第4話 読み合わせ
階段を降りるごとに空気が湿り気を帯びる。手すりが冷たい。地下のスタジオは、コンクリートの壁一面に吹き付けた吸音材が湿気まで呑んで黒ずんでいる。ここで出した声はどこにも跳ね返らず、壁の奥へ消える。パイプ椅子が六脚、円く並べてある。円の真ん中には何もない。
紬は律の車の助手席で仕上げを済ませてきた。髪を下ろし、睫毛のかたちを整え、唇の色をほんの少しだけ足す。リップの蓋を閉めたとき小さな音がして、律がちらりとこちらを見た。紬が鏡を畳むまで何も言わず、ハンドルを握っていた。
スタジオには先客が三人いた。パイプ椅子に浅く腰をかけ、紙コップのコーヒーを飲んでいる。手前の男が紙コップを両手で包むように持っていて、爪が短く切り揃えてあるのが見えた。
紬が会釈すると、三人が笑みを返す。女だけが一拍遅れ、紬の足もとから襟元まで、ゆっくり視線を昇らせた。
奥の壁際に桐生がいる。紬が入ると顎だけで椅子を指した。
「もう一人来たら始める。好きなとこ座っとけ」
座面をひと撫でしてから腰を下ろした。冷たい。誰も座っていなかった椅子だった。膝の上に台本を置く。『ガラスの箱庭』。コピー用紙をダブルクリップで留めただけの束で、桐生の台本はいつもこの体裁になる。きちんと綴じると直す気がなくなるのだと言っていた。
十四時を五分過ぎた。十分過ぎた。
若いほうの男が目を閉じ、唇だけを動かしている。台詞の下読みだろう、ときおり片方の眉だけが跳ねる。天井の配管を水が通る音がして、止まると、今度は自分の呼吸が耳につく。桐生は動かない。缶コーヒーを手にしたまま。
階段の上で防音扉が開いた。蝶番の軋み。一段飛ばしの、拍の揃わない足音が降りてくる。
扉が開いた。
緋咲沙羅だった。
パーカーにジーンズ、髪はざっくり一つに束ねただけ。化粧は日焼け止めくらいのものだろう。息がわずかに上がり、頬にうっすら赤みが差している。パーカーの袖口が伸びきって、指先が半分隠れていた。
「遅れました」
桐生の声が壁のほうから飛ぶ。
「知ってる」
それだけ言って、空いた椅子のほうへ目をやった。
沙羅がパイプ椅子に腰を下ろす。円のなかで、紬の正面にあたる位置。ほかにも空いている椅子はあったが、沙羅は迷わなかった。座るとすぐ台本を取り出し、膝の上に広げた。
目が合った。写真より目が近い。紬が逸らした。
沙羅の口元がわずかに動いた。笑ったのか、何か言いかけたのかはわからない。
「自己紹介は要らない」
桐生が言った。
「台本を読めばわかる。頭からいく」
五人が台本を開いた。ページを繰る音がばらばらに重なり、一瞬だけ部屋が騒がしくなる。
第一場。紬の役であるユキは台詞が少ない。家族の食卓を囲む場面で、父と母が言い争い、姉が泣き、弟が椅子を蹴って立つ。その間ユキはずっと座っている。食卓のグラスに映る光を見ている、とト書きにはある。
読み合わせが始まった。
父親役の男が読み始める。声が低く、言葉のかたちが丁寧に揃っている。母親役の女が応じ、若いほうの男が弟を担った。三人の声はそれぞれ違うのに、足場の同じところを踏んでいるような安定がある。
紬の出番が来た。第一場の中盤、父親に「おまえはどう思うんだ」と問われ、ユキが初めて口を開く。
「……べつに。みんなの好きにすればいいと思う」
声を抑え、語尾をわずかに落とした。台本の余白に赤いボールペンで書き込んだ高さと間合い、そのとおりに声を置いた。父親役の男がわずかに頷いたのが視界の隅に映る。
第一場が終わり、第二場に入った。沙羅の役であるレイが登場する場面。
ト書きには、レイ、部屋に入ってくる、怒りを堪えているが堪えきれない、とある。
沙羅が台本に一度だけ目を落とし、顔を上げた。
「なんで誰も来ないの」
紬の指が台本の端をつかんだ。沙羅の台本は膝の上で伏せられている。場面が進むあいだ、レイが家族の嘘をひとつずつ剥いでゆく。声は低いところから始まり、不意に薄く裏返って、また落ちる。息が台詞と台詞の隙間に入り込んで、次の言葉がどこへ向かうのか、紬の手は台本の上で止まっていた。赤いボールペンで区切れるような場所が、どこにもない。
視界の端で、紙コップを持つ手が止まっている。壁のほうで桐生が動く気配がした。
レイがユキに初めて向き合う場面が来た。
沙羅の目が紬に据わった。
「あんただけだよ、何も言わないの」
沙羅が息を吸った。
「何を知ってるの」
紬は台本に目を落とし、赤いボールペンの文字を指でなぞった。
「……何も知らないわ。わたしは、見ているだけ」
沙羅は一拍、間を置いてから、次の台詞に移った。
読み合わせは最後まで通して、一時間十五分で終わった。
桐生が「明後日、同じ時間」とだけ言い、台本を丸めてジャケットの内ポケットに突っ込んで階段を上がった。三人がそれに続く。女だけが振り返り、小さく手を挙げた。お疲れさま。紬は頭を下げた。
台本をトートバッグにしまっているとき、横に影が立った。
柑橘の、すこし尖った匂いがする。
「藍月さん」
紬は手を止めた。
「……はい」
沙羅は紬の横に立ったまま、パイプ椅子のほうを見ていた。さっきまで六人が座っていた円。もう誰もいない椅子だけが、少しずつ歪んだかたちに散らばっている。
「さっきのユキの台詞。見ているだけ、ってやつ」
紬はうなずいた。
「あれ、どこにも当たらなかった」
読み合わせのときとは別の、力の抜けた声だった。
「ちゃんと投げてるのに、どこにも当たらないの。ふしぎだなって」
そこで初めて紬のほうを見た。正面に座っていたときと距離は変わらないはずなのに、目の奥の光がやわらかい。
「……当てようとは、してました」
口を閉じた。喉の奥に、もうひと息ぶんの空気が残っている。
沙羅は少し待ってから、肩をすくめた。トートバッグを肩にかけ、階段を三段上がったところで振り返った。
「また明後日」
足音が昇り、防音扉が閉まった。蝶番の軋みが止むと、スタジオはもとの静けさに戻った。
紬はひとり残った。
天井の配管をまた水が通る音がする。
台本をもう一度開いた。赤いボールペンの文字が行儀よく並んでいる。高さ、速さ、間合い。ぜんぶ書いてある。ぜんぶそのとおりにやった。
もう一度、声に出してみた。
「何も知らない。わたしは——」
台本を閉じた。椅子の脚もとに紙コップが転がっている。中のコーヒーはもう乾いて、底に薄い輪染みだけが残っていた。座面に手を置くと、自分が座っていたところだけ、かすかに温かい。




