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第2話 片瀬薫の朝

 目覚ましが鳴る十秒前に、(かおる)は目を開けていた。

 律さんに遅刻届を頼んだのに、身体のほうが先に起きてしまう。


 布団から出した右手の指先に、昨夜の洗顔料の匂いがかすかに残っている。

 路地裏ではティッシュで拭っただけの化粧を、帰宅してから改めて落とした。


 爪は短く切り揃えてあるが、形が整いすぎていて、男子高校生の手にしては綺麗すぎた。

 家庭科の調理実習で手を洗っていたとき、隣の女子に「片瀬(かたせ)くんの手、ハンドモデルみたい」と言われたことがある。

 「母親がうるさいんだ」と返した。

 嘘ではない。衣吹(いぶき)は薫の手入れについて細かい。ただし理由が違う。


 六時半。アラームを止めて起き上がる。


 リビングに出ると、衣吹がキッチンに立っていた。

 背中しか見えない。首筋から肩にかけてこわばっているのは、まだ起き抜けのせいか、それとも別の理由か。

 ガスコンロの青い火が、衣吹の横顔の輪郭だけを照らしていた。


「昨日、どうだった」


 背中のまま聞く。フライパンの卵から目を離さずに。


「受かったよ」


 衣吹の手が止まった。

 フライ返しが卵黄の際で静止して、それからまた動いた。


「そう」


 おめでとうとも、よかったねとも言わなかった。

 薫もそれ以上は聞かなかった。


 食パンが二枚、トースターから跳ね上がった。

 薫は一枚を取り、包丁で半分に切って、片方を衣吹の皿に載せた。


「はい、はんぶんこ」


 いつからの習慣か、もう思い出せない。

 衣吹がパンを受け取るとき、一瞬だけ目を伏せた。それから何事もなかったようにバターを塗り始めた。


 リビングの壁に、本棚がある。


 戯曲集が二段にわたって並んでいる。

 チェーホフ、テネシー・ウィリアムズ、井上ひさし、清水邦夫(しみず くにお)

 背表紙に赤いボールペンで書き込みのあるものが何冊かある。丸みのある字で、頁数とト書きの修正案が走り書きされている。

 父のものだ。


 薫は毎朝この本棚を視界に入れている。入れているが、手を伸ばすことはない。

 衣吹もこの棚については何も言わなかった。模様替えのときも動かさなかった。

 処分しそびれた古い家具のように、そこにある。


 ただ——棚と壁のあいだに隙間がないのは、衣吹が掃除のたびに棚を壁へぴったり押しつけ直しているからだと、薫は知っていた。






 家を出る。


 マンションのエレベーターの中で、薫はまだ昨夜の身体を引きずっていた。

 肩がわずかに内側に入り、重心が高い。閉じた扉のステンレスにぼんやり映る自分の顔を見て、それから目を逸らした。


 一階。扉が開く。五月の朝の、湿った空気が入り込んだ。


 薫は深く息を吸った。それから肩を開いた。

 肩甲骨が背中の中央に寄り、重心が腰のあたりまで落ちる。顎がわずかに上がる。歩幅が広くなる。


 それだけのことだった。


 通学路を歩く。すれ違った女子生徒が二人、振り返った気配がした。

 薫はイヤホンを耳にはめた。音楽は流していない。聞こえなくなれば、それでよかった。


 信号待ちで、鞄の底に見慣れないものが手に当たった。

 引き出すと、昨夜のリップティントだった。ポーチに戻し忘れている。


 薫はそれを制服のポケットの一番深い場所に押し込んだ。

 朝から心臓に悪い。


 左手が無意識に右の手首に触れた。

 制服の袖口を直しているようにしか見えない動作だった。






 教室に入ると、窓際から声が飛んできた。


「おはよ、片瀬(かたせ)


 鳴海航(なるみ わたる)。同じクラスになって二ヶ月になる。


 航は椅子の背にもたれて片足を投げ出していた。

 だらけた姿勢なのに、薫が入ってきた瞬間に目だけが正確に動いた。


 初めて言葉を交わしたのは四月の教室で、そのとき薫はすぐ気づいた。

 この人間は「やっている」。

 何をやっているかまではわからないが、自分と同じ種類の匂いがした。


 薫は航の隣に座った。


「おはよ」


 鞄を机に置く。航は何か言いかけて、やめた。

 代わりに窓の外を見る。校庭では陸上部が朝練をしていて、ハードルを跳ぶ音がぱたん、ぱたんと規則正しく聞こえた。


 教室の扉が勢いよく開いた。


「片瀬くん。人生相談」


 小春(こはる)ひよりが鞄をまだ肩にかけたまま、薫の机の前に立った。

 息が上がっている。走ってきたらしいが、それはいつものことだった。ひよりは教室に歩いて入ってきたことがない。


「前髪切りすぎた。どう思う」


「……おはよう」


「おはようはいいから、どう思う」


 ひよりは自分の前髪を指でつまんで引っ張った。

 確かに五ミリほど短い気がするが、言わなければ誰も気づかない程度だった。


「普通だと思う」


「普通は傷つくんだよ片瀬くん。もっとこう、『全然わからない、似合ってる』とか」


「全然わからない、似合ってる」


「棒読みじゃん」


 航が隣で小さく笑った。

 ひよりは「航くんもなんか言って」と振ったが、航は窓の外を見たまま「似合ってんじゃね」と返しただけだった。

 ひよりは「男子ってほんっと……」と呟いてから、急に表情を切り替えた。


「あ、それよりこっち。本題」


 スマホを薫の顔の前に突き出す。

 画面に小さな劇場のサイトが開いている。昨夜のオーディション結果が掲載されていた。


 出演者一覧。その一番下に、藍月紬。

 名前の横に宣材写真が一枚。


 薫は自分の写真を見た。

 髪を下ろし、うすく色を差した唇を引き結んで、まっすぐカメラを見ている。

 十六時間前に楽屋の鏡にいた顔が、今、教室の蛍光灯を反射するスマホの画面に収まっている。


「藍月紬。新人の女優。下北の舞台に出るんだけど」


「知らないな」


 声が自然に出たことに、自分で少し驚いた。


「でしょ? まだ全然無名。だからいま推し始めれば古参になれるの」


「古参になりたいの?」


「当たり前じゃん。あたしの審美眼が正しかったって三年後にドヤりたいじゃん」


 ひよりはスマホを自分のほうに戻して、拡大した写真をまじまじと見た。


「……ていうかこの人、目元がちょっと片瀬くんに似てない?」


 薫の胸が一拍跳ねた。


「似てないだろ」


「似てるって。このへん」


 ひよりが自分の目尻を指で示す。


「冷たいようで冷たくない目。伝わる?」


「伝わらない」


 航が横から画面を覗いた。

 一拍、間があった。


「……綺麗な人だな」


 航の目線がスマホから薫の顔にすべった。

 一瞬、目が合った。笑ってはいなかった。

 それからまた画面に戻り、何でもない声で「女優さんか」と言った。


 薫は自分の指先が冷えていることに気づいた。


 ひよりが「でしょ!」と声を上げた。


「あたし絶対この人売れると思う。売れたらあたしのおかげだからね。片瀬くん証人ね」


「俺は何の証人にもならない」


「薄情」


 ひよりは自分の席に移動しながらまだ喋っている。


「とりあえず初日のチケット取るから——あ、片瀬くんも来る? 舞台」


 一瞬、返事に詰まった。


「……考えとく」


「脈あり!」






 古典の授業が始まった。


 ——聞いてはいたが、途中から担当の渡辺が妻と喧嘩してきたことに気づいてしまい、集中できなかった。

 ネクタイの結び目がいつもよりきつい。板書の筆圧が高い。

 二回目に咳払いをしたとき、「あ、これは言いたいことを飲み込んだ癖だ」と思った。


 薫はノートに目を落とした。


 昼休みの予鈴が鳴るまで、薫はその冷えをみぞおちの底に沈めたまま授業を聞いていた。

 ノートだけはきちんと取った。字が綺麗だと言われるのは、紬の筆跡と変えるために男の字を練習した結果だった。

 褒められるたびに少しだけおかしかった。






 放課後、航が言った。


「屋上行こうぜ」


 屋上は施錠されている建前になっている。

 だが南側の非常階段から手すりを越えれば入れることを、航は入学一週間で見つけていた。


 コンクリートの上に並んで座る。

 フェンス越しに空が広かった。五月の雲が高い位置を流れていて、太陽が出たり陰ったりするたび、校庭の芝が明暗を繰り返した。


 航がコンビニの袋を漁り始めた。


「今日の戦利品」


 チョコチップメロンパン、ブラックコーヒー、梅味のグミ。

 三つを並べてから、しばらく眺めている。


「……何してんの」


「配分を考えてる」


「配分?」


「グミは譲れない。コーヒーは片瀬飲まないだろ。消去法でパンが共有資産」


「共有資産」


 航がメロンパンの袋を両手で裂いて、半分をそのまま薫に差し出した。


 薫の手が一瞬だけ止まった。

 今朝の食卓が重なった。包丁が食パンに入る感触。衣吹の伏せた目。


「……サンキュ」


 受け取って、かじった。チョコチップがほろ苦くて、甘さとのバランスがよかった。


「うまいなこれ」


 思ったままが口から出ていた。航が「だろ」と笑った。

 その笑い方がやけにふつうで、薫もつられて少し笑った。


「航、グミなに味」


「梅」


「渋いな」


「うまいぞ。やる?」


「いらない」


「だろうな。お前の顔で梅グミ食ってたらイメージ崩壊だもんな」


「俺にどんなイメージがあるんだよ」


「レアチーズケーキとか食ってそう」


「食わないよ」


「ほら、似合う」


 薫は反論しようとして、やめた。

 航が満足そうにグミを口に放り込んでいた。


 しばらく黙って食べた。

 航が袋をたたみながら聞いた。


「なあ片瀬、お前って休み多くないか」


 声に棘はなかった。

 視線はたたんだ袋に落ちたまま、こちらを見ていなかった。


「体弱いんだよ、見た目によらず」


「……ふうん」


 朝と同じ——いや、朝の「ふうん」とは少し違った。

 嘘を嘘と知った上で、受け取っている。そういう音だった。


 薫はその距離の取り方に甘えている自覚があった。


 ポケットの中でスマホが震えた。


 画面を傾け、航から見えない角度にする。

 御影律からのメッセージだった。


『明日14時、桐生監督と顔合わせ。衣装合わせもあるから12時に事務所来て。学校は?』


 片手で返す。


『午後から抜ける』


 即座に返信。


『また仮病? 今月で三回目だけど』


『仮病じゃない。演技』


『笑えない』


『律さんが遅刻届書いてくれたんじゃん』


『書いたよ。体調不良(低血圧)って。もう使える病名なくなってきた。来月は何にする? 偏頭痛? 過敏性腸症候群?』


『選択肢が具体的すぎる』


『プロなので』


『何のプロ?』


 既読がついたまま、返信は来なかった。


 スマホをポケットに戻した。

 航はメロンパンの最後のかけらを口に放り込んで、そのまま仰向けに寝転がった。腕を頭の下に敷いて、目を閉じている。


 薫はフェンスの向こうの空を見上げた。

 雲が東に流れている。コンクリートはまだどこか冬の冷えを覚えていて、座っていると尻から体温を抜かれた。


 航の横顔を見た。

 睫毛が長い。風が前髪を揺らしていた。

 何を「やっている」のか、二ヶ月経ってもわからない。


 ——ごめん。


 チャイムが鳴った。

 五時限目の開始だが、二人とも動かなかった。


 航が目を閉じたまま言った。


「片瀬、明日はクリームパンな」


 薫は「了解」と答えた。


 明日、自分はここにいない。

 そのことは言わなかった。

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