短編:浅葱
浅葱。春の季語。
古来より、雛の節句においては浅葱を加えた菜を食べ、春を惜しむを習俗とした。
特に節句の次の日。
三月四日は納雛と言われ、この日は雛人形を次の春に向けて仕舞う日でもあり、
また多くの武家屋敷や商家では、奉公人が勤め先を変える「出代り」の日でもあった。
1.
春嵐も過ぎ、見事に晴れ渡った朝空のどこかで鶯が啼き交わす声が聞こえる。
「しじみ~ぃ、あぁ~さりぃ~潮い、うまいぃ」
町を行く貝売りの声もどこか伸びやかだ。
(なんでえ、畜生。お天道もちったあこっちの気持ちを考えろってんだ)
そんな声を聞くたびに、亀次郎は腹の中でむかむかとわだかまるものが膨れ上がるのを感じていた。
(天網恢恢疎にして漏らさず、と言うが、何が漏らさずだ。こん畜生め)
毒舌が、次々と喉の奥を通り抜けかけては、声にならぬ間に溶けていく。
無論のこと、それらは亀次郎という人間の内側でのみ響く声であり、心だった。
日本橋でも大手の薬種問屋、伊勢屋の番頭として、それこそ丁稚奉公の幼い頃より鍛え上げられた亀次郎の顔にはそうした内心は毛ほども現れてはいない。
口さがない同僚に言わせれば、
「大黒様が福笑いの面になったような……」
彼の顔には、あるかなきかの微笑み以外は何も出てきていなかった。
無論、そうでなくては、寛永の頃より続く伊勢屋の主人、半右衛門が娘のおゆうを嫁がせて婿にしようなどとは思わないだろう。
伊勢屋に勤めて20年余り。
俗に小千住と呼ばれる、千住宿の江戸側にあった小さな傘屋の倅だった彼も、今や30を超え、若手の中でも一際早く番頭となっていた。
半右衛門からも、大番頭の六兵衛ーかつて鉄拳を幾度も食らった昔気質の老人だーからも可愛がられ、期待されている亀次郎なのだ。
それだけではない。
夏には、伊勢屋の一人娘、おゆうを嫁に迎え、名実ともに大店の身代を受け継ぐことが決まっている彼は、もはや一介の奉公人ではない。
大晦日の仕事納めで、半右衛門がそれを店の全員に告げて以降、周囲の亀次郎を見る目は、見栄えのしない、「小面憎い……」出世頭から、将来の主人に対するものへと変わっていた。
主に顔の造作を種にした、益体もないからかいややっかみに悩んでいた亀次郎にとって、それは自分の心に鬱々と漂う何かをわずかに解消する役には立ったものの、
そうした見栄も今は霧散している。
その原因が。
「大旦那様、奥様、お嬢様。おはようございます」
廊下の端で綺麗に端座して声をかけた亀次郎に、障子の奥から親しげな返事が返ってきた。
「おお、亀さん、お入り」
「失礼いたします」
すっと開けた障子の先には、将来の家族であり、今は主人一族である男女が、そろって朝の膳を囲んでいた。
そのうちの一人、旦那の半右衛門に向かって、つとめて目を伏せながら亀次郎は告げる。
「奉公人一同、支度を終えてございます」
「おお。今日もよろしく頼む。ところで亀さん、たまには朝餉を一緒にしないか」
「……いえ、今の私は奉公人でございますから」
チッ、という聞こえよがしの舌打ちを無視して、いつものように返事をする。
変わりない返答を聞いた半右衛門も、かすかに眉をひそめて申し訳なさそうに返した。
「……そうかね。まあ、しょうがない。じゃあ先に行っておいておくれ」
「はい。では手前はこれで」
自分を冷たい目で睨む将来の義母と妻、二人の女の顔をできるだけ目に入れないようにしながら、亀次郎は静かに扉を閉めた。
立ち上がる彼の耳に、押し殺したような叱声が聞こえる。
「おゆう!おまさ! なんだね、さっきの声は!」
「だって、あなた」
「私はだから嫌だって!! あんな福笑いみたいな……」
「叱っ!!」
それらをできるだけ聞こえないようにしながらも、亀次郎もまた沸きあがる憤懣を抑えきれない。
(人の面相をどうこう言えた義理か、婆あは白塗りの鶏がらみてぇだし、嫁ときたら全身ぶくぶくと太った土饅頭じゃねえか。
そんな面相で金に飽かせて役者通いに芝居見物たぁ、反吐も出らぁ。
いていいのは両国の見世物小屋くれぇだろうが)
そう思いながらも、ふと見た手水鉢に映る自分の顔も似たようなものだ、と彼は自嘲した。
(そりゃあ、お嬢さんが嫌がるのも最もだ。俺の顔なんざ、実の親でも笑い転げるくらいだからなぁ。
蝶よ花よで育って、役者の面構えを見慣れたようなお嬢さんじゃあ、嫌がるのも無理はねえや)
はぁ、とため息をついた亀次郎が、再び歩き出そうとしたときだった。
裏の枝折戸から、何人かの女中が水桶を抱えて入ってくるのが見えた。
その中でもひときわ手を荒らし、それでいてすらりと美しい一人に、亀次郎は目が吸い寄せられるのを感じた。
美しい。
年のころは30くらいだろうか。
この時代であれば大年増と呼ばれ、人によっては孫が生まれてもおかしくない年齢だが、そうした外見の衰えをその女は微塵も感じさせない。
亀次郎がじっと見つめていることも気づかず、その女中は仲間と何か話しながら、勝手口のほうへ去っていく。
どこかふっくらとしたように見える、その女が消えてしばらくしても、亀次郎はそこを動かないままだった。
彼は、彼女に懸想している自分を感じていた。
だが、同じ家に住み暮らしながら、彼女と自分の距離はあまりに遠い。
かつては、そうではなかった。
その女性、おさえは、亀次郎の計らいでこの店で奉公するようになったのだ。
◇
おさえは、亀次郎と同じく千住宿の生まれである。
亀次郎の生家よりもなお貧しかった生まれから、金策に駆け回る両親の代わりに亀次郎はまだ幼いおさえの面倒をよく見ていた。
ちょこちょこと自分についてくる彼女を、彼はよく面倒を見ていたものだ。
だがそれも、彼が奉公に出るまでのことだ。
手代に手を引かれ、住み慣れた千住を去る亀次郎を、宿外れまで追いかけて見送ったおさえの、目に涙を一杯に溜めた目を、彼はよく覚えている。
その後、忙しい丁稚奉公の中で、いつしか彼はおさえのことを忘れていた。
彼女の両親が亡くなり、彼女自身も浅草の職人に嫁いだということは、風のうわさで聞いただけだった。
そして、2年前。
手代でもそれなりに格が上がり、宿下がりを許された亀次郎が久しぶりに千住へ戻ったとき、
そこで再会したのは別人のように美しくなった姿をやせ衰えさせ、貧しい着物で包んだおさえの姿だった。
嫁ぎ先の職人の家では子が生まれぬと散々に苛め抜かれ、着の身着のままようやく逃げてきたのだった。
この時代、そうした女性の行き着く先はただひとつだ。
嫁に取ろうにも、手代に過ぎずまだ若い彼には結婚は許されない。
窮した彼女に、亀次郎ができたのはただ一つ、それは大番頭の六兵衛から半右衛門に頼み、彼女を伊勢屋で雇ってもらうことだけだった。
だが。
幼い日のかすかな思い出に対する郷愁と、哀れな女性に対する義憤からしただけのことだったが、いつしか亀次郎は、見違えるように栄養を受け、年相応の肉置きを身に着けたおさえを、目で追うようになっていたのだった。
「畜生」
思わず口から悪態が漏れる。
その声は小さかったこともあって、そばにいた丁稚の少年―亀次郎が奉公に上がったころと同年代だろう―にも、彼の声は聞こえなかったようだった。
訝しそうな丁稚に気にするなとばかりに微笑み返し、亀次郎はいつものように完璧な商人として振舞いながら、内心ではますます激しく何かをののしり始めた。
番頭になったのはありがたいが、その代わりにあんなおゆうのような見た目も性格も悪い女達磨を押し付けられるなんて真っ平だ。
できれば、奉公人のままでいいからおさえと小さな所帯を持ちたかった。
それなのに。
もちろん、亀次郎は自分が半右衛門の決定に異を唱えることなどできないことはわかりきっている。
半右衛門も六兵衛も、見た目で馬鹿にされていた自分に分け隔てなく接し、番頭になるまで引き立ててくれた恩人なのだ。
それに、店の物同士の恋愛はご法度。
誰と夫婦になるも、半右衛門がうんと言わなければすまないことは、彼はよく心得ていた。
それを蹴るともなれば、店をやめざるを得ないが、生まれ故郷に戻っても行く当てもない。
亀次郎自身の家も、おさえの家も、すでに親はなく、家自体が人手に渡って久しいのだ。
何も、変えられない。
自分は惚れた女に堂々と話すこともできず、一生をおゆうに踏みつけられて生きるしかないのだ。
2.
朝にはよく晴れていた空は、昼に近づくにつれて徐々に曇り、正午の鐘が鳴り響くころにはどんよりとした灰色に覆われ尽くしていた。
このころになると、薬を求める客も徐々に減り、亀次郎は外に出る。
お得意先の商家や分限者、武家屋敷を回り、今年で辞めていく奉公人と、新たに入ってくる奉公人のあいさつ回りをするのだ。
この時代、名刺や身分証明書というものはない。
辞めていった奉公人が店の名前を騙って悪事を働かぬよう、また新たに雇い入れた者の顔を覚えてもらうよう、この日はどこの店もあちこちの客を巡る。
「番頭さん、気忙な雨でござんすねえ」
「そうですねえ」
「番頭さんのお披露目だってのに、いやな雨ですねえ」
長年勤め上げる者が多い伊勢屋では、代替わりということはあまりない。
それでも数人新しい顔や辞めていく顔はいるし、新たに手代に引き上げられた者もいる。
何より、この年は亀次郎自身があいさつ回りの主役だ。
半右衛門に代わって主人になるのだから、これまで半右衛門が回っていた重要な取引先に対して、
今度は亀次郎が回らねばならぬ。
新たな『伊勢屋半右衛門』の名目披露、といった趣であった。
その日は、長年勤めている番頭の長兵衛と、新たに手代になった助四郎をつれて、彼は大手町の大名屋敷を訪ねていた。
そんな中、空を見上げて心配そうに告げたのは助四郎だ。
同年代ということもあり、丁稚時代は亀次郎を散々いびり倒した彼も、ここまで立場が変わってしまっては慇懃な態度をとらざるを得ない。
とはいえ、助四郎の顔には、どこかにやにやとした卑しげな笑みがある。
嫉妬と軽蔑のない混ざった笑みだ。
だが、かつては殴りかかっても来た助四郎が、今では天気を皮肉ることしかできない。
そのことに不思議な達成感を覚えつつ、亀次郎は隣を歩く長兵衛に声をかけた。
長兵衛は50がらみ、老練な番頭の一人で大番頭・六兵衛の『ふところ刀』と呼ばれた男だ。
当然末席の番頭である亀次郎より年も格も上だが、今は若主人に対する丁寧な態度で亀次郎の横を歩いている。
「長兵衛さん、次はどこです?」
「次は松平長門守さま(長州・毛利家)の上屋敷ですな。これで最後です」
丁寧に答えた長兵衛が指を指した先には、いかめしい長屋門が聳え立っていた。
「何者か」
「伊勢屋でございます」
「よし、そちらから入れ」
町人に過ぎない亀次郎たちに、当然ながら上屋敷の正門は開かれない。
特に気分を害することもなく、彼らは横柄な門番足軽の指した手にしたがって、屋敷の中へと入った。
そのまま進み、壮麗な庭に出ると端に座る。
しばらく待つと、いかめしい顔つきの一人の武士が側近を従えて歩いてきた。
平伏する亀次郎たちに、「表を上げよ」と声がかかる。
「これは、奥番頭さま」
「伊勢屋、息災、重畳」
簡単に声をかけたのは児玉兵庫頭という老武士だった。
奥番頭、平たく言えば奥用人、江戸藩邸の奥を総括する役職である。
家老も輩出した重臣の家柄でもあり、一介の町人に挨拶に来るような人物ではない。
そんな人物との面会に、驚くよりむしろ恐れて長兵衛がおそるおそる口を開いた。
「番頭さま、恐れ多くも御自ら来てくださるとは」
「いや、ちょうど手がすいていたところじゃ。……そなたが半右衛門のせがれか」
声をかけられた亀次郎は、なるべく慇懃な態度で答えた。
「亀次郎と申します」
「うむ。父の名を辱めず、励め」
それだけを告げると、児玉は振り向きもせず去っていく。
その刀の端が塀の影に消えると、誰知らずふう、と大きく息をついた。
その瞬間、亀次郎の股間が異変を感じる。
「……長兵衛、ちと厠を借りようと思うが」
「こちらでございます」
面白そうに自分を見る助四郎の視線を無視し、足早に亀次郎は足軽向けの厠へと飛び込んだ。
(ふう……緊張してたんだな)
小用を足し、満足そうに天井を見た亀次郎に、ふと外の声が聞こえた。
「……ですなあ」
「うむ。わしもはじめて見たわ」
(うん? さっきの児玉さまとかいうおさむらいの声だな)
何の気なしに耳を澄ませた亀次郎の顔色は、次の瞬間青く変わっていた。
「それにしても、江戸にあのような顔がいるとは思いもしませなんだ」
「うむ。当代の伊勢屋は威風堂々たる顔だが、せがれがあれではの。
商いの腕はどうか知らぬが、あれでは客も笑い転げよう」
「薬種を商うてございますゆえ、あのような可笑しげな顔がよいのではありますまいか」
「うむ。さもあろう。わしとて笑いをこらえるのに苦労したわ。
笑いは万病の薬とやら申すし、笑えば病も飛ぶのであろうかの」
「な、な、な……」
楽しげな声が消えてしばらくして、よろよろと亀次郎は外へ出た。
頭のてっぺんから足のつま先まで、血が引いたように寒くなっている。
どうなされた、という長兵衛の声も、亀次郎にはもはや聞こえなかった。
じっと見る助四郎の目が、あの武士の目と重なって見えた。
3.
夕暮れ。
早めに店を仕舞った伊勢屋では、奉公人を全員集めての宴会が開かれようとしていた。
酒が注がれ、賄い方の心づくしの手料理が並べられる。
その中でひときわ異彩を放つのが、浅葱の膾だ。
生臭い野菜のにおいに、さすがに奉公人たちも閉口した顔をするが、口に出しては何も言わない。
節句の食べ物であるから、この時期にこれを食べるのは当たり前なのだ。
『俚言集覧』に曰く。
「浅葱膾。浅葱、蛤仔肉を味噌にて和したる物を云ふ」
とある。
三月四日にどこの家でも食べられる、節句料理だった。
家族も奉公人も、誰もが一年の働きを讃えあう中、番頭の末席に座った亀次郎の顔は重かった。
頭の中には、先ほどの児玉何某から与えられた罵言が木霊している。
それに加えて、助四郎や同輩たちの目、おゆうの目、奥方・おまさの目。
そうした諸々の悪意が、亀次郎の精神を徐々にいびつな方向に押しやっていた。
ふと、一座を見る。
この日は、正月や盆暮れと並んで、どんな奉公人も一堂に会することが許される。
末席のどこかに、おさえの顔が見えるはずだった。
今はむしょうに彼女の顔が見たい。
だが、代わりに見えたのは女将・おまさの苦虫を噛み潰したような皺い顔だけだ。
うんざりして顔を下に向ける亀次郎の脳裏に、ふとある思いが閃いた。
おゆうと結婚するのは避けられない。
互いの顔に生理的な嫌悪感すら抱いているだろうお互いを愛する日が来るとは、亀次郎も、おそらくおゆうも思ってはいないだろう。
代わりに、主人になったらおさえをどこかに住まわせ、自分が通えばいい。
亀次郎の知る限りでも、金に余裕のある大店の主人であれば、深川や根岸といった、江戸市中から離れた場所にしもた屋を建てて愛人を住まわせる人間は山ほどいた。
さすがにあとを継いだ直後はまずいだろうが、半右衛門は大番頭・六兵衛とともに、遠からず隠居することを明言している。
半右衛門と六兵衛の目が離れれば、自分が何をしようと自由だ。
おさえが幼いころのように自分を一心に見てくれるのであれば、そうしたほうがよい。
亀次郎は不意に、暗い前途に明るい光明が差したような気がした。
どれほど外で馬鹿にされても、おさえとおさえの子が自分を認めてくれるのであれば、頑張れる気がする。
そう思って明るく顔を上げた亀次郎は、いつの間にか半右衛門が話し始めていることに気がついた。
「……皆、一年よう頑張ってくれました。伊勢屋も十分に身代も伸び、これからもそうでしょう。
主人として礼を言います。ありがとう」
「ありがとうございます、旦那様、奥様」
奉公人を代表し、六兵衛が返す。毎年のやり取りだ。
この後は辞める奉公人、そして新しく入ったり、昇進した奉公人の挨拶と続く。
ぼうっとそれらを聞きながら、亀次郎は先ほど思い浮かんだ未来の幻想を頭の中でころころと転がしていた。
だからか、その声は妙に明瞭に響いた。
「……それから、賄い方から一人辞める者がいる。おさえだ。
彼女はしばらくの間本所に住むが、それから私やおまさと私の在所へ行くことになる」
「……え?」
亀次郎は目の前で起きていることがわからなかった。
末席からすらりと立ち上がったおさえが、幸せそうに差し招く半右衛門の手に誘われるように、亀次郎の目の前を歩いていく。
そのうっとりした目が見つめるのはもちろん亀次郎ではない。
めっきりと年老いた、それでいて精力に溢れた顔の半右衛門だ。
彼女を自分の隣、諦めきったような顔のおまさの隣に座らせ、彼はおさえの細い手をとった。
「知っているものもいるかとおもうが、この年で恥ずかしいことにおさえに手をつけた。
今、おさえの腹にはわしの子がいる。
特別扱いする気はなかったが、おまさも認めてくれたことだし、これからはきちんと遇しようと思う。
もちろん、子供が男の子であっても伊勢屋は継がせぬ。
伊勢屋はおゆうと亀次郎に任せたのだからの。
わしはまあ、隠居してからは、腹の赤子の成長を楽しみに、在所で小さな小間物屋でも開こうかと思うとる。 ほれ、おさえ」
愛する男――亀次郎ではなく半右衛門――に促され、恥ずかしげにおさえは口を開いた。
「みなさまのご厚志を戴き、かくなることと相成りました。みなさま、旦那様、奥様、お嬢様。
賄い方のおせきさん、おあきさん、おつうさん。
何より、私に奉公先を見つけてくださり、旦那様と引き合わせてくだすった亀次郎さん――若主人様に、深く御礼申し上げます」
深々と頭を下げたおさえに、暖かい拍手が起きる。
彼女を誰もが好いていた証だ。
下女に手をつけたとなればお家騒動でもおかしくないが、拍手で迎えられるところが伊勢屋の家風であり、半右衛門とおさえの人柄なのだろう。
周りに合わせて機械的に手をたたきながらも、亀次郎は状況が理解できなかった。
(旦那様が、おさえに? おさえが、旦那様に手をつけられた? おさえが?)
そうしているうちに、亀次郎を呼ぶ声がする。
それが半右衛門の声であることに気づき、半ば無意識のうちに亀次郎は進み出ていた。
「亀さん。あんたにはいくら礼を言っても言い足りないよ」
「亀さん……ありがとう。私、幸せだわ」
声をかけてくる半右衛門とおさえにどんな表情をしているのか。
おそらくは今までと同じく、やわらかい微笑を浮かべているのだろう。
少し申し訳なさそうな二人の横から、不意におまさが声をかけた。
「亀さん」
「奥様」
からくり人形のように返事をした亀次郎に、こちらも申し訳なさそうにおまさが言う。
隣では、相変わらずふてくされた顔のおゆうが、浅葱臭い口をふう、と吐いていた。
「亀さん。あんたにここしばらく、冷たい扱いをしてすまなかったね。
主人とあんたが連れてきたおさえさん、この二人ができていると知って、
あたしゃ年甲斐もなく怒ってね。剣突張っちまったのさ。
こっちのおゆうはじゃじゃ馬だが、あんたなら何とかできると思ってるよ。
もうあたしもいい年の婆だし、男なんて仕方ないもんさね。
あたしらはおとなしく消えるから、これからはしっかりやっておくんなさいましよ」
おまさの顔は不思議と温かく、今までいつもあった険も取れている。
それはまだ丁稚のころ、故郷の父母を恋しがって泣く亀次郎に、こっそりと飴を渡してくれたやさしい「おかみさん」そのままだった。
そんなおまさを、半右衛門は申し訳なさそうに、おさえや六兵衛は微笑ましそうに見つめている。
だが。
亀次郎にはそんなおまさの顔は見えていなかった。
正確に言うならば。
誰の顔も見えていなかった。
『福笑いじみたあんたの顔なんて、最初から好きでもなんでもなかった。
女郎になるのが嫌だったから、あんたを使わせてもらっただけ。
あんたより、半右衛門さんのほうがよほどまし』
『すまないねえ亀さん。あんたの惚れた女は私がいただいたよ。
あんたはそっちのおゆうに精々踏んづけられておくれ』
『亀の野郎、いい気味だ。そんな面つきのくせに変に出しゃばって出世なんざするから、
そんな目にあうのさ。せいぜいこれから邪魔してやらあ』
『悪いな、亀よ。この六兵衛は旦那の番頭であって、お前の番頭じゃねえんだよ。
お前の好きになんかさせるもんかい』
『いい気味だ。そんな顔で私の娘の婿なんざ、お天道様がひっくり返ったって許すもんかい。
これからはたっぷりと苦しみな』
おさえが、半右衛門が、助四郎が、六兵衛が、おまさが。
みんなの声が悪意にゆがんで聞こえてくる。
それだけではない。 毛利家の屋敷で会った、あの武士の声すら聞こえてくる。
『あんな顔の者を入れるなど、わが家の名折れ、代が替わればあんな者など叩き出しておけ』
『さようですな』
『然り、然り』
無数の罵倒と、無数の嘲弄の視線が、亀次郎を苛む。
せめて助けてくれと、ふと見た近くには、片付けられた雛人形があった。
その、自分とはまったく違う整った内裏雛の腰に刺さっていた小刀が、彼の目に眩く映った。
◇
「どうしたんだい? 亀さん」
不意に返事を失い、ぼうっと膝を突いたままの亀次郎を、半右衛門は訝しげに見た。
その顔が何の表情も浮かべていないことを見て、一瞬ぎょっとする。
同じ表情を見たのだろう、亀次郎と半右衛門に祝福の声を上げていた六兵衛やおまさも、怪訝そうな声をかけた。
「亀さん?」
「どうなすったんです?」
「亀さんは、今日は諸大名やお得意様の挨拶回りだったからね。疲れが出たんだろう。
助さん、亀さんを席へ戻しておあげ」
「へい」
手代の末席に座っていた助四郎がきびきびと立ち上がり、うつむく亀次郎の肩をとんとんと叩いた。
「番頭さん、しっかりなすっておくんなさい。今日は昼から元気がなかったですぜ」
そう言う助四郎の顔には真心がこもっている。
丁稚奉公だった自分はいたずらや虐めをしたものの、みるみる商売を覚えていく亀次郎に、いつしか助四郎も脱帽していた。
手代に上がり、徐々に上にのぼっていく亀次郎が自分を避けていたのは知っていたが、
過去にしてきたことを思えばしょうがないだろう、とあきらめていた助四郎なのだ。
だが、ようやく自分も手代に登ることができた。
いずれは、次代の半右衛門となった亀次郎の下、今の六兵衛のような大番頭として、二人三脚で伊勢屋を動かしてみたい。
齢三十を迎え、助四郎はそう考えるようになっていた。
だからこそ、今の亀次郎を支えようとする手にも顔にも、何の悪意もない。
彼は、かつて同輩だった男を抱えて、座に戻そうとした。
その時だった。
「……のか」
「え? 亀さん?」
小さく呟かれた亀次郎の声に、助四郎がふと聞き返した時。
灼熱の棒を突っ込まれたような激痛が、突然彼の腹部を襲った。
◇
何が、起きたのか。
その場の全員が一瞬わからなかった。
突如、亀次郎が甲高い鳥のような奇声を上げたかと思えば。
助四郎がよろよろと彼から離れ、倒れこむ。
その腹から赤い何かがでろりとあふれ出すのを見ても、誰もがそれが何か理解できなかった。
「亀……次郎?」
自分の前に仁王立ちした義理の息子に、半右衛門が告げられたのはそこまでだった。
再び奇声。
喉を貫かれた半右衛門が、呆然とした顔で倒れこむ。
続いて、おまさだ。
そしておゆう。
口に蛤を頬張ったまま、おゆうの喉に一本の筋が入る。
そのころになって、ようやく奉公人たちが立ち上がった。
「亀さん!!」
「何をするんでえ!」
だが、そういって向かってくる男たちを亀次郎は見ていなかった。
彼の歪み、ぐるぐると回った視界に映るのは、かつて愛した、その実愛情を見せたこともなければ、まともに話すこともできず、一方的に想いをぶつけていただけの、幼馴染だ。
その幼馴染――おさえは、昔のように亀次郎だけを見つめている。
たとえその目に見えるのが、かつてのような慕う、縋る眼差しではなく、
恐怖と嫌悪、愛する半右衛門を殺されたことへの憎悪だったとしても。
「おさえ」
「亀……さん」
後ずさりするおさえの細い腕をぐっと握り締め、まるで妻を抱くように亀次郎は抱きしめた。
その手に握られた雛人形の小刀が、きわめて正確におさえの背中から背骨を避け、下腹部に突き刺さる。
ぐふ、と血をふいたおさえのうなじに顔を埋めながら、亀次郎はうっとりと囁いた。
「あの世では別の男に目を向けないようにな」
その、身勝手極まりない言葉がどこまで聞こえたのか。
亀次郎が引き剥がされ、奉公人たちに取り押さえられた時には、すでにおさえの息はなかった。
◇
当時の町奉行の日記にある。
江戸日本橋いせ屋 奉公にん かめ次ろう
あるじ半右えもん 並 妻 娘 下女 手代 ほか 殺しゃう(殺傷)の咎
極 不届き 打ち首ごく門
首を打たれるとき、亀次郎が何を思い、何を言ったのか。
それは誰も知らない。