闇の監査、あるいは不採算の糾弾
パチ、パチ。
パチ、パチ、パチ……。
書庫を支配する完全な静寂を、乾いた硬質な音が鋭く切り裂いていく。
指先が触れる算盤の珠は、秋の夜気を含んで驚くほど冷たい。
その一打一打が、脳髄に焼き付いた帳簿上の数字を一つ、また一つと鮮やかに「処理」していく。
思考が指を、珠を介して、帝国の血管を流れる汚れた金へとダイレクトに接続される。
(……これよ。この、ノイズが消える感覚)
脳内のニューロンが最適化されるような快感。
だが、その陶酔は次の瞬間、肺の奥からせり上がるどす黒い不快感によって、無残に上書きされた。
「……ふざけてるわね」
低く吐き捨てた言葉は、埃が堆積した床の隙間に力なく吸い込まれていく。
目の前の『尚食局・食材仕入台帳』。
そこに記された「氷」の項目が、私の職業倫理を逆撫でしていた。
――蔵氷、三千貫。
ありえない。
長安の夏が厳しいことは、私の肌が覚えている。
皇帝や高官の権威を誇示するために、冬に切り出した氷を氷室で保存し、盛夏に供するロジスティクス自体は否定しない。
だが、この計上単価は異常だ。
市場価格の、ざっと十倍。
損耗率をどんなに無能な官僚が算出したところで、この不均衡は説明がつかない。
私は無意識に、右手を空中で動かしていた。
前職の呪縛。
存在しない赤ペンを握り、このふざけた数字の上に「修正要」の巨大なバツ印を叩きつけたくて、指先が熱を持って震える。
次の一葉を捲る。
乾燥した紙が指先を掠める音が、耳元でやけに大きく響いた。
次は「胡瓜」だ。
まだ初夏だというのに、大量の胡瓜が「特別栽培費」の名目で計上されている。
しかも、納品記録とほぼ同時に「品質不良」として、全在庫の八割が廃棄処分に回されていた。
「なるほどね……構造が見えたわ」
唇を噛む。
氷は溶けて消え、野菜は腐って捨てられる。
どちらも、監査が入った時には「現物が残らない」という脆弱性を突いた商材だ。
事後調査で追及されても、「暑さで消えました」「痛んだので捨てました」と言い張れば、それ以上の証拠確認は物理的に不可能になる。
在庫管理の死角を利用した、古典的かつ卑劣なキックバックの温床。
パチッ!
ひときわ強く珠を弾き、私は最後の一打を固定した。
脳内ではすでに、算出した総額が冷徹なグラフを描き出している。
この帳簿一冊だけで、横領額は国家予算の〇・〇一%に相当する。
たかが、〇・〇一%。
だが、これを六局二十四司すべてで、何世代にもわたって繰り返しているとしたら?
この耀の帝国は、見栄えの良い皮一枚を残して、内側からシロアリに食い尽くされた巨木も同然だ。
「ボトルネックは、仕入れ担当と検品担当の癒着……。承認プロセスが、あまりにもザルすぎる」
コンプライアンスという概念が欠落したこの組織の腐臭に、胃の腑がせり上がる。
本来なら、私はただの下級妃。
給料をもらっているわけでもない。
見て見ぬふりをして、温かい茶でも飲み、さっさと寝てしまえばいいのだ。
それが「長生きする後宮の女」としての、最も効率的な生存戦略なのだから。
でも。
――ああ、どうしても、許せない。
数字が合わない、生理的な気持ち悪さ。
停滞した業務フローが生む、莫大な機会損失。
私腹を肥やすために歪められた貸借対照表。
私の魂に刻まれた「職業倫理」が、この汚れを放置することを、生理的嫌悪をもって拒絶している。
背筋をゾクゾクさせるような怒りが、それを論理的に解体したいという渇望へと変換されていく。
熱に浮かされたように、私は次のページへと手をかけた。
その時だった。
ふっ、と。
完全に閉ざされたはずの密室に、ありえないはずの風が流れた。
蝋燭の炎が、恐怖に怯えるように大きく身悶えする。
埃まみれの壁に映し出された私の影が、不自然なほど長く、黒く伸び上がり――。
その隣に。
私のものではない、巨大な「男の影」が重なった。




