夜禁の始まり、あるい静かなる残業
冬冬――。冬冬――。
胃の腑を直接揺さぶるような重低音が、暮れなずむ長安の空気を震わせた。
街鼓だ。日没を告げる六百回の連打。
肺の奥まで振動が伝わるたび、百を超える「坊」の巨大な門が、重々しい断末魔を上げて閉ざされていく。
夜禁。
この音が鳴り止んだ瞬間、都は巨大な檻へと姿を変える。
住人たちは自由を奪われ、静寂という名の鎖に繋がれる。
だが、私――林鈴の鼓動は、その絶望の拍動に合わせてむしろ、高揚という名の熱を帯びていた。
(……ようやく、定時のチャイムが鳴ったわね)
私は石畳の回廊を、足早に、けれど確かな足取りで進んでいた。
向こうから走ってくる女官たちの顔には、門が閉まる恐怖で血の気が引いている。
彼女たちの奔流を避け、回廊の隅に身を寄せてやり過ごす。
まとわりつくような湿気を孕んだ夜風が、首筋を撫でた。
「……あつい」
不意に漏れた声が、湿った空気に溶ける。
身に纏うのは、最低級の品階を示す若草色の盤領袍。
何重にも重ねられた絹は、汗を吸ってずっしりと重く、肌に張り付いて呼吸を妨げる。
首元の襟はすでに汗で色が変わり、不快な熱が皮膚を焼き続けていた。
それでも、私は歩みを止めない。
あと数分で、完全な闇が世界を塗り潰す。
私が目指すのは、煌びやかな金飾りが踊る後宮の寝殿ではない。
埃と紙魚の死骸が堆積した、北の果てのデッドスペース――尚食局の「書庫」だ。
本来、私のような最下層の才人がこの時間に出歩けば、容赦のない杖刑が待っている。
だが、この若草色の衣には、どんな変装よりも優れた機能があった。
(……背景に溶け込むには、この色が最適解だわ)
誰も、数千人もいる女官の、それも平社員以下の女の顔など記憶していない。
私はこの巨大な「ブラック企業」において、風景の一部として認識を阻害するスキルを、生存戦略として極めていた。
冬冬――。
最後の音が止んだ。
途端、鼓膜を圧迫するような、真空に近い静寂が落ちてくる。
遠く、地響きを伴って玄武門が閉じる音が聞こえた。
◆◇◆
私は書庫の重厚な扉に肩を押し当て、全身の体重を預けて押し開けた。
溢れ出してきたのは、黴と墨、そして乾いた竹簡が放つ、特有の饐えた匂いだ。
普通の妃嬪なら顔をしかめるであろうその悪臭が、今の私には、どんな高級な龍脳よりも深く、ささくれた精神を鎮静させてくれる。
扉を閉め、背中でかんぬきを落とす。
金属の重い音が、私のプライベート空間の完成を告げた。
視界を奪う暗闇の中、指先の感覚だけで火打石を探し当てる。
チ、チッ。
火花が散り、灯された蝋燭の頼りない光が、うず高く積まれた巻物の山を不気味に浮かび上がらせた。
私は盤領袍の袖を捲り上げ、一番手前の棚から、背表紙が擦り切れた一冊の帳簿を引き抜く。
『尚食局・食材仕入台帳』。
その文字をなぞる指先が、微かに震えた。
本来、妃嬪の手が触れるべき代物ではない。
だが、私の前職の血が――現代日本で心身を削り、泥水を啜りながら培った「経営コンサルタント」としての倫理観が、この数字の矛盾を、ただの紙屑として見過ごすことを拒絶したのだ。
「さて、と」
私は埃の積もった床に、袴の汚れも構わず直接腰を下ろした。
傍らに置いた算盤を引き寄せる。
指先に触れる木珠のひんやりとした冷たさが、熱を帯びた脳を急速に冷却していく。
静寂。
遠く、夜警の巡回する硬質な足音が響くが、厚い壁に遮られ、ここまでは届かない。
パチ、パチ、と蝋燭の芯が爆ぜる微かな音だけが、私の心拍数と共鳴を始めた。
私は深く、肺を洗浄するように息を吐き出し、帳簿の最初の頁を捲る。
さあ、監査の時間だ。
この美しき帝国の皮を一枚剥ぎ、その下に隠された「汚職」という名の膿を、無慈悲な数字で抉り出してやる。
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