逃避の時間になる。眠り尽くして目を開け、意識が徐々に覚醒していくにつれ強い頭痛が襲ってくる。真夏の暑い最中、全速力で走った後にやってくる頭痛よりもひどい。僕は怠惰の塊になっていた。何かが悲しいとか辛いとか感じているわけじゃない。ただひたすらに、すべてのことが面倒臭い。できることなら水も飲まずトイレにも行かず、ずっとこのまま眠っていたい。朝がきたって、目など覚めなくていい。それは死んでいるのと同じだろうか。それすらどうでもいい。

木田に言われたことを反芻してみる。やっぱり、辛い。でも布団から這い上がれないほどのダメージを受けているのは何故なんだろう。濡れ衣を着せられているから?そうじゃない。「仲が良い」と認識していた人間に否定されてしまった。僕のすべてを。それにしても、人に相当なダメージを与えるのがあれ程単純な二文字の言葉だとは。僕は、本当はこの状況を改善するにはどうすればいいのか分かっている。誤解を解く。ただそれだけのこと。でも、いまの僕にはそれだけの勇気が無い。もう一度否定されてしまえば、今度こそ自分が潰れてしまう。弱い。本当にラルフの言うとおりだ。何の生産性も無いことをだらだらと考えていたら、携帯電話が鳴った。日野辺からだ。

「もしもし」

抑揚の無い声で応じる。

「あ、涼介?いま電話大丈夫かな?急で申し訳ないんだけど、明日の午後に時間つくってほしいんだ。ちょっと話したいことがあって。駄目かな?」

一瞬迷ったが、何となく断る気にもなれなかった僕はすぐに返事をした。

「いや、いいよ。待ち合わせ何時にしようか。」

抑揚の無い声で応じた。




玄関を開けたとき、外出するのが久々だと気づいた。三日間も部屋に閉じこもっていたのか。何という怠惰。外は思ったよりも冷え込んでいる。服装が若干薄着だったが、三日分の怠惰で重くなった頭を冷やすには丁度好いと思ってそのまま玄関に鍵をかけた。待ち合わせ場所に向かう道の途中で、空気の冷たさと匂いが変化してきているのに気づく。大好きな秋の匂い。冷たい風が頬に張り付いてくる。秋というと普通は枯れ葉のイメージだとか夏の終わりだとか、哀愁の漂う感じが思い浮かぶのだろうけど、僕にとっての秋は生命の秋だ。というか、自分の体と意識が秋に一番生命力を増す感覚がある。一年のなかで一番幸せな秋はもうこんなに本格的になっていたんだ。外の季節を感じることさえ忘れていた。そういえば大学も三日も休んでしまった。今日はちょうど日曜日だから、明日からはちゃんと講義に出よう。いつの間にか、そんな少し前向きな気持ちになっていた。


「涼介、こっちこっち。」

待ち合わせ場所には日野辺が先に着いていた。いつものように毒々しいピアスを両耳につけている。

「急でごめん、来てくれてありがと。」

「いや、いいよ。今日は涼しくて気持ちいいな」

「うん。大学はどう?ちゃんと行ってる?」

いたずらな笑みを浮かべて日野辺は言った。見透かされていたのかと思って少しだけ動揺してしまった。

「はは。この三日間はさぼっちゃったんだ。明日からちゃんと行こうと思ってたとこ。」

「そっか。あのさ、今日は涼介に相談・・・っていうわけでもないんだけど、話したいことがあったんだ。」

日野辺の言葉の温度が急に少し下がったのがわかった。余り良くない話なんだろうか。

「うん、どんな話?」

「あたしのお父さんのことなんだけど・・・あたしさ、小学生の頃に両親が離婚してお父さんに引き取られたんだ。それで今までお父さん男手一つであたしを育ててきてくれた・・・っていうか今でも大学の学費とか生活費で少しお世話になってるんだけど。で、最近愛媛で台風があったでしょ?」

「うん」

「実家は大丈夫かなって心配になったからお父さんに電話したんだ。そしたら全然知らない人が電話に出た。あ、これ別に怖い話だとかそういうのじゃないよ?」

日野辺はそう言って微笑む。だけど、なんだか物悲しい笑顔だ。

「誰ですかって尋ねた。そしたら『介護ヘルパーの者です』って。番号を間違えたのかと思ったんだけど、あたしが父の娘ですっていうことを伝えたらその人が最近お父さんにあったことを色々教えてくれて」

日野辺の表情がどんどん暗くなっていく。相槌を打つのもなんだか申し訳ないような気がして、僕はひたすら黙って聞いていた。

「お父さん、入院してたんだって。仕事中に・・・機械工場に勤務してるんだけど、毎日使ってる溶接用の機械のなかの高温の液体がちょっとしたはずみで飛び散って、大変なことになっちゃって。すぐに病院には行ったんだけど、もう打つ手がなかったらしくて。視力を失ってしまったの。」

日野辺にとっては何度目の涙なのだろう。両目から零れ落ちていくそれを、僕は直視できなかった。

「それから仕事は当然休むことになって。毎日の生活もままならないから、今は介護ヘルパーの人にとりあえず来てもらってる状態で。あたしが電話した日はたまたまお父さんは病院に行ってて、だからヘルパーさんが電話に出たんだ。」

「あ、ああ・・・」

僕は自分でも相槌の意味で使っているのか何なのかよく分からない声を出してしまった。

「それでちょっと混乱しちゃって。一番驚いたっていうか悲しかったのは、お父さんがあたしにそれをすぐに伝えなかったことなんだけど。まさか他人からそんなこと知らされるなんて思わなかったから。その後でお父さんはあたしに伝えようと思ってはいたけどなかなか言いにくかったらしくて。」

「・・・」

何も言えない。何も言ってあげることができない。

「でもさ、あたし思うんだ。お父さんはきっとしばらくの間そのことを隠して、あたしに心配させないようにヘルパーさんに来てもらって何とか生活していこうとしてたんだって。あの人いつだって自分より先にあたしのこと考えちゃう人だから。うちは裕福じゃないし経済的にもたぶん無理なことなのに。それでもお父さん、あたしのことだけ優先して、あたしの・・・」

「日野辺・・・」

目の前で日野辺が嗚咽している。僕は、やっぱり何も言えない。しばらくの沈黙の後、日野辺はまた話し出した。

「悲しいことなんだけど、ただそれだけで終わらせてちゃ駄目だってことは分かってるの。あたしさ、すぐかどうかは分からないけど大学辞めて実家に帰ることにした。あたしがとりあえず就職して、お父さんの身の回りの世話してあげなきゃ。というかそうしてあげたい。ずっとヘルパーさんに来てもらうのも何だか違うと思うし。今日明日の話じゃないんだけど、もしかしたら近いうちにそうなるかもしれないから、どうしても涼介に話しておきたかったんだ。・・・はは、なんか怒涛のように話しちゃったね。しかもこんな話で。ごめん。」

日野辺がいつもの笑顔を作ろうとしているのが痛いほど分かった。こんな時、どういう顔をすればいいんだろう。

「ごめんって、そんな・・・僕なんか何も・・・」

「あー、涼介に話せて気分がすっきりしちゃった。ほんと聞いてくれてありがと。助かった。」

「そう?よかった・・・日野辺がこの街からいなくなっちゃうかもしれないのかあ・・・日野辺さあ、話したいことができたらこれからも何でも話せよ。」

「おう。ありがと。」

日野辺は、いつもの笑顔になっていた。


日野辺と別れて、家までの道を一人で歩く。さっきまでの日野辺の表情を思い浮かべていた。何もできなかった、何も。ただ話を聞いていただけだ。あの場で何か日野辺にしてあげられることは無かっただろうか。そしてこれから日野辺とどう接していけばいいんだろう。よく分からない。大変なことがあったのに、日野辺の目にはもう、一つの信念があった。強い人。それでも、押し潰されてしまいそうな時があったんだろうし、これからもきっとあるのだろう。小学生の頃から仲間でい続けてくれた日野辺。僕は何をするべきなのだろう。

無意識に、頭のなかでラルフに問いかけてみた。何も返事は無かった。




月曜日。四日ぶりの大学。たった四日間来ていないだけなのに、少し懐かしい感じがする。ただでさえ出席と受講態度に厳しい第二外国語のスペイン語の講義をもう二回も欠席してしまい、今日の分の予習も全くしていなかったので、僕は講義前の空いている時間に構内の図書館へ行って予習をするつもりだった。席は空いているだろうか。図書館へ続く道を歩いていると、向こうから木田が友人と歩いてくるのが見えてしまった。

どうしよう。歩く方向を変えようか。それとも誤解を解くために話しかけてみる?でもどんな顔をして話しかけていいのか分からない。それに一方的に勘違いされているだけなのだから、何だか僕から話しかけるのも変な気がする。考えているうちに、すれ違う距離まで近づいてしまった。

「よう、水科。」

木田が、以前と変わらない口調で声をかけてきてくれた。予想もしなかった行動をとられて少し動揺してしまったが、なんとか返事をした。

「あ・・・久しぶり。・・・元気?」

「元気元気。俺今から食堂行くとこ。じゃな」

「あ、うん。じゃ」

この間のことが嘘のように、木田は笑顔だった。それ以上話すことも無かったのでそのまますれ違ったけれど、僕は急激な安心感に襲われていた。よかった。気が変わったんだろうか。それとも勘違いだったことが分かったんだろうか。どちらでもいい。以前の木田に戻ってくれたのなら。急に、心臓のあたりが軽くなった気がした。スペイン語の予習を張り切って頑張ろうなんて思えてしまうほどに、嬉しかった。すれ違う直前の、木田の口元に現れた嘲笑にも気付かずに。


軽い足取りで図書館へ向かう。さあ、予習を頑張るか。不意に、頭のなかでラルフの声がした。

「以前の関係に戻してもらって喜んでいるんだね。でもそんなことより涼介には何かをしてあげるべき人がいるんじゃないかな」

ハッと我に返った。日野辺のことをすっかり忘れていた。昨日のことなのに。「何か自分にできることはないだろうか」なんて考えていたくせに。偽善者、の三文字が、額の奥の真っ暗なところに白く浮かび上がってくる。自分の仕様もない悩みが一つ消えたことに夢中になって、日野辺の辛さのことなんて意識から消えていた。二十四時間も経たないうちに。僕の人を想う気持ちなんてこんなものなのか。呆れる、を通り越して自分が悲しくなってしまう。何かをしてあげるとか、何かをしてもらうとかいうのは、文字通り「もらう」と「あげる」の関係なんだ。笑ってもらって、許してもらって、認めてもらって。なのに自分が先に何かをしてあげようという意識なんてさらさら無くて、いつもいつも求めてばかり。与えられているものをさも当然のように受け取り、その有り難さに感謝もせずに、まだ足りない、と不満を漏らしてばかり。なんて卑しい人間なんだろう。出来ることなら、今すぐ体のなかにある魂の汚れた表皮をばりばりと剥がして洗濯機に放り投げてしまいたい。僕が悲しいと感じていたことなんて、くしゃみで飛ぶような羽毛よりも軽い些細な事だったんだ。

変わらなくては。僕は、変わらなくては。




今すぐに何かを始めなくてはいけないという焦燥感のような、何をしようにも決断できない迷いのような、そんな気持ちで一杯だったから、スペイン語の講義は、余り頭に入らなかった。三十分後に次の講義が始まる。僕は自然科学総合解釈の講義室へ向かった。

講義室へ入ると、中には青葉だけが、カーテンの揺れる窓際に座っていた。

「よう涼介、早いな」

「青葉こそ。でも確かに二人とも早すぎだ、誰もいないや」

二人で笑った。

「さっきから風がずっと吹いてるんだけどさ、涼しくて気持ち良いから眠りそうだった」

枯れ葉の匂いを含んだ秋の風が窓から吹き込んでカーテンを揺らし、教室中を満たしている。外はもう茜色だった。微妙な朱色が少しずつ濃くなって、僕達と教室を染めていく。

「こういうのって落ち着くんだよな。涼介は秋は好きか?」

「うん、季節のなかで一番好き。秋の涼しい風が吹いてるとそれだけで幸せな気分になるんだ。あと、秋は関係ないけど台風とか雷とかも。」

「台風?」

「うん。何て言うんだろう、台風がうなってたりだとか、夜に雷が鳴ってその雷光を見たり音を聞いたりしてるときも似たような幸せな気持ちになるんだ。変かな?」

「はは、変だよそれ。台風と雷か、面白いな」

また二人で笑った。青葉と会話をしているときは本当に楽しい。言葉を選んでしまうような邪念なんて一切無くて、自分の意識がとても自由でいられる。日野辺ともまた、こんな風に会話できる時がくるだろうか。そう思った。

「そういえばさ、青葉とボーリングに行った日に青葉が『会社員になるのもいいけど他にやりたいこともある』って言ってただろ?あれ聞こうと思ってたんだけど忘れちゃってた。青葉の他にやりたいことって何?」

ふとあの日のことを思い出して尋ねてみた。

「ああ、あの日の。笑うなよ。俺さ、小さい頃から考古学者になりたかったんだ。古い遺跡に行って、何千年も前の人間たちが創ったものだとか持ってた思想とかに触れるのってロマンがあるだろ?何ていうか、古いものが好きなんだ。いろんな人間の意識が溶け込んでる気がするから。」

「へえ。考古学か。いいと思うよ、青葉に似合ってる。」

「そうか?で、考古学者になろうと思えばまずは大学の教授にならないといけないんだけど、俺じゃたぶん無理だろうな」

青葉は少し儚げにそう言った。

「なんで?」

「・・・あのさ、涼介。俺、あの日もう一つ言わなかったことがあるんだ。それが・・・はは、やっぱ涼介でも言いづらいな。」

憂いのある笑顔で、青葉は黒板のほうを見ている。

「俺さ、部落なんだ」

ぶらく、の意味が一瞬よく分からなかった。

「部落って・・・同和教育の?」

「ああ。何ていうか・・・そうなんだ。」

青葉は、ずっと同じ方向を向いている。その横顔は、まだ憂いを帯びながら微笑んでいる。何て悲しい笑顔なんだろう。

急に、青葉とボーリング場に行った時の受付での場面が絵画みたいに頭のなかに浮かんできた。あの時青葉は会員カード入会用の用紙に記入しかけて、僕に書くように言った。その後、食事の後に僕が青葉の家に行こうかと言ったが部屋が汚れているからと断られたことも思い出す。住所、か。青葉は、住所を悟られまいとして隠していたんだ。まったく気付かなかった。というか、青葉がそうせざるを得ない状況にいた、ということが切ない。

「ほんとは涼介にはもっと早く言いたかったんだけどな。いざ言おうかって時になるとやっぱり怖くてな。でも、言えた。」

なんて切ない表情だろう。机の上に両手を置いて椅子の背もたれのほうに重心を傾けて、四本ある椅子の脚を二本だけ浮かせながらずっと一点を見ている。青葉はいまどういう気持ちなんだろう。かけてやれる言葉が、見付からない。

「涼介は、部落のことは知ってるか?」

「うん。正直詳しいわけじゃないけど、大体どういうものかっていうのは知ってる。」

「そっか。最近は特に若い人の間でほとんど差別意識は無いっていうけどさ、意外とそうでもないんだぜ。昔よりはましになってるんだろうけど。大学でも何故か俺がそういう・・・そういう場所の出身だっていうことを知ってる奴もいて。色々さ、あるんだ」

青葉はまだ同じ表情で、同じ方向を見ている。これまでの、辛かった出来事を思い出しているのかもしれない。幼い頃から、どれだけの想いを抱えて生きてきたんだろう。僕には想像もつかないような、どれだけの事があったんだろう。僕の口から、言葉が、溢れてきた。

「辛かったんだろうな・・・先に言っておくけど、僕はその話を聞いたからって青葉との関係は何も変えない、変えたくない」

青葉がはじめて僕の目を見る。

「当事者じゃない人間がこんなこと言うのはおこがましいかもしれないんだけど・・・部落がどうのっていう事なんてどうでもいい。くだらないと思う。だって、そんなの別に青葉の中身には関係無い。何百年も前の差別がいまだに関係してるなんて・・・ほんとにくだらない。」

何も言わずに、青葉は微笑んだ。

「ごめん、なんか偉そうに言っちゃって。でも、青葉は何も気にすることないよ。あ、実際に色々大変なことがあって気にせずにはいられないっていうのは分かって・・・理解はできるつもりなんだけど、何ていうんだろう・・・青葉は青葉だから。少なくとも僕は青葉を変な目で見たりはしない、絶対」

言いたいことが上手く伝わらないこのもどかしさ。でも、僕は素直な気持ちをそのまま言葉にした。

「ありがとう、涼介。」

そう言って、青葉はまた微笑んだ。教室を満たしていた茜色は、もう紺色に近くなってきている。僕たちはそれからしばらくの間何も話さず、だけど相手の考えていることが何となく分かるような、そんな気持ちだった。前方のドアが開く。何人かの学生の後に続いて、教授が入ってきた。いつの間にか講義の始まる時間になっていた。


講義が終わり、僕は一人で帰路についていた。さっきの事を思い出し、考え事をしながら歩く。部落差別、か。知識として知ってはいたけど、こんなに身近にあるものだったとは。人間の心なんて弱いものだ。何百年も前のふざけた考え方を、空を飛んで色んな場所を自由に行き来できるようになった今でも引きずっているなんて。血が穢れている、という発想が出来るなんてどうかしている。僕はそんなことでは青葉のことを絶対に見捨てたりはしない。それは確信できる。でも、人間のもっと根本にある意識なんて、実はみんな余り変わらないんじゃないだろうか。自分より「下」の人間の存在を確認して、自分はあの人よりはましだと安心する。周りとは少し違っているものを標的にして、自分は多数の側についている、自分はあんなみじめな存在じゃないんだと言い聞かせる。僕は、そんな気持ちが自分のなかには微塵も無いなんて断言できるだろうか。誰かに自分の存在を認識してもらって、つながりを持つに値する人間だと評価されたい、だけど見下されるのは怖い。怖いから、少しでも自分より劣る何かを周囲から探して、それと自分を比較させて自分は「上」のほうにいるんだ、あなた達に評価されるべき人間なんだと誇示したい。そんな気持ちがやっぱり僕にもあるんじゃないだろうか。自分の存在を見てほしい、認めてほしい、ここにいてもいいんだと許してほしい、あなたは幸せなんだと言ってほしい。悲しい程に誰かの目が頷くのをひたすら待ち続ける、この意識。決して綺麗なものとは呼べない、この意識。

状況に翻弄されるだけの僕は、きっと病気なのだろう。




目覚まし時計の、耳障りな音が鳴った。八時五十分。少し眠りすぎてしまったが、すぐに家を出れば一限目の講義にはなんとか出席できる。僕は急いで着替え、玄関のドアを開けた。

外は相変わらずの秋。冷えた風が僕に吹きつける。一年中秋だったらいいのに。そんな国があったら僕は移住してしまうかもしれない。風にのって、屋台のラーメンのいい匂いが流れてくる。誘惑に負けそうになったけれど、腕時計をちらと見て僕は大学へ急いだ。

一限目の講義室へ着く。講義はもう始まっていた。空いている席を探していると、左側の前方に青葉が座っているのが見えた。できるだけ教授の目に付かないように、僕はそっと一番後ろの席に座った。

「えー、今座席に座ったあなた、お名前は?出席したことにならなくなってしまうので遅れて入ってきた人は必ず申告してください」

「あ、すいません。水科です。」

数人がこちらのほうを一瞬だけ見てまた前を向く。恥ずかしい。座席に座り直すと、青葉がこっちを見て笑っていた。僕は何だよ、という顔で笑い返した。


一限目が終わった構内は、食堂に向かう学生で混雑している。

「涼介今日は寝坊したのか?しょうがない奴だな」

「はは、起きたら九時前だった。」

「はは、そっか。そうだ、こないだはありがとうな。」

「全然。むしろ青葉が話してくれたことが嬉しかったし。」

「俺、ほんとに救われた気分になったんだ。涼介は俺の親友、だ。じゃニ限目もあるから行くわ」

よかった。大したことは何もしなかったけれど、青葉が元気でいる姿を見られて安心した。親友、だなんて改めて言葉にして聞くと少し照れくさい。僕は次の講義までだいぶ時間が空いていたので、もう一人の親友に電話をかけることにした。


「もしもし、日野辺?」

「涼介、久しぶり。どうしたの?」

「いや、日野辺は元気かなと思って。あれからどう?」

「そっか、ありがと。あたしまだ大学には通ってるんだ。お父さんとも話し合ったんだけど、大学を辞めるっていう結論はそんなに急ぐことじゃないだろうって叱られて。ま、近いうち実家に帰ってお父さんと一緒に暮らすってことはもう決めてるから、あとは状況見て決めていくことにした。」

「そうなんだ。よかった、なんか日野辺が元気そうで。」

「まーね。進まなきゃしょうがないし。あたしも涼介の声が聞けて嬉しいよ、電話ありがとね」

「うん。じゃあ、また連絡する。」

日野辺の声は何かから解放されたように明るくて、僕は自分のことのように嬉しくなった。


大学からの帰り道、一人夕暮れの街を歩く。街並み全体がオレンジ色をしていて、空を飛ぶ鳥の声がゆるやかに響く。いつもと変わらないこの街並みを、何時間でも歩いていたくなる。僕は、歩きながら日野辺と青葉のことを考えていた。

二人とも元気そうで本当によかった。だけど、これまでにたくさんの辛いことが起こってきたんだろうし、これからも起こっていくんだろうということを僕は知っている。それは僕だってそうなんだけど。青葉が周りから差別を受けたときの、悔しいような悲しいような気持ち。日野辺が父が失明したことを知ったときの、絶望するような気持ち。それを頭のなかで言葉にしてみて、自分のこれまでの似たような経験と照らし合わせてみれば、その気持ちは僕にだってわかるよ、と言いたくなる。だけど、青葉が「やーい、ブラク、ブラクー。」と同級生にからかわれたときに感じたであろう心臓に太い針が何本も刺されたような、目頭から血液が零れ落ちるほど悔しいような、そんなリアルな感覚や、日野辺が父親の今は何も見えていない目を目の当たりにしたときに感じたであろう縄で縛られて少しも身動きが出来ないほど息苦しいような生々しい感覚は、僕には絶対に分からない。同じように感じ取ることはできない。林檎を頭のなかでイメージしてみても、色や形はぼんやりと思い浮かんでも甘酸っぱい味覚や匂いをリアルに再現することはできないのと同じように。血縁関係があっても、どんなに好きな人でも、それは同じだ。そんなことさえ出来てしまうような存在が神と呼ばれるのだろう。人間なんて無力なものだ。ちからの及ばないもの、仕方の無いこと、そういうものはみんな、僕の敵だ。

だけど、ちからが及ばないからといって、仕方が無いことだからといって、立ち止まってはいけない。僕は変わらなくては。辛いことが起きたからって弱々しく悲しんでいるだけでは何も変わらない。自分にとって辛いことが起きるのは、他の誰かに辛いことが起こったときのその人の気持ちを少しでも理解できるようにするためなんだ。全く同じ感覚を共有することはできないけれど、大事な人が笑顔になってくれればそれでいい。

まるでラルフに諭されたときのように、僕はそんなことを考えた。青葉や日野辺の意志や言葉や哲学を、僕は守りたい。




ここのところ、大学で青葉を見かけない。たまたますれ違っていないだけなのかもしれないが、それにしても変だ。しばらく来ていないのだろうか。僕は、青葉に電話をかけてみた。


「もしもし、涼介?」

「あ、青葉。久しぶり。最近見ないけど大学には来てないのか?」

「ちょうど俺もそろそろ涼介に連絡しとこうと思ってたんだけどな。俺、一週間ぐらい前から体調が悪かったんだ。で、吉川病院で検査してもらったら入院の必要がありますって言われて。それで昨日から入院してるんだ。はは、急な話だよな」

「吉川病院で入院?そっか、大変だな。」

「ああ、でもすぐに退院できるらしいしゆっくりできると思ってベッドで大人しくしてるよ。・・・あ、やべ、看護師さん来た。ごめん、とりあえず切るわ」

「ああ、じゃ後でお見舞い行くよ」

入院か。何の病気だろう。僕は、今日の講義が終わったら吉川病院へ向かうことにした。


外科やら精神科やら、ほとんどの部門が揃っている吉川病院は、巨大な建物の中に病院独特の薬品の匂いが充満していた。車椅子を使っている人が談笑していたり、看護師さんが慌ただしく駆け回っていたり、小さい女の子が泣きわめいたりしているこの場所が何だか不思議な空間のように思えた。

「青葉シゲルさんは506室にいらっしゃいます」

受付の人に青葉の病室を聞いて、階段を上がっていく。506室は五、六人ほどの大部屋で、青葉は奥のほうにいた。

「や、元気か?」

「お、涼介。来てくれたんだな、ありがとう」

仕切りのカーテンを開け、窓から外の様子を眺めていた青葉は、特に変わった様子も無くいつもどおりの青葉だった。

「入院なんて大変だったな。どこか悪かったのか?」

「ああ。胃に小さい潰瘍が出来てるらしくてな。胃痛なんか無かったんだけど一応入院してちゃんとした検査しろって勧められて。」

「そっか。・・・あ、猫。」

青葉の左隣にある窓際から、猫が顔を覗かせていた。ここ、五階じゃなかったっけ。

「可愛いだろ。ちょうど俺が外の景色を眺めようと思ったらどっかからやって来るんだ。」

身を乗り出して窓の外に目をやると、ちょうど猫が歩けるぐらいのコンクリートのスペースがあって、全部の病室にそれがつながっていた。

「たぶん色んな病室を行き来してるんだろうな。黒いから勝手にクロって名前つけて呼んでたら振り向くようになったんだぜ、こいつ」

きれいな毛並みの真っ黒い黒猫。野良猫だろうか。まばたきもせずにじっとこちらを見ている。緑色の目がとても綺麗だ。僕が猫を眺めていると、ぴょん、と青葉のベッドの上に飛び降りてきたので、噛まれるかもしれないと思いつつ僕は猫に手を伸ばしてみた。

「・・・」

手を伸ばした僕に警戒もせず、猫は目を閉じて静かに僕に撫でさせてくれた。喉の奥から、ごるるる、という音が鳴る。

「はは、触らせてくれる猫なんて久しぶりだ。ほんと可愛い。」

妙に嬉しくて触りすぎたからなのか、猫は目を開けるとまた窓の外へ消えていった。

「猫はいいよなあ、なんか自由を謳歌してる感じだもんな。」

青葉が言った。

「はは、そうだな。でも青葉が元気そうでよかった。早く退院できるといいな」

「ああ。たぶん来週中には退院してると思う。今日はありがとな」

「うん。もし入院が長引くようならまた来るよ」

「おう。・・・涼介、」

「ん?なに?」

「俺、お前のことほんとに大事な親友だと思ってるよ。涼介が俺の親友で、よかった」

「はは、なんだよ急に。僕も青葉は大事な親友だ。同じだよ」

あの日、教室で吹いたような風が、室内を吹きぬけた。

帰り道の途中で、待ち時間の長い信号があったので、僕は信号を待たずに歩道橋を渡ることにした。登ってみると、結構高い。一番上まで辿り着いて、歩きながら車が絶えず流れる車道を見る。俯瞰から見ていると、車がおもちゃのように思えてくる。耳の裏側に、冷たいものが落ちてきた。雨だ。傘は持っていなかったが、小雨だったし家まではそう遠くなかったので、慌てることもなくそのまま歩いた。さっきまでゆっくりと歩いていた人達が、急にばたばたと駆けていく。雨のせいでみんなが同じような動きを同時に始めるなんて、何だか面白い。あの人達は、「うわ、降ってきた」「傘持ってないのに」なんて考えながら走っているんだろうか。そんなことを思いながら、僕は意識のことを考えていた。

昔から疑問だった。意識というものは、物質としてあるものではないのに、自分のなかと自分の周りに確実に存在している。人に働きかけて、喜ばせたり悲しませたりする。動物にだってある。でも、目には見えない。小さな頃から、そんな意識というものが自分にとって一番不思議なものだった。この世界の人達にはそれぞれ別々の意識があって、それぞれが色々な方向に飛び交っている。意識が意識に干渉して、新しく生まれたりなんかもする。そんな当たり前のことが何故か不思議に思えてくる。僕が住むこの街は、日本は、目まぐるしく景色を変えながら、どれだけの意識を包んできたんだろう。そうやってたくさんの意識が絶えることなく生きてきて、僕自体もいま生きているということが、本当に不思議だ。明日になれば、なんであんな馬鹿げたことを考えていたんだろうと我に返るのだろうけれど。




青葉のところへお見舞いに行ってから十日が経った。青葉はまだ大学には来ていない。まだ入院しているのかどうか確認するために電話をかけようかとも思ったのだが、院内では携帯電話の使用を規制されているらしく、気軽にかけるのも申し訳ないかと思って、今日の講義が終わったら吉川病院へ行くことにしていた。

三限目の講義まで時間があったので昼食を摂ることにした。学食の安い定食を注文し、食堂の外に置かれているベンチに空いている席が無いか探してみる。ほとんど満席だったので、とりあえず空いているところに座った。食べようと箸を手に取ると、二つ向こうの席に木田が友人と食事をしているのが見えた。一瞬僕と木田の目が合ったが、木田はすぐに目をそらして友人との会話を続けた。

「で、学園祭の実行委員の仕事でその青葉って奴と一緒になったわけよ。最近わかったんだけどさ、そいつ部落らしいぜ。ありえなくね?」

「でえー、まじ?そんな奴がこの大学にいんのかよ、キモすぎ」

と、聞こえた。

意識より先に足が動く。次に視界に入ったのは、木田の顎にめがけて飛んでいった僕の右手が握り締められてできた拳だった。ゴ、という音と一緒に、味わったことの無い感触が右手に絡みつく。

「てめえ何してんだゴラア!」

「取り消せ」

「・・・は?」

「取り消せよ!」

木田が、不敵な笑みを浮かべる。

「ハッ・・・。なに、大事な親友くんを馬鹿にされたから怒っちゃってるわけ?裏切り野郎がナメたことしてんじゃねえぞ」

「・・・」

「あいつ今入院してんだろ?俺な、先週あいつに電話して『水科がお前のこと部落って馬鹿にしてたけどほんとなのか?』って聞いてやったよ。はは・・・あは、その時のあいつの反応!」

目の前の人間は、大笑いをしている。殺意が、生まれた。だけど、それよりもずっと強い気持ちが瞬時に僕を満たしたから、僕の足はひとりでに走り出していた。青葉のいる吉川病院へ向かって。


信じるな。青葉、そんなこと信じるな。祈るように同じ言葉を頭のなかで繰り返す。全力で走っているうちに、吐く息が熱くなっていく。


病院へ着いても、息切れのせいで院内の匂いを感じなかった。506室へ。足を止め、なんとか呼吸を調整しながら、部屋の奥に目をやる。青葉がいない。いや、荷物さえ無い。退院していたのか。

「どうされました?」

僕の挙動が不審だったのか、看護師が話しかけてくれた。

「あの、この部屋に入院してた青葉っていう・・・僕の友達なんですけど、もう退院したんですか?」

看護師は、僕の目に合わせていた視線を少し落として、言った。

「青葉君のお友達なんですね。・・・何というか・・・残念ですが、青葉君は三日前に亡くなられました」

世界が、止まった。




視線の先には、天井が見えた。さっきからずっと一ミリも動いていないのに、心臓だけは激しい鼓動を止めようとしない。

痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。勘違いされたままいなくなるだなんて。最後まで罵倒を浴びせられて死んでしまうだなんて。あんなに元気だったのに、何の前触れも無く突然いなくなるだなんて。青葉が、もういない。「シヌ」という語感の意味が、いま初めて理解できてしまった。声を聞くことができない。姿を見ることができない。意識が触れ合うことも無い。なんて寂しいことなんだろう。こころに穴が開く、というのは比喩表現ではなかったんだ。いま、僕の心臓には大きな穴がたしかに開いている。

ラルフ、僕は、僕は・・・。

「とても悲しいんだね。いまの涼介の悲しみは、時間が経てばきっとやわらいでいくよ。だけど、時間が経って涼介が彼のことを忘れてしまった時に、彼はほんとうに死んでしまうんだよ」

ラルフの言葉もいまは頭に入らない。ラルフの声を聞いて、なんだか余計に寂しさに触れてしまった。一人でいたくない。誰でもいい、少しだけそばに居てほしい。僕は、玄関のドアを開けた。




気がつけば、僕は実家の自分の部屋にいた。玄関を開けて突然帰ってきた僕を見た母は嬉しそうにしていたが、それに答える余裕もなく僕は部屋に直行していた。高校生の頃まで使っていたこの部屋は、いまは物置みたいになっている。もともと狭かった部屋なのに、散乱している本や洋服で足の踏み場も無いほど窮屈になっている。だけど、いまの僕にはこれでちょうどいい。空間が広いと寂しさが充満してしまう。

本棚に背をもたれて何も考えることなく一点を見ていると、十冊ほど積まれてある本の束のなかに見覚えのある背表紙を見つけた。手にとってみる。ああ、この本だ。十何年ぶりだろう、全体が水色で、白い文字で「なきむしラルフ」と書かれたこの本に触れるのは。僕は本棚に背をもたれた姿勢を変えることなく本を開いた。


< きれいなみどりと、すずしいかぜがいつもふいているもりのおはなし。

  ラルフはきょうも、おさんぽをしようともりのなかをあるいていました。

  もりにはたくさんのどうぶつたちがすんでいます。

  ことりさんはいいました。「やあ、なきむしラルフがまたきたぞ。」

  きつねさんはいいました。「やーいやーい、ばかなラルフ。」

  ラルフはそれをきいてなきだしてしまいました。

  まいにちまいにちないてばかりのよわむしなラルフ。

  なきながらあるいていると、おおかみさんがやってきました。

  おおかみさんはいいました。「やあラルフ、どうしてないているの?」

  ラルフはいいました。「わからないけど、なんだかかなしいんだ。おおかみさんはどうしていつもわらっているの?」

  「ぼくにはともだちがいるからだよ。ともだちがいるとつよくなれるんだ。」

  そういっておおかみさんはどこかへいきました。


  もりにあらしがやってきたよるのことでした。

  ちいさなこやにすむラルフは、あかりをつけてパンをたべていました。

  「だれかたすけて!」

  まどからそとをみてみると、うさぎさんといのししさんがみえました。

「おいしそうなうさぎだ、たべてやる。」

いのししさんはうさぎさんをたべようとしていました。

うさぎさんはなんだかあしがいたそうで、うごくことができません。

とてもこわかったけれど、うさぎさんがかわいそうだったのでラルフはそとにとびだしました。

「なんだラルフじゃないか。そこをどけよ。どかないとおまえもいっしょにたべちゃうぞ」いのししさんがいいました。

うさぎさんは、ぶるぶるとふるえてないています。

ラルフはめをとじて、いっしょうけんめいいのししさんにりょうてをぶつけました。

てがいたくなってもなんどもなんどもぶつけました。

「なんだよ、ラルフのくせになまいきだぞ。」

そういって、いのししさんはどこかへいってしまいました。

「ありがとうラルフ。」うさぎさんはなきながらいいました。

「ああ、こわかった。うさぎさんはあしをけがしているんだね。ぼくのいえまでつれていってあげる。おいしいパンをいっしょにたべよう」

うさぎさんとラルフは、パンをたべながらねないでたのしくよるをすごしました。

「やあ、こんなにたのしいよるはひさしぶりだなあ。ぼくはたいせつなともだちができてとてもうれしいよ」うさぎさんがいいました。

ラルフもうさぎさんというたいせつなともだちができたことがうれしくてしょうがありませんでした。


つぎのひ、あらしはどこかへさっていました。

ラルフはいつものようにもりのなかをあるいていました。

「やーい、ばかなラルフがあるいてる。」ことりさんがいいました。

「なきむしラルフがきたぞ。」きつねさんがいいました。

ラルフはなぜだかかなしくはありませんでした。

えがおをうかべながら、ラルフはそのままあるいていききました。


もりにはあきのすずしいかぜがふいています。

ラルフはしあわせなきもちでおじいさんになるまでたのしくすごしました。 >


小さい頃に、この絵本を何度も何度も繰り返し読んで、そのたびに頭のなかにその風景を描いていたことを思い出す。僕は、不覚にも泣いてしまった。




まだ午後五時だというのにあたりは暗くなっていた。空を見上げると灰色の雲しかなくて、いつまでも止まない雨が耳には心地よい音を響かせる。

僕は、青葉の葬式に来ていた。「青葉の葬式」という言葉を頭のなかで文字にしてみても、なんだか実感が湧かない。黒いスーツを着て、同じように黒で身を固めた人達に囲まれていても、青葉がふらっとどこかから表れてきそうな気がする。豪華な衣装を纏った僧の唱えるお経がゆるやかに空間を満たしていた。焼香をするために並んで待っている列の向こうに、よく読めない漢字がつらつらと書かれた細長い板が見える。青葉の遺名なのだろう。それをぼんやりと眺めていると、焼香が僕の番になった。棺の真横に青葉の母親であろう人が立っている。僕はおじぎをして、棺の前に立った。小瓶に入っている灰を指でつまみ、額に寄せる。棺のなかの、青葉を見た。

日焼けしていた青葉の肌は真っ白になっていて、ごく緻密につくられた蝋人形のようだった。遺体を見た瞬間に僕は嗚咽してしまった。生気の抜けた目の前の遺体はもうただの物体で、青葉と呼べるものが、青葉を形作っていた大事なものが本当になくなってしまったことを痛感してしまったから。涙が止まらない。僕を翻弄する何かは、正気の枯れた僕からまだ奪うつもりなのだろうか。嗚咽を続ける僕に、青葉の母親が話しかけてきてくれた。

「あの、失礼ですが・・・水科さん?」

「・・・はい。・・・あの・・・本当に・・・残念な・・・」

言葉にならない。青葉の母も、目頭をハンカチで押さえる。

「来てくださってありがとう。シゲルからあなたのことは聞いていたんですよ。」

「そうですか・・・あの、青葉はなぜ・・・?」

「悪性の脳腫瘍ができていたんです。・・・以前からその兆候はあって。あの子、入院したその日からきっと本当はわかって・・・」

青葉の母が嗚咽する。

青葉、本当は僕がお見舞いに行った日にはもう知っていたのか?

「・・・私に遺書を遺していたんです。・・・それで、あなたに宛てたものも預かっているので、今日お会いできればお渡ししようと」

青葉の母の嗚咽は止まらない。僕は、手渡された遺書を受け取って、深く礼をしてからその場を去った。

手元に、青葉の最後の意識が、ある。そう考えると不思議な気持ちだった。


一人暮らしの部屋に戻り、封を開ける。


< 涼介へ。お前がこれを読んでいる時には、俺はもういないんだろうな。そう思うと書きながら変な気分なんだけど、書く。「涼介が俺のことを部落の人間だと馬鹿にしていた」って言ってきたやつがいたけど、俺はそんなこと信じてないぞ。涼介がそんなこと絶対に言うはずないってわかってたから。

  入院してから、不思議なんだ。もう自分の体は駄目になってるのが分かってるのに、死ぬのがあんまり怖くないんだ。遺される母さんには申し訳ないんだけど。入院して涼介がお見舞いに来てくれた日からずっと、安らかな気持ちなんだ。

教室で部落のことなんて何でもないって涼介が本気で言ってくれたとき、俺心から救われた気分になったんだ。

涼介は、俺の大事な親友だぞ。

ありがとう、涼介。 >


青葉の最後の意識が詰まった大事な手紙なのに、インクの上にぼだぼだと水滴が零れ落ちてしまう。

青葉、僕だって青葉に救われていたんだ。




秋は終わりに近づいていた。僕は、日野辺と待ち合わせている喫茶店へ向かっていた。


「しゃいあせー」

前と変わらない無愛想な店員に迎えられる。笑いを堪える青葉の顔が脳裏に浮かぶ。

奥のほうの席に座り、日野辺を待つ。店内は、やっぱり森の匂いとコーヒーのいい香りが充満していた。

「お待たー。早いね、涼介。」

日野辺は僕の向かいの席に座った。

「アイスコーヒーください」

日野辺のいつもの毒々しいピアスに目がいく。三人座れる座席の真ん中に座る日野辺の両脇には、大きなバッグが二つ置いてあった。

「時間が経つのってほんと早いね。もう秋が終わるなんて」

「そうだな。今日何時の便だっけ?」

「二時五十分・・・だったかな。正確に覚えてねーわ、はは」

日野辺は、結局大学を辞めて実家に帰ることにしていた。日野辺は「見送りなんていいよ。余計寂しくなる」と言って僕が見送るのを断っていたのだが、僕がどうしてもということで一緒に空港まで行くことになっていた。

「二人とも飲み終わったら行こっか。あたしが奢るよ」

不敵な笑みでそう言うので、僕は少しむっとして、その後会計のレシートの取り合いになった。

「ありゃーしたー」

僕たちは笑いながら店を出た。


涼しいと感じていた風は、もう肌寒いと思えるほどに冷えていた。茶色い枯れ葉が宙を舞う。鼻の奥まで染みわたるような、凛と冷えたこの空気。


「涼介がだいぶ立ち直れてよかったよ。だってひどかったもん、こないだまでの涼介。」

「はは・・・そう?」

「あたしは青葉君は幸せだったんだと思うよ。だって、涼介と会話してる時の青葉君の目、本当に心を許してる人にしか見せない目だった。そういう大事なひとが居てくれるのって、さ。」

「うん。だといいな、ほんとに。日野辺はもう大丈夫?」

決断をした強い人間がするような目をして、微笑みながら日野辺は答えた。

「あたしは大丈夫。実家に帰って、お父さんの世話を今度はあたしがしてあげて。迷いが、もう無いの。ほんと爽やかな気分なんだ。だから大丈夫。」

「日野辺はやっぱり強いんだなあ。僕も、これから・・・なれるかな、日野辺みたいに。」

僕は、微笑みながら独り言のようにそう言った。

「人間ってね、強いものなのよ。どうしようもないことを目の当たりにしたり、手に負えないような悲しいことがあったりはするけれど、大切な存在があって自分のなかに強い意思さえ持っていれば、それだけで強くなれるんだよ、きっと。」


日野辺の言葉を聞きながら、青葉のことを思い出していた。晴れ晴れとした、明るく光る寂しさが僕の心を満たしていく。ふと、ラルフの声がした。


「やあ、冷たい風が吹いてる。幸せな季節だなあ。でももうすぐ秋も終わりだね。僕はまた涼介に会えるかなあ」

うわごとのように、ラルフは言った。理由は分からないけれど、僕はこれからはもうラルフの声を聞くことは無いんだと、悟っていた。

ありがとう、ラルフ。僕はきっと強くなっていく。


雲ひとつない青空に飛ぶ鳥の声が、秋の終わりを告げていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] テーマが一貫していて、良かったです。 [気になる点] 考えを巡らせるところがもう少しすっきりとしていればいいなと思います。あと、ラルフがもう少し出てくればよかったなと思います。 [一言] …
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