黄金の洗濯屋と、泡だらけのダンス 〜うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい〜
これは俺が古代ローマに似た異世界へと転生するよりずっと前、姉と過ごした思い出の一幕―――――
※
「……うわっ、ひどいなこれ。これじゃあ、明日着ていくものがないよ」
三月の上旬。
三寒四温という言葉通り、昨日の暖かさが嘘のように冷え込んだ雨上がりの夕暮れ。
湿度を含んだ重たい空気が漂う脱衣所で、俺、川背匠は絶望的な声をあげた。
手に持っているのは、サッカーのユニフォーム……だったはずの物体だ。
今日の練習場は、冬の間に凍っていた地面が春の雨で緩み、最悪のコンディションだった。スライディングをするたびに泥飛沫が上がり、俺の白いユニフォームは、黒土と芝生の緑、そして自分の汗が地層のように染み込んで、見るも無惨な茶色い塊と化していた。
明日は大事な練習試合がある。
このレベルの泥汚れは、そのまま洗濯機に入れたら絶対に落ちない。それどころか、洗濯機の排水パイプを詰まらせて、機械そのものを破壊しかねない重度の汚染だ。
「はぁ……。手洗いで落ちるかな。水、冷たいだろうな……」
指先が凍えるような寒さの中、冷水でゴシゴシと泥を擦り落とす作業を想像し、俺の心はポキリと折れかけた。
「ワンッ……」
足元では、一緒に泥んこ散歩から帰ってきたミニチュアダックスの『きなこ』が、自分の胸毛についた泥を気にして、申し訳なさそうに首を傾げている。
俺ときなこは、まさに泥沼から生還した敗残兵のようだった。
「ごめんな、きなこ。俺がもっと泥を避けて歩けばよかったな」
俺がため息をつき、途方に暮れていたその時だった。
「あら匠。そんなに情けない顔をして。汚れが落ちないなら、歴史を遡ればいいじゃない」
ふわりと、爽やかなレモンの香りが、泥臭い脱衣所の空気を切り裂いた。
振り返ると、風呂掃除用のゴムブーツを履き、腕まくりをした姉の真綾が、不敵な笑みを浮かべて立っていた。
その手には、なぜか鮮やかな黄色い液体が波打つ、怪しげなバケツが握られている。
「歴史を遡るって……姉ちゃん、これ見てよ。普通に洗っても落ちないよ。繊維の奥まで泥が入っちゃってるんだ」
「甘いわね。全ての道はローマに通ず、そして全ての汚れはローマが落とすのよ! 古代ローマのクリーニング店、洗濯屋の秘儀を教えてあげるわ!」
◇
真綾はバケツをドンと床に置き、ビシッと人差し指を立てた。
彼女は高校受験を終えて暇を持て余している中学三年生。その有り余るエネルギーは全て、愛する歴史研究と、弟への奇妙な指導に向けられている。
「いい、匠。古代ローマには強力な合成洗剤なんてなかった。彼らが頑固な油汚れや泥汚れを分解するために、街中に壺を置いてまで集めた『最強の洗浄剤』……それが何だか知ってる?」
「え、なに? オリーブオイルとか? それともハーブ?」
「――『おしっこ』よ!」
「はぁっ!?」
俺の素っ頓狂な叫び声に、きなこがビクッと耳を立てて後退りする。
「ひ、引かないでちょうだい! これは歴史的真実よ。尿に含まれる尿素やアンモニアはね、時間が経つとアルカリ性に変化して、油脂やタンパク質汚れを強力に分解するの。当時の皇帝ウェスパシアヌスは、その経済的価値に目をつけ『尿税』まで導入したのよ」
真綾はまるで講義をする教授のように、朗々と語り続ける。
「公衆トイレの尿を集めて洗濯屋に売り、その利益を国庫に入れた。批判する息子に対して皇帝が言った『金に臭いはない(ペクニア・ノン・オレット)』という言葉はあまりにも有名ね!」
真綾はバケツの中の黄色い液体をチャプンと揺らした。
「さあ匠、このローマの叡智が詰まった『黄金水』を使って、あんたのユニフォームを輝く白さに……」
「やめろよ! 絶対やだ! おしっこで洗うくらいなら泥のままで行くよ!」
俺は全力で後ずさり、きなこを盾にした。きなこも「解せぬ」という顔で俺を見上げ、
「ワンワンッ!」と抗議の声を上げる。
「姉ちゃん、いい加減にしてよ! 明日、試合で『なんかお前アンモニア臭くない?』って言われたら、俺の人生終わりだよ!」
「ふふっ、冗談よ。期待通りの反応ね」
真綾はケラケラと悪戯っぽく笑うと、バケツの液体に自分の綺麗な指をためらいなく浸してみせた。
「えっ……?」
「これは『セスキ炭酸ソーダ』を溶かしたぬるま湯に、洗浄力を高めるための『オレンジオイル』と、ジョークとしての入浴剤(黄色)を混ぜた特製液よ。アンモニアと同じアルカリ性だけど、無臭で清潔な化学の結晶なんだから」
「……ほ、本当?」
「当たり前でしょ。可愛い弟の服をトイレにする趣味はないわ。セスキ炭酸ソーダは、重曹よりも水に溶けやすく、アルカリ度も高いから泥汚れや皮脂汚れに最適なの……でもね」
真綾は濡れた指先を俺の鼻先に突きつけた。爽やかな柑橘の香りがした。
「洗剤は現代の利器を使うけれど、洗い方だけはローマ式を実践させてもらうわよ! 手で擦るだけじゃ落ちないその汚れ、ローマの『踊り』で落としてあげる」
◇
真綾は俺の手から汚れたユニフォームをひったくると、有無を言わさず風呂場へと連行した。
浴槽の底には、さっきの「特製セスキ水」とお湯が混ざり、くるぶしがつかる程度の深さに張られている。
「さあ、入りなさい。ローマの洗濯屋はね、洗濯物を液に浸して、タライの中で足を使って踏みしだいて洗っていたの。これを『サルタティオ(ダンス)』と呼ぶわ!」
「足で踏むの? 行儀悪くない?」
「何言ってるの。繊維の奥に入り込んだ泥粒子は、手で表面を擦るより、体重をかけて水流ごと押し出した方が、生地を傷めずに排出できるのよ。うどんのコシを出すのと一緒ね。ほら、ズボンを捲り上げて!」
真綾もジャージの裾を膝上まで捲り上げた。
三月の風呂場はまだ肌寒い。タイルの床からは冷気が上がってくる。
なのに姉ちゃんは、白くて細い生足を惜しげもなく晒して、躊躇なく浴槽に入った。
「冷たっ……くはないか。ぬるいね」
俺もおそるおそる中に入る。
アルカリ性のぬるっとしたお湯の感触が足裏に伝わる。泥だらけのユニフォームが足の下にあるのはちょっぴり不思議な感覚だ。
「いくわよ! 右、左、右、左! ローマ軍団の行進のように!」
真綾がユニフォームの上で足踏みを始めた。
バシャッ、バシャッ。
白い足が泥に汚れた布を踏みつけるたびに、黄色かったお湯が瞬く間に濁っていく。
「俺もやる! 右、左!」
俺も真似して踏む。すると、繊維の隙間から恐ろしい勢いで茶色い汁が染み出してくるのが見えた。
「うわ、すごい! 泥水がどんどん出てくる!」
「でしょう? これが踏み洗いの威力よ! さあきなこ、あなたも参戦なさい!」
「ワンッ!」
真綾に呼ばれ、泥だらけだったきなこも「お風呂遊びだ!」と勘違いして浴槽に飛び込んできた。
きなこはユニフォームの上でバシャバシャと跳ね回り、俺たちの足の間を潜り抜ける。
「あ、こら、きなこ! 爪立てるなよ! くすぐったいって!」
「ふふっ、いいわよきなこ! その四足駆動が撹拌効果を高めるのよ!」
狭い浴槽の中で、俺と姉ちゃんと犬が、一つの泥だらけの布を踏み続ける。
三月の風呂場は寒いはずなのに、動いていると体がポカポカしてきた。
でも、足元のユニフォームはぬるぬるして滑りやすい。
「うわっ!」
俺がバランスを崩しかけた、その時だった。
真綾がサッと俺の手首を掴み、ギュッと握って支えてくれた。
「もっと腰を入れて! 体幹を意識しなさい。汚れを追い出すイメージで!」
支えてくれた姉ちゃんの手は温かく、そして少しだけ汗ばんでいた。
普段は冷静で理屈っぽい姉ちゃんが、少し頬を紅潮させて、楽しげに笑っている。
「わかった! うおりゃあああ! ローマ帝国万歳!」
「その意気よ! フルロの誇りを見せなさい!」
バシャバシャバシャ!
水しぶきが上がり、俺たちの顔や服にかかる。
レモンの香りと、アルカリ水の匂い。そして、はしゃぐきなこの鳴き声。
ふと、姉ちゃんの足元を見た。
泥水の中で踏ん張り続けるその足は、冷たさと摩擦で赤くなっているはずだ。
それでも姉ちゃんは「冷たい」とも「疲れた」とも言わず、俺の手を引いてリズムを刻み続けてくれている。
ただの洗濯が、なんだか特別なアトラクションみたいで、俺は夢中で足を動かし続けた。
この泥が落ちるまで、このダンスが続けばいいのに、と少しだけ思った。
◇
十分ほど踏み続けたあと、水を三回入れ替えてすすぎを行うと、そこには驚きの光景があった。
地層のように染み付いていた泥汚れも、芝生の緑色も完全に消え去り、ユニフォームはまるで買ったばかりのような白さを取り戻していたのだ。
「すげえ……! 本当に落ちた!」
「当然よ。化学と物理(踏み洗い)の勝利ね」
真綾は額に浮かんだ汗を拭いながら、満足げに濡れたユニフォームを絞った。
浴槽から上がった姉ちゃんの足は、やっぱり真っ赤になっていて、少しふやけていた。
俺のために、汚れるのも厭わず、冷え込む夕方にずっと足踏みをしてくれたのだ。
「……姉ちゃん、ありがとう。足、疲れたでしょ。あとでマッサージするよ」
俺が言うと、真綾は少し驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。
「ん? まあね。でも、ローマの洗濯屋は一日中これをやってたんだから、これくらい朝飯前よ」
真綾は強がって笑ったけれど、脱衣所に出る時に「よいしょ」と小さく声を漏らし、腰をトントンと叩いたのを俺は聞き逃さなかった。
体を拭いていると、シャワーできれいになったきなこが、ブルルッと体を震わせて水滴を飛ばした。
「わっ、きなこ! 冷たいって!」
「あらあら、最後の『清めの儀式』まで完璧ね」
真綾がタオルできなこをワシャワシャと拭いてあげる。きなこは「いい湯でした」とばかりに目を細め、真綾の頬をペロリと舐めた。
「よし、あとは干すだけね。明日の試合、その真っ白なユニフォームで、ローマの英雄のように凱旋しなさいよ!」
「うん! 任せてよ!」
俺たちはリビングへと戻り、室内干しのラックにユニフォームを掛けた。
外はもう暗く、春の嵐のような風の音が聞こえる。
でも、家の中は暖かかった。
ラックに吊るされた真っ白なシャツからは、おしっこの臭いなんて微塵もしない。
代わりに、爽やかなレモンの香りと、なんだかちょっと照れくさいような「姉ちゃんの優しさの匂い」がした。
「……でも姉ちゃん」
「ん?」
俺はソファに座って歴史雑誌を読み始めた姉ちゃんに声をかけた。
「最初のおしっこの話、あれ本当にジョークだよね? 成分表の裏に隠し文字とかないよね?」
真綾はページをめくる手を止め、眼鏡の奥で悪戯っぽくウインクをした。
「さあね? 信じるか信じないかは、歴史家次第よ……でも、もしゴールを決めたら、本当のレシピを教えてあげるわ」
「なんだよそれ!」
俺が笑うと、きなこもつられて「ワンッ!」と吠えた。
真っ白なシャツを眺めながら、俺は明日、絶対にゴールを決めてやろうと心に誓った。
それが、ローマ式洗濯屋への一番の報酬になるはずだから。
(了)
【お知らせ】
2月13日(金)から2月22(日)までの10日間、17時30分に毎日投稿します。
スケジュール
11水曜:武器物語27話
12木曜:うちの姉ちゃん〜黄金の洗濯機
13金曜:武器物語28話
14土曜:うちの姉ちゃん〜バレンタイン編
15日曜:うちの姉ちゃん〜ローマのプリン編
16月曜:武器物語29話
17火曜:うちの姉ちゃん〜雪玉編
18水曜:武器物語30話
19木曜:うちの姉ちゃん〜『蜻蛉切』編
20金曜:武器物語31話
21土曜:うちの姉ちゃん〜猫の日前日譚
22日曜:武器物語・特別短編
ぜひ、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
本作をお読みいただきありがとうございます。
お楽しみ頂けましたら★★★★★評価お願いいたします。
連作短編『うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい』シリーズは複数公開していますので、そちらもご一読いただけましたら幸いです。
【匠の「その後」の物語はこちら!】
本作で匠が学んだ「無駄すぎる知識」が、異世界で最強の武器になる――!?
匠が古代ローマ風異世界に剣闘士として転生し、姉ちゃんの知識で成り上がる本編、『転生式異世界武器物語』も好評連載中です!
本編では実在した武器の“武器解説”、絵師様による“挿絵”付きの豪華な長編となっています。
ぜひ合わせてチェックしてみてください!
『転生式異世界武器物語』
https://ncode.syosetu.com/n3948lb/
※こちらのイラストにはAIを使用して製作しております。




