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第3話 二つの鏡

 雑居ビルの階段を三階まで上がった。窓のない階段で、踊り場の蛍光灯がひとつ切れていた。


 廊下の突き当たりのドアを開けると、六畳ほどの部屋に大きな姿見が立てかけてある。枠の漆がところどころ剥げて、下地の木肌が白く覗いていた。律が前の職場を辞めるとき持ち出してきたもので、


「盗んだんじゃないよ。あたしの私物」


 とだけ言い、それ以上は説明しなかった。


 パイプ椅子に座ってゴムを外した。結い上げていた髪が肩に落ちる。首の後ろが涼しくなって、自分の頭がすこし軽くなったような心持ちがした。


 鏡に向かって手を動かしてゆく。下地を塗り、頬に陰をつくり、目の際にシャドウを引いた。唇のところで手が止まる。ポーチの中に口紅が二本あって、薫はいつも同じほうを取る。


 中学二年の冬、母の化粧台から口紅を一本抜いたことがある。洗面所の鏡の前で唇に当てた。塗ったのではない、当てただけだ。それでも鏡の中の顔がすこし変わった。変わったと思った瞬間に手から落とした。背後に気配があったのか、自分で怖くなったのか、もう覚えていない。口紅が洗面台の縁に当たって乾いた音を立てたことと、衣吹がそれを拾って化粧台に戻したこと、何も言わなかったこと——残っているのはそれだけだ。


 あの口紅と同じ色を、いま唇に足している。足しすぎれば塗った顔になる。足りなければ男の唇がそのまま残る。


 律が壁に背をつけて腕を組んでいた。


「学校は」

「早退」

「今月三回目だけど」

「体調不良で通してる」


 律の目がすこし細くなった。通るかどうかではなく、通らなくなったときの話をしている。だが鏡の前でその話をする気にはなれず、黙っていると律は腕を解いて手帳を開いた。


 最後に声をつくる。喉仏に指を当て、低く唸ってから息を細くしてゆくと、ある高さで喉の底が抜ける。そこから先は自分の声ではなかった。


 衣吹の仕立てたブラウスに袖を通した。肩の線を拾いすぎず、鎖骨のあたりだけ布がゆるく垂れる。律が姿見の横に立ち、肩から袖へ目を流した。


「肩、すこし詰めたほうがいいかもね。衣吹さんに伝えておく」


 手帳にペンを走らせた。


 パイプ椅子から立ち上がって姿見の前に立った。紬がこちらを見ている。


「毎回思うけど、慣れない」


 律が言った。鏡のほうを向いてはいたが、視線は枠の剥げた漆のあたりにある。


「慣れないほうがいいよ」


 紬の声で言った。律は黙って手帳を閉じた。






 下北沢の喫茶店は天井が低く、換気扇の音が絶えず聞こえていた。壁に古い映画のポスターが貼ってあるが、煙草のヤニで題名が読めなくなっている。


 窓際の席に桐生司が先に着いていた。灰皿の底に水が張ってあり、吸殻が二本沈んでいる。台本を広げて、余白に何か書いては消していた。


 紬として向かいに座った。


 桐生がペンを置いた。


「オーディションのとき、即興でやった芝居——母の手、だったか」

「はい」

「本当の記憶かと訊いたら、答えなかったな」

「答えるようなものじゃないと思ったので」


 桐生はコーヒーカップを持ち上げて飲み、すこし顔をしかめた。冷めていたのだろう。しかめてから、もう一口飲んだ。


 ウェイトレスが水を運んできて、紬もコーヒーを頼んだ。


「公演の話をする」


 桐生は台本のコピーを滑らせた。小劇場、客席四十。タイトルは『ガラスの箱庭』。


「お前の役は、全員の秘密を知っていて、自分の秘密だけ知らない女だ」


 そう言ってから、桐生はこちらの目を見た。何を確かめようとしているのか判らず、薫はその目を受けた。


「キャストは四人決まってる。お前で五人目。——ひとりだけ気をつけろ。緋咲沙羅(ひさき さら)


 名前は知っていた。動画を一本だけ観た。舞台の上で泣いていて、芝居に見えなかった。泣いているのではなく、何かに泣かされているように見えた。


「あいつは感情で殴ってくるタイプだ。受け流そうとしたら食われるぞ」

「受け流す以外のやり方を、あまり知らないんですけど」


 桐生はペンを取り上げて台本の余白を叩いた。書くのかと思ったが、そのまま置いた。それきり話を変えて、稽古の段取りに入った。


 コーヒーが来た。砂糖は入れずに飲むと、苦いというより渋く、舌の奥にざらついたものが残った。


 帰り際、桐生がドアに手をかけたまま振り返った。


「来週月曜。場所は追って連絡する」


 ドアの鈴が鳴った。テーブルに台本のコピーが一部残されている。表紙の隅に桐生の字で「藍月」とだけ書いてあった。


 台本に手を伸ばしたが、左手が右の手首を握っていた。指を開いてから、取った。






 帰宅が遅くなった。


 電車の中で化粧を落とすつもりだったが、鞄からポーチを出す気力がなく、紬の顔のまま玄関を開けた。


 台所から衣吹の声がした。


「おかえり」

「ただいま」


 のれんの向こうで刃が俎板を叩く音が止まり、また始まった。


「ごはんは」

「食べた」


 嘘だった。紬の顔のまま衣吹の前に座りたくなかった。


 洗面所で顔を洗った。タオルにファンデーションの色が移る。口紅の色も、うすく残った。


 リビングに戻ると衣吹がメジャーを手にしていた。


「公演の衣装、採寸させてね」


 薫は腕を広げた。衣吹の指が肩にメジャーを当てる。指先がすこし冷たい。針仕事をする人間の指はいつも冷えるものなのか、衣吹がもともとそういう手なのか、十六年一緒にいて訊いたことがなかった。


「……少し、出たわね」

「肩?」

「うん」


 衣吹はメジャーを巻き取りながら何か言いかけ、やめた。成長期だからね、とこちらから言ってやろうかと思い、それもやめた。言えば衣吹は笑うだろう。笑ったときに目の端にできる皺を、いまは見たくなかった。


 手帳に数字を書きつけてから、衣吹はスケッチブックを開いて鉛筆を走らせはじめた。鉛筆が紙を擦る音だけがしばらく続いた。


 薫は向かいの椅子に座って台本を開いた。一頁目の台詞を目で追ったが、活字の上を視線が滑るばかりで何も入ってこない。鉛筆の音がときどき止まり、また走る。


「おやすみ」と衣吹が言った。

「おやすみ」と薫が返した。


 衣吹が部屋を出てから、テーブルのスケッチブックを覗いた。公演の衣装とは別のページに、見たことのないデッサンが一枚あった。襟ぐりの深いワンピースで、肩の線がやわらかく落ちている。余白に、さっき測ったばかりの数字が並んでいた。






 同じ夜、緋咲沙羅は自分の部屋で爪を切っていた。


 深爪の癖がある。左の薬指を切りすぎて血が滲んだが、ティッシュを巻いただけで右手に移った。


 来週の初稽古に何を着てゆくか考えかけて、やめた。


 桐生から届いた共演者リストを開いた。藍月紬。宣材写真をタップする。


 柔らかい顔だった。ただ、目の奥だけ温度が違う。こちらを見ているのか、こちらの後ろを見ているのか、判らない目だった。


 爪切りの刃を開いたり閉じたりしていた。


 桐生からメッセージが入った。


『初回稽古、月曜。場所は追って。——沙羅、暴れるなよ』


 薬指のティッシュを剥がした。血は止まっている。爪の白い部分がほとんど残っていなかった。


 返信は打たずにスマホを枕元に置き、仰向けになった。切りすぎた薬指がシーツに触れて、すこしだけ沁みた。

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