捕食者の登場、あるいは龍脳の監査
ビクり、と肋骨の裏側を直接叩かれたような衝撃が走り、心臓が喉元まで跳ね上がった。
振り返ろうとした刹那、鼻腔にこびりついていた黴と古紙の饐えた臭いが、鋭利な刃物によって一閃されたかのように塗り替えられた。
――龍脳。
それは、熱に浮かされた脳髄を直接冷却するような、峻烈で気品に満ちた香り。
最高級の香木から、氷の欠片を抽出したかのようなこの芳香を、呼吸するように纏える個体はこの後宮にただ一人しか存在しない。
「……熱心だな」
鼓膜を介さず、首の骨を直接震わせるような低音のバリトン。
弾かれたように身体を翻した私の視界に、強烈な「色」が飛び込んできた。
蝋燭の微かな火光を吸い込み、闇の中でそこだけが発光しているかのような、鮮烈な赭黄色。
この帝国において頂点に立つ龍だけに許された、侵すべからざる絶対禁色。
視線が、逆らえない引力に引かれるように上へと這い上がっていく。
隙なく閉じられた盤領袍の襟元。
そこから覗く、硬質な輪郭を描く喉仏。
そして、その上に位置する、完璧な工芸品を思わせる顎のライン。
――視覚的な暴力。
脳がそう警鐘を鳴らした。
夜の闇をそのまま切り出して嵌め込んだような、黒曜石の瞳。
その奥底で、氷点下の理性の光と、獲物を追い詰めた肉食獣特有の獰猛な熱が、複雑な渦を巻いている。
あまりに整いすぎたその貌は、慈悲を削ぎ落とした凶器そのものだった。
至近距離で見つめられるだけで、肌の表面に粟立ちが走り、肺が圧迫され、酸素の供給が途絶える。
皇帝、李宵。
この巨大な帝国のCEO《最高経営責任者》が、なぜ深夜の、埃と紙魚が支配するデッドスペースに立っているのか。
「へい、か……?」
唇が痙攣し、掠れた声がこぼれる。
夜禁の破棄。機密保持事項の無断閲覧。そして、皇帝の御顔を直視するという不敬。
私の脳内で、コンプライアンス違反を告げる警告アラートが、鼓膜を破らんばかりに鳴り響いていた。
即座の解雇。あるいは極刑、良くて冷宮への左遷。
私の「平穏な定時退社ライフ」という名の事業計画は、今、この瞬間に破綻を告げた。
だが、目前の男は微塵も揺らがない。
私の強張った指の間から、白磁を思わせる長い指が滑り込んできた。
流れるような所作で、私の生命線である帳簿が抜き取られる。
指先が触れた瞬間、真冬の氷を押し付けられたような冷たさに、背筋が跳ねた。
私の体温で熱を持っていたはずの紙面が、彼の指が触れるそばから急速に熱を奪われていく。
男は、私が先ほどまで弾き出していたページに、視線を落とした。
沈黙。
重厚な絹が擦れる、ザリ……という砂が流れるような微かな音だけが、耳元でやけに巨大なノイズとして響く。
龍脳の冷たい香りが、私の体温によってゆっくりと温められ、逃げ場のない甘ったるい重圧となって纏わりついてくる。
永遠にも感じられる数秒の後。
ゆっくりと顔を上げた龍の視線が、射抜くような鋭さで私を捉えた。
形の良い、けれど血の気の薄い唇が、三日月のような歪みを刻む。
「……なるほど。鼠の巣穴を見つけたか」
そこに怒りの響きはなかった。
それは、暗闇の中で想定外の獲物を発見した捕食者が、満足げに喉を鳴らす――愉悦という名の振動だった。




