第1話 幕が開く
楽屋の蛍光灯が、左から二番目だけ古いのか、かすかに唸っている。
壁ぎわの鏡は大きいくせに端が黴びていて、わたしの右の頬のあたりにちょうど灰色のしみが浮いている。
まるで泣き黒子を貼ったみたいだった。
位置が惜しい、もう少し目の際なら使えたのに、と思ってから、こういうことを反射で考えてしまう自分の頭の配線が、少しだけ嫌になる。
下北沢の小劇場。
四十席しかない箱は、舞台と客席のあいだに段差がほとんどなく、演者の息が最後列にもそのまま届く。
楽屋と呼ぶにはあまりに狭い控え室には折りたたみの長机がひとつ、パイプ椅子が四脚、それから木の匂いと埃と、もうひとつ、何年ぶんもの汗を吸った布の匂いがこもっている。
どれだけの汗を吸えば、布はこういう匂いになるのだろう。
わたしの隣で、栗色の髪をした女の子が鏡に向かって唇の色を確かめている。
今日のオーディションには最終候補が五人残っていた。わたしを含めて、みな若い。
「藍月さん、でしたっけ」
栗色の子がこちらを向いた。
目がよく動く子だった。わたしの顔から襟元、指先まで、一息のうちに見て取るような目をしている。
ただ、左手の薬指にだけマニキュアが残っていた。落とし忘れたのか、残したのか。
「落ち着いてますね。わたしもう、心臓うるさくって」
「全然。手、震えてます」
左手を軽く持ち上げて見せると、指先はたしかに揺れていた。
嘘ではない。ただ、見せるために持ち上げている。
栗色の子は「ほんとだ」と笑って、自分の手も差し出した。その手のほうが、ずっと大きく揺れていた。
鏡をもう一度見る。
今日のわたしは、ちゃんとわたしに見えるだろうか。
髪は下ろしている。鎖骨のあたりに影が落ちる長さ。
まつげの先に光がかかって、唇にはほんの少しだけ色を載せてある。
載せすぎると「化粧をした顔」になる。なにもしなければ素顔という名の無防備になる。
その境目にある一ミリを、わたしはもう何百回と探ってきた。
数えたことはない。けれどたぶん、そのくらいにはなる。
栗色の子がスマートフォンを握りしめたまま台本のページを繰っている。
ほかの三人も、それぞれのやり方で緊張を飼い慣らそうとしていた。
壁に寄りかかって目を閉じている子。ペットボトルの水をひと口ずつ飲んでいる子。マスカラを塗り直している子のまつげが、かすかに震えている。
呼吸のリズム、重心の位置、指先の温度。
見るともなく見ているうちに、それぞれの「緊張のかたち」が身体に入ってくる。
水を飲む子の喉が動くたびに自分の喉も鳴った。目を閉じている子の呼吸が深くなると、こちらの肩まで下がった。
蛍光灯の唸りが、ひときわ高くなって消えた。
スタッフが顔を出す。
「それでは、始めます」
舞台に出ると、客席の照明は落ちていた。
暗がりのむこうに、三人ぶんの気配がある。
パイプ椅子のきしむ音、ペンの走る音、それから呼吸。
真ん中に座っている人の呼吸だけがほかの二人より深かった。
桐生司。二十九歳。
若き鬼才と呼ばれているらしいが、まず目に入ったのは靴だった。左右で違うスニーカーを履いている。片方が白で片方が紺。意図なのか無頓着なのか判断がつかなかった。
痩せていて、頬の肉が削げていて、目だけが妙に大きく、暗い客席の中でもその目の光だけが見えた。
オーディションの課題は即興だった。
「あなたの一番古い記憶を、身体で表現してください」
桐生の声は思ったよりも低かった。
低くて、平らで、感情の置き場所が見当たらない声。
「身体で」と言ったとき、左右違いの靴の片方が床を擦った。
ほかの四人が先に演じるのを、舞台袖から見た。
泣く子がいた。叫ぶ子がいた。
栗色の子は、幼い自分が母親に手を引かれて歩く場面を丁寧に演じて、小さな靴音まで聞こえてきそうだった。
うまい。うまいが、栗色の子の歩幅がもう自分の脚に残っている。叫んだ子の喉の開き方が、自分の喉に移っている。
このまま舞台に出たら、自分の記憶を探すつもりで誰かの身体をなぞってしまう。
名前を呼ばれた。
舞台に出た。照明が、細い筒のようにわたしの頭上から降ってきた。
一番古い記憶。
目を閉じると、匂いが先にくる。
木綿の匂い。アイロンをかけたばかりの清潔な布。どこかでテレビがついている。天気予報の声。畳の目が足の裏に食い込んでいる。
そのあとに、髪を梳く指。大きな手。
わたしの頭にちょうどすっぽり収まるくらいの、大きくて温かい手。
「どっちでもいいのよ」
母がそう言った。
何について言ったのか、はっきりとは覚えていない。服だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。
母の声はやわらかかった。やわらかいのに、髪を梳く指の先だけが震えていた。
テレビが週末の天気を読み上げている。声と指の温度が合っていないことだけを、幼いわたしは全身で感じていた。
わたしは、あの指の震えを演じた。
舞台の上にしゃがみ込む。小さな子どもの座り方。
膝を抱え、うつむいている。頭の上に、誰かの手がそっと置かれる。見えない手を、わたしは両手で包む。
大きくて温かいはずの手が、指先だけ冷たい。
子どもの顔がゆっくりと曇る。
やさしい手の指先だけが冷たかった、あの感覚。
名前のつかないまま身体の底に残っていたものを、そのまま舞台に出した。
静寂。
蛍光灯の唸りすら聞こえない。
目を開けると、桐生がこちらを見ていた。
目が細くなっている。ペンを持ったまま、一文字も書いていない。
「それ、本当の記憶?」
「さあ。どうでしょう」
わたしは微笑んだ。
いつもなら口角の角度を決めてから笑う。けれどこのときは、先に顔が動いた。
微笑んでから、ああ微笑んでいる、と気がついた。
桐生は、それ以上何も聞かなかった。
ペンを置き、隣のスタッフに何か耳打ちして、こちらに向き直った。
「藍月紬さん。お願いします」
合格、という言葉は使わなかった。ただ「お願いします」とだけ。
胸の内側で何かが弾けるように熱くなった。
頭を下げた。指先がまだ揺れていたが、それはもう見せるための震えではなかった。
楽屋口を出ると、夜風が鼻先を撫でた。
五月の終わりの、春を脱ぎかけた風。
湿り気をかすかに含んで、身体の表面にうすく貼りつくような空気だった。
人通りの少ない路地に出て、スマートフォンを取り出す。
登録名「律さん」に発信。二コールで出た。
「受かった」
『おめでとう。……で、明日の一限、出られる?』
「たぶん、ギリギリ」
『たぶんは駄目。七時五十分までに校門を通れないなら遅刻届を出しておく。どっち?』
「……出す」
『了解。おやすみ』
そっけない声が切れた。
律さんの声はいつもこうだ。祝いの言葉と事務連絡のあいだに継ぎ目がなく、感情がどこに仕舞われているのかわからない。
スマートフォンをポケットにしまう。
鞄の中の制服を引っ張り出しながら、イヤリングを外す。左、右。
路地裏で着替えるのは月に何度かあることで、ブラウスを脱いでブレザーに袖を通すまで三分とかからない。
つけまつげを剥がす。グロスを拭く。髪をゴムで束ねる。
うなじが出ると、空気の温度がすこし変わった。
拭いたティッシュに薄桃色の跡がついていた。ゴミ袋に入れて口を縛る。
スニーカーの紐を結んで立ち上がる。
明日の古典、予習してない。
僕は鞄を肩にかけて歩き出した。
路地を抜けると、駅前のコンビニの明かりがやけに白い。
店の前で煙草を吸っている男が、すれ違いざまにこちらを見た。目が合って、逸れた。それだけのことだった。
改札にICカードを当てる。残高二百三十八円。
明日チャージしないと帰れなくなる。
ホームのベンチに座ると、向かいの壁に映画の広告が貼ってあった。
若い女優が大写しになっている。目が強い。
しばらく見ていたが、何が強いのかうまく言えなかった。
電車が来た。
深夜の車両はがらがらで、端の席に座ると窓ガラスに自分の顔が映った。
制服のブレザーを着た十六歳が、窓の向こうからこちらを見ている。
朝もこの顔で家を出た。今もこの顔で帰る。あいだの数時間のことを、この顔は知らない。
母さんに、なんて言おう。
受かったよ、とだけ言えばいい。
母さんは「そう」と言うだろう。それから少し間があって、何か別のことを言いかけて、やめるだろう。
いつもそうだ。
電車が揺れた。
窓の顔がぶれて、一瞬だけ誰でもない顔になった。
ポケットの中で、イヤリングが太ももに当たっている。
小さくて、硬い感触だった。




