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混濁した意識の中、誰かの話し声が聴こえて来る。
「もう大丈夫だと思いますよ。暫くすれば目を覚ますでしょう」
優しく落ち着いた男の声色は、不思議と安堵感を与えるそんな声だった。
「そうですか、それは良かった。一時はどうなる事かと、ありがとうございます」
本当に良かったという感じのその声は聞いたことのある声だった。これは、セトの声か?
「いえいえ、私は【医神】として、当然のことをしただけですよ。死んだ者や死に逝く運命の者で無ければハデスも何も言わないでしょう。私とてそう何度も雷を浴びたくはありません」
そう自嘲気味に話す男は更に言葉を続ける。
「この方達は、まだやるべきことがあるのでしょう? 消える運命では無かったということです。私は生きる手助けをした。ただそれだけの事……おっと、長い事付っきりになってしまった。次が待っているでしょうから、私はこの辺でお暇いたします」
「ええ、本当に助かりました。またお会いしましょう。アスクレーピオスさん」
この方達と言ったか? 千香華も生きている。それを聞いて安堵した俺は再び意識を手放した。
俺と千香華は、二人で小説の設定を考えていた。今思うと本当にくだらない設定で……しかし“きっと面白くなる”なんて前向きに考えていた。
体感的には二日くらいしか経ってはいない筈だが、酷く懐かしく感じる。
場面が切り替わる。目の前の千香華は、人の姿だった。その姿が突然干からびていく、綺麗で長い黒髪は老婆のような白髪に、いつも見せていた笑顔は苦悶の表情でしわがれていく。元々細かった手足はもう枯れ枝のようで触れればポキリと折れそうだった。
その口から紡がれる言葉は聞き取れない。しかし口の動きでわかる『たすけて』だ。
「……っうああああああっうあ?」
嫌な夢を見ていたようだ。自らが上げた叫び声で目覚める。最悪な目覚めだ。そんな俺に心配そうな声が掛けられる。
「おはようございます。……あまり良い目覚めではなかったようですね。大丈夫ですか?」
「ええ、酷い夢でした。神でも悪夢を見るんですね」
こちらを労わるような視線を向けているのは、ジャッカルの顔をした神、セトだった。ふと漏らした疑問に「そうですよ」と軽い感じで返してくれたが、その表情はあまり優れないものだった。
「俺は大丈夫ですが……千香華は? あいつはどうですか?」
「千香華さんでしたら……」
指差すその先には、ロシアンブルーのような毛並みを持った大きな猫、千香華が穏やかな寝息を立てて丸まっていた。その様子によかったと安堵の息が漏れた。
安心すると途端に気になるのが今の状況だ。
確か俺達は、イデアノテの言語を日本語に設定するために、神器にその一文を書き込んで……あの時の事を思い出し体が震える。“枯れた”そう表現するのが一番しっくり来るだろう。
「あの……俺達はどうなったんでしょうか?」
恐る恐る聞く俺にセトは、ため息を一つ吐くと逆に聞いてきた。
「私の方が聞きたいですよ。いったい何をしたのですか? あちらへ送って一日も経たずに、神の力を殆ど使い果たし、消える寸前で私の元に戻ってきたのですから……本当に腕輪を渡しておいて良かった」
最後の方は、本当に良かったとばかりに言っている所を見ると、かなり心配をかけたんだなと、申し訳ない気持ちになった。
「そもそもですね! 神だって死ぬんですよ? 最近は特に“神殺し”の話も多くなって油断は大敵です。消滅したいんですか? 其処まで戻るのに二十年かかったのですよ……」
は? 二十年? 俺はそんなに長く寝ていたのか? そう考えている間もセトの説教は続く。
「……神の体は、その力をもって構成されているんです。それを使い果たすという事は消滅するということですよ? 解っていらっしゃいますか? どんな無茶をしたら、たった一日で……圭吾さん! 聞いてますか?」
此方の事を思っての説教で申し訳なくは思うのだが、どうしても気になる事があるので聞いてみた。
「あの? 二十年経ったって本当ですか?」
「うん、それ本当みたいだよー。私もちょっと前に起きたんだけど、びっくりしたよ。最長記録だね」
そう答えたのは、いつの間にか起きていた千香華だった。確かに昔から良く寝る奴だと思っていたが、二十年寝ることは無かったな……まぁ普通に有り得ないだろ。
「千香華! 大丈夫だったか?」
「大丈夫なわけないじゃん。死ぬかと思ったよ? なんであんな事になったんだろうねー?」
「そうですよ! 何があったのか聞いてません。千香華さんは説明するのを面倒くさがって、話してくれませんでしたし、いい加減話してもらいますよ?」
ああ、千香華はこの説教モードに突入したセトが面倒で寝たふりしてたんだな。ちらりと千香華をみると肩を竦めている。猫の姿なのに器用なものだ。
さあさあ! と促すセトに何があったかを掻い摘んで話した。その話にセトは思案顔だったが、話し終わる頃には一つの結論を出していたようだった。
「ふむふむ、なるほど……。それはきっと世界の根源を変えてしまうほどの力に匹敵したのでしょう。言語と文字というものは、長い年月をかけて形成されるべきものです。今までそれがなかった世界であれば、過去から辻褄を合わせる、もしくは前からあったと認識を挿げ替える必要が出てきます。それを世界中に適用するのであれば、膨大な力を吸われても仕方ありません」
なるほど、と二人して頷く。更にセトは言葉を続ける。
「でも、それですとお二人が無事な理由が見当たりません。本来ならば消滅していてもおかしくないと思いますよ? 他にも何度か使われたのではないですか? しかも神になって一日だったのですから。やはりあの世界で“何か固有の事象があった”と考えるのが正解だと思うのですが、いかがでしょう?」
そう言われて思い出した事があった。あの世界での“死”に関する設定である。
端的に言うと、あの世界の“死”は諦めた時と設定されている。本当に極端な話、食われようが、部位欠損しようが、頭が取れようが、心臓が貫かれようが死にはしない……諦めない限りは寿命以外では死なないのだ。
しかし普通の人は、そんなことがあれば死を思う。もう駄目だ、ここで終わりか、助からない、諦めが人を殺すのだ。……我ながら阿呆な設定だ。しかも『諦めたらそこで試合終了ですよ』という有名な台詞から考えた設定だから性質が悪い。
詳しく説明すると、生命力が尽きる→諦める=死、これが普通。生命力が尽きる→諦めない→気力的なものが尽きる→それでも諦めない→肉体の再構成、などというトンデモ設定なのだ。
これのお陰で小説の主人公は、肉体の再構成までいったのだが、再構成される場合は生まれ変わるのとほぼ変わらず、能力も赤子同然、免疫力も皆無という状況になった。
それがどういうことか、まず免疫が無いから複数の病気にかかり死に掛かる。それでも諦めずに耐えて、肉体の再構成になるまでに免疫を獲得しなければならない。肉体の再構成までに獲得出来なければやり直し。なんという鬼畜仕様……その状況を八回更新分続けて、読者に頭のおかしい作者と言われても仕方が無いよな。
しかし、今回はそれで助かったのかもしれない。その事を告げると、セトは微妙な顔をして「それはあり得るかも知れませんね、しかしなんとも滅茶苦茶な……」と言っていた。解っているからあまり言わないでくれ、酷い設定だというのは、自分が一番身に沁みて解りつつある。
「なんにしても、今後はあまり無茶をしないことです」
そう締めくくるセトに、俺達がコクリと頷くとそれを見たセトは満足げにうんうんと何度も頷いていた。
「すぐにあちらに戻るのですか?」
「はい、俺達はまだ何も出来てませんから……」
「しかし、まだ暫くは力も回復しませんよ?」
「ねねね、神の力ってどうやったら戻るの?」
千香華の質問に、セトはそれが当然のように答える。
「時間をかければ戻りますが、それ以外ですとやはり信仰でしょうね」
「つまり神として崇められればいいって事?」
「ええ、しかし直接崇められるだけではなく、人が神に感謝の気持ちを持っただけでも多少なりとも力が増すことでしょう。でもやはり神殿でも建ててもらい、毎日祈りを捧げられる事が一番良いと思いますよ」
ふむふむ、なるほど信仰ねぇ。感謝の心が力になるのはいいけど、神殿建ててふんぞり返るのは性に合わないな。神になったとはいえ、俺自身が元々無信仰主義者だしなぁ。
いや神は居ないとか思ってなかったし、信心深い人をどうこう言おうとも思っていなかったが、俺には神に縋るって考え方が理解できなかったっていうか……。
そんな気持ちが顔に出てたのか、セトは苦笑しながらこう続けた。
「あなた方の場合は、きっと好きに動いた方が結果が付いて来ますよ。深く考えずに遣りたいように遣るといいと思います」
一旦言葉を切って、念を押すように言われた。
「ですが、くれぐれも今回のような無茶はしないでくださいね?」
「はい、解りました。ありがとうございます。じゃあ、さっそく行ってきます」
セトは初めに送ってくれた時のように、魔方陣のようなものを展開し始めたが、ふと思い出したように口を開いた。
「そうそう、これを言っておかねば……そんな装備で大丈夫か?」
ニヤリと笑うセトに俺は唖然としたが、すぐに誰がそんな言葉を教えたのか想像がついた。隣を見ると、いつもの銀髪の青年姿になった千香華が、上手く鳴らせもしない口笛を吹きながら目を泳がせている。
俺は苦笑いしつつこう答えた。
「大丈夫だ、問題ない」
「それは良かった。では、御武運をお祈りいたします」
光に包まれた時にふと思った。あれ? これまた戻ってくるフラグじゃねぇか?
俺達は二回目、二十年ぶりのイデアノテの地に送られた。
今後の活動予定を割烹で書いておきました。宜しくお願い致します。




